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第2話:エルという少女



「俺たちには家がある。そこに身分証があるはずだから、取りに行かせてくれないか?」


俺はできるだけ冷静に警官へと訴えかけた。声を落ち着かせるのに必死だった。頭の中は混乱したままだが、今はとにかく牢から出る方法を考えなければならない。


警官は腕を組み、鋭い視線でこちらを見つめてくる。その目は、ガラスのように冷たく、すべてを見透かしているようだった。細い目が俺の嘘を見抜こうとしている。制服の襟元には、何か魔法のような紋様が刻まれている。


「家がある……ね。本当か?」


疑いの色が濃い声音。警官の指先が机の上で小刻みに動いている。不信感と面倒くささが入り混じった表情だ。


「ああ。俺たちは記憶をなくしている………かもしれないが、確かに自分の家だと感じる場所がある。そこで身分証明できるものを探したいんだ」


隣で小さく震えている少女を横目に、なんとか交渉を続ける。エルの手は冷たく、震えていた。彼女の肩越しに見える窓の外は、すでに夕暮れの色に染まっている。時間が過ぎるにつれ、奴隷市場に送られる可能性が高まっていくのだろう。


警官はしばらく沈黙した後、小さく息を吐いた。その吐息には、長年の仕事による疲れが混じっているようだった。眉間のしわが緩み、少し諦めたような表情になる。


「わかった。ただし、何もなしに自由にさせるわけにはいかない」


そう言うと、警官は引き出しから小さな金属の輪を取り出した。銀色の金属は妙に光沢があり、よく見ると微細な文様が刻まれている。まるで生きているかのように、内側から淡い光を放っていた。


「これは……?」


不安が胸に広がる。その輪からは何か異質なエネルギーが漂っていた。


「居場所がわかる道具だ。無戸籍者はどこに行くかわからんからな。これを付けてもらう」


警官の言葉に、嫌な予感がする。しかし、今は従うしかない。


俺と少女は、抵抗する間もなく金属の輪を手首にはめられた。まるで手錠のように冷たく、嫌な感触がする。はめられた瞬間、輪が一瞬光り、皮膚に触れる部分がぴったりと収縮した。不思議なことに、痛みはなかったが、どこか不快な感覚が残る。


「いいか、夜までに戻らなかったら、お前たちが逃亡したと見なして追跡する。余計なことを考えないほうがいい」


警官の言葉に背筋が冷える。その目には、嘘をついていることへの諦め半分、仕事をこなす冷静さ半分が浮かんでいた。


だが、これで自由に動けるのなら……。塞がっていた可能性の扉が、少しだけ開いた気がした。


「ありがとう。必ず戻る」


俺はそう言い、少女の手を引いて警察署を後にした。


* * *


街の外に出ると、既に夕方の気配が濃くなっていた。

空は燃えるような茜色に染まり、建物の影が長く伸びている。行き交う人々も、帰路を急ぐように足早に歩いていた。


「名前を聞いてもいいか?」


警察署を出た直後、俺は隣を歩く少女に問いかけた。警察内では名前も聞けず、やっと二人きりになったところだった。


「……エル」


小さな声で答えた少女は、金色の長い髪を持ち、大きな青い瞳が印象的だった。ボロボロの服に身を包み、痩せ細った体は長い間まともな食事を取れていないことを物語っている。膝頭や肘には傷跡や汚れがあり、長い間逃げ回ってきたことが見て取れた。


それでも、どこか気品を感じさせる雰囲気を持っていた。まるで、かつては良い環境で育ったような、上品さが残っている。


「俺は悠馬。よろしくな」


自己紹介しながら、少しだけ微笑みかける。


エルは少しだけ目を丸くした後、小さく頷いた。警察で会った時より、少しだけ表情が和らいでいる。絶望の淵から、わずかに引き戻されたような感覚が伝わってきた。


街の中を歩きながら、俺は周囲の様子を観察した。不思議なことに、建物の構造やデザインは日本とよく似ているが、すべての窓や街灯からは、電気ではなく、あの奇妙な光の粒が灯りとして使われている。人々の服装も現代的だが、どこか異なる雰囲気がある。


「ここが……本当にあなたの家があるの?」


エルが小声で尋ねる。その声には、半信半疑の色が混じっていた。


「ああ。どうにかして見つけられると思う」


建物の特徴や位置関係を記憶を頼りに辿りながら、俺たちは元のアパートを目指した。


夜までの猶予を得て、何度か道に迷いながらも、俺たちは元のアパートに戻ってきた。茶色いレンガ造りの質素な建物は、俺が朝起きた場所と同じように見えた。


「……本当に戻れた」


思わず安堵の息を漏らす。心の中で細々と燃えていた希望の灯火が、少しだけ大きくなった気がした。


エルはまだ怯えた様子で、俺の服の裾を握りしめている。その手は小さく、冷たかった。


「ここが……あなたの家?」


不思議そうに見上げるエルの目には、怯えと同時に、かすかな好奇心も浮かんでいた。


「正確には、俺がいた部屋にそっくりな異世界の家、って感じだな」


俺はドアを開け、中へと足を踏み入れた。朝見たままの景色——シンプルな家具、壁に掛けられた見知らぬ絵、窓から差し込む街の光景。すべてが自分の知らない世界の一部なのに、どこか懐かしさを感じる不思議な感覚。


ほとんど俺の知るアパートのままのはずなのに、どこか違う。まるで自分の部屋のレプリカのようで、微妙に位置がずれていたり、色が違っていたりする。


何より——


「電気がつかない……?」


スイッチを押しても、部屋の電気は点灯しない。部屋の隅には例の光の粒が浮かんでいるが、それは朝からずっとあったもので、新たに点灯したわけではない。


冷蔵庫も無反応、コンセントも機能していない。キッチンの蛇口をひねると水は出るが、お湯は出ない。ストーブらしき器具もあるが、点火方法がわからない。


俺が困惑していると、エルが小さな声で言った。


「あ、あの……電気って何?」


「は?」


思わず聞き返す。彼女の言葉があまりにも予想外だったからだ。


「この世界に、電気……というものはないの」


エルの目は真剣だった。彼女にとっては当たり前のことを話しているのだろう。


「じゃあ、この天井の光源は?」


俺は天井に浮かぶ光の粒を指差した。朝から気になっていた不思議な現象だ。


「それは……マナの灯り」


エルは少し臆病そうに顔を上げ、答えた。まるで、基本的なことを知らない俺に対して、失礼にならないよう気を遣っているようだった。


「マナは……この世界のエネルギー。戸籍を持っている人はみんな少しずつ持っているものなの。でも、無戸籍者には……ない」


エルの言葉は、この世界の根本的な仕組みを示していた。彼女の青い瞳には、知識を共有する真剣さと、俺の反応を恐れる不安が混在している。


衝撃だった。


つまり、俺がこの世界の人間として認められていないから、電気……いや、マナが使えないということか。


「マナがなければ……このままじゃ、生活すらできないってことか」


俺は額を押さえながらため息をついた。窓の外を見ると、街は夕暮れの光に包まれ始めていた。時間が刻々と過ぎていく。


「戸籍を持たない人は、街での生活が難しいの」


エルが寂しげに呟く。その声には、長い間この現実と向き合ってきた諦めが混じっていた。


「じゃあ、どうやったら戸籍を手に入れられるんだ?」


その問いに、エルは困ったような顔をした。彼女の表情が曇り、目線が俯いた。


「基本的に……戸籍は、生まれたときに持っている人と、持たない人が決まってるの」


エルの言葉には、絶望的な現実が含まれていた。


「じゃあ、俺は一生無戸籍ってことか?」


胸に広がる焦燥感。このまま社会から弾き出されたままの人生を送るのか。奴隷として売られる運命を避けられないのか。


「……例外もある」


エルは少し言いにくそうにしながら続けた。その目は警戒と希望が入り混じったような複雑な色を宿していた。


「亡くなった人や、行方不明になった人の戸籍を……他の人が使うこともあるの」


「そんなことが可能なのか?」


俺の声には驚きが混じっていた。エルは小さく肩をすくめた。


「非合法だけど……それをあっせんするひとがいたの」


その言葉には、彼女自身の経験が隠されているのかもしれない。エルはそれ以上は語らなかったが、何か思い出したくない記憶があるようだった。


俺は考え込む。


警官に尋問されたとき、エルとの関係を聞かれた。


俺は「記憶がない状態で最初に一緒にいた子だった。その後、はぐれてしまい、気づいたら再会していた」と説明した。警官は納得していない様子だったが、それ以上追及することはなかった。


窓の外では、すでに街灯が輝き始めている。手首の金属の輪が、ふと冷たさを増したような気がした。時間が迫っている。


警察の手を逃れ、この世界で生き延びるには、戸籍を手に入れるしかない。たとえそれが危険な道だとしても。


「……その業者を探そう」


俺の言葉に、エルは少し驚いた顔をした。大きな青い瞳が、俺をじっと見つめる。


「怖くないの?」


彼女の声には、不思議そうな響きがあった。彼女にとって、無戸籍者の世界は危険と絶望に満ちたものだったのだろう。


「怖いさ。でも、このまま捕まったら終わりだろ?」


俺は笑顔を作って答えた。本当は不安で胸がいっぱいだったが、それを見せるわけにはいかなかった。


エルは少し迷った後、小さく頷いた。その目には決意の色が浮かんでいた。


「わかった。私も……協力する」


彼女の声は小さいながらも、強い意志が感じられた。


部屋を後にする前に、俺は急いで使えそうなものをポケットに詰め込んだ。少しだけあった現金と、見知らぬデザインの鍵、そして、メモに書かれた謎の地図のようなもの。


こうして俺たちは、戸籍を手に入れるために動き出した。


夕暮れの街に溶け込むように、二人の姿が伸びる影に紛れていく。この異世界での、本当の冒険がここから始まろうとしていた。

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