第7話:血の契約
フィクスの提案に対し、俺は何を差し出せばいいのか考えを巡らせた。
金は持っていない。いや、そもそもこの世界の通貨すら知らない。となると、俺が持っている唯一の異物……スマホか? しかし、電気すら存在しないこの世界でスマホはほぼ無価値だろう。部品として何かに使えるのかもしれないが、交渉の材料になるとは思えない。
考えが行き詰まったその時、ある考えが頭をよぎった。
エルを見捨てれば、俺は自由になれる。
そうすれば、無理にフィクスと交渉する必要もないし、リスクを負わずに済むかもしれない。エルを置いていけば、男の戸籍をもらって一人で生きていくことも可能だろう。
……その考えが過った瞬間、目の前のエルの小さな肩が震えた。
彼女は何も言わない。ただ、静かにうつむき、涙をこらえているのがわかった。
俺がどんな考えを巡らせているのか、彼女には見透かされていたのだろう。それでも、彼女は俺にすがることもせず、泣き出すこともせず、ただ耐えている。
——違う。
俺は歯を食いしばる。
エルを見捨てたら、確かに俺は自由を手にすることができるかもしれない。だが、それは本当に自由なのか? 俺はそんな選択をしてまで、この世界で生きていく価値があるのか?
俺の胸にある怒りや悔しさ、そして守るべきもの。すべてを無視してまで、俺はただの逃亡者になりたくない。
俺がこの世界で生きるために差し出せるものは、自由——
いや、俺自身だ。
俺はエルではなく、自分の自由を差し出すことに決めた。
「俺の自由をくれてやる」
静かに、だがはっきりとした声でそう告げる。
フィクスは一瞬、驚いたような表情を見せた。
「……なるほど。自由を得るために自由を捨てる。そんな馬鹿げた話は初めて聞いたな」
彼はクツクツと笑う。
「だが、面白い。いいだろう、その取引を受けよう」
そう言うと、フィクスは俺を試すようにじっと見つめる。
「だがな、もしお前がそのガキを見捨てるような人間だったら、この取引自体成立しなかったぞ」
「……どういう意味だ?」
「簡単な話だ。保身に走るような人間なら、信用するに値しないってことさ。そんな奴に戸籍なんて渡しても、いずれ裏切られるだけだからな」
その言葉を聞いて、俺は無意識に拳を握った。
俺はそんな人間じゃない。少なくとも、そう信じたい。
「さあ、これで契約成立だ」
フィクスはそう言って俺の前に手を差し出した。
俺はその手を見つめ、一瞬、握手を求められているのかと考えた。
だが、次の瞬間——
鋭い痛みが走る。
「——ッ!」
俺の手の甲に、フィクスの持つナイフが深々と突き立てられていた。
鮮血が溢れ、鋭い痛みが脳を揺さぶる。突然のことに思考が追いつかず、俺は息を呑んだ。
「痛えだろ? だが、これが契約ってもんだ」
フィクスは笑いながらナイフを抜き取る。
抜かれた瞬間、さらに激しい痛みが襲い、俺は膝をつきそうになった。
「……何のつもりだ?」
苦痛に顔を歪めながら問いかける。
「信頼ってのは、口先だけじゃ成り立たない。だから、形として刻みつけるのさ。お前が本気かどうかを試すためにもな」
フィクスはそう言うと、懐から布を取り出し、俺の手に押し当てる。
「ま、血を流したんだから少しは信用してやるよ。これで、お前の覚悟は受け取った」
俺は乱れた息を整えながら、フィクスを睨んだ。
この男は信用できるのか、それとも——
だが、もう後戻りはできない。
「……これで、俺とエルの戸籍をくれるんだな?」
「ああ。約束は守るさ」
フィクスはニヤリと笑い、立ち上がった。
「さあ、取引成立だ。これからお前たちは新しい人生を手に入れる……もっとも、それがどんなものになるかは、お前次第だがな」
フィクスの言葉を聞きながら、俺は傷口を押さえ、深く息をついた。
俺たちは本当に、この世界で生きていくことができるのだろうか。
そして、この取引の先に待っているものとは——
俺は不安と痛みを抱えながら、エルの方を振り返った。
彼女は涙をこらえながら、静かに頷いた。
もう、迷いはない。