第3話:人権の算段
夕暮れの街を抜け、俺たちはエルがもともといたという貧民街に向かって歩いていた。
空は徐々に深い紫色に染まり、星がちらほらと見え始めていた。遠くには、地平線に沈みゆく太陽の最後の光が、建物の輪郭を赤く縁取っている。
エルの導きで、俺たちは街の中心部から離れていった。きれいに整備された大通りから脇道へ、そして更に裏通りへと進むにつれ、風景が徐々に変わっていく。美しい建物や明るい店の灯りは少なくなり、暗く狭い路地が増えていった。
舗装もまばらな道を抜けると、そこには今までとはまるで異なる光景が広がっていた。
建物は古びており、壁にはひびが入り、屋根は一部崩れている。かつては立派だったのだろう石造りの建物も、今は崩壊の危機に瀕しているように見える。窓からは色あせたカーテンが風にそよぎ、扉は古い木材で継ぎはぎされていた。
道端にはぼろをまとった人々が座り込み、疲れたような目をしている。子どもたちは痩せこけ、大人たちは疲れ果てていた。それでも、彼らの瞳の奥には、生きる意志の火が灯っていた。
どこからともなく漂う腐臭と、ごみが散乱した光景が、ここがどれほど厳しい環境なのかを物語っていた。空気は重く湿り、苦しさを感じる。
「ここが、私のいた場所……」
エルは小さな声でつぶやいた。彼女の青い瞳には懐かしさと寂しさが混ざっていた。髪の毛が風に揺れ、顔を隠すように垂れていく。
「ここにいる人たちは、みんな何かしらの理由で街での生活ができなくなった人たちなの。戸籍がない人もいれば、あっても仕事を失い、戻る場所をなくした人もいる」
そんな状況を淡々と説明するエルの声には、どこか寂しさが混じっていた。まるで、自分もその一部であることを受け入れてしまったかのような諦めの色が透けて見える。
俺たちが歩を進めると、最初は警戒の目を向けられた。しかし、エルの姿を認めた途端、周囲の雰囲気が一変した。
「帰ってきたんだな!」
突然、数人の住人がエルを見つけて駆け寄ってきた。皆、やつれた顔をしているが、その表情には明らかな安堵の色が浮かんでいる。古びた服を着た老人や、痩せこけた若者、目の大きな子どもたち——様々な年齢の人々が集まってきた。
「無事だったんだな……心配してたんだぞ」
髭面の中年男性が、エルの肩に優しく手を置いた。その手は荒れていたが、仕草は優しい。
「捕まったって聞いたから、もう戻れないかと思ってた」
年老いた女性が、涙ぐみながらエルの手を握る。彼女の手はしわだらけだが、温かい。
口々に声をかける彼らに対し、エルは少し驚いたように目を瞬かせた後、安心したように微笑んだ。頬には淡い紅が差し、体の緊張が少しだけ解けていくのが分かる。
「ごめんなさい。心配かけて……でも、戻ってこられた」
彼女の声には、久しぶりに家に帰ってきたような安堵感が滲んでいた。
そんな様子を見て、俺は少しだけ安心した。この貧民街の人々は、環境こそ厳しいが、決して悪人ばかりではないようだ。むしろ、厳しい環境の中で支え合って生きているのだろう。
「ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
俺はエルを囲んでいた人々に向かって切り出した。手首の金属の輪が光を反射し、時間の制約を思い出させる。
「実は、俺たちは夜までに戸籍を手に入れなきゃならない。何か方法を知ってるか?」
その言葉に、住人たちは顔を見合わせ、苦笑交じりに首を振った。彼らの表情からは、「そんな簡単なことじゃない」という諦めが見て取れた。
「戸籍を手に入れる方法か……まあ、方法自体はある」
一人の痩せた男性が答えた。彼の目は鋭く、世間の厳しさを知り尽くしたような光を宿している。
「でもな、そんな簡単に手に入るもんじゃないさ」
別の住人が続ける。その顔には、何かつらい経験があったのだろう、苦い思い出の痕跡が刻まれていた。
「もしそうなら、俺たちがここで暮らしてるわけがないだろ?」
年配の女性が現実的な視点を示した。その声には、長年の生活の重みが乗っていた。
なるほど、考えてみればその通りだ。もし戸籍が簡単に手に入るなら、彼らはとっくに手に入れているはずだ。
「……業者がいるって話は?」
俺は少し声をひそめて尋ねた。エルから聞いた情報を確認しようとしている。
「いるにはいるが、タダで戸籍がもらえるわけじゃない。大金がいるか, あるいは……」
住人の一人が言いかけて、何か言いづらそうに言葉を濁した。その目には、言葉には出せない何かがあるようだった。
「あるいは?」
俺が問い返すと、住人は口をつぐみ、何かを言いかけてやめた。代わりに、遠くのほうで起きている騒ぎに目を向けた。表情が険しくなり、周囲の人々も同じように視線を向ける。
「なんだ?」
俺も視線を向ける。そこには、場違いなほど高級そうなスーツを着た男女二人が、奴隷と思われる数人を鎖でつなぎながら、怒鳴り散らしていた。
よく見ると、そのスーツはかつては高級品だったのだろうが、今はほつれや汚れが目立っている。男女の顔は疲労と怒りで歪み、明らかに余裕がない様子だ。
「クソッ! なんでこんなところに流れ着かなきゃならないんだ!」
男は拳を握りしめ、虚空を叩くように振り回している。顔は汗で光り、髪は乱れていた。かつては整った容姿だったのだろうが、今は憔悴し切っている。
「おい貧乏人ども! 俺たちはお前らと違って戸籍持ちなんだぞ! お前らは今日から俺たちの言うことを聞け!」
女性も同様に、周囲の住人たちを見下すように命令を下している。彼女のメイクは崩れ、高級だったはずのドレスは裾が泥だらけになっていた。
明らかに冷静さを欠いた様子で、周囲の住人に命令を下そうとするスーツ姿の男女。見るからに上流階級出身のようだが、その服はすでにボロボロで、明らかに長い間まともな手入れがされていない。かつての栄華を象徴するアクセサリーも、今は埃まみれだ。
「なんなんだ、あいつら……」
俺は思わず呟いた。周囲の住人たちの冷ややかな反応と、この騒ぎを起こす男女の間には、明らかな溝があった。
「たまにいるのよ」
物陰に身を潜めながら、エルが小さな声で言った。彼女の指先が俺の袖をつかみ、少し体を寄せてくる。
「街で失敗して、ここに追いやられる人たち……。でも、彼らはここを見下しているから、最初は受け入れられなくて騒ぐの」
エルの目には、何度もこのような光景を見てきたような諦めの色があった。彼女の言葉から、この世界の厳しい現実が垣間見える——豊かな世界と貧しい世界の断絶、そして転落した者の絶望。
その言葉通り、スーツの男女は自分たちの身を省みず、住人たちに命令し続けていた。だが、誰も従う者はいない。むしろ、遠巻きに見ながら冷ややかな目を向けている。子どもたちは隠れ、老人たちは頭を振るだけだ。
「おい! 無戸籍のクズ共め! お前らみたいなゴミに命令される筋合いはない!」
男は顔を真っ赤にして叫び続ける。その声には、自分が転落した現実を受け入れられない怒りと悲しみが混じっている。
「ここの統治者になってやる! いいか、今日から俺の言うことを——」
「はぁ……馬鹿じゃないの?」
住人の一人が呆れたように言った。その声には冷たさではなく、むしろ疲れた諦めがあった。
「統治? こんなところにそんなものがあるとでも?」
別の住人が続ける。その表情には、長年この場所で生き抜いてきた強さが表れていた。
「バカ言ってないで、どうするか考えな。ここで生きていくなら、まずは自分がどの立場なのか理解することね」
年配の女性が優しさの混じった厳しさで言った。彼女の目には、何度もこのような新参者を見てきた経験が宿っていた。
スーツの男は明らかに動揺したが、まだ何かを喚き続けている。その姿は哀れでさえあった——現実を直視できず、過去の栄光にしがみつく姿。
日が完全に落ち、貧民街には闇が広がり始めた。ところどころに灯る小さな明かりが、この場所の生活の厳しさを浮かび上がらせている。
その様子を見ながら、俺はふとあることを思い出した。エルの言葉——戸籍の行方不明者や死亡した人の戸籍を使う——という話。
——戸籍は使いまわしが多い。
「エル……もしかして、俺たちの戸籍ってあの二人から——」
俺は小声でエルに囁いた。周囲に聞かれないよう、できるだけ声を落とす。
エルは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情に変わる。彼女の青い瞳が大きく開かれ、思考を巡らせている様子がうかがえた。
「……うまくやれば、可能かもしれない」
彼女の言葉には、慎重さと可能性が混じっていた。
夜空に星が増え始め、貧民街の上に広がる闇の中で、俺たちは、騒ぎ続けるスーツの男女を見つめながら、次の行動を考え始めた。
手首の金属の輪が、微かに光を放っている。時間は刻々と過ぎていく。
毎日更新がんばります,,,,,,!温かい目で楽しんでいただけたら幸いです