第1話:ズレた日本
俺の名前は 呉 悠馬。
27歳、地方の底辺大学を卒業し、携帯ショップの販売員として働いていた。
毎日が同じことの繰り返しだった。
まるで時間が止まったかのような日常。朝起きて、同じ電車に乗り、同じ道を歩き、同じ店に入る。顔も覚えられない客たちの愚痴を聞き、スマホの設定を教え、料金プランの説明をする。クレーム処理に追われ、上司の無茶振りに耐え、ひたすらに繰り返される単調な業務。
窓の外を流れる季節の変化すら、気づかないうちに過ぎ去っていく。
その割に給料は上がらず、気づけば数年が経っていた。
「……これが俺の人生か……」
深いため息とともに、スマホの給与明細をスクロールする。
まるで数字が変わった形跡がない。
むしろ、控除の増加で手取りが減っている気がする。
灰色の空が広がる帰り道、雨粒が肩に落ちはじめた。傘を差す元気もなく、シャツが少しずつ濡れていくのを感じながら歩く。同じ道、同じアパート、同じ鍵、同じ部屋。
何度目かの虚しさを感じながら、いつものようにアパートへ帰り、ベッドに倒れ込んだ。疲れた体を沈め、いつものように眠りに落ちる——はずだった。
夢の中でさえも、明日の仕事のことを考えていた。あの客はまた来るだろうか、あの修理は間に合うだろうか、ノルマは達成できるだろうか——そんな考えが渦を巻いていた。
しかし——
目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。
「……ん? ここ……どこだ?」
頭がまだぼんやりとしている。
慣れ親しんだ自分の部屋とは、明らかに違う。
天井には見覚えのない模様がある。壁は淡い灰色で、備え付けの家具は簡素だが統一感がある。俺の部屋にあったはずの散らかった服や、積み上げられたマンガ本、ゲーム機の姿はどこにもない。
窓から差し込む光も、どこか違和感を覚えた。どこか色味が違う。まるで、日本のようで日本でないような——
「なんだこれ……」
そんな奇妙な感覚に襲われながら、ベッドの横に置かれたメモに目を向ける。
『あなたは異世界交換によってこの世界に来ました。私は代わりにあなたの世界へ移動します』
「異世界……交換?」
信じがたい言葉が並んでいた。
何かの冗談だろうか?誰かの悪ふざけ?しかし、これはどう考えても俺の部屋じゃない。
メモを手に取り、もう一度読み返す。丁寧な字で書かれた文字が、目の前でぼやけたり鮮明になったりする。頭痛がしてきた。
"異世界" という言葉が引っかかるが、今はそれどころじゃない。俺は急いで立ち上がり、窓へと向かった。
カーテンを開けると、そこには見知らぬ街並みが広がっていた。一見すると、日本の地方都市のようだ。しかし、どこか違う。建物の形状や色合い、街路樹の種類——全てが微妙にずれている。
とにかく、ここがどこなのかを確かめるべきだ。
俺はすぐに部屋の中を調べ始めた。
クローゼットを開けると、自分のサイズに合った服が何着か掛けられていた。デザインは日本のもののようだが、素材や縫製が少し違和感がある。バスルームには洗面用具が揃っていて、シャワーもあるが、水の出し方が複雑だ。
スマホを取り出し、電波を確認する——圏外。
Wi-Fiもない。
「くそっ……」
ならばと、部屋の電気のスイッチを押す。
「……?」
照明は点かない。
しかし、部屋は明るかった。
天井には、小さな光の粒が浮かんでおり、まるで電気の代わりに光を放っている。指でつついてみると、ふわりと揺れる。しかし、触れることはできない。
"これは、普通じゃない。"
そんな考えが頭をよぎる。
「……外に出てみるか」
俺は慎重に服を着替え、ポケットを探ると財布が入っていた。中には見たことのない通貨の紙幣と硬貨。シンボルや数字は読めるが、デザインが全く違う。
深呼吸して、俺は慎重にドアを開けた。
廊下には誰もいない。どうやらアパートのような建物のようだ。階段を降りて、建物の外に出る。
目の前に広がっていたのは、一見すると現代の日本に似た風景だった。
舗装された道路、整然と並んだ標識や看板。電柱もあるが、電線が見当たらない。
行き交う人々も、現代の服装をしており、特に違和感はない。しかし、よく見ると皆の歩き方や仕草に何か違いがある。もっと……流れるような、優雅さを感じる。
「ここ……どこなんだ……?」
道を歩きながら、看板を見る。文字は読めるが、店の名前や商品名が聞いたことのないものばかりだ。
「霧島ベーカリー」「魔導光通信」「精霊水浄化場」
混乱する中、俺は近くを通りかかった警官らしき制服姿の男に声をかけることにした。紺色の制服は日本の警察官に似ているが、胸には奇妙な紋章が輝いている。
「すみません、ここってどこですか?」
男は少し怪訝そうに俺を見た。その目には、「何を当たり前のことを聞いているんだ」という色が浮かんでいる。それでも、きちんと答えてくれた。
「ここは霧島国の首都、白京市だよ。君、どこから来たんだ?」
「霧島国……?」
聞いたことのない国名。
それだけでなく、彼の表情から、俺の反応に対する警戒心が見え隠れしている。
「君、身分証は持ってる?」
「……っ」
言葉が詰まる。
そうだ、俺にはこの世界の戸籍がない。
「それが、その……」
曖昧にごまかそうとするが、警官の表情が一気に険しくなる。目元のしわが深まり、口元が引き締まる。
「君、ちょっと署まで来てもらおうか」
——しまった。
逃げ出すことも考えたが、どこへ行けばいいのかもわからない。俺は抵抗する間もなく、警察署へ連行された。
警察署の一室。
冷たい金属の椅子に座らされ、机を挟んで向かい合う警官は、厳しい表情を崩さない。
白い壁に囲まれた尋問室は、日本のドラマで見たものと似ている。ただし、照明は電気ではなく、天井の四隅に浮かぶ光の球体だ。
「君の身分を確認する必要がある。どこで生まれた? 家族は?」
「えっと、それが……気づいたらここにいて……」
「記憶喪失か?」
警官の声には疑いが満ちている。俺は困った。
本当のことを言ったところで、信じてもらえるわけがない。
かといって、適当に嘘をついても誤魔化しきれそうにない。
「無戸籍者は、この国では重大な問題だ。通常、街には入れないはずなのに、どうやって入ってきた?」
警官の言葉に、胸が締め付けられた。無戸籍者——その言葉には、何か重い意味がありそうだ。
「だから、気づいたらここに……」
繰り返す俺の言葉に、警官はため息をつく。その目には、不審者を扱う面倒くささと同時に、何か同情のようなものも浮かんでいた。
「しばらくここで身柄を拘束する。状況が確認できるまで出られないぞ」
そう言って、警官は立ち上がり、俺を再び連れ出した。
冷たいコンクリートの壁に囲まれた牢屋。
鉄格子越しに見える外の世界は、灰色一色だった。
——こうして俺は、牢屋に入れられることになった。
「何が起きてるんだ……」
壁に背を預け、俺は膝を抱えて座り込む。朝起きたら見知らぬ世界にいて、気づけば牢屋に閉じ込められている。こんな非現実的な状況が、本当に起きているのだろうか。
時間の感覚が麻痺していく中、牢の外を警官たちが行き来する。彼らの会話から、この世界についての断片的な情報が入ってくる。
「また無戸籍者が見つかったらしいぞ」
「今月だけで三人目か。国境の管理が甘いな」
「奴隷市場も活況だな。買い手が増えてるらしい」
——奴隷市場?
その言葉に、俺は思わず耳を澄ました。現代社会で奴隷なんて、ありえないはずだ。しかし、警官たちはごく当たり前のように、その言葉を口にしている。
数時間後。
沈黙が続く牢の中で、小さな声が聞こえた。
「あの……あなたも、無戸籍ですか?」
隣の牢を見ると、ぼろぼろの服を着た少女がいた。
長い金髪は所々で絡まり、大きな瞳には恐怖の色が浮かんでいる。服は汚れているが、かつては良い素材だったのかもしれない。痩せた体は、長い間十分な食事を取っていないことを物語っていた。
「君も捕まったのか?」
少女は小さくうなずく。その動きには、疲労と諦めが見えた。
「私は……身寄りがなくて……ずっと逃げてたけど、捕まっちゃった……」
か細い声には、希望が見当たらない。
「逃げてた?」
少女は少し顔を伏せ、膝を抱えるようにして体を小さく縮ませた。
「この国では、無戸籍の人は奴隷にされるの……」
その言葉に、俺は衝撃を受ける。
体が冷たくなる感覚。
「……奴隷?」
「うん……」
少女は怯えた目で続ける。目の端には、もう涙も枯れたかのような乾いた痕が残っている。
「戸籍がないと、街で暮らすこともできない……だから、働かせるために売られちゃうの……」
「そんな……」
俺は言葉を失った。
少女の体は痩せ細り、服は破れている。手首には、何かに縛られていたような跡が残っている。そんな彼女が、何日も逃げ続けていたことは容易に想像できた。
「この国では、すべての人には戸籍が必要なの。それがないと、人として認められない……」
少女は静かに続ける。その言葉には、何度も繰り返し聞いた教えのような響きがあった。
「家族とか、知り合いとかは?」
少女は寂しそうに俯く。
その目には、遠い記憶を辿るような色が浮かんでいた。
「……いたけど、私を養う余裕はないって言われた。小さい頃に捨てられたの……」
胸が締めつけられるような思いがした。
少女の声には、もう怒りも悲しみもない。ただ、事実を述べるだけの平坦さがあった。
少女は、膝を抱えて小さく震えていた。
夕暮れの光が格子を通して差し込み、彼女の輪郭を淡く照らしていた。
「このまま売られたら……もう自由にはなれない……」
少女の言葉は、諦めと恐怖が入り混じっていた。だが、その奥には、まだ消えない希望の火が残っていた。
俺は、彼女の怯えた表情を見て、決断する。
突然の出来事に戸惑いながらも、心の中で固い決意が生まれる。
「大丈夫だ。俺が何とかする」
自分でも驚くほど、声に力がこもっていた。
少女は驚いたように俺を見上げる。その目に、わずかな光が灯った。
「本当に……?」
「ああ」
俺は立ち上がり、牢の鉄格子を握りしめた。冷たい鉄の感触が、現実感を取り戻させる。
「俺も、この世界のことはまだよくわからない。でも、一緒に脱出しよう」
少女の目に、小さな希望の光が宿る。
牢屋の外では、警官たちが引き続き行き来している。日が落ち、徐々に静かになっていく警察署。
俺は、少女と協力し、この牢屋から脱出する方法を考え始めた。
この異世界で生き抜くための、最初の一歩だった。