仮説と検証
アイシャの顔を見るなり、アルジュンは手を伸ばして抱き寄せてきた。いつもなら優しく、あやすような手つきなのに、今に限っては少々手荒い。
(無理もないわ、もう真夜中近いもの……)
アイシャだって眠ることも休むこともできずに待っていたのだけれど、同じ時間を、重臣たちとの会合に費やしていたアルジュンの疲労とは比べ物にならないだろう。擦り減っているであろう夫の心身を慮って、彼女よりも頭ひとつ分は高い長身を、両腕を広げてそっと抱き留める。
「お疲れでしょう。何か召し上がりますか?」
「そうだな、何か軽いものを──だが、ひとまずは、しばらくこうしていたい」
甘えるように囁くと、アルジュンはますます腕に力を込めた。夫の温もりに包まれると、息苦しささえ愛しくて心地良くて、アイシャはくすくすと笑う。身体を捩って腕を自由にして、アルジュンの髪を梳きながら、答える。
「仰る通りにいたしましょう」
* * *
そうして、しばらく後のこと──アイシャは、自身の膝をアルジュンの枕に貸し出していた。軽食を取った後は、すぐにも眠りたいだろうに、夫は彼女との時間を持ちたいと言ってくれたのだ。
子供を寝かしつける母親の気分で、アルジュンと互いの指を絡め、彼の頬を愛撫しながら、アイシャはできるだけさりげなく切り出した。
「──バーラン侯のこと、どのようなお話になっているのでしょうか」
言ったとたん、夫の頬が強張るのが指先に伝わってくるのが申し訳なかった。今のアルジュンが求めているのは安らぎや寛ぎであって、やっと終えたばかりの煩わしい話を蒸し返されたくはないだろうに。
(ごめんなさい。でも、必要なことなのです)
口には出さずに謝りながら、夫の深い色の目を見下ろしながら、アイシャは必死に訴えた。あるいは、その演技をした。
「私……あの、目の前であんな──だから、怖くて、気になって」
アイシャの声も視線も、夫に触れる手も確かに震えていた。この話を続けなければ、という思いも真実だった。
けれど彼女が恐れ震える理由は、アルジュンが考えるものとはたぶん違う。毒やバーラン侯の怒り、内乱への気配そのものは大したことではない。それよりももっと大事なことは──起きたこと、これから起きることのひとつひとつが、愛する夫に災いをもたらさないか、だった。
「貴女が知る必要は──」
不安で血の気が引いたのか、アイシャの指先は冷たく冷えてしまった。その指先を掌で包み込んで、アルジュンは首を振ろうとしたようだった。──でも、思い直したように起き上がり、アイシャを抱え込む。そうして、呟く。
「……いや、貴女は王妃だからな」
守り、世事から遠ざけるべき子供ではなく、対等な伴侶なのだ、と──自分に言い聞かせるような口調だった。アルジュンから見れば、アイシャはまだまだ幼いのだろう。
(だから、信じてもらえるように頑張らなければいけないのね)
アイシャの胸がどきどきと高鳴るのは、夫に抱き締められる喜びや幸せだけが理由ではなかった。
考えたことが当たっているか、アルジュンに信じてもらえるか、信じてもらえるように説明できるか──ううん、そうしなければならない、という緊張のためだった。
アルジュンの言葉をひと言たりも聞き漏らすまい、と思考と神経をとがらせて、アイシャは夫の説明に耳を傾けた。
「意見は大きくふたつに割れている。母上などは、これを好機に何らかの処罰を下すべきだと仰る。領地を削るなり兵を奪うなりして力を削ぐのだ、と。いっぽうで、見逃すことで貸しを作れると言う者もいる。それだけでも牽制にはなるだろうと──」
後者は、実質的には何もしないということだ。そして、確実に事態を悪化させる手だろう、とも思う。
バーラン侯は、無実の──ダミニによって作り上げられた! ──嫌疑をかけられたという不快と王への反発を抱えたままになる。その悪感情は消えることなくくすぶり続け、後々の禍根の火種になるだろう。
(悪手だとは、ほかの方々も分かるはず。でも、それで済ませたくなってしまうほどに、バーラン侯は厄介な相手なのね。前も、たぶんそうだった──)
これほどに議論が長引いたということは、強硬派にも押し切ることができなかったということ。日和見の者たちがそれほど多かったということだ。密かにバーラン侯と通じている者もいたのかもしれない。
それほどの権勢を誇った貴族のことを、どうして前の彼女は知らなかったのか。スーリヤの中で、小さな国と呼べるほどの大侯の牙城が、どうして細かな領地に分割されていたのか──実は、アイシャは仮説を立てていた。
けれどそれは、アルジュンに言わなくても良いこと。というか、悟られてはならないこと。だから、アイシャはアルジュンに身体を委ね、無邪気を装って提案する。
「アルジュン様は、調査をすると仰っていたでしょう。調査の上で何ごともなければ、どなたも納得してくださるのではないでしょうか?」
「……私としては、そのようにしたい。証拠もなしに糾弾するなど、王がすることではない。侯が無実だというなら、毒の出所についても改めて精査しなければならぬ。だが、証拠がなかった場合は詫びねばならぬ。そうして臣下に弱みを見せるのはいかがなものか、とまたも異論が上がるのだ」
ダミニは、アイシャだけでなくアルジュンも無垢だと言った。悔しいけれど、その評は決して間違ってはいない。彼女の夫は公正で公平で──だからこそ、悪い企みを持つ者たちに付け入る隙を与えてしまうのだ。
(でも、そうはさせない。私がさせない。もう二度と)
ダミニの力なんて借りる必要はまったくない。夫を守るためなら、アイシャの手はいくらでも汚れて良い。
「そもそもはダミニの言い出したことでした。勘違いだったというなら、私からバーラン侯に謝罪します。王妃のしたことなら王の名誉にはさほど影響しないのではないでしょうか?」
「アイシャ。だが」
彼女を矢面に立たせることを想像してか、アルジュンの声が翳った。けれど、否定の言葉を紡がれる前に、アイシャは夫の唇を指先で縫い留めてしまう。首を曲げて、アルジュンの憂い顔を見上げて。あやすように口づけしながら囁くのは、吾ながら邪悪なことだった。
「ただし、やるなら徹底的に、が良いと思います。今後に疑いを残してはいけませんもの。バーラン侯の、領地の宮城も、都に構えた邸宅も。人の出入りも洗いましょう。ええと──だって、侯の貢ぎ物に毒が入っていたのですもの。罪を擦り付けるための、何者かの陰謀かもしれません」
だって、アイシャはバーラン侯に罪を着せようとした犯人を知っている。その上で、惚けているのだから。でも──
(証拠は、出てくる。毒か武器か密書か──何かは分からないけれど、バーラン侯をも処罰できる何かが、きっと……!)
かつてのアイシャがバーラン侯を知らなかったのは、出会う前に処罰されていたからではないか、と思いついたのだ。未来を知るアイシャが起こした変化が王宮の外に届くには、やはりまだ早過ぎる。何より、アルジュンの態度が根拠だった。
今の、多少はしっかりしたアイシャでもこんなに案じて甘やかして守ってくれるのだから、かつての彼女ならなおのこと、大貴族の反乱の兆しだとか、処刑だとかについては教えたくなかったのではないだろうか。
(バーラン地方が落ち着いて初めて、私は新しい領主たちに紹介された。だからこそ、私は問題のない地方だと記憶していたのだとしたら……?)
そんな事件が起きたとしたら、前のアイシャがアルジュンと本当の意味で結ばれる前、婚礼を挙げて間もなくのころだろう。つまり今、だ。
前も、何かしらの切っ掛けでバーラン侯の企みは発覚し、老練な大貴族をしても破滅を免れることはできなかった、のだろう。それなら、同じことを起こせるはずだ。
「……アイシャ?」
アイシャの進言は、やけに熱と力がこもっていたかもしれない。夫は、戸惑うように首を傾げて彼女を見下ろし、頭の先からつま先までをじっくりと眺めた。まるでアイシャが、別人に成り代わってしまったとでも疑ったかのよう。
でも──夫の聡明さを、アイシャは信じている。理と利を認めたら、頷いてくれるはず。
「……そう、だな。そのようにしよう。だが、貴女には責が及ばぬように尽力する」
「それはいけませんわ。あくまでも公平な調査にしなければ。でも、お気遣いはとても嬉しく存じます。……愛しています」
「私もだ、アイシャ」
アルジュンの声の真摯さに安堵して、アイシャは彼の抱擁に身をゆだねた。
夫は、彼女を案じていてくれる。バーラン侯の怨みを買うことを恐れてくれている。それなら、何がなんでも証拠を見つけるつもりで調査に臨んでくれるはずだ。




