Episode.6:銀と碧の戦争
碧き竜の威光は、球形結界の中にあっても、衰えることがない。
シエルは結界に近づくと、そっとその表面に触れ、目を閉じた。
「これほどの結界をあの短時間で作り上げるなんて。継ぎ目もないし、とても綺麗。なにより、アンガーテイル・アルビオンほどの上位魔獣を完全に封じ込めている」
「もともとは特定領域の要塞化のために編み出した術式だ。外部からの攻撃を完全に遮断する。だけどその反面、内部から外部へ影響を与えることもできない。使いにくいって思ってたんだけど、今回はそのおかげで助かったなぁ」
へらへらとそう言ってやると、シエルが目を開けて渋面を浮かべた。
「どうした?」
「あの、その、すみませんでした。私、きっとどこかであなたのことを信じ切れていなかったんだと思います。これまでの非礼について、謝らせてください」
深々と頭を下げるシエル。
そういえば、さっきまでさんざん否定されていたな、俺。
そう思ったけれど、まともな神経を持っていれば当然の反応だったようにも思う。
俺はほくそ笑んだ。
「気にするな。自分がイレギュラーなことくらい自覚してる。不信に思っても仕方がないよ」
「でも!」
噛みつこうとするシエルの話を、手を挙げて遮る。
「シエルはさ、本当に俺のことを信じていなかったわけじゃないだろ? ただ、自分が知らないこと、経験がないことを口にする俺のせいで、不安にさせられていただけだ」
振り返って見てみれば、彼女たちの気持ちを汲んでやれなかった自分にこそ非がある。
「セイルくん……ありがとうございます」
シエルはそう言って、もう一度お辞儀をした。
「そんなことよりも、お前はいつまでそんな喋り方をしてるんだ」
ずいっとシエルに近寄る。
「え、な、なんでしょう」
急に距離を詰められたシエルが、ぎょっと目を見開いた。広がった瞳の奥に、明確な動揺の色が見て取れる。
俺は眉を吊り上げて、
「違和感があるんだよ」
「い、違和感ですか? どうして?」
「だって考えてもみろ。呼び方はくん付けなのに、喋り方だけは馬鹿丁寧なんだぞ。おかしくないか?」
今さら何をと思われるかも知れないが、気になるものは仕方がない。
シエルが困り顔をする。あたふたと慌てふためく姿を見るのが、少しだけ楽しかった。
「いや、しかし、そんな気やすい喋り方は今までしたことがなくてですね……」
「このままいくと、一生気やすい喋り方なんてできないぞ。いい機会だから練習しないか? 今後、もし固い言葉遣いをしたら、そのたびに罰ゲームを受けてもらう」
「待ってください。それはさすがに不公平ですよ。罰ゲームを設けるなら、あなたにもペナルティがあってしかるべきでしょう」
彼女の言い分に、俺は自分の口角が上がるのを感じた。
「じゃあ、やるんだな?」
「……いいでしょう。受けて立ちます。ペナルティはどうします?」
「うーん、じゃあ、夜が明けるまでに固い言葉遣いをしたら、シエルの負けだ。その時は――あれ? 罰ゲームが全然思いつかない」
自分で提案しておきながら、なんたる体たらくか。
俺の有様を見ていたシエルが嘆息をした。
「では、負けた方が相手の言うことをなんでもひとつだけ聞く、という感じにしましょう」
「いいのか? この勝負、俺の方が圧倒的に有利だけど。あ、喋らないってのはなしだぞ!」
「そんなずるいことはしませんよ」
呆れたような顔をされた。
ともあれ、これで互いの意志は確認し合ったわけである。シエルがこほんと咳払いをした。
「――では、」
「ああ、スタートだな」
こうして、人知れず俺とシエルの個人的な戦いが始まったのだ。
しかし、肝心なことを忘れてはならない。
俺は頬を張ると、眼前の竜に向き直る。
『茶番は済んだか、人の仔よ』
「ああ、おかげさまでな。さて、アンガーテイル・アルビオン。まずは自己紹介をしよう。俺はセイル・ウォーカー。それで、こっちの女の子はシエル・カルサスだ。お前の名は?」
名を聞くと、竜はわずかに考える素振りを見せた。
『我らに名という概念はない。だが、呼び名がなければ不便というのも理解ができる。今後は、私をルノスと呼ぶがいい』
「ルノス、ねぇ。わかりやすくていい名前じゃないか。じゃあルノス、さっそくだけどこちらの質問に答えてほしい。なぜ、アルバレア大陸の北部に住んでいるはずのお前が、こんなところを根城にしているんだ?」
単刀直入に切り出した。
問いかけに、ルノスは逡巡し、ゆっくりと噛み締めるように答えた。
『我らの住処に異形の者どもが押し寄せてきたのだ。あれはきっと、近年貴様ら人間が争っているという化け物の群れだろう。その者たちによって、我が故郷は見る影もなく蹂躙された。山岳地帯にあったわずかな生命は、草木のひとつさえ残らなかった。最初は抵抗を見せていた仲間たちも、無尽蔵に増え続ける悪鬼によって、着実にその数を減らしていった。あの光景は今でも忘れない。私も当然、応戦に繰り出すつもりでいた。しかし――産卵期を迎えていた私は、まともな戦力にはなれない。そこで、せめて腹にある卵だけでも救おうと思い、長年暮らした土地から逃げ出したのだ』
捲し立てるように語ったルノスの目には、異形の者どもへの憎悪の念が燃えている。
俺はその目から視線を逸らし、王天樹の頂を見渡した。
「なるほど。そうして辿り着いたのがこの学院。ひいては王天樹の頂上だったというわけか」
ルノスが頷く。
『左様。もともとこの森には王がいた。銀色の毛並みを持つ、大きな獣だ。大銀狼といったか。とかく、私は彼の者と争い、結果としてこの地を奪った。申し訳ないという気持ちはない。私も仔の命を繋ぐために必死だったのだ。その中で、多くのものを傷つけたことは自覚している』
責めたければ責めろと言いたげな態度だ。
俺はあっけらかんとした調子で言った。
「まあ、そのことについて、俺からどうこう言うつもりはないよ。自然の摂理、弱肉強食だ。獣たちは負けた。文句があるなら、強くなって奪い返せばいい。それだけだろう」
俺のばっさりとした物言いに、ルノスは意外そうな顔をした。
『驚いたな。人とは、みな勝手なことを抜かす生き物と思っていたのだが、お前はどうにも違うらしい。世の理に向き合っている印象を受けたぞ』
「そう評価されることでもないさ。でも、お前たちが争うことによって実害を被る奴がいる。それだけは覚えておいてほしい」
害を受けるのは、もちろん真学院の人間たちだ。
「と、話を戻そう。確認だが、お前は自分の故郷が元に戻って、子供が助かるようならこの地を去る。そういうことでいいんだな?」
「その通りだが、ひとつだけ正しておこう。我が故郷の心配は無用だ。すでに悪鬼どもは、何者かによって滅ぼされたと聞いている。今ならば帰ることもやぶさかではないぞ」
「なら、なんでこの場所に固執する?」
問うと、ルノスはゆっくりと夜の深みを見上げた。
闇の中に鎮座した月を眺めながら、静かに答える。
『我が仔の誕生と、その巣立ちをこの目で見たい』
そこにあったのは、どこまでも純粋な親としての想いであった。
しかし俺は、耳ざとく彼女の言葉の違和感に気付く。
「誕生って、まさかまだ孵化していないのか?」
ルノスの仔は、まだ卵から生まれてもいない。
そこに考えが至った瞬間、天啓を得た気がした。
――なるほど。だから煮え切らない態度をとっていたのか。
竜の仔は、卵の時期に過ごした場所を故郷として認識する。生まれてからではなく、卵殻の中にいる段階で、周囲の様子を把握できているのだ。それはもう、五感というより本能に近い。
もし、この段階でいろいろな場所に連れていかれたら、仔は自らの故郷を持たない、はぐれ竜になってしまうのだ。
『じきに孵る。お前たちも気になるのなら、見てみるか?』
想定外の提案に、俺とシエルが目を剥いた。
「いいのかよ? お前、さっきまで俺たちを本気で殺そうとしてたのに」
『かまわん。どのみち、この状態では貴様を食い殺すこともできないのだからな』
球体の中で、さらりと背筋が凍えるようなことを言う。
ドラゴンが口にすると、単なる冗談に聞こえない。
ともあれ、ルノスの許可を得た俺とシエルは、卵を一目見ようと竜の巣に向かった。
身の丈ほどの高さがある大きなお椀型の巣は、樹や石で緻密に作りこまれている。強度も申し分なく、これならドラゴンの巨体であっても、そう簡単に潰すことはできないだろう。
住処としては、十分すぎるほどに機能的なものだった。
「わぁ、ドラゴンの卵なんて初めて見た」
シエルが子供のようにはしゃいでいた。表情を輝かせて、ひょっこりと巣の中を覗いている。俺も彼女にならって、巣の中へ視線を向けた。
中央にひとつ、艶のある楕円形の物体が転がっている。
「結構大きいんだね。私の腰くらいまでありそう」
「そうだな。たまに動いているようにも見えるぞ」
「え、本当ですか? 私は気付きませんでした」
「よく見てみろ。ほら動いた!」
「本当だ! すごい、生きてるんだ!」
初めて見るドラゴンの卵に、二人して興奮していた。
長らく召喚術師をやってきたが、こんな経験は滅多にない。これ以上ないくらいの貴重な体験だ。
『そこまで喜んでくれるなら、見せた甲斐があったというものだ』
「いやあ、ありがとうな。なんだかすごい興奮した」
「私も、こんな経験初めて。ドラゴンの卵については、資料や文献がほとんどないから、感動以外の言葉が思い浮かばなかったよ!」
俺も頷いた。そして得心する。
「でも、子供が孵化前だったことで、色んなことに納得がいったな。大銀狼に限らず、森の獣にこんなものを見せたら、確実に食われるか割られる」
「うん。ルノスは自分や生まれてくる子供のために必死で戦っていたんだね。知らない土地で、頼れるもののない中、ただ牙を研ぐことでしか生きていけなかった。そう考えると、誰が悪いとかっていう話じゃない気がしてきたよ」
「ああ。とはいえ、早いところ仔竜が生まれてくれないと、俺たちの問題は何も解決しないんだけどな」
ルノスの話を聞いたことで、解決せねばならない課題がふたつできた。
ひとつは卵が孵化し、生まれた仔竜がある程度成長するまで待たなければならないこと。
そしてもうひとつは、大銀狼への対策だ。仔竜がこの場にとどまり続ける以上、森の獣たちがそれを狙う可能性は大いにある。そうなったら、間違いなくルノスと大銀狼の全面戦争が始まるだろう。
それは想定できる未来の中でも、最悪の構図だった。
俺が先のことに対して気を揉んでいると、ふと、ルノスから視線を向けられる。
「なんだ?」
『こんなことを言えた義理ではないが、貴様に頼みがある』
「頼み?」
『ああ。私と大銀狼の仲介役になってほしい』
そう来たか。俺は事態が好ましい方向に転がっていくのを感じた。
ルノスは続ける。
『大銀狼の勢力の説得を行ってほしいのだ。今後一切、我らに危害を加えないように、と。そうすれば、こちらも奴らを痛めつけることはしない。まあ、私は別に奴らと全面戦争を行っても構わないのだが、それでは貴様に迷惑がかかるのだろう? 譲歩案として、両者の間に割って立ち、これ以上の対立が起きないよう取り計らわせてやる』
史上類を見ないほどの尊大な頼み方だと思った。いろんな意味で。
ほとんど脅迫に近いものだったが、彼女の言いたいことは理解できる。
俺は後頭部を掻き、答えた。
「こちらとしてもそのつもりだよ。どうせお前たちのことだ。直接的なやり取りで埒が明かないのは目に見えてる。戦争以外の手段が取れないことも何となくわかった。相手と対話しようなんて、考えたこともないんじゃないか?」
『否定はしない』
「そこは嘘でもしてほしかったけどな」
俺はがっくりと肩を落とす。
「まぁ、やるだけやってみるさ。うまくいく保証はないけどな」
自信無げにそう言うと、竜が笑った。
『問題あるまい。貴様は私と対峙する中で、結局ただの一度も攻撃魔術を使わなかったではないか。呼び出していた緑の人型も、逃げるばかりで手を出さない。そんな状況で事態を収めたのだから大したものだ。狼風情、苦も無く対処できるだろうに』
「そういう態度、間違っても獣たちの前で出すなよ。確実に戦争になるから」
釘を刺し、俺は思案を始めた。頭の中で様々なシミュレーションを組み立てていく。
だが、そのどれもが再現性の低いものだった。
何か、いい手はないのだろうか。
そう、思っていた時のことである。
俺は自らの背後――つまり、王天樹の樹洞の方から、おびただしい殺気が溢れるのを感じた。
すぐさま踵を返し、殺気のした方へ意識を向ける。
――まさか、つけられていたのか?
警戒はしていたつもりだった。だが、それでも気付けなかった。おそらく奴は、俺たちの持つ気配に、うまいこと自分の気配を重ねていたのだろう。
殺気と存在感の隠蔽技術が尋常ではない。
視線の先に、それはいた。
美しい銀色の体毛と、ゆうに三メートルは超えそうな体躯。血が滲んだ大きな口には、無数の牙が剣のように居並んでいる。月の光を受けて輝く威容からは、燃え上がるような激憤の色が見て取れた。憎悪と憤怒をたたえた双眸が、夜闇の中で鬼火のように揺らめいている。
「こいつが――大銀狼」
そう囁いたのとほとんど同時。
「ぐおぉおぉおおぉおおぉぉおっ‼」
耳をつんざくような絶叫が、王天樹の頂上に響き渡る。
最悪の対面。それが、今俺が抱いた素直な気持ちであった。