第66話:どっちつかず④
ヴィクトールはワイングラスを軽く回しながら、静かに語り始めた。
「フィクスを初めて見たのは、俺が目覚めた時期だった。……あいつがまだ、今よりずっと若かった頃の話だ」
ユウマとエルは息をのんだ。ヴィクトールの言葉には、どこか懐かしさとわずかな哀愁が滲んでいた。
「目覚めたばかりの俺は……そうだな。正直、すべてに絶望していた」
ヴィクトールは窓の外を眺め、夜の街の明かりをぼんやりと見つめる。
「目が覚めた時、世界はすっかり変わっていた。かつての仲間もいなければ、俺たちが築こうとした社会もどこにもない。ただ、人々は緑のマナを持つ俺を見てひれ伏し、敬った。それが……たまらなく、惨めだった」
その時のことを思い出したのか、ヴィクトールは小さくため息をついた。
「そんな中で、俺は街や貧民街を歩き回った。ただ、自分が生きていた証を探すみたいにな……。そこで出会ったのがフィクスだった」
「フィクスが……?」
「そうだ。当時のフィクスは、まるで今のユウマみたいだったよ」
ヴィクトールはユウマに視線を向け、ふっと微笑む。
「貧民街で仲間たちを鼓舞し、反乱を起こそうとしていた。理想を掲げて……今の社会をひっくり返そうとしていたんだ」
その言葉にユウマは驚いた。今のフィクスからは想像もできない姿だった。
「俺はそんな彼を、ただ遠くで傍観者として見ていた。今の俺みたいにな」
ヴィクトールは自嘲気味に笑い、ワインをひと口飲んだ。
「フィクスは熱かった。俺のように、長い年月を経て冷めてしまう前の人間だった。だが……世の中は甘くない」
ヴィクトールの口調が、少しだけ重くなる。
「数か月後、貧民街で大規模な火災があった。おそらく……いや、間違いなく、あの反乱を抑え込むための弾圧だったんだろうな」
ユウマとエルは黙って話を聞き続けた。
「翌日、貧民街の焼け跡を歩いた。焦げた匂いと、黒くなった瓦礫が散らばる中……俺は、そこに倒れ込んでいるフィクスを見つけた」
「……!」
ヴィクトールはゆっくりと、右目のあたりを指でなぞるような仕草をした。
「右目を焼かれてな。全身ボロボロだった。あの時のフィクスは、今のお前と同じように……いや、お前以上に、何もかもを失っていた」
ユウマの背筋が寒くなった。
「理想を追い求めた結果、何も得られず、むしろすべてを奪われた。そんな状態で、フィクスはうずくまっていた」
その時のことを思い出すように、ヴィクトールはしばらく黙り込む。
「……俺は何も言えなかったよ。あの時の俺は、まだ自分の中に残る感情に気づいてすらいなかった。ただ、そこにいた青年があまりにもかつての自分と重なって、言葉をかけられなかったんだ」
ヴィクトールの言葉には、今もなおフィクスに対する複雑な感情が残っているように感じた。
「それから……フィクスは変わった。今のユウマたちが知るフィクスになった。理想を語らず、現実を受け入れ、ただ自分と周りの人間だけを守るために生きるようになった」
ユウマはただ、言葉を失っていた。
あのフィクスが、かつては理想を掲げていた。
だが、それを打ち砕かれ、今のような人間になった。
そのことが、ユウマの胸を強く締め付ける。
「……今日はこれくらいにしよう」
ヴィクトールは静かにグラスを置き、ユウマを見た。
「すぐに答えを出せとは言わない。だが……前向きに考えて欲しい。俺は君を頼りにしている」
ユウマはしばらく考え込んだ末に、小さく頷いた。
「……わかった」
エルは不安そうにユウマを見つめていたが、何も言わなかった。
その後、その場は解散になりヴィクトールは二人を玄関まで見送ると、最後にユウマの肩に手を置いた。
「お前は……まだ迷っているな」
「……ああ」
ユウマは正直に答えた。
「わからないんだ。ヴィクトールの理想も、フィクスの現実も……どちらが正しいのか」
「それでいい。たくさん迷って、考えるんだ。そして……自分で決めるんだ」
ヴィクトールは穏やかに微笑んだ。
「いつか……どんな結果であれ君が出す答えを、俺は楽しみにしているよ」
ユウマはその言葉を噛み締めながら、エルと共に帰路についた。
その夜――
ヴィクトールは自室に戻ると、ゆっくりと寝室へ向かった。
そこには、一人の老婆が眠っていた。
顔はしわだらけで、髪も白く、まるで今にも息を引き取りそうな儚さがあった。
だが、その表情はどこか穏やかだった。
「……今日は、昔のことをたくさん話せたよ」
ヴィクトールはそう言いながら、老婆の手をそっと握る。
「お父さん……」
か細い声で、老婆はヴィクトールをそう呼んだ。
ヴィクトールは静かに微笑み、彼女の手に自らのマナをゆっくりと流し込む。
マナを譲渡する条件は、愛し合った者同士でなければならない。
それをユウマとエルに話さなかったのは、まだ知らなくていいことだからだ。
「もう少し……もう少しだけ、一緒にいよう」
ヴィクトールの言葉に、老婆は涙を浮かべながら微笑んだ。
ヴィクトールはただ、その手を握り続ける。
静かな夜が、二人を包んでいた。