第62話:世界のこと⑥
朝が来た。
ぼんやりと目を開けると、天井が揺らいで見えた。
――そうか。俺は、昨日……
身体がだるい。頭が重い。喉がひどく渇いている。
泣き疲れて眠ったせいだろう。
「……ん」
身じろぎしようとすると、腕に温かい感触があった。
そっと横を見ると、エルが俺の腕を抱え込むようにして、俺の隣で眠っていた。
エルの小さな手が俺の袖をぎゅっと掴んでいる。
まるで、俺がどこかに行ってしまわないように――
「……エル」
呼びかけると、エルはゆっくりと目を開いた。
「……ユウマ」
エルは俺の顔を見ると、小さく安堵の息をついた。
「おはよう……」
「おはよう」
エルは、俺の腕を握る手をゆっくりと離した。
「あのね、昨日……ユウマ、すごく泣いてた」
「……ああ」
「すごく、すごく悲しそうだった」
俺は何も言えなかった。
エルはそんな俺をじっと見つめ、そっと手を伸ばして俺の頬に触れた。
「ユウマ、つらいことがあったなら、ちゃんと話してほしい……」
「……エル」
「わたし、ユウマに助けてもらった。だから、今度はわたしがユウマを支えたい」
エルの言葉に、胸が熱くなった。
俺がこの世界で守ると決めた少女。
まだ幼いはずなのに、俺よりずっと強くて優しい。
「……ありがとう」
俺はそう言って、エルの頭を優しく撫でた。
エルはくすぐったそうに目を細めた。
朝食の準備をしながら、エルがぽつりと聞いてきた。
「ねぇ、ユウマ……元いた世界って、どんなところなの?」
俺は手を止めた。
「俺の世界……か」
エルは俺の顔を覗き込むようにして、興味津々な表情をしている。
「うん、聞いてみたくて」
「そうだな……」
俺はフライパンの火を弱めながら、ゆっくりと考えた。
「俺の世界は……この世界にすごく似てるよ」
「似てる?」
「建物も、道も、服も。車が走ってるし、食べ物もたくさんある」
「じゃあ、ユウマの世界にも、マナがあるの?」
エルの純粋な質問に、俺は少し笑った。
「いや、マナはない。でも、その代わりに"電気"が、それがエネルギーとして使われてる」
「街中に電気が流れていて、それを使って光をつけたり、動く箱――電車とか車を動かしてる」
「へぇ……!」
エルの目がキラキラと輝く。
「ユウマの世界、すごいね!」
「まぁ、そういう意味では便利かもしれないな」
俺は肩をすくめた。
「でも、悪いところもある」
「悪いところ?」
「……たとえば、貧しい人がいること。仕事をしないと生きていけないこと。そして……」
俺はふと、ヴィクトールの言葉を思い出した。
"人間は、どうしても下を見つけると安心してしまう生き物"
それは、俺のいた世界でも同じだった。
この世界ほど露骨ではなくても、貧富の差はある。
差別もある。理不尽もある。
「……結局、俺の世界も、この世界とそんなに変わらないのかもな」
苦笑しながらそう言うと、エルは少し考え込むように眉を寄せた。
「ユウマは……元の世界に、帰りたい?」
エルの言葉に、俺は息をのんだ。
「……」
「……ユウマ、帰っちゃうの?」
エルは寂しそうに俯いた。
俺はエルの肩にそっと手を置いた。
「エル」
「……なに?」
「俺は、どうなってもエルと一緒にいるよ」
エルははっと顔を上げた。
「たとえ、元の世界に帰る方法があったとしても、エルを置いて行ったりしない」
「……ほんと?」
「本当だ」
俺は真剣な目でエルを見つめた。
エルはしばらく俺の目を見つめ返していたが、やがて、ぱっと笑顔を咲かせた。
「……よかった!」
「……?」
「ユウマが帰っちゃうの、すごく嫌だったから……!」
エルはぱっと俺に抱きついた。
「ユウマとずっと一緒がいい!」
「……はは、そうか」
俺はエルの小さな体をそっと抱き返した。
こんな世界だけど、俺には守るべきものがある。
それだけは、絶対に変わらない。
「そういえば、エルは昔どこかに行きたい場所とかあったのか?」
俺が聞くと、エルは少し考えてから答えた。
「んー……本物の海が見てみたい!」
「海?」
「うん! 本とかで見たことあるけど、本物は見たことなくて……」
「……なるほどな」
俺は少し考えた。
「今は難しいかもしれないけど……いつか、一緒に行こうな」
「ほんと!?」
「もちろん」
エルは嬉しそうに笑った。
「ユウマとの約束、ぜったいに忘れない!」
俺はその姿を見て、少しだけ心が軽くなった気がした。
その夜、エルは俺の隣で寝たいと言ってきた。
「……まだ怖いのか?」
「ちがう。ユウマがまた、ひとりで泣かないように」
俺は苦笑しながら、エルの髪を軽く撫でた。
「……ありがとな」
「うん!」
こうして俺は、エルの手を握ったまま、静かに目を閉じた。
明日が、少しだけ優しい日でありますように――