第67話:どっちつかず⑤
ヴィクトールの屋敷を後にし、夜の街を歩く。
昼間と違い、街は静かだった。通りに並ぶ光がぼんやりと足元を照らし、遠くから楽しげな談笑が聞こえる。ここには、貧民街のような荒んだ空気はない。
ただ、人々の賑やかさの裏にあるもの、さらにその裏に存在していた事実を知ってしまった今、素直にこの光景を平和だとは思えなかった。
エルが隣で、俺の袖をぎゅっと握る。
「ユウマ……難しい話、いっぱいだったね……」
「ああ……」
俺は深く息を吐いた。
ヴィクトールの理想、フィクスの現実。どちらが正しいのか、どちらが間違っているのか──そんな単純な問題ではないことは分かっている。
「……俺はまだ、考えられそうにない」
正直にそう漏らすと、エルは小さく首を傾げた。
「ユウマ、考えなくていいの?」
「……いや、考えたい。でも、俺はどっちも知ったばかりで、まだ決められないんだ」
俺は足を止め、夜空を見上げた。
「ヴィクトールは現実を知った上で理想を掲げてる。フィクスは理想を打ち砕かれて、現実を生きるようになった……」
俺にはどちらも正しいように思えた。そして、どちらも恐ろしく思えた。
エルはそんな俺をじっと見つめ、少しだけ考え込んでから、言葉を紡ぐ。
「……ユウマ。わたし、一緒に考えたい」
俺は驚いてエルを見た。
彼女はいつものように無垢な瞳で俺を見つめていたが、どこか不安げでもあった。
「ユウマがどっちかを選べないなら、わたしも一緒に考える。だって……ユウマ、一人で悩んでる顔してた」
俺は思わず息を呑んだ。
エルは俺の顔をしばらくじっと見つめた後、ぎゅっと袖を引く。
「ユウマ、難しいことはわからないけど……ユウマが困ってるなら、力になりたいの」
「……エル」
俺は、ふっと力を抜いた。
「……ありがとう。でも、俺はまだどっちつかずだ」
「それでもいいよ。ユウマと一緒に考えられるなら、それでいい」
エルはにこっと笑い、俺の袖を握る手に力を込めた。
俺は、その温もりに少しだけ安堵しながら、ゆっくりと歩き出した。
一方、その頃。
ヴィクトールは自室に戻り、机の上に積まれた資料に目を落としていた。
ユウマに話したことは、すべて事実だ。しかし、話していないこともある。いや……話すべきではないことも。
無造作に積まれた報告書の中から、一番新しいものを手に取る。
そこには、ユウマが異世界から来る前に使っていたアパートの元の住人についての調査結果が記されていた。
『トレス・メモリ』
その名前を見た瞬間、ヴィクトールの呼吸が止まる。
同時に、報告書の隅に添付された写真を見たヴィクトールの手が微かに震えた。
──そこに写っていたのは、30年前に目覚めたとき、とっくの昔に死んだはずの男だった。
ヴィクトールの親友だった男。
「……そんな、馬鹿な」
呆然と呟く。
信じられない。信じたくない。
メモリが生きていた?
そんなはずはない。
ヴィクトールが目覚めた時、メモリはとうの昔に死んでいた。いや、死んだはずだった。
そのはずなのに──
「どういうことだ……」
手の震えを抑えながら、報告書に視線を戻す。
内容を確認すると、トレス・メモリは確かにあのアパートに住んでいたらしい。
しかし、戸籍の記録には彼の名前は存在していない。
彼がいつからそこに住んでいたのか、なぜ戸籍がないのか、まるで霧の中だった。
「……メモリ、お前は……?」
ヴィクトールは小さく息を呑み、深く考え込む。
もしメモリが本当に生きていたのだとしたら、なぜ自分に会いに来てくれなかったのか?
自分と同じように緑のマナを持つにいたり生きながらえていたのか?
ユウマの身に何が起こったのかも気になるが、今はそれどころではなかった。
これは偶然ではない。
メモリがユウマの元いた世界に行ったのなら──
「……くそっ」
ヴィクトールは髪をぐしゃりと掻きむしる。
嫌な予感がする。いや、最悪の可能性が頭をよぎる。
ユウマがこの世界に来たこと、それが本当に偶然の産物なのか?
誰かが仕組んだものではないのか?
もし、悪意ある人間が知ったらどうなる?
間違いなく、ユウマは利用される。
ユウマが持つ「異世界の情報」は、今のこの世界では何よりも貴重なものだ。
その情報を欲しがる人間は、数え切れないほどいる。
……だが、それ以上に。
「メモリが、ユウマの世界にいるなら……」
ヴィクトールは言葉を詰まらせた。
長い付き合いだった。
親友と呼べる唯一の存在だった。
しかし──
ヴィクトールは最後に見たメモリの顔を思い出す。
──血だらけの手。
──薄く笑う口元。
──「じゃあな、モラル」
信じたくない。
けれど、もしメモリが関わっているならば、ユウマがこの世界に来たことは偶然ではないかもしれない。
「……お前、何をしてるんだよ」
ヴィクトールは眉をひそめ、報告書を握りしめる。
やがて、意を決したように立ち上がり、部屋の隅に置いてあった燭台に火を灯す。
そして──
報告書を、その炎に投げ込んだ。
紙が焦げ、火はすぐに広がる。
メモリの写真は、炎に包まれながら徐々に焼け落ちていく。
ヴィクトールは黙って、その光景を見つめていた。
これ以上、誰にも知られないように。
ユウマたちが、ほかの緑のマナの持ち主と出会わないことを祈りながら。
──そして、ヴィクトールは一人、静かに目を閉じた。