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6 噂は突然終わりを連れてくる

 白い天井に舞う天使たち。

 その純真無垢な瞳に見下ろされながら、フローリアは小さなため息をついた。


 目の前のテーブルには華やかな茶器と、甘い香りを放つ焼菓子。磨き上げられた床には客たちの影が重なり、ときおり楽しげな笑い声が響く。


 いつもどおりの、よくあるお茶会。

 

 そう、いつもどおりのはずだった。


 けれど、フローリアの周りに集まる令嬢たちの視線は、いつもより少しだけ熱を帯びている。

 噂を耳にしたのだろう。優雅な笑顔の奥に、遠慮のない好奇心が透けて見えた。


 やっぱり、何か理由をつけて欠席するんだった。

 そう思っても、もう遅いのだけれど。

 フローリアはこめかみに走る痛みをこらえ、彼女たちの視線から逃れるようにまぶたを伏せる。

 結局、昨夜は一睡もできなかった。

 無理に目を閉じるたび、クラウスの曇った瞳が浮かぶ。それが苦しくて、また目を開ける。

 夜明けまで、その繰り返しだった。

 

「フローリアさま、お寂しくなりますわね」


 淡いグリーンのドレスを着た令嬢が話しかけてきた。ひそめた声は、甘い香りの漂う室内の空気よりもずっと、フローリアにまとわりついてくる。


 ……来た。

 胃がきゅっと縮むのを感じながらも、フローリアは表情を崩さない。


「……まあ、寂しいなんて。こうして皆さまとご一緒しているのに、そんなことを感じる暇もございませんわ」


 そう言って、やんわりと微笑み、優雅に紅茶をひとくち。喉に詰まりそうなそれをなんとか飲み込む。

 だけど、フローリアが立てた明らかな壁にも、その令嬢は怯まなかった。


「あら、あの方、もうすぐご帰国なさると聞いておりますのに」


 令嬢は、同意を求めるようにとなりの女性と視線を交わす。その女性もうなずくと、会話に乗り出してきた。


「そうですわ。ご婚約が近いと伺いましたのに……急なお帰りで、皆さま驚いておられますのよ。何か急ぐ理由でもおありなのでしょうか」


 上目遣いの、探るような目つきが寝不足の神経を逆撫でしてくる。

 もう断った、そうはっきり言えてしまえばどれだけ楽か。それでも、今の彼女の立場を、そしてコンラートの立場を思えば、ここで崩れるわけにはいかなかった。

 フローリアは、再びゆっくりとカップを持ち上げる。一口含み、きちんと飲み下してから静かに答えた。


「そのようなお話は、わたしの一存で軽々しく口にできるものではございませんわ」


 曖昧で、それでいて踏み込みを許さない言葉。

 貴族ならそのくらいわかるはず、そう告げるようにフローリアは彼女たちを見つめた。

 そのまなざしに、令嬢たちは一瞬言葉を失う。

 けれどその沈黙は、すぐにざらりとした好奇心に塗りつぶされた。


「ですが、フローリアさま。殿下とは……」


 なおも食い下がり探ろうとする彼女たちの声に、フローリアは思わず指先に力を込めた。カップの中の水面が、かすかに震える。


 もう、やめて。


 思わず声を上げそうになって――


「あら……随分と熱心だこと」


 令嬢たちの背後に、すっと立つ影があった。

 ひとりが振り返り、目を見開く。遅れて周囲の視線が集まった。


 濃紺のドレスに、喉元の大粒のルビーがただひとつ、深い赤を燃やす。その輝きにも負けない強い光を宿した瞳で、ガブリエラは令嬢たちを見下ろしていた。

 そして、彼女は一歩前に出て、迷いなく令嬢たちの間に割り込む。とん、とテーブルに片手をつくと、ゆっくりと目を細めた。


「その噂なら、わたしの耳にも入っていてよ。……ぜひ、ご一緒させていただきたいわ?」


 微笑んでいるのに、目は少しも笑っていない。

 令嬢たちの顔が、目に見えて強張った。


 視線を逸らし、あたふたと席を離れていく彼女たちを横目に、ガブリエラは堂々とフローリアの横に腰掛ける。


「ごめんなさいね、遅れちゃって」


 なかなかドレスが決まらなくて、と言うガブリエラ。彼女の魅力でもある強い光はそのままに、でも、その瞳の中には気づかうような優しさが見える。

 彼女の目に見つめられて、フローリアはやっとほっと息をつけた。


「ううん、助かったわ。ありがとう」


 フローリアは視線を落とし、テーブルの上の菓子を見つめる。甘い香りが、場違いなほど穏やかに漂っていた。


 昨日のことを相談してみようか。


 そう思い、ガブリエラのほうへ少しだけ身を寄せる。

 けれど、その言葉が形になる前に、室内のざわめきが別の方向へ傾いた。

 バタバタと賑やかな足音がドアの外からやってくる。


「ごきげんよう、みなさま!」


 ドアが勢いよく開けられ、その声の主が現れると、いくつもの会話が同時に途切れた。


「あら、いらっしゃったわ」

「……いやだわ。『王都新聞』よ」


 招待客の反応はさまざまだった。期待に目を輝かせたり、露骨に顔をしかめたり。

 けれど王都新聞――レティシアは、そんな視線を意に介する様子もなく、テーブルの間を当たり前のようにすり抜け、会場の真ん中へと立った。


「遅れて参上する失礼をお許しください! ですが、このレティシア・ベルンハルトは……」


 そこで、わざとらしいほど大きく息を吸い、彼女は楽しげに言葉を切った。


「みなさまに、とびきりのお話を持ってまいりましたのよ!」


 よく通る声が会場中に響き渡る。

 途端にざわつき出す招待客たちに満足げにうなずくと、レティシアは大仰に両手を広げ、くるりと一周回りながら室内を見渡した。


「ええ、ええ。どうぞお喜びくださいな。これは、今日ここにいらっしゃるみなさまだけに、はじめてお伝えするお話なのですから!」


 レティシアがおほん、と芝居がかった咳払いをすると会場はしんと静まり返った。

 そのまま、しばらく静寂を楽しむかのように目を閉じたあと、彼女はゆっくりと目を開ける。


「まずはひとつめ」 


 ぴんと立った人差し指が、天井に向けられた。


「エルヴァローナ王国のルーシェル王女殿下が、ご婚約なさるのですわ!」


 その名前に、フローリアは思わずテーブルの下で手を握りしめた。

 夜会で見た光景が脳裏に浮かぶ。あの、寄り添い微笑みあっていたふたりの姿が。

 目の端で、ガブリエラがこちらを見ているのを捉える。

 平気よ、そう笑ってあげたかった。きっと心配そうな目をしているに違いないから。

 それなのに、口は少しも動かせなかった。


 だからせめて、自分だけに言い聞かせる。

 大丈夫、大丈夫。まだ何も起きてない。

 ……まだ、何も。


 再びざわざわと騒がしくなり、あちこちから声が上がる。


「まあ、すてきなお話!」

「夜会にいらっしゃった王女さまよね?」

「お相手はどなたなのかしら?」


 レティシアは大きく眉をさげ、ぺこりと頭を下げる。

 その大げさな仕草のひとつひとつが、フローリアの胸をざわつかせて仕方がない。


「申し訳ございません、みなさま。……わたくしの情報網を以てしても、王女殿下のお相手が誰なのかはまだ掴みきれておりませんの」


 期待していた招待客たちの表情に落胆が走り、会場にはどことなく白けた雰囲気が漂う。


「ですが」


 頭を上げたレティシアは、まるでそれすら計算のうちだと言わんばかりに微笑んだ。


「ふたつめのお話をお聞きになれば、きっとご満足いただけること請け合いですわ!」


 ぱちん、と手を叩く音を大きく響かせ、彼女は再び会場中の注目を浴びる。

 このとき、お茶会の主役は彼女であると言って間違いなかった。


「そのふたつ目は、王宮が昨夜、少しだけ騒がしくなった理由でもあります」


 レティシアは、わざと視線を泳がせた。

 待ちきれない招待客たちの顔を、一人ずつ確かめるように。


「それは、たった一枚の書類のせいなのですわ。……その名もみなさまよくご存知、婚約許可申請書!」


 空気がどよめいた。その書類の名に、招待客らは顔を見合わせる。「どなたが?」「どちらの家?」そんな声が会場中から上がった。

 反応が期待以上だったのか、頬を上気させたレティシアはもったいぶったようにゆっくりと続ける。


「そして、夜遅くそれを受け取りに行ったのは……」


 そこで、レティシアはわざと声を落とした。

 皆の視線が一斉に彼女へ吸い寄せられ、続きを聞き漏らすまいと会場はすべての音をひそめる。


 そのなかで、フローリアの胸だけはひどくざわついていた。

 理由はわからない。でも、なぜか続きを聞いてはいけない気がして仕方がなかった。

 耳を塞いでしまいたい衝動が突き上げる。

 

 だけど、なすすべなく、フローリアはレティシアの唇が開くのを見ているしかなかった。

 

「――フィアライゼン公爵家の使いだったのですわ!」


 その瞬間、きゃあ、という声が会場中から上がった。


「あの夜会の噂は本当だったのね?!」

「ああ、なるほど!」

「やっぱり、そういうことよね?」


 言い切る声はどこにもなかった。

 けれど、誰もが同じ結論にたどりついているのが、はっきりとわかった。


 フローリアは、手を握りしめたまま動けずにいた。

 体は冷たいほどなのに、指先だけがじんと熱を帯びている。

 否定する言葉は浮かばなかった。

 その名と行動が結びついた結果だけが、この場の空気として定着していく。


 ガブリエラがフローリアの手を握る。


「フローリア……あの話、お相手はあなたじゃないの……?」


 フローリアはただ首を横に振るしかない。

 いま何か言ったら、みっともなく泣いてしまいそうだったから。


 昨日、クラウスが見せた瞳の理由がようやくわかった気がした。

 もう彼の気持ちが決まっていたのなら、フローリアの告白なんて受け入れられないのは当たり前だったのだと。

 想いさえ伝えれば彼も応えてくれるなんて、そんなの幻想だった。

 あんなブローチなんか買って。

 あんなに何枚も便箋を無駄にして。

 あんなに浮かれて。


 馬鹿みたい。


 周りの騒ぎも、ガブリエラの手の感触も、何もかもが輪郭をあいまいにしていく。

 気がついたら、フローリアは馬車の座席に身を預けていた。

 いつ立ち上がって、いつ礼をして、どうやってあの場を辞したのか。

 記憶は、まるで霧に覆われたようにぼんやりとしていた。


 向かいの席には、ガブリエラがいた。

 さっきまでのお茶会で見せていた堂々とした姿とは違い、今はただ、黙ってこちらを見つめている。


「……昨日ね、クラウスに気持ちを伝えたの」

 

 言葉を切ると、馬車の中に響くのは規則正しく車輪が石畳を踏む音だけだった。


「でもね、彼は応えてくれなかったの。ブローチも受け取ってくれなかった。ただ、苦しそうな顔をしただけで……」


 フローリアは、言葉を継ごうとして口を開きかけ、結局そのまま閉じる。

 急に視界がにじんで、最初にこぼれたのは一粒だけだった。それが頬を伝い、手の上にぽたんと落ちて、もう止められないのだとわかった。

 それでも、嗚咽を噛み殺そうと唇を噛む。


 ガブリエラが立ち上がり、フローリアの横へ座った。彼女の腕が、強く、フローリアの背中へと回される。

 彼女の胸元に顔を押しつけられ、フローリアはとうとう声を上げて泣いた。

 こらえようとしていた分だけ、涙はとめどなくあふれてくる。


 しばらく、馬車の中にはフローリアの嗚咽と揺れの音だけがあった。

 ガブリエラは、彼女の背に腕を回したままつぶやく。


「ごめんね、フローリア。……わたしがあんなこと言ったから……」


 理由も言い訳もなかったけれど、何に対する「ごめんね」なのかは、はっきりわかった。


「……ガブリエラは何も悪くない」


 嗚咽混じりの声が震えていた。ひどく聞き取りにくいと彼女自身が思うくらいに。


「だって、決めたのはわたしだもの」


 自分で選んだ。

 自分で伝えようと決めた。

 それだけは、誰のせいにもしたくなかった。


 だけど――


 フローリアは、ガブリエラの背に手を回す。

 そのまま、ぎゅっと強くしがみついた。


「でも……やっぱり、悲しいよ……」


 そのあとの言葉は続けられなかった。

 代わりにガブリエラの呼吸が乱れ、彼女の肩がかすかに震え始めた。

 ふたりの涙は、互いのドレスに滲んでいく。


 車輪は静かに回り続ける。

 馬車の外には、何事もなかったみたいに風景が流れていった。

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