第15話:当たり前の日常
店の異様な光景に、俺は絶句したまま立ち尽くしていた。先ほどまで穏やかに談笑していた客たちは、まるで獲物を前にした獣のような目をして、倒れた店員を見下ろしている。その場の空気が凍りつく中、奥の厨房から場違いなほど陽気な声が響いた。
「おっと、まいったなあ。お客様にご迷惑をおかけしてしまったようで」
姿を現したのは、よれよれのエプロンをつけた中年の男だった。小太りで汗臭さが漂ってきそうな風貌をしている。男は俺たちの方へとゆっくり歩み寄りながら、へらへらと愛想笑いを浮かべていた。
「いやあ、すまないねぇ。うちの奴隷が粗相をしたみたいで……お詫びといっちゃなんだが、どうか許してくれよ」
そう言いながら、男は倒れていた店員の髪を乱暴につかみ、無理やり引きずり上げた。店員の顔はすでに青ざめ、涙と汗が混じり合った顔を必死に伏せている。
「さぁ、お客様にきちんと誠意を伝えるんだ。なぁに、これもお前の仕事のうちだろ?」
その言葉に店員は震えた声で「申し訳ありません……」と何度も繰り返した。だが、周囲の客はその様子を見て笑い出し、誰かが店員の背中を蹴り飛ばした。
「謝るだけか? もっと誠意を見せろよ」
嘲笑と罵声が飛び交う中、男は「お詫びに、どうだい?」とまるで見世物でもするように店員を客たちの前に放り投げた。
その瞬間、客たちはまるで待っていたかのように、一斉に店員を踏みつけたり、蹴り飛ばしたりし始めた。店員は悲鳴すら上げられないほど弱り切っていたが、それでもなお、震える声で謝罪を続けていた。
俺はその光景を直視することができなかった。冷たい汗が背中を伝い、息苦しさを覚える。エルは震える手で俺の袖を握りしめていた。
「……行くぞ」
エルの手を引き、ドリンク代として机に多めの現金を置くと、店を飛び出した。
街の路地裏へと駆け込むと、ようやく喧騒が遠ざかった。エルは震えながら俺の腕を掴んだまま、涙を浮かべていた。そんな彼女の様子を見て、必死に謝罪した。
「ごめん……本当に、ごめん……。あんな光景を見せるつもりはなかった」
エルはしばらく肩を震わせた後、弱々しい声で言った。
「……あれが、普通なの」
エルはかつての生活を思い出すように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「私がまだ街で生活していた頃……食べ物を探すために出てきても、ああやって誰かが罰を受けるのを何度も見ていた……。だから、できるだけ見ないようにしてた。でも……今日は……」
俺は言葉を詰まらせるエルの手を、遮るように強く握りしめた。
「お前、俺と一緒に来るの、嫌だったんだろ?」
その言葉に、エルは小さく頷く。
「でも、断ったら……嫌われるかもしれないって思って……」
俺はそれを聞いて、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。こんなにも不安を抱えていたのに、彼女はそれを言葉にできなかった。自分がどれだけ無神経だったかを痛感する。
「エル、これだけは約束する。俺は絶対にお前を捨てたりしない。……信じてくれ」
エルは少しの間、俺の言葉をかみしめるように沈黙した。そして、そっと目元を拭いながら、小さく頷いた。
そのまま二人は家へと戻ったが、エルは帰宅途中も、帰宅後も、俺の腕を決して離さなかった。彼女の不安が完全に消えたわけではないのだろう。一方で、俺はそんな彼女を優しく抱きしめることもできなかった。
ベッドに横になったエルは、疲れ果てたのか、すぐに静かな寝息を立て始めた。その寝顔を見つめながら、俺は今日一日の出来事を振り返る。
街の状況は想像以上に歪んでいた。マナが通貨の代わりとなるこの世界では、労働は不要なはずだった。しかし、奴隷として働く人間が存在する以上、それは単なる幻想でしかなかった。
「……働く、なんて考えた俺が馬鹿だったな」
今日の出来事を踏まえれば、この世界で普通に働くことなどありえないと痛感する。マナがある者は働く必要がなく、マナがない者は働かざるを得ない。そういう構造が当たり前になっている。
今後、自分たちがどう生きていくのか。その問いの答えはまだ見えない。ただ、ひとつだけ分かったことがある。
「……絶対にエルを、あんな目には遭わせない」
それだけは、何があっても貫こうと心に誓いながら、右手を強く握りしめた。