バーラン大侯
夫や義母と過ごす、上辺だけは和やかな一時も束の間のこと、アイシャはまたも社交の場に臨んでいた。それも、今日はトリシュナが同席する。つまりは、若き王に賛同する同志ではなく、細心の注意を払って対応すべき旧く強く、そして狡猾な貴族ということだ。
アイシャが染めた髪を簡素に纏め、同じく装飾ひとつない麻の粗衣に身を包んだトリシュナは、眉を寄せながら溜息を零したものだ。
「バーランの大侯には気をつけなさい、アイシャ。先王の御代の間も、少し目を離すと良からぬ動きを見せたのだから。あのような者は、時に厳しい態度に出ないと御せぬものです」
「はい、お義母様」
義母の忠言に、従順に頷きながら──けれど、アイシャは内心で首を傾げていた。
(バーランを治めるのは大侯だったかしら? ひとつの大家ではなく、もっと小さな諸侯が分割して統治する地方では……?)
そして、バーラン地方の諸侯も、王に背いたことはなかったと記憶している。むしろ、彼女が知る十年に渡って、大きな問題が起きることもなかったような。
もちろん、前のアイシャの知識や記憶なんてあてにならないと言えばそれまでだ。かつての彼女は、スーリヤの王妃として不出来にもほどがあったから。でも、大侯の名前を忘れたりはさすがにしないのではないか、と思いたいのだけれど。
だとすると、ほかに考えられるとしたら──
(……王宮の外にも変化が及び始めているというの? もう?)
彼女がもつ少しばかりの未来の知識、それによって得られる優位など簡単に崩れ落ちてしまうのではないか。
変化が積み重なって──それによって未来がより良いものになる、なんて信じられない。そんな、都合の良いことは。
(私が余計なことをしたせいで、もっと悪いことが起きてしまう……?)
アルジュンが殺されてしまう以上の悪いことなんてあり得るのかどうか、アイシャには想像もつかないけれど。
「さあ、王妃様。お支度が整いましたわ」
「……ええ、ありがとう」
今日の衣装係は、よりにもよってダミニだった。
表向きは──としか思えない──にこやかな笑顔に応えるのは苦痛でしかなくて。鬱々とした不安はいっそう濃く黒く、アイシャの腹の底に凝った。
(太陽の神よ。私に力をお与えください)
あの紅玉は、今日もアイシャの胸もとを飾っている。
陽光を受けて燃えるように輝く赤は彼女を奮い立たせ、握りしめると掌に伝わるひんやりとした感触は、彼女の不安を宥めてくれる。
結局のところ、一歩一歩、一日一日を油断せずに進んでいくことしかできないのだ。
* * *
バーラン大侯ナタラジャンは、穏やかそうな老年の男だった。アルジュンやトリシュナ、アイシャへの態度も恭しく丁重なもの。……すべてについて、見た目には、と但し書きを添えなければならないのが恐ろしいのだけれど。
とにかく──王夫妻とその母を上座に、自身は下座に着いたところで、バーラン侯はにこやかに切り出した。
「王太后様はご壮健のご様子、まことに喜ばしいことです。若返られたかのような──」
笑んでいるのに、どこか猛禽めいた鋭さも宿す彼の目が捉えるのは、トリシュナの髪だ。アイシャが手ずから白髪を染めた──宝石も、花すら挿していないというのに、寡婦には過ぎた贅沢であるかのようなもの言いに、アルジュンの眉がわずかに曇る。
いっぽう、当のトリシュナは微笑を揺るがせることもなく淡々と答える。
「溌溂とした王妃のお陰でしょう。王宮が明るくなって良いことです」
「誠に。スーリヤ国の未来に栄えあれ」
王と王妃は仲睦まじく、姑との仲も円満でつけいる隙などない──トリシュナが暗に告げた言葉を、バーラン侯は相手と同じくらい淡々とした、綻びのない微笑で受け止めた。
侍女たちが行き来して、水や果実汁や菓子を並べていく。贅を凝らした美食はもちろんアイシャたちのためだけ、トリシュナは、バーラン侯に見せつけるように水だけで口を湿している。
トリシュナの振舞いを──あるいは、彼女が自分に対してそれだけ気を遣っているということそのものを──良しとしたのだろうか。バーラン侯は満足そうに頷いた。そして、その上でなお、まだ試すかのようにアルジュンに水を向ける。
「金糸銀糸を織り込んだ絹地を作らせましてな。広げると光輝くような、それは見事なものです。王太后様に差し上げようと思ったのですが、陛下はどのように思し召しでしょう?」
この申し出は、王の心の裡を測りつつ、王太后との関係に亀裂を生じさせるためのものだ。かつてのアイシャなら分からなかったかもしれないけれど、今なら、分かる。
アルジュンの思いに従うなら、受けるべきだ。寡婦だからといってこの世の楽しみから遠ざけられ、あまつさえ夫君に殉じてしななければならないということはないのだから。
けれど、トリシュナはその選択を不快に思うだろう。貞節な寡婦であるべきなのに、奢侈をさせられて侮辱された、と。もちろん、バーラン侯のほうでもトリシュナと同じ見解だろう。
(なんて、不遜な……!)
バーラン侯は、彼のような大貴族を敵に回してでも、母の機嫌を損ねてでも意を通す気があるのかどうか、と問うているのだ。敬い従うべき王に対して!
眉を寄せ、困惑を滲ませて視線を交わすアルジュンとトリシュナを差し置いて、アイシャは声を上げた。わざとらしいほど大きく無邪気な、歓声を。
「そのように美しい品でしたら、私が欲しいですわ! バーラン侯、よろしいでしょうか?」
そもそも献上するために持ち出した品を、惜しむ理由などすぐに思いつくものではないだろう。咄嗟にそう計算してのことだ。
バーラン侯に対しては微笑みながら、アイシャは必死にアルジュンに視線を送る。
(『無邪気な王妃の我が儘』です。分かってくださいますね……!?)
新妻の願いを叶えるため、という口実で、老獪な大貴族が勝手に課した試験を有耶無耶にしてしまうのだ。ここ最近で覚えた立ち回りを応用することを思いつけて、良かったと思う。
アイシャがしきりに瞬いた意味を、アルジュンは読み取ってくれたようだった。数瞬の間、戸惑うように絶句した後、彼はややぎこちなくも微笑んで、年上の大貴族に鷹揚に告げた。
「……そうだな。アイシャの望むようにしたい。バーラン侯、その絹を王妃の住まいに届けてもらえるか?」
「仰る通りにいたしましょう」
バーラン侯は、あてが外れて怒るか落胆したのかもしれない。けれど、例によってそれを表に出すことはなかった。
「さて、王太后様には目の毒かもしれませぬが、菓子も召し上がっていただきたく。蜂蜜も香辛料も惜しみなく使った最高のものです。果汁も、遅摘みの葡萄を絞った濃厚なもので──陛下の舌も満足させられるかと存じます」
それどころか、大侯がアイシャたちに菓子を勧める口調も手ぶりも滑らかで、二心などまるでないかのよう。トリシュナが菓子を食べないことを前提にした発言は、とりあえずは場を波立たせるものではないことだし。
(今日のところは、牽制ていど、だったのかしら。これで引き下がってくれる……?)
バーラン侯が誇った通り、確かに菓子の甘く香ばしい匂いは魅力的だった。軽く息を吐いたアイシャが菓子が盛られた盆に手を伸ばし、アルジュンが杯を持ち上げた時──
「それを呑んではいけません!」
高く鋭い声が、響いた。同時に、黒い影が飛んでアルジュンとアイシャの間に割って入る。アルジュンの手から杯が転がり落ちて、混じりけのない銀が柔らかな音を奏でる。零れた葡萄が、床に赤黒い水たまりを描く。
そして、杯を払いのけた勢いを借りて、睫毛が触れ合いそうな間近な距離でアルジュンに覆いかぶさったのは──
「バーラン侯は、王の毒殺を企んでいるのですわ!」
侍女のひとりとして立ち働いていたはずの、ダミニだった。




