太陽の下で黒い想いを
頭上から降り注ぐ太陽の光は眩しすぎて、寝不足のアイシャの目を灼くようだった。スーリヤが戴く神の恩寵を全身に浴びるのは心地良いことのはずなのに、夏日に炙られる蚯蚓のような気分になってしまうのは──神に対して顔向けできない身の上であるという、後ろめたさがあるからだろうか。
(……違う、はずよ。王を守るためのことだもの、神も嘉してくださるはず。そのために私は蘇ったはず──)
召使が掲げる絹の差し傘、そこから垂れる紗の陰にいても、神はすべてを見ているのではないか、という気がしてならなかった。すべてを──アイシャが、悪意を持って謀を巡らせていること。人を利用し、陥れることも辞さないつもりでいることを。
心の重さ苦しさに耐えかねて息を漏らすと、ダミニが目敏く聞きつけて身を乗り出して来た。
「お顔の色が優れないようですわね。お眠りになれなかったのですか?」
「……ええ。そうだったの」
今のアイシャは、前ほどに無垢ではない。けれど同時に前ほど愚かではない。そして、いくら汚い企みに手を染めているとしても、ダミニよりは絶対にマシなはずだった。
アイシャたちは今、昨晩アルジュンと見下ろした庭園にいる。夫は今ごろ、彼女の提案を重臣たちに諮ってくれているはず。彼自身は納得してくれたし、成算も十分にあるとは思う。
それでも、室内に閉じこもって待っているのと息が詰まってしまうだろう。花と緑と、鳥の囀りと水のせせらぎとで心を慰めようと思ったのだけれど──結局のところダミニが隣にいるなら、気分転換の意味があったのかどうか。
「まあ、でも。おひとりだったのに……? 王は結局、寝所にはいらっしゃらなかったのでしょう?」
夫に抱かれることがなかったのだから、ゆっくり眠れたのだろうに、と。心配顔を装ったダミニが嬲ってきたのに気付いて、アイシャは内心で歯軋りをした。
でも、表向きには溜息をもうひとつ、零しただけ。夫と何を語ったのか、ダミニが探りを入れてくるであろうことは、分かっていた。だから何を言うべきかは考えてある。それも、彼女の睡眠不足の理由のひとつだったのだ。
「アルジュン様は、私の小賢しいのをお気に召さないみたい。上手くお慰めすることができなかったから」
「それだけアイシャ様を大切に思っていらっしゃるのですわ。血腥いことからは遠ざけてしまいたいのでしょう」
「そうね。そうかもしれないわ」
ダミニが笑って宥めて、アイシャが頷く。これまでにもよくあるやり取りだったし、前の人生では、この先十年に渡って繰り返したことだった。
でも、今は違う。
アイシャはもうダミニの言葉を額面通りに信じてはいない。にこやかに細めた目は、実は刃のように鋭く輝いてアイシャの本音を探っているのに気付いている。
小娘が知恵を巡らせたところで無駄だ、と脅そうとしているのにも。慣れないことをするのは止めろ、と言いたげに、庇い守る振りで、身動きを封じようとしているのにも。
「ですから、誰しも向いた役割というものがあるのかと」
手を握るのだって、親愛の表現では決してない。目を逸らすことを許さず、間近に威嚇するための手段でしかないのだ。もちろん、アイシャは蛇に呑まれる鼠なんかではなくて、相手と同じ気迫で睨み返すのだけれど。
「どういうこと、ダミニ?」
刃を交えるように、視線で斬りつけ合っているのは、それでもきっとお互いだけだろう。
顔は微笑んで。そして、声も穏やかにやり取りを続けるふたりは、傍目にはいつも通りの仲の良い従姉妹、近しい主従にしか見えないはずだ。少なくとも、ダミニは言葉の上ではアイシャを案じている
「難しいことを言って嫌われるのは私に押し付けて、アイシャ様はただ愛されていらっしゃればよろしいのです」
「……そうかしら」
余計なことをするな。有益な進言で王の歓心を得るのは、お前ではなくこの私だ。
今のアイシャには言外の含みが聞こえるから──ダミニも聞かせるつもりかもしれないけれど──、頷くことなどできなかった。けれど、ダミニは笑みを深めて大きく頷く。
「そうですとも。だって、王はご不興だったのでしょう? 何を申し上げて怒らせてしまったのですか?」
「別に──そうおかしなことではないはずよ」
ここからが、肝心のところ、なのだろう。
ダミニは、アイシャがアルジュンに何を述べたかを知りたい。アイシャは、知らせたくない。そして、その魂胆はダミニにも見抜かれているはず。
(だから──あるていどは本当のことを言って構わない。ダミニにも想像がつくていどの企みだと、思わせれば良いのよ)
それなりにもっともらしく、けれどダミニにはそれほど恐れなくても良いことだけを漏らせば良い。アイシャが考え抜いて思いついたのがそのていどのことだと、油断させるのだ。
アイシャは、ダミニの手を振り払うと、ふいとそっぽを向いた。
うるさく問われて癇癪を起した体を装うのだ。ダミニが知る彼女は、それほど忍耐強くも狡猾でもなかった。幼く無邪気で愚かだったころの印象を、最大限に利用してやる。
「バーラン侯の一族を平らげるのに、若い方々を将にしては、と申し上げただけ。皆様、忠誠を示す機会は願ってもないはずだもの。手柄を立ててくだされば、アルジュン様にとっても望ましいことになる。──ダミニ、貴女のお兄様だって」
アイシャが期待したほどに、ダミニが彼女を侮り切ってくれているかどうかは、分からなかった。瞬きもせず何も言わず、睨むように見つめてくるのは、アイシャの本心を窺い知ろうとしているからだ。
王のため、王の派閥を強めるための献策でしかないのかどうか。
王妃として、発言権を強めたいという思惑は当然あるとして、それだけかどうか。ほかに狙いがないのかどうか。
(疑って当然よ。でも──これ以上食い下がることもできないでしょう)
アイシャが推薦した若い諸侯の中には、アイシャの兄も含まれているのだから。その上であらぬ疑いを言い立てるなら、非礼だ心外だ傷ついた、と責め立てる心の準備はできている。
幸いに、と言うべきかどうか。ダミニは、ひとまず引き下がることを選んだようだった。
「兄にまでご配慮いただき、誠にもったいないことですわ。兄に代わって御礼を申し上げます」
「良いのよ。従姉妹同士なのだし、アルジュン様のためでもあるもの」
ダミニは、兄のシャマールと連絡を取るのだろうか。出兵にあたって、ほかの者たちに先んじるように立ち回るのか、それとも後方での安全を確保しようとするのか──どちらでも良いことだ。
アイシャの目的とは油断ならない従兄姉たちの動向とは関わりのないこと、本当の狙いが悟られなければそれで良い。
「──しばらくひとりにして。風に当たっていたいの。そう……先に戻って、水浴びの支度をしてもらえるかしら」
「かしこまりました」
アイシャの目を離れて自由な時間を得るのは、ダミニにとっても願ってもないことだったのだろう。今回ばかりは、皮肉を交えることなくさっさと下がってくれた。ほかの侍女や召使については言うまでもない。
残された傘の紗幕越しに、太陽の光を浴びることしばし──アイシャの耳は、草むらを踏みしだく音を捉えた。侍女たちが呼びに参じたのではなく、もっと重い、男の足音だ。
「ご機嫌麗しく存じます、王妃様」
「ごきげんよう。──ラームガルの領主の妹姫の顔は、ちゃんとご覧になれたかしら」
紗幕の陰に留まったままで声をかけたアイシャに、その男は恭しく跪いた。王妃とふたりきりで間近に語らう非礼を少しでも減じるため、慎重に距離を置いている。
それでも彼の溌溂とした声はよく響いた。弾んだ調子が、彼の心の裡も語るよう。
「はい。噂通りの美しく淑やかな女性ですね……!」
降り注ぐ陽光さながらの、晴れやかな笑顔のその男は──チトラクートの太守ニシャントだった。




