第44話:自己満足①
ヴィクトールの研究所から戻ると、エルと双子の姿が目に入った。
エルは俺の顔を見ると、少しほっとしたように微笑んだが、俺はそれどころじゃなかった。
「……なあ、ザーク。お前、研究所のこと知ってたのか?」
エルに聞こえないよう、俺はザークとアークに向かって小声で尋ねる。
アークはすぐにエルを気にして視線を落とし、俺の問いにどう答えようかと慎重に考えているようだった。
だが、その隣のザークはまったく空気を読まずに、軽い口調で即答した。
「おう、知ってたぜ? つーか、フィクスの手下なら大体のやつが知ってるんじゃねぇかな」
「は?」
俺の眉間にしわが寄る。
しかし、それよりも先に驚いたのはエルだった。
「研究所……? 何のこと?」
エルが小さくつぶやいた。
しまった、と俺は心の中で舌打ちしたが、もう遅い。
「まあ、あの研究所ってのはな、街の治安を守るために、やらかした連中からマナを回収する場所だよ」
ザークは何のためらいもなく、あっさりと研究所の実態を口にした。
エルの表情がこわばる。
「……それって、つまり……」
「おい、ザーク。少しは考えて話せよ」
アークがさすがにまずいと思ったのか、弟の肩を軽く叩く。
しかし、ザークは悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「別にいいじゃねえか。どうせエルもいつかは知るんだしさ。それに、あそこでマナ抜かれてるのは、大体犯罪者とか、ろくでもねぇやつらばっかだ。気にすることなんかねぇって」
「……」
俺は思わず拳を握った。
「気にすることなんかねぇ……だと?」
「そういうことだよ。だってよ、考えてみろよ? お前も見ただろ? 街の連中が奴隷をどう扱ってるか。あのクソみてぇな現実を見て、まだ『あいつらを助けたい』なんて思えんのかよ?」
ザークの言葉に、俺は口をつぐんだ。
確かに、あの街の住民たちは醜い。
奴隷を痛めつけ、貧民街の人間を見下し、何の罪悪感もなく暴力を振るう。
ヴィクトールが「この街を平和に保つため」と言ってマナを回収しているのも、それなりに理由があるのかもしれない。
でも、だからといって、それを肯定できるわけじゃない。
「……でも、だからって……」
俺が言葉を選んでいると、不意にエルが前に出た。
「……私、マナ……使いたい」
「え?」
エルは、戸惑いながらも真剣な表情で俺たちを見た。
「……街の人を助けるって、ずっと言ってた。だから……私のマナ、使いたい」
その言葉に、俺もザークも、そしてアークですら驚いた顔をした。
「お、おいおい。エル、それってどういう意味だ?」
ザークが目を丸くしながら問いかける。
すると、エルは少し考えた後、急に駆け出した。
そして、近くのスーパーで、両手に抱えきれないほどの食料を買い込んで戻ってきた。
「これ……貧民街に、あげたい」
「……は?」
俺もザークも目を見開いた。
まさか、こんな方法で「助ける」なんて言い出すとは思わなかった。
「お、お前マジか?」
「うん……」
エルは小さく頷いた。
その決意の強さに、俺は何も言えなくなる。
「……あー、もう! こうなったらやるしかねぇか!」
ザークが頭をかきながら笑い、俺もため息をつきながらエルの横に並んだ。
しかし、一人だけ顔を曇らせているやつがいた。
「……おい、エル。ちょっと待て」
アークが不安そうな顔でエルを見つめていた。
「……なんで?」
「……いや……」
アークは言葉を詰まらせた。
でも、エルの決意は揺るがないようだった。
「……大丈夫」
そう言って、エルはまっすぐ貧民街へ向かって歩き出した。
俺たちも、仕方なくその後を追った。
貧民街 - 食料配布後
エルの提案通り、俺たちは貧民街を歩き回りながら食料を配った。
最初は警戒していた住人たちも、エルが「食べて」と小さな声で渡すたびに表情を緩ませ、やがて感謝の言葉を口にする者も出てきた。
「お嬢ちゃん、ありがとうな……」
「久々に腹いっぱい食えそうだ……」
そんな声を聞きながら、エルは小さく微笑んだ。
その姿を見て、俺は言葉を失った。
——たぶん、エルは本当にこういうことがしたかったんだろう。
「……さて、とりあえず配り終えたな」
ザークが大きく伸びをする。
アークはずっと警戒していたが、それでも最後まで付き合ってくれた。
「ちょっと休もうか……」
俺が言うと、ザークがすぐに答えた。
「じゃあ、フィクスのバーに行こうぜ!」
「……お前、何かあるとすぐ酒場に行こうとするな」
俺は呆れながらも、エルを気遣いながらフィクスのバーへと向かった。
貧民街 - フィクスのバー
「……それで、お前らは食料を配り歩いたってわけか」
バーの奥から姿を現したフィクスは、呆れたような顔をしていた。
「……うん」
エルが小さく頷く。
その瞬間——
「ふざけるな」
バーの空気が、一気に張り詰めた。
フィクスが、エルを鋭く睨みつけていた。
「少ない飯でやりくりしている人間に、安易に食事を提供するとどうなるか考えたことはあるか?」
「……え?」
エルが戸惑う。
「お前は良かれと思ってやったんだろうがな、甘いんだよ」
フィクスの声が低くなる。
「今まで飢えを凌ぐために工夫していた奴らが、タダで飯をもらったらどうなると思う? 一度でも『もらえる』と思ったら、もう元の生活には戻れねぇ。次は『奪う』しか選択肢がなくなるんだよ」
「……っ!」
「……それとも、お前は貧民街全員を養えるだけの力でも持ってるのか?」
その言葉に、エルが息をのんだ。
「……そんな、つもりじゃ……」
「そうだろうな。でもな、そんなつもりじゃなくても、現実はそう動くんだよ」
「おい、フィクス。言い過ぎだろ」
俺が間に入ろうとするが、フィクスは微動だにしない。
「いいや、ここで甘やかしたら、こいつはまた同じことをする」
フィクスの目は、いつになく真剣だった。
俺はフィクスの言葉を飲み込むしかなかった。
エルは唇を噛みしめ、目に涙を浮かべながら俯いていた。
この世界の現実の厳しさを、彼女は改めて思い知らされたのかもしれない——。