第5話:椅子の用意
俺は拳を握りしめ、男を睨みつけた。今にも殴りかかりそうな勢いで。
だが男は動じるどころか、不敵な笑みを浮かべて言った。
「どうした? 殴りたいなら殴ればいい。けどな、お前のその拳が俺に触れた瞬間、マナが作用して警察に通報が行くんだぜ」
俺は歯を食いしばり身動きが取れなくなる。そんなことが起きればここの住人達もただでは済まない。
男は勝ち誇ったように胸を張り、周囲の貧民たちを見下ろした。
「結局、お前らみたいな無戸籍者には何もできやしねぇんだよ。黙って俺たちに従うしかないんだ。まったく……こんなゴミ溜めで泣き叫んでるようなガキにムキになりやがって」
男は足を振り上げ、エルの顔を容赦なく踏みつけた。
「——っ!!」
エルの苦しげな喘ぎ声が聞こえる。彼女の小さな体が震え、涙が地面に滴り落ちる。
その瞬間、俺の視界が真っ赤に染まった。
気づけば、俺は男の顔をめがけて指を突き立てていた。
「ぐあああああっ!!」
男の両目に俺の指が深くめり込む。
目の奥から熱い液体が飛び散り、男は獣のように悲鳴を上げた。
「お……おま……目が……!」
目を押さえてのたうち回る男の上に俺は覆いかぶさり、拳を振り上げる。
「てめぇが……」
振り下ろす。
「何様のつもりだ!!」
拳が男の顔面を捉える。
何度も、何度も。
男の顔が血に染まり、地面に叩きつけられる音が響く。
「いい加減にしなさい! こんなことをしたらどうなるか、わかってるの!?」
突然、街から来た女のほうが絶叫した。
俺は一瞬手を止め、息を荒くしながら顔を上げる。
——その時だった。
「いいや、もうその心配はいらない」
いつの間にか背後に立っていた男の声が響く。
女が驚いて振り返った瞬間、男の手に握られた拳銃が火を吹いた。
パンッ!
乾いた銃声が響き渡り、女の喉に穴が開く。
そのままのけぞるように倒れた彼女の体が、ドサリと地面に沈んだ。
一瞬の静寂。
町民たちは息を呑み、俺もまた、何が起こったのか理解するのに数秒を要した。
それを壊したのは、鎖につながれた人々を助けようと動き出した町民たちだった。
「あいつらを助けるぞ!」
誰かが叫び、それを皮切りに町民たちは一斉に奴隷にされた者たちへ駆け寄る。
俺はハッとして、殴り続けた男を見下ろす。奴は気絶しており、ぴくりとも動かない。
「エル!」
急いでエルに駆け寄る。
彼女は地面に膝をつき、肩を小刻みに震わせていた。俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「だ、大丈夫か?」
エルは唇を震わせながら、かすかに頷いた。
「……うん……」
その答えを聞いて、俺はようやく安堵の息を吐く。
すると、銃を持った男がため息をつきながら俺たちを見下ろしていた。
「お前たち二人、ついてこい」
男の低い声が響く。
俺は警戒しながらも、彼の目を見つめた。そこには、冷酷とも違う、どこか覚悟を決めた人間の眼光があった。
エルの手を取り、俺はゆっくりと立ち上がる。
「……わかった」
男は頷き、俺たちを連れてどこかへと歩き出した。
俺たちは、再び運命の流れに巻き込まれようとしていた。