2 夜会は黄金色の光に包まれて
帰りの馬車の中。
車輪は舗装された道をなめらかに走り、外の景色を次々と変えていく。
でも、フローリアの目は窓の外ではなく、膝の上の小箱に留まっていた。
その中には男性向けのシトリンのブローチと、それとお揃いの耳飾り。
任せなさいと豪語したガブリエラのアドバイスは、「プレゼントと手紙で想いを伝える」というものだった。
『こういう古典的な方法がいちばん効くのよ』
自信ありげに胸を張り、『わたしもそうだったんだから』と言う友人に、フローリアはただ驚いた。
彼女の辞書には「大胆」とか「勝負」とか、そんな言葉ばかり並んでいそうなのに。
まさか、こんな王道の案を出してくるなんて――
「意外ね」
向かいに座るガブリエラが、小箱を覗き込むようにして言った。
考えを見透かされたみたいで、フローリアはどきりとする。
「あなたなら、クラウスさまの瞳に合わせて黒い宝石を選ぶと思ったのに」
「え? あ、ああ……これはね」
フローリアは小箱のふたを開く。
陽を受けた黄金色の石は、彼女の指先にとろりととろけるような光を映した。
ブローチの表面をなでながら、フローリアの顔には笑みが浮かぶ。
クラウスに似合うよう、あえて落ち着いた意匠のものを選んだ。
彼が手にしたら、どんな顔をするだろう。
喜んでくれるだろうか。
もし彼の胸元にこのブローチが輝いたなら、このお揃いの耳飾りをつけて並んで歩いてみたい。
そんな、誰にも言わない小さな願いを胸に抱く。
彼に想いを伝える、そう心を決めてしまえば、さっきまでの憂鬱さは少しずつ楽しみへと変わっていった。
「黄色はクラウスが好きな色なの。太陽みたいで、見てると元気が出るんだって」
「ほほう……なるほどねぇ」
ガブリエラはあごに手を当て、にやりと笑う。
「好みまで完璧に把握済みとは。さすが、長年の片想いは違うわね」
「だって、好きな人のことはどうしても覚えちゃうものでしょ?」
フローリアは、ひとつひとつ思い出しながら、指折り数えていく。
「他にもあるわ。クラウスは意外と甘いものが好きなの。それにね、熱いものは苦手だから、淹れたてのお茶にはミルクを入れて少し冷ますのよ。あとは……」
「あーはいはい。フローリアなら、そのうちクラウスさま辞典でも書けそうね」
「……ちょっと、それ、ばかにしてる?」
「さあ、どうかしらね」
ガブリエラがいたずらっぽく肩をすくめて笑うと、フローリアもつられて笑い出した。
膝の上の小箱も、楽しそうにカタカタと鳴る。
「ありがとう、ガブリエラ。ちょっと元気出た」
「あら、どういたしまして」
笑いの残る声で「このくらいお安い御用だわ」とガブリエラは返す。
「そのかわり、ちゃんと両思いになってよね。すぐに婚約して、噂なんて上書きしてしまえばいいんだから」
「うん……頑張る」
フローリアは、ふたたびブローチに目を落とした。
柔らかな黄金色が、馬車とともにゆらゆらと揺れている。
――まるで、彼の姿を探し続けた、あの夜会の光のように。
あの日、王宮のシャンデリアは、夜にも関わらず太陽のようなまばゆい光で大広間を照らしていた。
同盟国エルヴァローナ王国から、賓客を迎えての夜会。
侯爵家の娘として、フローリアも両親とともに招待されていた。
今日のためにあつらえた淡い黄色のドレスは細かなダイヤが散りばめられ、シャンデリアの光を受けるたび、金砂が舞ったかのようにきらめいている。
絶え間なくかけられる挨拶に、フローリアは微笑みを返し続けていた。
でも、優雅なのは表だけで、その内側は落ち着かない。その視線はひたすら大広間を探してしまう。
彼女の目が求めているのは、クラウスただひとり。
寄宿学校を卒業して、ようやくこの社交の場に戻ってきた彼の姿を。
本当は、夜会のエスコートはクラウスがしてくれるはずだった。
クラウスの家とフローリアの家とは、父親が寄宿学校の同期で親友同士。そして、ふたりも幼馴染という間柄。その縁で、クラウスは社交会にデビューしたときからずっと、フローリアのエスコートをしてくれた。
互いにまだ決まった相手のいない立場だから、クラウスにとっても断る理由はなかったのだろう。
それが義理であれ何であれ、フローリアには十分だった。
彼の隣にいられるなら、なんでもよかった。
クラウスが寄宿学校を卒業したその日。
フィアライゼン公爵家の紋章を掲げた馬車が、フローリアの邸の前に横付けされた。
「クラウスさまがお見えです」
執事の先触れを聞いたフローリアは、じっとしていられなくなって玄関へ駆けだす。
廊下の厚い絨毯が足音を隠してくれることはわかっていた。途中メイドとすれ違っては何事もなかったようにゆっくりと歩き、誰もいなくなったのを見計らってはまた走り出してを繰り返す。
やっとたどり着いた扉の前に立ち、乱れた呼吸を落ち着かせていると、馬車の扉が開いた。
革靴の音を軽やかに響かせ、クラウスが降りてくる。
その手に、黄色の花束を持って。
久しぶりに会う二十二歳の彼は、すっかり大人びて見えた。少し低くなった声も、落ち着いた仕草も、前とは違っていて。
その洗練された姿に胸がときめくのを、フローリアは悟られまいとした。
慌てて背筋を伸ばし、笑みを整える。
「クラウス、卒業おめでとう」
本当はもっといろんな言葉を準備していたのに、口から出たのはそれだけだった。
まだ声が裏返らなかっただけ、よかったのかもしれない。
クラウスは、美しい星空のような目を細めて「ありがとう」と笑う。
それだけでフローリアは嬉しかった。
ああ、この瞳はいつまでも変わらないと。
居間で向かい合い、近況を交わす。
フローリアの手には、クラウスからもらった花束。
言葉が途切れると、クラウスはちらりとフローリアの手を見て、顔を伏せた。
彼の指はソーサーの縁をゆっくりとなぞって、そこで止まる。
しばらくして、クラウスは視線をあげないまま、口を開いた。
「そういえば、夜会の招待状が来てたね」
「……ええ、そうね」
夜会という響きに、どきりと胸が音を立てる。でも、フローリアはつとめて冷静に返した。
クラウスは、どこか落ち着かないみたいに前髪に手をやる。せっかく整えられていた髪がちょっと乱れたころ、やっと顔を上げてフローリアを見た。
「もう、相手は決まっている? その……エスコートの」
彼の言葉に、目の前がぱっと明るくなるみたいだった。
またクラウスの隣に立てる……?
でも、まだなにも言われてない。
まだ期待しちゃいけない。
そう何度言い聞かせても鼓動は勝手に速くなっていくし、指先はそわそわと花束の白いリボンをいじってしまう。
ふるえそうになる口もとを必死で抑えながら、フローリアは声を返した。
「今回は、お父さまにお願いしようかと思っていたの」
「……そう、よかった」
「えっ?」
クラウスがつぶやいた言葉は、フローリアには聞こえなかった。
「あ……いや、なんでもない」
慌てたように言い直して、クラウスは目を逸らした。でもすぐにフローリアに視線を戻すと、小さく咳払いしてから口を開く。
「それなら、僕がエスコートしてもいいかな。いつもどおり、でよければ……」
期待していたはずの言葉は、期待以上だった。じわじわと白い肌のすぐ下に熱が集まってくる。花の中に顔を埋めたくなる衝動を必死で抑えた。
フローリアは髪を耳にかけるふりをして、染まった頬を隠す。それでも視線はクラウスから離さずに言う。
もう、それしかありえない答えを。
「もちろん。こちらこそ、よろしくお願いします」
そのときのクラウスの笑顔は、一生忘れないと思うくらい眩しく輝いて見えた。
それから夜会までの日々は、あっという間だった。
夜会に着ていくと決めていたはずのドレスは、なんだか物足りない気がした。
でも、新しいドレスを作る時間はなかった。あわてて仕立て屋を呼んで直させ、髪型を選びなおし、何度も小物を付け替えては、鏡の前でくるくると回って悩んだりした。
家庭教師に完璧と言われても、頭の上に本を載せ、背筋を伸ばしながら直線の上をひたすら往復した。
久しぶりにエスコートしてくれる彼に、いちばん美しい姿を見てもらいたい。
そして、彼の隣に立つにふさわしいと思われたい。
ただ、そのためだけに時間を費やしたのに。
夜会当日、まだ朝靄の残る時間。
フローリアあてに、公爵家から急ぎの使者がやってきた。
手渡された封書はどこかひんやりと冷たくて、なぜかいやな予感が胸をよぎる。
開けてみると、クラウスの端正な、でもどこか焦ったような字。
「王子殿下が急に出席できなくなり、代わりにエルヴァローナの王女殿下のエスコートを任された」
そして、最後にはただひと言、
「すまない」と。
手紙を持つ手が震えるのを、フローリアは止められなかった。
仕方がないことだと、頭ではわかっていた。
王女が優先される立場であることも、宰相の息子であり公爵家の嫡男である彼にとって、これは将来に関わる大切な務めだということも。
でも。
彼の腕に手を添えて歩くのは、自分じゃなくて王女。
その事実が、どうしても納得できない心を刺す。
どんなに礼儀作法を身に付けても、どんなに努力を重ねても、決して超えられない壁があるとわかった。
ましてや、幼馴染なんて――子どもの頃には特別だったものも、大きくなったら何の力もない、薄っぺらなものなのだと。
大広間をさまようフローリアの目に、こちらに向かって手を振る人影が映る。
それは、クラウスの父、フィアライゼン公爵であるエルンストとその妻イザベラだった。
フローリアの両親も手を振り返し、そちらへと歩いていく。笑顔をつくると、フローリアはふたりのあとをついていった。
フローリアたちが近づくやいなや、エルンストが明るい声をあげる。
「やあ、ハロルド! こうして言葉をゆっくり交わせるのは、存外久しぶりだな」
彼はフローリアの父ハロルドの手を力強く握りしめ、親しげに肩を叩いた。
「先日の議会では、きみは終わるなり風のように去ってしまったからね。さすがは多忙な宰相殿だ」
ハロルドも笑いながら応じた。
その隣で、公爵夫人イザベラがフローリアの母マティルダに優雅に挨拶を返している。
エルンストは、友人の横に立つフローリアに顔を向けた。クラウスと同じ黒い瞳が細められる。
「フローリア。久しぶりに会ったが、ますます美しくなったね。今日の装いも、とてもよく似合っている」
「ありがとうございます」
フローリアが丁寧に礼をすると、エルンストは満足げにうなずく。
「ハロルド。こんなに素晴らしいお嬢さんを持ったら、父親としては心配が絶えないだろう?」
ハロルドは「まったくだよ」と言って娘の肩に手を回すと、そっと引き寄せた。フローリアも父を見上げ、微笑む。
エルンストも「実に羨ましいことだ」と楽しそうに笑って、フローリアに向き直った。
「今日は、クラウスが失礼したね。本来なら君をエスコートするはずだったのに」
フローリアは首を振る。動きに合わせて、緩く巻いた髪がふわふわと揺れた。
「そんな……大切なお役目ですもの。お気になさらないでください」
「そう言ってもらえると助かるよ」
感謝を示すように、エルンストが胸に手を当て、小さく頭を下げる。フローリアも足を引き、礼を返した。
「そういえば、クラウスの姿がまだ見えないようだが」
ハロルドが大広間を見渡すと、エルンストが肩をすくめる。
「王女殿下の船が遅れていてね。クラウスは急きょ港まで迎えに行っている。こういうときの段取りは、慎重すぎるぐらいでちょうどいいのだよ」
エルンストは、ハロルドたちに顔を寄せると「……同盟国のご機嫌を損ねると、あとが大変だからね」と声をひそめて言う。苦笑するエルンストに、ハロルドも「ご苦労なことだ」と笑い返した。
ざわめく会場の空気のあいだを縫いながら、ひとりの侍従が足早に近づいてくる。彼は、エルンストの耳元で何かを告げた。
「そうか」と小さくうなずくエルンストは、彼に何か指示を出す。
去っていく侍従の背を見送ると、彼はハロルドたちに再び向き合った。
「どうやら、もうひとりお客人がお越しになったようだ」
侍従に伴われて近づいてきた青年に、エルンストは右手を差し向けた。ちらちらと令嬢たちに目を向けられるなか、青年はエルンストに会釈すると、その横に立つ。
「紹介するよ。こちらはオルベナント公国の第二公子、コンラート殿下でいらっしゃる。クラウスとは寄宿学校で共に学ばれた仲だ。殿下、こちらはリリエンブリュック侯爵とそのご家族です。侯爵は私の旧友でして」
コンラートはフローリアたちの前で胸に手を当て、優雅に礼をとった。彼が頭を下げると、落ち着いた灰茶色の髪がさらりと首筋に流れる。
「コンラート・フォン・オルベナントでございます。皆さまにお会いでき、光栄に存じます」
顔を上げた彼の瞳は、陽の光を閉じ込めたような澄んだ黄金色をしていた。
ろうそくの灯が映り、ひときわ明るく揺れて見える、そんな不思議な色。
公国の直系の男子にだけ現れると聞くその瞳を、フローリアが実際に目にするのは初めてだった。
両親の後に続き、フローリアも礼を返す。
「フローリア・リリエンブリュックと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
フローリアを見て、コンラートは優しく微笑んだ。
礼儀正しく穏やかな好青年、そういう印象。
胸に浮かぶ思いは、ただひとりの人のことでいっぱいのまま、フローリアも笑みを返した。
宮廷楽師たちの奏でる調べが変わり、周囲のざわめきの色もどこか変わっていく。
その流れに合わせるかのように、エルンストはコンラートに話を向けた。
「殿下。そういえば、貴国では北方の交易路を見直されているとか。我が国の議会でも話題になっていました」
突然の政治の話題にも、コンラートは落ち着いてうなずいた。
「はい。父が中心となって進めております。かねてより懸案だった北港の浚渫工事も、このたび開始しまして。水深が確保されれば大型船の入港も可能になります。そうなれば、冬季も定期航路を維持でき、貴国との物流もより円滑になるはずです」
「なるほど。それは我が国にとってもありがたい話ですな」
エルンストは満足げにあごをさする。
ハロルドも前のめりになって話に乗ってきた。
「そうなると、ヘッセン伯爵領の穀物輸出に関する関税の引き下げ提言も現実味を帯びてくるのではないか? 港が通年動くなら、備蓄を抱える必要も減る。これはぜひ、次の議会で諮るべきだろう」
「いいや、ハロルド。伯爵領の倉庫業者が難色を示したらどう対処する? 輸出量が安定すれば価格は下がる。現行の価格体系に傷がつくと考える者も多いはず――」
政治談義に花が咲き、父たちはあっという間に政治家の顔になってしまった。気づけば、母たちも公国の布地や装飾の話題で盛り上がっている。
また始まった。
こうなると、しばらくは終わらない。
熱く語り合う父たちを見やり、フローリアは小さくため息をついた。
コンラートに申し訳ない気持ちで視線を向けると、彼もちょうどこちらを見ていた。取り残されたふたりの目が合い、どちらともなく苦笑がこぼれる。
「よろしければ、何かお飲み物でも」
コンラートはフローリアに一歩近づき、周囲に気付かれないよう小声で申し出た。




