第70話:旅は道連れ③
温泉に浸かりながら、ふと気づいた。
――この世界に来てから、裸の付き合いをするのは初めてだ。
日本にいた頃は、大学時代の友人と温泉旅行に行ったり、仕事仲間と飲んだ帰りに銭湯に立ち寄ったりすることはあった。だが、この世界ではそんな余裕はなかった。
生きるのに必死で、戦いに巻き込まれ、理不尽な現実を突きつけられる日々――。
「おい、何しんみりしてんだ」
突然、フィクスが湯の中から声をかけてきた。
「いや……この世界でこうして風呂に入るのは初めてだなって思ってさ」
「ハッ、それだけか?」
フィクスは湯船の縁に腕を乗せ、肩をすくめた。
ふと周りを見渡すと、フィクス、シグルド、双子……彼らの身体には無数の傷が刻まれていた。
フィクスの右目に走る火傷跡、シグルドの腹部の古い切り傷、アークとザークの腕や足に散らばる痣。どれも戦いや生き抜くための証のようだった。
「どうした? 俺たちの体が珍しいか?」
フィクスがニヤリと笑った。
「いや……」
「お前はまだ綺麗なもんだ」
俺は反論しようとしたが、確かに目立った傷は少ない。戦いの中で負った傷は回復しているし、深い傷を負う前に危険を回避してきた。
「まあ、これから増えるさ」
「縁起でもねぇこと言うなよ……」
「ハッハッハ!」
フィクスは豪快に笑い、湯に浸かった。
温泉を堪能した俺たちは、宿の食堂へ向かった。
旅館の大広間には大きな座敷が用意されており、俺たちはそこで食事をとることになった。料理は海鮮尽くしの和食で、エルは目を輝かせていた。
「すごい……! こんな料理、はじめて……」
「気に入ったか?」
フィクスが楽しげに尋ねると、エルは大きく頷いた。
「うん! すごくおいしい!」
ノンは落ち着いた表情で食事をとっていたが、エルの無邪気な様子に少し微笑んでいた。どうやらノンとエルは風呂ですっかり打ち解けられたようだ。
「ノン、これもおいしい……!」
「よかったですね」
ノンはエルに優しく返しながら、小さく微笑んだ。
そんな二人の様子を見て、俺も思わず微笑ましくなる。
だが――
「いやぁ、いつ来てもここの宿の料理は最高だなぁ!」
突然、大きな声が響いた。
俺たちの隣の席に、一人の男が座り、料理を食べながらわざとらしく感想を述べていた。
「この出汁の風味、絶品だ! 素晴らしい、いやぁ、本当に素晴らしい!」
「……うるさいな」
俺は思わず眉をひそめた。周囲に聞かせるような大声だった。
だが、フィクスはそんな男を見てニヤリと笑った。
「やっと来たか」
「……知り合いか?」
俺が問うと、男は俺たちに視線を向け、ニヤリと笑った。
「おや、フィクス。久しぶりだな」
「お前の部屋に対価は置いておいた。確認しろよ」
そう言うと、男はまた料理を褒め始めた。
俺は状況がまったく飲み込めないまま、フィクスの隣で適当に相槌を打つしかなかった。
食事を終え、部屋へ戻るとエルは満足げな様子で布団に入り、すぐに寝息を立て始めた。
「楽しかったんだな……」
エルの寝顔を見ながら、俺はふとため息をついた。
だが、どうにも寝付けない。旅行気分が抜けないのか、それとも昼間の出来事が頭をよぎるのか……。
「……風呂でも行くか」
俺は軽く羽織を身に着け、静かに部屋を出た。
深夜の温泉は貸し切り状態だった。湯船に体を沈め、静かに目を閉じる。
「はぁ……」
肩の力が抜ける。ここ最近、緊張続きだったこともあり、ようやく落ち着いた時間を過ごせる気がした。
だが――
「おや、こんな時間に風呂とは奇遇だな」
俺の横に、誰かが入ってきた。
昼間の食堂で騒いでいた、あの男だった。
「……あんたか」
「驚いたか?」
男は湯に浸かりながら、俺の横に座ると不敵に笑う。
「……俺に何か用か?」
「いや、こっちが聞きたいよ。モラルが言っていたのはお前か?」
俺は思わず眉をひそめた。
「モラル………ヴィクトールが?」
「そうさ。あいつが久々に興味を示した人間がいると聞いててね。」
そう言うと、男は右腕を湯から出し、自分のマナを光らせた。
――緑色に輝くマナ。
「まさか……」
俺が戦慄していると、男はニヤリと笑いながら口を開いた。
「名乗るのが遅れたな。俺はヴィクトール・ドラド」
その名前を聞いた瞬間、俺の心臓が跳ねた。
――ヴィクトールが知る緑のマナを持つ人間。
俺は信じられない思いで、目の前の男を見つめるしかなかった。