第10話:異世界初日の幕引き
夜の帳が降り始めた街を、俺とエルは全速力で駆け抜けていた。
「……っ、エル、大丈夫か?」
隣を走るエルは、小柄な身体に見合わないスピードで俺にしっかりついてくる。
「私は平気。……でも、あなたの方が心配。腕は痛くない?」
「気にする余裕もないくらいだよ」
正直、腕の痛みはまだ残っているが、今はそれどころじゃない。俺たちには夜までに警察署へ戻らなければならないという義務がある。遅れればどうなるかわからないし、変に目をつけられるのも厄介だ。
ようやく警察署が見えてきた。建物の前には、俺たちをここに連行した警察官が仁王立ちして待ち構えていた。俺たちが駆け寄ると、その男は何の感情も込められていない目で俺たちを見つめ、静かに言った。
「身分証を」
俺とエルはフィクスから受け取った身分証を差し出す。俺の心臓は嫌な鼓動を打ち続けるが、警察官は特に驚いた様子もなく淡々と確認している。そして、身分証を一通り見終えると、簡単な頷きと共に「こちらへ」と俺たちを警察署の中へ案内した。
通されたのは小さな個室だった。質素な木製の机と椅子が置かれただけの部屋。監視カメラらしきものは見当たらないが、こういうところはむしろ警戒すべきだろう。
「確認と更新手続きを行う。ここで待っていろ」
そう言い残し、警察官は部屋を出ていった。
「……大丈夫かな?」
エルが俺を見上げてくる。その表情は平然としているが、指先をぎゅっと握り締めているところを見るに、少しは緊張しているようだ。
「今さら騒いでも仕方ない。とりあえず大人しくしておこう」
こうして俺たちは無言のまま待つことにした。
時間にして十分ほどだろうか。扉が開き、先ほどの警察官が再び姿を現した。
「確認が取れました。以降は身分証は常に携帯するようにお願いします。」
その言葉に思わず息を呑む。警察官も先ほどまでとは打って変わって警戒の解けたような口調と雰囲気になっていた。
「改めてとなりますが、戸籍の確認になります。氏名はターレス・ユウマ、そしてターレス・エル。お二人はご夫婦ということでお間違いないでしょうか?」
「……え?」
頭が真っ白になった。
夫婦?
いや、まず名前の部分からしておかしい。俺は戸籍を偽造するなら、全く別の名前になると思っていた。だが、俺の名前は「ターレス・ユウマ」。元の名前の下の部分がそのまま使われている。
そして、エルと俺が夫婦?
「偽装兄妹」とかならまだしも、まさか「夫婦」にされているとは思わなかった。
動揺を悟られてはいけない。そう思った矢先、エルがまったく表情を変えずに言った。
「はい、間違いありません」
……えっ!?
俺は彼女を思わず見つめたが、エルはまったく平然とした様子で警察官を見返している。俺も咄嗟に口を開く。
「あ、ああ……間違いない」
何とかそう返すと、警察官は頷き、俺たちの手首にはめられていた拘束用の腕輪を外した。
「それでは、お出口までお見送りします。」
そのまま俺たちは警察署を出ることになった。
外の空気がやけに新鮮に感じる。ようやく、俺たちは本当に自由になったのだ。
「これでひとまず安全、ってことでいいのか……?」
「……多分」
警察署を出る際、あの警察官が最後に俺へ囁いた言葉が頭に引っかかる。
「フィクスさんに感謝することだな」
フィクスが……?
つまり、彼は警察とも繋がりがあったということか。改めて考えると、彼の影響力は相当なものなのかもしれない。
ともあれ、まずは帰ろう。宿へ。
俺たちは歩き出した。
夜の街を歩きながら、エルにそっと尋ねる。
「なあ、エル……なんであんなに平然としてたんだよ?」
「怖かった……けど絶対に怖がっちゃいけないと思って」
……この子、やっぱり強い。
「でも、夫婦って……戸籍がそうなってるってことは、俺たちはもうそういう関係ってことになるんだよな……」
「……うん」
「俺たち、夫婦……」
改めて口にしてみると、何とも言えない気恥ずかしさが込み上げる。
「……まあ、どうせ偽装でしょ?」
「それでも……家族」
どこか安心したような表情でさらりとそんなことを言うエルに、俺は頭を抱えたくなった。
こんな調子で俺はこの世界で生きていけるのだろうか。
突如として異世界に交換された初日。
俺は戸籍と家族を手に入れることになったのだった。