Episode.5:碧き鱗の美しきもの
王天樹の樹洞は複雑に入り組んでいて、進む者の方向感覚を狂わせる作りになっていた。
歩いても、歩いても、まったく前進した気にならず、不安と焦燥感に襲われる。
だが樹の頂へ近づくにつれ、そんなことを考えている余裕もなくなった。
――すでに気付かれている。
自らギロチンの断頭台に向かっているような気分だった。
竜が放つ静かな殺意が、じっとりと身体の周りにまとわりついている。
「シエル、ピルカと一緒に下がっていてくれ。じきに頂上に着く」
「わかるんですか?」
シエルの問いに、俺は首を振って応えた。
初めて訪れた場所だ。わかるはずがない。
でも、この先の空間には、尋常ならざる気配が充満している。
「感じるだけだ。確かな理由なんてない」
「そうですか。となると、やはりこの嫌な感じは気のせいではなかったみたいですね」
「わかるのか?」
「無論です。魔力察知は魔術師の基本的な技能ですから」
魔力察知。それが、俺に汗を流させている原因でもある。
通常のドラゴンはただ賢く強靭な生物でしかない。
だが、ある程度の年月を生きた個体は、その身体に魔力を宿す。
魔力は簡単に言うと、魔術を発動させる要素のことだ。
類似の概念は数多くあるが、最も広く知られたエネルギーであり、その性質はさらに細かく分類できる。
だがそれは、人間だけに与えられたものではなかった。
命あるものなら、誰もが扱うことができる。
当然、この先にいる竜とて例外ではない。
体感できる魔力量は、それだけで並みの魔術師が卒倒するレベルだった。
「セイルくん、ピルカが気絶しています!」
「むしろその方がいい。下手に騒ぐよりも安全だ」
俺たちはドラゴンにとって、完全に招かれざる客だ。
対峙した瞬間、奴は全力で俺たちを排除しに来るだろう。
対話の機会を得るためには、その攻撃を確実に回避しなければならない。
だから当面の問題は、気絶したピルカが邪魔になることだった。
「ピルカをそこへ寝かせてくれ」
「え、どうしてですか?」
「少し事情が変わった。魔力持ちの個体が相手なら、それなりの対応をしないといけない」
そう伝えると、俺はシエルの答えを待たずして、指先に光を灯す。
光は指の動きに沿って、空中に魔導陣を描き始めた。
『わが呼びかけに応えよ。〈深緑の巨人〉』
詠唱ののちに、魔導陣が激しく発光する。
陣はまたたく間に大きくなり、そこから木の身体を持つ巨人が現れた。
低いうなり声をあげて、俺の前に跪く。
俺は慌てて巨人を起こした。
「やめてくれ、そういうのは望んじゃいない。頼みを聞いてもらいたいんだよ」
俺の言葉に、巨人は二つ返事で頷いた。
「そこに転がってる太っちょを守ってやってほしい。赤髪の女の子と協力してな」
じっとシエルを見て、巨人はまた頷く。
「召喚獣? グリーン・ゴーレムとは、また珍しい種族と契約してますね」
「そうだな。でも、別に俺が一方的に呼び出すわけじゃない。必要があれば、俺もこいつのもとに駆け付ける。そういう約束をしてるんだ」
必要に応じて対応ができるように、俺は召喚獣との間に相互召喚のパスを繋いでいる。
助けてもらうだけでなく、こちらも助けになれるようにしたのだ。
説明すると、案の定、シエルが困惑した表情を浮かべた。
「えっと、つまり、セイルくんが召喚獣を召喚できるように、召喚獣側もまたセイルくんを召喚できると?」
「そういうことだ」
「なんだか……あなたの発想はつくづく私たちとは違っていますね。あ、これは誉め言葉です」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
祖父にも理解されなかった考え方である。
だが、理解されなくとも、認めてもらえるだけで十分嬉しい。
俺はグリーン・ゴーレムにピルカを抱かせると、安全圏まで下がらせて樹の頂上に躍り出た。
そうして、まばゆい光沢を放つ青い鱗を見たのである。
月の光を受けて輝く竜の身体は、息をのむほどに美しかった。
アンガーテイル・アルビオン。紺碧の鱗と、鞭のように細く強靭な尾を持つドラゴンだ。
アルバレア大陸の北部に生息する竜種で、本来なら険しい山岳地帯に巣を作る。
産卵期には特に気性が荒くなり、巣に近づく者を容赦なく襲うとされていた。
なぜ俺がここまで詳しいかというと、過去に一度、召喚契約を結んだことがあるからだ。
一時ではあるが、非常に強力な戦力になった。
「シエル……あいつの尾は見た目以上に射程が広い。いったん下がろう」
「この距離で後退? 少し慎重すぎませんか。あんなに穏やかな雰囲気なのに」
戦慄が背筋に駆け抜ける。俺は可能な限り手短に答えた。
「オーケー。じゃあ教えてやる。あいつの攻撃射程にはな、俺たちが今いるこの場所が――ばっちり入ってるんだよ!」
叫ぶのと同時、俺はシエルを突き飛ばした。
自らも横っ飛びで跳躍し、竜の急襲に備える。
果たして、次の瞬間には、それまで俺たちが立っていた場所に、嵐のような突風が襲い掛かったのだ。樹の地面が豆腐のように切り裂かれ、分厚い樹皮が抉られる。
攻撃の正体は竜の尾だった。
アンガーテイル・アルビオンの尾は、それだけで鋭くしなやかな鞭となる。
原産地では〈美しき紺碧の刃〉と呼ばれているほどだ。
ただ尾を振り回すだけで、一騎当千の威力となる。
それほど奴の戦闘能力は群を抜いていた。
「十数メートル以上あった距離で、あれだけの奇襲を成し遂げるなんて……」
「わかっただろ? 見た目は穏やかで綺麗な竜だけど、内面は数ある竜種の中でもトップクラスに攻撃的だ。油断してたら細切れにされるぞ」
「痛いほどに理解しましたよ。迎撃の態勢を取ります」
「いや、まだだ。俺に任せると約束しただろ?」
この期に及んでわがままを言う俺に、シエルが噛みついてくる。
「さっき自分で言ってましたよね? アンガーテイル・アルビオンは、数ある竜種の中でも攻撃性が高いって。だったら、悠長なことをしている場合ではないでしょう。すぐに対処すべきです」
「シエルの言い分もわかるよ。でも、冷静になって考えてほしい。なぜ、アンガーテイル・アルビオンがこんな森の中に巣を作っているのか」
結局、すべての疑問はそこに帰結する。
本来、山岳地帯で岸壁周辺に巣を作る竜種なのに、どうして森林地帯に――しかも原産地から遠く離れたこの学院にいるのだろうか。
それを知ることができれば、対話をする糸口になりそうなものを……
俺はじりじりと竜との距離を測りつつ、高速で脳を回転させる。
奴の標的を一本に絞るため、シエルにはピルカとともに下がってもらった。
「よぉ、夜中に不躾に訪ねてきたことは謝るよ。でも、なんでそんなに荒れてるんだ? お前ほど賢い竜種なら、俺たちに悪意も敵意もないことは理解してるよな? 狼も近くにはいない。それなのに、何をそんなに警戒している?」
語りかけるが、友好的な反応があるはずもない。
音もなく、再び竜が尾を動かす。
一方の俺は、そのコンマ数秒で魔術の基盤を組み上げていた。
詠唱の一部を破棄し、魔術を発動したという因果のみを引き寄せる。
大気中の微粒子を凝縮し、自らの盾として顕現させた。
「〈風の守もり人〉!」
発語と同時に、竜の尾が大気の盾に激突する。
凄まじい接触音のあとで、構築した盾が粉砕された。
だが、竜の攻撃を防ぐこともできたらしい。
尾を弾き返された竜が、やや怯んだ様子を見せている。
「アンガーテイル・アルビオン! お前に名があるなら、教えてほしい! 俺たちはお前と争いに来たわけじゃないんだ」
訴えに対して、返ってきたのは冷たい視線だけだった。
アンガーテイル・アルビオンは、伏せていた巨体をゆっくりと起こし、夜天に向けて凄絶な咆哮を放つ。
大気が震え、王天樹が揺れた。
「お前の故郷はこんな南にはないはずだろう? どうして森に巣を構えている⁉」
「ぐおぉぉぉおぉおぉっ‼」
言葉にできない威圧感が、全身の肌にひしひしと感じられる。
アンガーテイル・アルビオンは、己が身の丈をはるかに凌駕した両翼を広げ、数回羽ばたきを行った。
気象が変わる。無風だった王天樹の頂に、巨大な大気のうねりが生まれた。
うねりは俺たちの身体を飲み込むと、身体の動きを著しく制限させる。
と、その時だ。
音もなく距離を詰めてきた竜が、巨大な腕を俺に向かって打ち下ろした。
すんでのところで回避したけれど、穿たれた樹皮を見て絶句する。
撃ち抜かれた場所を起点にして、数メートル単位のクレーターができていたのだ。
さすがは生態系の頂点に君臨する生物である。
ただの一撃が、途轍もない威力を秘めていた。
もしも直撃をしたのなら、即死はまぬがれないだろう。
「やっぱり、でたらめな力を持ってるな、お前たちは」
息が詰まる。一度の判断ミスが死に直結する感覚は、久しく忘れていたものだった。
全身が嫌な高揚感に包まれ、戦いへの欲求が強まっていく。
――いや、そうじゃない!
いつだったか、戦いを欲していた時期があった。
そして今の一瞬、その頃へ回帰する欲望に取りつかれた。
俺は自分の頬を張り、意識を現実に引き戻す。
「……もう、あの頃の俺じゃない」
そう自分に言い聞かせると、再び詠唱破棄の防御魔術を唱えた。
「〈斜陽の帳〉、〈不具の御霊〉」
魔術の連続発動。幾重にも折り重なった結界が、竜の攻撃を続けざまに遮る。
詠唱破棄にともない、魔術ひとつひとつの精度は本来の数分の一程度になっていた。
だが、それでも竜の攻撃をいなすには十分すぎる。
単一の強力な魔術よりも、複数の魔術を組み合わせたものの方が対策されにくい。
年季が入った上位魔獣には、魔術そのものを食いつぶす輩だっているのだ。
術式のひとつやふたつは無効化されると思っていた方が、精神衛生的には楽である。
しかし、そうは言っても、このままではじり貧だった。
(何かないか? なんでもいい。あいつに俺たちの思いを届ける方法……)
魔術と思考の両方に脳を使っているため、途方もない演算処理を要求されている。
だが、俺への負担などはどうでもいい。何とか状況を打開する手立てがないかを考えていく。
そして、
「あったぞ! あいつに気持ちを伝える方法が!」
はたと閃き、俺は知れずに絶叫していた。
すぐに防御魔法の固定化を行い、呪文詠唱の準備に取りかかる。
アンガーテイル・アルビオンも俺の異変に気付いたらしい。
今までの悠然とした態度が一変し、より攻撃的で、より凶悪な戦闘スタイルに変容した。
咆哮に合わせて、口の周囲に複数の魔導陣が生成される。
魔導陣は回転を続けながらエネルギーを収束させ、空気を歪ませるほどの熱を帯び始める。
――竜の息吹!?
竜の目論見を察した瞬間、全身が戦慄で粟立った。
竜の息吹――俗にいうブレスには、対象を必ず焼き殺すという呪いが込められている。
もし、魔力を持った個体が同じ技を使ったなら、その破壊力は極大の一言に尽きるだろう。
(これまでとは比較にならないエネルギーを感じる。でも……ちょうどいい!)
そう思い、口角を上げつつも、俺の口はよどみなく術式の詠唱を続けていた。
両者の練り上げられた魔力が激突し、王天樹の樹上を異界化させる。
そして、わずかに俺の詠唱速度が、竜のそれを上回った時だった。
「――死出の門、天上の意志。あまねく不動の理は、世に真理の楔を呼び起こす。我が前に来たれ! 〈隔世の至り〉」
俺の身体からあふれ出ていた魔力が収束し、竜の身体を飲み込んでいく。
数瞬のうちに奴も攻撃を開始したが、もう遅い。
俺は、攻撃に用いられたエネルギーを自らの魔力に転用して、術式のさらなる強化を行ったのだ。
結果として、アンガーテイル・アルビオンは強固な球形結界の中に閉じ込められたのである。
「……すごい」
後ろで、シエルがそう呟いていた。
俺はかすかな疲労感を感じながらも、閉じ込めてしまった竜のもとへ歩み寄る。
「心に平定を。〈静穏〉」
精神的に落ち着ける術式を起動し、アンガーテイル・アルビオンの興奮を取り除いた。
すると、竜は目をぱちくりとさせて俺の方を見るのだ。
俺はその時、心に直接語りかけてくるような声を聴いた。
『人の仔よ。なにゆえここに来た?』
美しい女性の声である。俺は少しだけ面食らったが、すぐに気を引き締めた。
「アンガーテイル・アルビオン。俺はお前と対話をするためにここに来た。受けてくれるか?」
その問いかけに、竜は愚問とばかりに笑う。
『私は貴様に敗れた。好きにするがよい。聞きたいことがあるのなら、答えてやらんこともないぞ』
少し偉そうな物言いだったけど、竜なんてだいたいこんなもんだ。
そう思って、居ずまいを正す。
ようやく、竜との対等な議席を設けることができた。
あとは現状の原因を究明し、妥当な解決案を提示するだけ。
そう心に刻み付け、俺は問いかけの言葉を考えるのだった。