3 その手を取るのは自分ではなかった
「……父たちの話が長くなってしまい、申し訳ございません」
大広間の中央から少し離れた、テーブルの並ぶ一角。
そこには喧騒に疲れたのか、それとも周囲の目を忍ぶのか、ちらほらと小さなグループが集まってきていた。
飲み物を運んできたメイドから、コンラートは白ワインのグラスをふたつ受け取った。そのうちのひとつを手渡されながら、フローリアは小さく頭を下げる。
「どうぞ、お気になさらないでください」
コンラートは軽くグラスを揺らす。淡い色のワインは光を反して、似た色のフローリアのドレスにゆらゆらと波紋を写した。
「むしろ、国のことを真剣に考えていらっしゃる方々だと、羨ましく思うくらいですよ。頼もしいお父上たちでいらっしゃる」
そう言ってフローリアに微笑み、コンラートはワインを一口含む。
はじめの印象どおりの穏やかさを感じさせる彼の振る舞いに、気持ちはやっと軽くなった。
ほっと息をつくと、フローリアもグラスを口に運ぶ。よく冷えた感触が、緊張で熱を持った喉に心地よかった。
「それに、私とクラウスも、在学中はよくあのように政治談義に花を咲かせたものです。白熱しすぎることもありましたが、それもまた楽しかったですね」
少し軽くなったグラスから口を離し、フローリアはコンラートに目を向けた。
はじめて会った人からクラウスの名前が出て、なぜだか不思議な感じがした。自分の知らない彼を覗き見たようで。
「クラウス……さまと同期でいらっしゃるのですよね。このたびはご卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます。クラウスとは同室でして、在学中は互いに研鑽を積んだものです。まあ、彼は飛び抜けて優秀でしたから、大抵は私が後塵を拝していましたけどね」
コンラートは屈託のない笑顔を見せ、ふたたびグラスを口に運ぶ。
なかなか知る機会がなかった、在学中のクラウスのこと。彼への褒め言葉に、自分のことではなくても誇らしい気持ちが残る。
「もっとも、ここにいない彼のことを話すのも、あまりよくありませんね」
「……そうですね」
それ以上は聞けなくて、フローリアはただうなずくしかなかった。
コンラートは話題を切り替えるように、空いたグラスをテーブルに置く。
やってきたメイドから新しいグラスを受け取り、彼女が去っていくのを見届けてから、コンラートは「学校といえば」と言葉を継いだ。
「卒業したらすぐ帰国する予定だったのですが、最後に少し自由な時間が欲しくなりまして。しばらくは王宮の迎賓館を使わせていただけることになりました。本当はいろいろと観光もしたかったのですが……」
「困ったことに」と、別段困ってもなさそうな笑顔を向けてくる。彼は大袈裟に手を振り、しばらくは王宮から出られそうにない、と続けた。
「まあ……もしかして、ご不便なことでも?」
慎重に選んだ言葉だったけれど、声の端に不安が見えたのかもしれない。コンラートは目を丸くして、「そうではなく」とあわてたように言った。
「王宮の図書室が素晴らしくて。到着してすぐ案内していただいたのですが、あれほどの蔵書はなかなか見られません。気がつけば、観光どころではなくなってしまって……毎日のように入り浸りです」
コンラートは肩をすくめる。
思いがけず出てきた図書室という言葉に、フローリアは目を瞬かせた。
「まあ。殿下は、どんな本をお読みになるのですか?」
問いかけると、笑みを抑えたコンラートは、視線を上げて「そうですね……」と、少し悩むような仕草を見せる。
「貴国の作家なら、ヨハン・エーベルが好きです。静かな文体で、それでいて情景がよく浮かぶ。我が国の作家なら、アルブレヒト・シュタインですね。ただ、さほど有名ではないので、ご存じないかもしれませんが……」
聞き覚えのある名前に、フローリアは思わず声を上げる。
「アルブレヒト・シュタイン! 存じています。わたしも好きで、これまでの作品はすべて読みました。どれもすばらしいですが、特に『灰の選択』は傑作だと思います」
彼の作品を知ったのは、クラウスがきっかけだった。
社交の場での会話の幅を広げたくて、周辺国の文化を調べたいと彼に話したときのこと。
「物語から入ると理解しやすい」と言って、クラウスが渡してくれた本のなかにあったのが、アルブレヒト・シュタインの一冊だった。
何気なく読み始めたはずが、ページをめくる手が止まらなくなって、気がつけば他の作品も探しては読み続けていた。
「彼は……読み終わったあとに、自分がどんな選択をしてきたのか、それを考えさせられる作家だと思うのです。でも、決して正解を渡してはくれない。そんなところが好きなんです」
語ってしまってから我に帰る。初対面の相手に、少し踏み込みすぎたかもしれない、と。
こういう感想は好みが分かれるし、そもそも女性が本を読みすぎることに嫌悪感を示す男性もいる。
けれど、コンラートは顔を曇らせるどころか、黄金色の目を輝かせた。まだ中身の残っているグラスをテーブルに置くと、彼は嬉しそうにフローリアに向き直る。
「……彼をご存じとは」
短くそう言って、彼は小さく息をついた。
「私も、彼の本を読むたびにあなたと同じことを考えていました。彼は評価が分かれる作家です。派手さはありませんし、読みやすいとも言えない。そして、誰かの選択を都合よく救いもしない。でも、だからこそ、読み終えたあとに残るものがある」
彼の頬はワインのせいか、ほのかに熱を帯びていた。
一瞬静かになったふたりの間を、どこからか聞こえてきた楽しそうな笑い声が埋めていく。
コンラートは、思案するように視線を落として「そうだ」と思い出したように言った。
「ちょうど、先月出版されたばかりの彼の新作を持っているのです。貴国ではまだ手に入りにくいはず。よろしければ、受け取っていただけませんか」
急な申し出に、フローリアは戸惑う。新作は魅力的だけれど、相手は初対面、しかも公子。本一冊とはいえ、気軽に受け取れるような相手ではない。
どう答えるべきか迷っていると、彼女のようすから察したのかコンラートは言葉を継いだ。
「どうか遠慮なさらず。ぜひ、あなたに読んでいただきたいと思ったのです。好きな作家の話を、こうして共有できた方に」
「ですが……」
フローリアが答えを探すように唇を開きかけると、バイオリンが高らかに鳴り、ふたたび音楽が変わった。
この曲はダンスの始まりの合図。
ざわめきはさらに大きくなる。招待客たちはそわそわと互いを見合い、相手を見つけた幸運な男女は、手を取り合って大広間の中央へと進んでいく。
コンラートは、音楽の流れを追うかのように視線を大広間へと巡らせたあと、フローリアに目を戻した。
「……リリエンブリュック嬢。どうか一曲、ご一緒願えませんか」
コンラートはフローリアの表情をうかがうように見て、それから控えめに手を差し出す。
「お差し支えなければ、ですが……」
フローリアは彼の手を見つめる。
断る理由は見つからなかった――最初のダンスは、クラウスと踊りたかった、それ以外には。
でも、まだ彼はここにはいない。そして、今日、彼女の手を取り、導いてくれることもない。
クラウスに支えられるはずだった手が、急に冷たくこわばる。グラスを取り落としそうになって、フローリアはあわててテーブルの上に戻した。
そして、小さく息を吸い、吐く。
「……はい。わたしでよろしければ、喜んで」
そうするしかない笑顔を作り、目の前の手を取る。彼女の手が触れると、コンラートは、ほっとしたように目を細めた。
「ありがとうございます。実は、自分から女性を誘うのが初めてで……」
本当か冗談かわからないことを言い、彼は軽やかに笑った。
彼の温かい手は優しくフローリアの手を包んで、彼女を踊りの輪へと導く。
周囲をちらりと見やり、コンラートは彼女の耳元に小さくこぼした。
「お気づきですか? さきほどから、男性たちの視線が痛いんです。……きっと、あなたに声をかけたかったのでしょう」
冗談めかした口調だったけれど、コンラートのその声には、どこか納得が混じっていた。
「これは存外の幸運……かな」とつぶやく彼に、フローリアは曖昧に微笑む。
彼女の手は、クラウス以外の手に触れている違和感に冷たくなったまま。
色とりどりのドレスが舞うなか、フローリアはコンラートと向かい合う。彼の腕に手を添え、一歩を踏み出そうとした視界の端に、ひと組の男女が映った。
一瞬ざわめきは止んで、人々の視線が彼らに集まる。
彼女の意思とは関係なく、フローリアの目もその姿に吸い寄せられていった。
人波を割るように進んでくる、背の高い青年。
夜よりも濃く、黒曜石よりも深い、彼の漆黒の髪。
それは完璧に整えられた藍色の礼装に映え、シャンデリアの光を受ければ艶やかに揺れる。
そして、彼の腕に指を絡める華やかな女性。
大輪の薔薇を思わせる真っ赤なドレスは、彼女の美しさをさらに引き立たせていた。
その碧い瞳は水の膜を張ったように潤み、頬はほんのりと上気して、頼りなげに彼へと寄りかかる仕草は、いかにも守られるべき存在に見えた。
フローリアの背に、すっと冷たいものが降りた。見てはいけないと、誰かが耳元で叫んでいる。それは確かに聞こえているのに、目はどうしても離れてくれない。
……どうして、隣にいるのがわたしじゃないの。
ふたりの姿に黒い嫉妬が頭を占めていく。
本当なら、あの場所にいるのはわたしだったはず。あの腕に触れる権利はわたしにあったはず、と。
だけど、なけなしの理性でその考えごと胸の奥に押し込める。
なぜなら、あの場所は、もともと空いていたはずの場所だから。
誰かのために用意されたものではなく、ただ自分のものになると信じていた場所。
彼の隣に立つ未来を、疑いもせず思い描いていた自分のほうが間違っていたのだと気づいてしまったから。
「ねえ、あのおふたりをご覧になって」
「クラウスさま、すてき! お隣は王女殿下よね?」
「お似合いだわ。まるで絵画みたい……」
「やっぱり、クラウスさまのお隣に立つのは、ああいう方がふさわしいのね」
ふたりが一歩一歩進むたび、フローリアの考えを肯定するかのような、そんな言葉が人々の口からぽつぽつと零れ落ちる。
どれも悪意のない声ばかり。
だからこそ、その声のひとつひとつが耳に刺さるたび、フローリアのなかに、ぎしぎしと音を立てながら軋みが生まれる。
それなのに、視線は勝手にあのふたりを追ってしまう。
王女は寄り添ったまま、拗ねたような顔でクラウスを見上げ、何かを話しかける。
彼も王女に向けて何かをささやき返し、笑顔を見せた。
あの、フローリアが好きな、いつもの笑顔を。
それ以上は耐えられなかった。
まるで恋人同士のようなふたりから、引き剥がすみたいに目を離す。
あの笑顔に胸を高鳴らせていた自分が、ひどく滑稽に思えた。彼は、その中に何の意味も込めていなかったというのに。
フローリアは、思わずコンラートの腕に添えた手を強く握る。そのまま一歩距離を詰め、彼の胸元に縋るように額を寄せた。
もう、見ていたくない。ただそれだけだった。
その瞬間、コンラートは足を止めかけた。
突然降って湧いた、彼女の近さにどきりとした。一瞬胸をときめかせ、それでもこれは違うと思い直す。
フローリアの動きは、音楽に身を委ねたにしては、あまりに急で、逃げるようだったから。
いったい、なぜ。
その疑問とともに彼女が見ていた方向へと目を向けると、こちらを見ていたクラウスと目が合う。
彼は王女を支えながらも、その視線をこちらに向けたまま動かない。
まるで、そこにあってはならないものを見たかのように。
……なるほど、そういうことか。
それ以上、確かめる必要はなかった。
コンラートはクラウスからゆっくりと目を離す。
そして、胸元で揺れるフローリアの小さな頭に頬を寄せかけ――その直前で止めた。
そのまま彼は、何事もなかったかのように彼女を踊りの流れへと導いていく。
彼女の背を支える手に、少しだけ力を込めながら。




