1 噂はいつだって真実のふりをする
全8話の予定です。
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揺れるチェーンの先に小ぶりなサファイアを宿した、繊細な銀細工の耳飾り。
少し大人っぽい意匠のそれは、白く細い指に持ち上げられ、ゆっくりと耳元までたどりついた。
つややかなラセットブラウンの髪に触れると、チェーンがさらさらと微かな音を立てる。宝石は、同じ色の彼女の潤んだ瞳をさらに美しく引き立たせた。
耳飾りに心があったなら、きっと彼女の所有物になれると信じたに違いない。
けれど、それはため息とともにトレーへと戻されてしまう。残念ながら、彼女の心を射止めることはできなかったようだ。
でも、耳飾りにはなんの責任もない。
彼女――リリエンブリュック侯爵の娘であるフローリアには、いまはどんなすばらしい宝石も色あせて見えるというだけなのだから。
ここは、ロザンテール王国の宝飾店「ルミナス・サロン」。
王都でも指折りの名店として知られ、今日も入口には馬車が途切れない。
その名のとおり、店に足を踏み入れると、目に飛び込んでくるのは眩いばかりの光。天井のシャンデリアを受けて、ガラスケースに並べられた宝石たちが誇らしげに瞬いている。
その店の奥、ドアで仕切られた小部屋。
ふかふかのソファには、フローリアと、その友人であるコルヴェンティス伯爵の娘、ガブリエラが座っている。
ふたりは明後日のお茶会に備え、身につけるアクセサリーを選んでいる最中だった。
「……ねえ、フローリア。お願いだから、アクセサリーを選ぶのか、絶望的なため息をつくのか、どちらかにしてくれない?」
「気が散るのよね」と、隣のフローリアに面倒そうに言い放ち、ガブリエラはテーブルに並んだアクセサリーのなかから、大粒のルビーがついた首飾りを手に取った。
首にかけると、その深い赤は彼女の青い瞳に映え、さらに輝きを増す。
鏡の前で角度を変えながら眺めたあと、ひとつうなずいた。どうやらそれに決めたらしい。
一方のフローリアは、頬杖をつきながら指先で耳飾りのチェーンをいじっている。潤んだ瞳からは、いまにもしずくがこぼれ落ちそうになっていた。
「だって……だって。まだあの光景が頭から離れないんだもの……」
消え入りそうな声で言って、フローリアはとうとう両手で顔を覆った。
その様子を横目で見ながら、ハンカチをぽいと友人のひざの上に放るガブリエラ。
フローリアは片手だけ顔から外し、手探りでその布を取る。くぐもった声で「……ありがとう」と言うと、そっと目に当てた。
「あのねぇ……もう二日も経つのよ? そろそろ気持ちを入れ替えたら?」
まだメソメソしている友人からあっさりと目を離し、ガブリエラは髪飾りを手に取る。輝くような金の髪にかざすと、首飾りと同じルビーがきらりと光った。
「こんなものかしらね」と言いながらトレーに戻す。
そこで、やっと彼女はフローリアに向き直った。
「……で? いつにする?」
ガブリエラは腕を組み、ぐいと身を乗り出す。隠れているフローリアの目の辺りをきりりとにらみつけながら。
その気配に気づいたのか、ハンカチから顔を上げるフローリア。すると、至近距離でガブリエラの鋭い目と目が合う。
その迫力に「ひゃっ」と変な声を上げて、フローリアはのけぞった。
「えっと……いつって……?」
「そんなのいつ告白するかに決まってるでしょ!」
上目遣いで恐る恐る尋ねるフローリアに、ガブリエラは被せ気味で答えた。
名門リリエンブリュック侯爵家の令嬢であるフローリアは、音楽、文学、語学に長け、世間では「美の化身」「気品の象徴」などと称えられている。
けれど、そのすべては、ただひとりの男性の隣に立つために積み重ねてきたもの。
そのことをガブリエラは知っていた。
そして、彼女が本当は泣き虫で、臆病で、恋に不器用なことも。
初めてふたりが会ったお茶会で、完璧に微笑むフローリアの指先の震えに気づいたのも、ガブリエラだけだった。
「あなた、いつまでぼんやりしてるつもりなの? クラウスさまのこと好きなんでしょ? さっさと『愛してる』とでも『結婚して』とでも言ってしまいなさいよ!」
「ちょっ……ガブリエラ! 声大きい! 外には人がいるのよ?!」
フローリアは目から手を離すと、大慌てであけすけな友人の口を塞ごうとする。
でも、ガブリエラは器用に身をかわし、ひらりと友人の手から逃れた。
「何よ、別にいいじゃない。もし周りに聞こえたって、それも運命よ」
「全然よくないわよ!」
個室とはいえ、そう壁は厚くない。
もしも誰かに聞かれたら。
フローリアは赤くなったり青くなったりしながら、涙の残る目をドアに向け、外の気配をうかがっている。
そんな友人を尻目に、ガブリエラはよく通る声で堂々と言った。
「あのね、言っておくけど、相手はあのクラウスさまなのよ? フィアライゼン公爵家嫡男! 未来の宰相! 狙ってる女なんていくらでもいるんだから! 尻込みして誰かに攫われても知らないわよ! 例の王女さまとかね!」
「ちょっと! 本当に声抑えて……!」
「それにね、フローリア」
ガブリエラは腕を組み、女王のように顎を上げる。
シャンデリアの光が、彼女の髪に王冠みたいな輪を作った。
「女性から想いを伝えてはいけない、なんて決まりはないの。今どき、恋だって待ってるだけじゃ手に入らないのよ? あなたも積極的に行きなさいよ!」
う、と言葉に詰まる。反論できるはずもなかった。
ガブリエラの言葉には、このうえなく説得力がある。
何しろ彼女の婚約は、誰もが驚くほど大胆で、見事に実った「攻めの恋」だったのだから。
ガブリエラはさらに胸を張った。
「私は自分からどんどん動いたわよ。告白前に、王宮に婚約許可申請書を取りに行ったもの。覚えてる?」
フローリアはうなずく。
婚約許可申請書――それはロザンテールの貴族であれば誰もが知っている、婚約に必要な正式書面。
昔は政争を避けるための重要な制度だったけれど、いまでは形式だけが残り、決められた書式を王宮で受け取って提出するだけのものになっている。
とはいえ、その一枚が侮れない。
誰がいつ王宮へ取りに行ったのかは、なぜか翌日には王都中に広まる。
「どこそこの家が婚約を決めたらしい」と。
そして、申請書にはもうひとつ、誰もが神経を尖らせる理由がある。
両家の当主がそろって署名をしなければ提出できず、どちらかが渋れば、そのまま書面は宙に浮いてしまうということ。
そうなれば最後。
今度は「断られたらしい」という噂が、風よりも早く王都を駆け巡る。それを恐れて、貴族たちは互いの意思を確かめ合ってからでなければ、決して書類を受け取りには行かない。
だから、ガブリエラが婚約前に自ら申請書を取りに行ったというのは、もはや令嬢たちの間では伝説になっている。
ただし、稀に例外もある。
それは、絶対に断られないという自信がある場合。
または――拒まれる未来を覚悟している場合。
フローリアはうつむき、何も返さない。
ガブリエラは椅子の背にもたれ、少しのあいだ天井を仰ぐように視線を上げた。
そしてもう一度、ちゃんとフローリアに向き直る。
「……これは黙ってようと思ったんだけど。どうせいつかは知ることだから、わたしから伝えておくわね」
少し間をおいて、ガブリエラはふう、と小さく息を吐く。
「あなたがくよくよしてる間にね、王都では別の噂が立ってるの。もちろん、あなたのことよ」
「わたしの……?」
やっと顔を上げたフローリアに、ガブリエラは深くうなずいてみせた。
「そう。オルベナント公国の第二公子、コンラート・フォン・オルベナント殿下が『花婿馬車』でリリエンブリュック侯爵家を訪れた、って」
それはただの馬車じゃない。
側面に季節の花が飾られ、御者が礼装で手綱を引くその姿は、オルベナント公国では求婚の証そのものだった。
「えっ……」
驚きのせいか、涙は完全に止まっていた。
フローリアの手の中でくしゃくしゃになっていたハンカチが、はらりと落ちかける。
それを見て取ったガブリエラは、さっと受け止めた。
ひらひらとそのハンカチを振りながら、彼女は閉じられたままのドアに目を向ける。
「もちろん、あなたに求婚したって噂。この店もそれを知ってるから、わたしたちを奥に案内したんだと思うわ。いつものように目立たせたら、噂を聞いた令嬢たちにあっという間に囲まれるものね」
たしかに店内に入ったときから、どこか引っかかるものはあった。
『あなたがいるというだけで、この店にとってはいい宣伝になるものね』
ガブリエラが以前、そんなふうに笑っていたことをフローリアは思い出す。
それを裏付けるみたいに、いつも通されるのは窓際のいちばん明るい席。
だけど、今日はドアのある小部屋。
特別混んでいるわけでもなかったけれど、ガブリエラも何も言わなかったから、そのまま流されてしまっていた。
「でも、殿下は昨日いらっしゃったばかりよ? それに、わたし誰にも言ってないのに、なんで……」
「そんなの、レティシアに決まってるでしょ」
その名前を聞いて、フローリアの顔に納得と諦めとが入り混じる。
レティシア・ベルンハルト。
彼女は大の噂好きで知られる子爵家の令嬢。
彼女の耳に入った話は、翌日には街の果てまで届く。その広まりぶりは「王都新聞」とさえ呼ばれていた。
でも、今回はどうやって知ったのか。
気を遣ってか、あの馬車は人目につかないよう、夜にこっそりと裏口から入ってきた。御者も正装はせず、花だって控えめだったのに。
「あの家のメイドが見ていたらしいわ。その子、オルベナント出身で、馬車を見て気づいたみたいなの。今、この国にいるオルベナントの若い貴族って、コンラート殿下くらいだし」
フローリアの表情から察したのか、シワのよったハンカチを畳みながらガブリエラは説明を足した。
「それに、夜会のときのこともね。王女さまとクラウスさまのことはもちろん、あなたと殿下が楽しそうに話していたって噂も流れてるわ。レティシアは貴族の屋敷を見回ってるっていうもの。本人だけじゃなく、使用人たちまで総出でね」
フローリアはひやりとする。
どうやらレティシア本人だけじゃなく、あの家全体が情報収集の塊らしい。そして婚約許可申請書の件だって、広めているのはおそらく彼女。
出席してない夜会のことをガブリエラがまるで見てきたかのように語れるのも、そのせい。
噂を拾う速さと、街にばら撒く力。それはもはや技巧の域だった。
なるほど、王都新聞の異名を冠するだけのことはある。
「このままだと、あなた、本当にクラウスさまを失うわよ。気持ちを伝える前にね」
戸惑っているフローリアを置き去りに、ガブリエラはどんどん先へ進んでいく。
「え……どうして? わたし、殿下からのお話は断るつもりで……」
「そんなの知ってるわ。……わたしはね」
「でも!」と、ガブリエラはビシッとフローリアに指を突きつけた。
涙の乾きかけた瞳が、その指先を見つめる。
フローリアは、気づかぬうちにドレスをぎゅっと握っていた。
「問題はあなたの意思じゃなくて、周りがどう思うかなの。噂が立ったら最後、誰もそれが本当かなんて気にしないわ。噂が独り歩きして真実になるのが、この貴族の世界でしょ?」
確かに、これは決して悪い話ではないのだろう。
むしろ、傍から見れば、理想的な縁談にすら映るかもしれない。
次男とはいえ、コンラートは君主の血を引く正真正銘の「殿下」。
しかも、穏やかで知的な雰囲気が、先日の夜会でも令嬢たちの注目を攫っていた。
少しでも家の格を上げたい、より良い縁談を得たいと願う令嬢たちにとって、彼のように魅力的な「物件」は、そうそう現れない。
だからこそ、この話を断るはずがないと周囲が思うのも、外野であるガブリエラには簡単に予想できた。
「どうする? もしクラウスさまから『婚約おめでとう』なんて言われたら。あなた、絶対立ち直れないでしょ?」
ガブリエラに言われて想像してみる。
頭のなかに、クラウスが花束を持ってお祝いを言いにくる姿がやたらと鮮明に浮かんだ。
すでに胸が痛い。そこで止めておけばいいものを、フローリアの頭はその先を思い浮かべてしまった。
笑顔の彼の横に立つ、あの王女の姿までを。
フローリアは、壊れたぜんまい仕掛けのおもちゃみたいにぶるぶると首を振り、その想像を吹き飛ばす。
「だめよ、そんなの絶対だめ!」
そして、がばっと音がしそうなくらい、勢いよくガブリエラの肩を掴んだ。
「ガブリエラ。わたし、クラウスに伝えたい……!」
ガブリエラはにっこりと笑い、フローリアの腕をぽんぽんと叩く。
「よくぞ言ったわ。あとはわたしに任せなさい!」




