5 太陽のブローチは黄金色に輝いて
午後の陽射しは、すでに真上から少し傾いていた。
リリエンブリュック邸の中庭には、低く刈り込まれた生け垣が整然と並び、噴水がさあさあと鳴る音だけがあたりに満ちている。
空はよく晴れていた。
雲は高く、風は強すぎず、庭木の葉をときおり揺らす程度。日差しを浴びた芝生はまだ温かく、けれど、じっとしていると少しずつ風が涼しさを運んでくるのが感じられる。
穏やかで、静かで、何事も起きていないかのような午後。
けれど、その静けさは、何かを考えるには少しだけ過剰だったのかもしれない。
その証拠に、中庭の一角にある小さな東屋――その下の小さな白木の椅子に腰掛け、フローリアは頭を抱えていた。
同じ素材の机の上には、ペンとインク、何枚もの便箋。書き損じばかりが重ねられ、その脇にアルブレヒト・シュタインの新作が置かれている。
箔押しされた、オルベナント語のタイトルが鈍く光った。
その本は、迎賓館まで書簡を届けた使者が先ほど持ち帰ってきたもの。
「第二公子殿下が、お嬢さまにと」
そう言って、使者はフローリアの目の前にそれを置いていった。
読む気にはならなかったけれど、手に取りパラパラとめくると、小さな紙片が挟まっているのに気が付いた。
――あなたのお答えがどうあれ、これだけは拒まないでください。
そこには丁寧な字で、それだけが書いてあった。
フローリアは、それを元の場所に戻すと本を閉じる。
コンラートからの申し入れは受け入れないと決めていた。でも、決して簡単に断れたわけではない。公国との関係を考え、両親に何時間も相談し、書簡の文面に悩み、痛む胸に手を当てた。
真摯な想いを断ち切るということは、思っていた以上に重いことだった。
それでも、これはもう終わったこと。
ぼんやりと本の上に置いていた視線を、振り切るように便箋へ戻す。
もう、考えない。
フローリアは小さく頭を振ると、ペンを手に取る。
真っ白な紙に向かい、改めて最初の一行を書きはじめた。
でも、その数十分後。
机の上には、さらなる書き損じが積み上げられていた。
「どんな言葉も、あなたの瞳を見つめていると……」
今度こそ、少しはいいような気がする。そう思って、フローリアは書いた文を声に出して読んでみた。
しばらくの沈黙ののち、「きゃあ」とも「いやあ」ともつかない悲鳴をあげながら、顔を両手で覆う。
なにこれ、なにこれ! なんだかとっても恥ずかしい!
即興で詩を詠むこと自体は、貴族の集まりではそれほど珍しいことでもない。フローリアも何度かその場に立ち合い、その都度そつなくこなしてきたつもりだった。
でも、いつもお題は季節の花の美しさだとか、主催者への賛辞だとか、そんなものばかり。だから、自分のなかをここまでさらけ出すというのは初めてかもしれない。
向けられた想いを断ち切るのも難しかったけれど、自分から想いを伝えるのはさらに難しい。
過去の詩人たちの偉業を心の中で讃えつつ、フローリアは名前の部分を塗り潰し、また増えてしまった書き損じを机の端に寄せる。
そして、その紙束の横、彼女の指先に近い場所に置いてあったブローチの小箱を開けた。
その途端、太陽の光を目一杯吸い込んだシトリンはきらきらと輝きだす。
この宝石が彼の胸を飾ったら、どれだけ美しいことだろう。
その姿を想像して、フローリアは微笑む。
そして、それを叶えるためにすべきことはわかっている。
「さ、もう一度考えないと!」
ペンをインク瓶につけ、深く息を吸ってから再び紙に向き直った。
その決意に押されるように、小さな机はぐらりと揺れる。
いよいよ重さに耐えかねたのか、机の端に置かれた紙の束がばさばさと音を立てて地面に落ちた。
さらに悪いことに、さっきまで穏やかだった風がここへきて強さを増す。風は紙をさらい、あちこちへと無遠慮に飛ばしていった。
「たいへん!」
名前を消したとはいえ、あんなもの、誰かに拾われでもしたら。
もう、何枚あったかなんて覚えていなかった。とにかく、見えるものから手を伸ばしていくしかない。
フローリアは、慌てて紙を一枚一枚拾っていき、ようやく白いものが見えなくなったのを確認して胸をなで下ろす。
きっと、これで全部のはず。
そう思って顔を上げようとすると、視界の端に映るものがあった。
ぴかぴかに磨き上げられた、革靴の先。明らかに使用人のものではない。その靴が反射する陽射しに一瞬だけ目を細めてから、ゆっくりと視線を上げる。
そこに立っていたのは、見間違えるはずもない人影。
それは、彼女がいつでも会いたくて、でも、今だけはいちばん会いたくなかった人。
「クラウス……!」
思わずその名を呼んだフローリアの視線は、さらにそこにあってはいけないものを捉える。
――彼の手にある、一枚の紙を。
息が止まりそうだった。気のせいかめまいもする。でも、いつまでもしゃがんでいるわけにもいかない。
フローリアはふらつきながら、やっとのことで立ち上がる。そして、うつむいたままクラウスに向かって手を差し出した。
「その、ありがとう……拾ってくれて」
クラウスは何も言わず、すぐにそれを返してきた。
差し戻された便箋を反射的に掴み取る。
読んだ? なんて、それだけは怖くて聞けなかった。
肯定でもされたら、何もかも投げ打って走って逃げる自信がある。いや、できることなら、このことは彼の記憶からすぐに消してほしい……なんて、そんなことまで考えてしまう。
向かいの彼からは何の反応もなくて、それがさらに怖かった。
居ても立っても居られない気持ちになって、フローリアはちらりとクラウスを見上げてみる。
クラウスの顔には表情もなく、ただ彼女のことをじっと見つめていた。
その視線に耐えきれず、フローリアはとうとう口を開く。
「その、今日はどうしたの? 急に来るなんて……」
ずいぶん遠回りな聞き方だと思ったけれど、それ以外に思いつかなかった。
しかもクラウスは、何を考えているのかわからない表情のまま、フローリアから目を外さずに答えてくる。
「……夜会のことを謝りたくて」
「そ、そう。そんなの、気にしなくていいのに。……王女殿下のことで忙しいんでしょう?」
「昨日帰国された。……後のことは、もう片付けた」
「あ……そうなの。……えっと、お疲れさま」
ぷつりと不自然に会話が途切れる。思いつく言葉はもう使い尽くしてしまった。
ふたりの間に気まずい空気が満ちて、フローリアはまたうつむく。
聞こえるのは空気を読まない噴水がたてる、さあさあと軽やかな音だけ。
フローリアは、すでにくしゃくしゃになっている紙束を握り直す。手にかいた汗の感触が気持ち悪かった。
どうする? どうしたらいい?
一瞬のうちに考えに考えて、回りきらない頭が叩き出したのは、ごく一般的な接客の定型文だった。
「そうだわ! お茶も出さないでごめんなさい。どうぞ、そちらに座って!」
勢いよく、そしてたどたどしくフローリアが示した先は、さっきまで使っていた小さなテーブル。
だけど、そこに置かれたままのものに気づき、「ひぇっ」と貴族令嬢としてありえない声を上げかけた。
開けっぱなしの小箱。そのなかで輝くシトリン。どこからどう見ても若い男性向けのブローチ。
フローリアは机に駆け寄り、紙束を持ったまま、ふたを閉める。
でも、もう遅い。
クラウスの視線は小箱に釘づけになっていた。そのなかの黄金色から、何かに思い当たったかのように。
「あの……これは昨日、ルミナス・サロンで買ったの。誰に、ってわけではなくて、その、ただ、きれいだなって思って……」
言い訳じみた声が震える。
ちらりとクラウスを窺うと、彼の視線はアルブレヒト・シュタインの本へ、そして彼女の手にした紙束へと移っていった。
「……瞳を見つめていると、か……」
かすれた声でぽつりとつぶやく。紙に綴られた、彼女の想いのかけらを。
その言葉で、フローリアは確信してしまった。
やっぱり、やっぱり……!
「その……クラウス、見た、よね? これ……」
彼女の問いかけに、クラウスは小さくうなずく。紙束から目を離さずに。
「……すまない。拾ったときに、少しだけ」
覚悟していたはずなのに、フローリアの呼吸は一瞬止まりかけた。
聞いてしまったことを激しく後悔する。
そして、その「少しだけ」が、どこまでなのかを確かめる勇気はなかった。
本当は、完璧な手紙を書き上げてから、堂々と渡したかったのに。どうにかこの場を取り繕えないかと、頭の中が必死に回りはじめる。
明日のお茶会で恋の詩を詠むことになった、そんな話にすり替えてしまえないだろうか。
もはや破裂寸前の頭では、それが最善だと思い込んだ。
「あ、あのね、これは……」
彼女の努力も虚しく、そう言いかけたところで低い声が遮る。
「……知らなかった。そんなに想っていたなんて」
絶望的なひとことだった。
それは、すでに誤魔化しようがないことをフローリアに突きつけてくる。
こんなふうに、雰囲気もないなかで知られてしまうなんて。
今度こそ本当に逃げ出したい気持ちになって――
けれど、ふとガブリエラの言葉が頭をよぎる。
『このままだと、あなた、本当にクラウスさまを失うわよ。気持ちを伝える前にね』
その言葉は、体のなかでぐわんぐわんと反響するみたいだった。
もし、このまま何も言わずに終わってしまったら。
次に彼と顔を合わせるときはもう、今までと同じ距離ではいられないかもしれない。
それだけはいやだ。
そんな後悔だけは、したくない。
こうなったのも、きっと勇気のないわたしを神様が後押ししてくれたもの。
そう思ったら、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。
フローリアは目を伏せると、ぎゅっと紙束を抱きしめる。
「うん、好き……」
やっと出せたのは、ため息とともにこぼれたような小さな声だった。
でもこれじゃ、伝わらないかもしれないとも思った。
もう少しだけ頑張って、わたし!
あるかなしかの勇気を奮い立たせ、どうしても逃げだそうとする視線をゆっくりと持ち上げる。
今度こそ、クラウスの目をまっすぐに見つめながら、はっきりと声に出した。
「好きなの。はじめて会ったときから、大好きになったの……!」
……言えた。
言い切った瞬間、力が抜けたみたいにはっと息が漏れる。
顔は、きっと真っ赤になっているに違いなかった。
どくどくと響く心臓の音が、まわりの全てをかき消していく。噴水の音すら、もう聞こえないくらいに。
こんなときなのに、アルブレヒト・シュタインの一節が思い出される。
『自分の鼓動だけが、判決を告げる木槌のように響く瞬間』。
今はまさにそんな状況だと、どこか人ごとのように思ってしまう。
でも、いつまで経ってもクラウスは何も言わない。
ふたりの間にあるのは、重く深い沈黙だけ。
彼女にとって、あまりにも長い時間が過ぎていく。
どうして何も言ってくれないの?
お願い、何か言って……!
なんの反応も示さないクラウスに、フローリアが違和感を覚え出したころ――
彼のまつげがわずかに揺れた。
そして、そのまつげが縁取る黒い瞳は、彼女の手のなかでくしゃくしゃになった紙束へと落とされる。
そこに、どこか苦しげな色をたたえながら、彼はゆっくりと口を開く。
「出会ってすぐに、そんなに……?」
その唇からこぼれるのは、温度のない声。
「え……?」
それに対して思わず漏れた彼女の声は、ひどく間の抜けたものだった。
ようやく聞けた彼の言葉が、思っていたものとはかけ離れていたから。
同じ気持ちだと、言ってくれるかもしれない。
そんな淡い、いや、確かな願いがあったから。
「……違う」
それでも、その言葉を否定しなければならないことだけは、はっきりしていた。
確かに、出会ってすぐに惹かれた。けれど、それを「軽い」と呼ばれるほど簡単なものだったかと問われれば、答えは決まっていた。
あの日から今日までの時間を思えば、そんなふうに片づけられるはずがない。
だって、まだ幼かったあの日、出会ってからずっとフローリアの心にはクラウスがいたのだから。ただの一度だって、この想いを手放したことなんてないのだから。
「そんな軽い気持ちじゃない!」
フローリアは、心の奥から絞り出すかのように声を張る。
「短い時間でも、手を取り合ってふたりで話をした。それだけで、わたしにとっては十分だったもの!」
また強く風が吹きつけた。手のなかの紙が煽られて、バサバサと耳障りな音を立てる。
クラウスの視線は、張りついたようにその紙束から離れなかった。
「……同じことを、言うんだな」
唇を震わせ、かすかに漏れたそのつぶやきは、雑音に紛れてフローリアには届かない。
風に柔らかな髪を乱されながら、彼女はクラウスを見つめた。
クラウスは視線を上げない。
どうしても目が合ってはくれなくて、彼女の胸はざわつきだす。
どうして? ……なにかおかしなことを言った?
それとも……
焦りが背中を押す。どうしても悪い方向へと向かおうとする思考を止めるように、フローリアは机に駆け寄る。
紙束を手放す余裕もなく小箱を手に取った。
「あ、あのね、これ……!」
クラウスの元へと駆け戻り、彼の目の前へと差し出す。
太陽色の宝石が、彼女の掌の上できらりと光った。
まだ希望はある。そう彼女を勇気づけるかのように。
「とてもきれいな色でしょう? これはね、本当は……」
「……ああ、きれいだ。……とても」
あなたのために、そう言いかけたフローリアを遮るようにつぶやき、クラウスは彼女を見る。
けれど、その瞳に宿るのは、あの夜空みたいなやわらかな光ではなかった。
厚い雲のかかったような暗い瞳に見つめ返され、フローリアは思わず一歩後退る。
その距離を許さないかのようにクラウスの手が伸び、彼女の手首を掴んだ。
「フローリア」
クラウスは彼女を見ている。なのに、どこか焦点の合わない温度のない視線に、体にぞくりと冷たい震えが走った。
声も出せずに、フローリアは彼を見つめ返すことしかできない。
「……どうしてなんだ。僕は……僕のほうが、ずっと……」
彼の手にさらに力が入った。ぐっと引き寄せられ、フローリアはたたらを踏む。
彼女の手から小箱が落ち、地に落ちたブローチが悲鳴をあげた。
その音に我に返ったように、クラウスは手を離す。呆然とその手を見つめたあと、彼は眉を顰めた。
「すまない……今日はこれで帰るよ」
そう言い残し、クラウスは背を向ける。
フローリアはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
足元に転がる、シトリンのブローチ。
黄金色の宝石は、さっきと同じようにきらりと光る。
けれど、その光はもう、彼女を勇気づけてはくれなかった。
「クラウス……」
その名を呼んだだけで、喉の奥がひりつくようだった。
あんな目で見られたのは、初めてだった。
彼の瞳が、胸に刺さったまま抜けない。
フローリアの想いに対して、はっきりとした拒絶の言葉は何ひとつなかった。
でも、あの暗い瞳が、その答えなのだとしたら。
掴まれた手首に、遅れて微かな痛みが走った。
それさえも拒まれた痕のように思えてしまう。
力の入らない手から紙束が落ちる。
しわだらけの紙は地面に力なく広がり、彼に渡すはずだったブローチを覆い隠していった。




