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せめぎ合い

 ダミニがアイシャの前に参上したのは、日が落ちてからだった。

 アルジュンは当然のように妻のもとには帰らず、いまだ王太后おうたいこうトリシュナや重臣たちとバーラン侯の処遇について協議している。そしてその裏側では、ダミニにも取り調べが行われていたのだ。


「アイシャ様、ただ今戻りました」

「そう……」


 アイシャが平然と姿を見せられるということは、彼女の証言に不審な点はないと見做されたということだ。果汁の樽に毒が()()()入っていたか否かは、疑問にも思われないまま処分されてしまったのだろう。


(先手を打って保存と調査を命じておくべきだった? でも……)


 そうすれば、ダミニの欺瞞を暴くことはできる。けれど、状況はすでにどうしようもなく悪化しているのだ。


 バーラン侯が、無実だとしたら。根も葉もない疑いをかけられたことは間違いなく不快に思うだろう。糾弾したのはダミニだとはいえ、王妃の──アイシャの意志を受けてのことだと、すでに確信しているようだった。これで実は勘違いでした、と分かったとして、笑って許してくれるとは思えない。

 それどころか、冤罪をかけたことへの代償に、何を求められるか分かったものではない。毒は実際に()()()のだと──その前提が覆らないほうが、アルジュンにとってはまだ対処しやすいはずだった。


(そこまで読んだ上で踏み切ったのね……!?)


 後から考えれば、理解することはできる。でも、あらかじめ考えを巡らせたうえで、顔色ひとつ変えず──というか、あくまでも王を真摯に案じるていを崩さずに演じ切ったダミニの度胸も悪知恵も空恐ろしい。


 対峙しているのは、よく知る従姉ではなく得体のしれない怪物ではないか。そんな埒のない不安に襲われて、アイシャは小さく頷いたきり、何も言うことができなかった。

 気まずい沈黙を、いったいどのように解釈したのだろう。ダミニが、執り成すような笑みを浮かべた。


「……陛下のお命を助けることができて、本当に良かったですわ。アイシャ様、どうか安心なさってくださいませ」


 ダミニがにじり寄って来た分、アイシャは思わず退いていた。彼女のほうが長椅子に掛けて、ダミニのほうは床に跪いている格好だ。身分の上下は厳然としてあっても、物理的な高さはほんのわずか。その高さをダミニが侵してくるようで、身構えてしまう。


「安心……できるかしら?」

「もちろんですわ」


 アイシャは疑い深く問いかけたのだけれど。ダミニが浮かべた、幼い子供に対するような笑顔を見て、気付く。


(私が怯えていると思っているのね……!)


 毒殺騒ぎを前にして、わけも分からず震えているのだと。そう信じ込んで、()()慰めてくれようというのだ。


 侮られたことへの怒りが恐怖を塗りつぶし、かつ、少しだけ冷静さを取り戻させてくれた。そのおかげで、アイシャはダミニの手を振り払うことなく、逆にしっかりと握りしめることができた。縋ったのではなく、捕らえたのだと、ダミニはまだ気付いてはいない。


「王の暗殺は、未遂とはいえ重罪ですもの。バーラン侯はあのように強気な態度でしたけれど、虚勢に過ぎません。きっと罰が与えられます。アイシャ様、ご不安でしたら私がおりますから──」

「でも、私の杯に毒は入っていなかったわ」


 ダミニの手をしっかりと掴んで、身を乗り出して。アイシャはダミニの面前で囁いた。相手の目が大きく目を見開かれるのに勢いを得て、まくし立てる。


「私の杯、手つかずだったから部屋に引き取らせていたの。貴女が言ったように銀の指輪を沈めてみたけれど、何も変わらなかった! ()腕輪を浸したのでしょう? 私の杯は、アルジュン様のものと同じ果汁で満たされていたのではなかったの? それなら、どうして何も起きなかったの?」


 きっと、ダミニはあらかじめ腕輪を変色させた上で隠し持っていたのだ。葡萄果汁の樽そのものには毒を入れなくても良いように。

 でも、それだけでは証拠として弱い。毒杯だったと、あの場の者たちが確信するには、ダミニの言葉だけでも黒ずんだ銀の腕輪だけでも足りなかった。決定的な証拠が、ほかにもあった。


「あの可哀想な小鳥が死んだのは──アルジュン様の杯()()()毒が入っていたんだわ。アルジュン様に毒を盛ったのは、バーラン侯ではない。それなら誰? ダミニ──貴女、なの!?」


 葡萄の匂いに惹かれたであろう小鳥の、小さな翼の断末魔の震えを思い出して、アイシャは声をいっそう高めた。小さな命への哀れみだけが理由ではない。アルジュンの杯に毒が入っていたのは間違いない事実だった。

 彼女の愛する夫が、目の前で毒を口にするかもしれなかったのだ。墓室に安置され、朽ちていく夫の遺体の冷たさを思うと、とても平静ではいられない。()()()死の間際に感じたダミニへの怒りが再び燃え上がり、アイシャは呼吸さえ忘れて息苦しさを覚えるほどだというのに──なのに、ダミニは軽く肩を竦めると、開き直ったように笑った。


「毒は王の口に入らなかった。私が止めたおかげです。それで良いではありませんか?」

「でも! 入れたのは貴女でしょう!」

「恐ろしいことを。証拠はございますか?」


 証拠は──ない。アイシャの杯や指輪を持ち出したところで、毒入り果実を流した後で、無害なものを入れておけば良い、となってしまう。結局、あの場では誰も果汁を口にしなかったのだから、味も何の証明にもならない。

 それに、先ほどアイシャも考えた通り。今さら毒が入って()()()()()、ということになっても事態がややこしくなるだけなのだ。


「でも。でも……っ、なぜ……!?」

「アイシャ様のため、ですわよ?」


 問い詰めることができない悔しさに、アイシャは手に思い切り力をこめた。彼女の爪は、ダミニの手にぎりぎりと食い込んだはず。でも、ダミニは怯むどころか、いっそう間近に、アイシャに顔を近づけた。


「どうして、そんなことが言えるの」


 ダミニを突き飛ばしたいという衝動と戦いながら、アイシャは歯軋りするように問うた。証拠はなく、理屈でもない、気迫と感情のぶつかり合いだ。退いたら負ける、と。直感のように分かっていた。


()()()アイシャ様ならお分かりでは? バーラン侯はご夫君にとって邪魔者です。排除する()()を作って差し上げるのが、妻としての役目だと思いません?」


 ダミニが、アイシャのことを本当に()()だなんて思っているはずはない。察しの悪さを嘲るのと──それに、もうひとつ真意があるはずだ。ダミニも、今、アイシャに気付かれるとは思っていなかったのだ。余計なことを言い出して、という苛立ちが、美しい笑みでも隠しきれずに滲んでいる。


(ダミニも焦っている!? この女の本心をどこまで覗ける……!?)


 激しい怒りと、計り知れない相手への恐怖を同時に感じながら、アイシャは必死に頭を巡らせ、言葉を選び、自らを奮い立たせた。


「すべて私に負わせるのね。貴女の手柄とやらも、罪も責任も!」


 バーラン侯を処罰する好機、とアルジュンに進言すれば、王妃の存在感は確かに高まるだろう。けれど、アイシャは同時に人に知られてはならない秘密を抱えることになる。

 すなわち、そもそもの発端である毒殺事件が、狂言であったこと。万が一にも露見したなら、アイシャが企んだことだと思われるだろう。ほんらいはダミニの独断でやったことなのに!


「譲って差し上げるのですわ。私は、大したことは望みません」


 アイシャのためと言いつつ、ダミニは見返りを完全に固辞することはしなかった。たぶん、アイシャが何も気付いていなければ、()()()()()褒美としてねだるはずだったのだろう。──それこそが、ダミニの本願なのかどうか。


「何を望むの? こんなことまでして、いったい!?」


 アイシャは、それを知らなければならない。けれど同時に、耳にするだけで怒りに目が眩むようなことだろうと、何となく察しはついた。訪ねた瞬間にダミニが浮かべた、勝ち誇るような、この上なく嬉しそうな笑みが教えてくれた。


「私を王の側室に推薦してくださいませ」


 ダミニが述べた言葉は、アイシャの予想をまったく裏切らない図々しくて強欲で恥知らずなものだった。そしてもちろん、予想が当たったからといって何ら喜ぶ気にはなれなかった。

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