一章 胡蝶の夢 2/2
家政婦のような少年を屋敷に置いて、人込みであふれた街に繰り出す。数週間もの間にたったの三百五十三人しか犠牲にできない程度の魔術師ならば少年の手を借りるまでもない。加えて神楽寄子との一戦から三ヶ月、かなり安定しているとはいえ彼の体はまだ彼の魂のなす魔術に耐えられるかどうか保証がない。今回の依頼が目標に出会ってしまえば戦いは避けられないということを踏まえて考えればあまり彼に無理をさせたくなかった。
響子は笑顔や無表情、怒気をはらませた表情や憂いをのぞかせる表情で彩られた街を探索する。自分一人で十分だと思い単身、敵の痕跡を探索すること数時間。
「…手伝ってもらえばよかったかしらね…」
現在三百五十三人しか被害が出てないということは、その分しか痕跡はないという簡単なことを都合よく忘れていた。
敵の情報はたったの二つ。プルースト・アルデヒドという名前で、彼の魔術に囚われた者は夢遊病のときに、自分は蝶としきりにつぶやくということのみ。
手持ちの情報は少なく、今からでも少年を呼びつけて手伝わせようかと考えたところで疲れた表情をした背広の男が視界に入った。それだけなら珍しくもなかったのだが、しきりに何かつぶやいているようだった。
「三百五十四人目…かしらね」
?視る?という事柄に集中すれば、やはり他人の魔力が介入している。
「後はあの男が引張ってきた魔術の痕跡をたどれば目的の奴に大当たりってとこね」
そう言って足早に痕跡をおって行く。
ほどなくして追いつく。
そして一つの終焉が星に記録されることになる。
気付いていたのか深緑のコートを着た魔術師は廃ビルの屋上へと歩みを進める。
「ここなら問題はないだろう。出てきてはいかがかな? いつまでも人の後をつけるのはそちらもいい気分はしないのでは?」
もちろん私は気分が悪いと男は付け足した。
「それもそうね。まあ運良くあなたを見つけられたんだから、そう悪い気分でもないけど」
彼方響子という魔術師はいつもの調子で応える。
「運良く? ああ、たしかに運が良い。私の魔術によって救済されようとしている者からの魔術の痕跡をたどって来たのだろうね。なんという偶然、なんという幸運! 君は私によって救済される。恐れることはない、死こそ唯一霊長を救う真の救済なのだから」
「偶然ねえ…。魔術師がそんな言葉を口にするものじゃないわ。だいたい、偶然は人間では観測できない神秘の法則の隠語よ。どちらが偶然に引き寄せられたか、必然としてその結果がどうなるかを、あなたは計り間違えているわ」
「さてそれはどうだろうね?私は人々を救済しなければならない故、神秘の法則が私に牙を向けるなどとてもとても」
響子は露骨に面倒くさそうな顔をして
「一応確認してあげる、あなたがプルースト・アルデヒドで間違いないわよね」
その問いに、やはり魔術師は芝居掛かった大仰な返答をする。
「ああ、そのとおり。私がプルースト・アルデヒドで間違いない」
「そう、じゃあ早速で悪いけど死んでもらうわ。悪く思わないでね」
響子は思考を戦闘に切り替える。術式を発現させ魔術を行使する。だが、それは実行されなかった。
「貴女にも救済を、汝の心の底の望みを与えよう」
彼の?視線?が響子の意識に介入する。
「さあ夢見ることへの逃避を、死ぬことへの救済を享受するがよい。その権利が汝にはある」
――魔術が、発動する。
蝶になる夢を見る。いや蝶が私という夢を見ていたのか、私は蝶だった。蝶はただ浮遊するように翔んでいるだけ。ただその存在が果てるまで翔び続けるだけの仮初の永久機関。故にその存在に意味はなく、その命に意義はない。私だろうと蝶だろうとそれは同じことだ。
墜ちる。いつか墜ちる。意味なく墜ちる。必ず墜ちる。墜ちなければ。意味がないなら墜ちなければ。何よりこんなものに耐えられない。存在を放棄しなければならない。
墜ちる、墜ちなければ、墜ちたい墜ちたい墜ちたい墜ちたい墜ちたい…
「冗談っ」
全身に魔力を走らせ、深緑の魔術師にかけられた夢を跡形もなく砕く。
「なんだと!」
驚愕は深緑の魔術師のもの。
視線により相手の精神に介入し夢を見せ、あいての心そのものに結界を張る。長年の研究により得ることのできた魔術を自分の半分の歳月も過ごしていないであろう者に、あっさりと砕かれた。力差は歴然、しかし魔術師はここにきてもなお自身の運命を受け入れない。いや受け入れられなかった。受入れてしまえばすべてを否定されてしまうと直感したが故。
目の前には女性。表情はない。だがその瞳だけが殺意を放っている。
自分に向けられる刃のような殺気を彼は受け取れきれない。死によって人類の救済を望んだ男は、現時点で生による自身の救済を望んでいた。
響子は独り言のように語りかける。
「自分が蝶なのか、蝶が自分なのか。そんな意味のない思考は胡蝶が疑問に思う前から、人々は解決してきたのよ。私たちは人という存在、蝶という存在、どちらが現実でどちらが夢なのか、自身の意志で決めることができるんだから」
――魔術師は認めない。
「それは詭弁だ! だれもが心の底で自身に疑問を抱いている。そうでなくても自身になんの意味もないことに絶望を抱いている。それらを救済することが、私の使命だ!」
――魔術師は気付かない。自身に意味がないことに絶望し、救済という大義名分によって自分自身に無意味な意味付けをしていたことに。
そんな相手との問答には、それこそ意味はないと少し遅れて気付き、もう一度思考を戦闘に切り替える。
彼も相手に問答の意志はないことを悟ると。戦闘用の魔術の行使にはいる。こうなっては魔術戦を演じる他はなく、相手も同じであろうことを思考したためである。しかし二度目の驚愕が彼を襲う。
響子は魔術師の懐に潜り込んでいた。踏み込んだ速度は疾風のそれであり、懐に潜り込むまでの間に術式を発現させ魔術を行使していた。光を纏った拳で掬い上げるようなボディブローを魔術師の腹部に穿つ。形容しようのない炸裂音がする。鉄が内側から破裂するとこういう音になるのかもしれない。
彼方の家に伝わる魔術。物質という殻を持とうが持つまいが触れた瞬間に原子レベルで分解する破壊という概念を形にした魔術。
――存在しているのなら、物体だろうが霊体だろうが破壊する――
魔術師の存在が霧散する。原子レベルで分解された魔術師は苦悶の声も上げられず、雫一滴分の痕跡も残さずに消えていった。
響子は踵を返しその場を立ち去る。意味のない男の終焉の地であるそこは。死体すら残さなかったその男と同様に、意味などないのだから。
少なくとも響子にとっては
「お腹が減っちゃったわね。早く帰って優也が作ったご飯が食べたいなあ」
少年の用意した夕食のほうがはるかに意味を持っていた。