遠回り
「末筆ではありますが守永 様の、より一層のご活躍をお祈り申し上げます。」
これで何通目だろうか、少し前まではお祈りメールをもらうたび、人格を否定されているようでどん底まで気分が落ち込んでいたが、どんな状況にも人間は慣れるらしく、今ではいかにもペーストで貼り付けたであろう余白にすら憤りは湧いてこない。メールを半ば無意識に手慣れた操作で削除した菜月は、大股で家へと帰った。
「菜月、今日の晩ご飯何?」そう言って私を迎え入れるのは、交際相手の将也だ。ぐうたらだが頼りがいがあり、とても優しい人である。同じ大学の同じ英語学科に通う彼と付き合うまでにそう時間はかからなかった。お互い一人暮らしのため、付き合って以来、彼の家で半ば同棲のような暮らしを始めてもう一年になる。
「生姜焼き、将也好きでしょ?」そう言って菜月は下拵えを始めた。
「今日は魚の気分だけど、生姜焼きは好き」彼はとても優しいが余計なことを言ってしまう男だ。かと言って喧嘩になることはない。今更些細なことで怒る間柄ではないし、お互いを尊重し合える雅也との関係が、私は大好きだった。これまでも二人でそれぞれの夢に向かって努力してきた。
彼は私の作った生姜焼きを頬張っている。これで来年から彼自身の目標であった空港の入国審査員として働くことが既に決まっているのだから信じられない。私も夢である客室乗務員を目指してこの大学に入学したのだが、今年、世界中で大流行したウイルス性感染症の煽りを受け、航空業界は壊滅的だ。親の忠告もあり、今は一般企業の選考ばかり受けている。娘には安定した将来を送って欲しいという親の愛も理解できるが、わざわざエアラインスクールにまで通わせてもらったのだ。菜月の心の奥底では航空業界への未練が微かに燻っている。しかし、そんな未練を見透かされてか、来る日も来る日も届くメールには祈られてばかりである。
「結果、今日だよね、どうだった?」一通り生姜焼きを食べ終えた将也がそう訊いてきた。
「ダメだった。面接の手答えで薄々わかってはいたんだけど、まぁ明日も他の企業の最終面接があるし、切り替えて頑張る。」
「でも明日受けるのって滑り止めでしょ?」
事実として、明日面接に行く企業は、気まぐれでエントリーした、いわば「安全牌」の空調機器会社だった。社内に英語がわかる人材が一人もいないという、グローバリゼーションからはかけ離れた企業であり、面接時に、菜月が英語が話せると知るや否や中年の面接官が目を輝かせていた。おそらく明日も形だけの最終面接だろう。しかし、給料等の条件は悪くなく、現時点での第一候補だった。
「どこでも内定を貰えるならそれに越したことは無いからね、明日がんばってね。」そう言って皿を洗いベットに入る将也を見て、菜月も眠りについた。
翌日、やはり形だけの社長との最終面接を終え、手答えを感じつつ面接室を出ると、聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。声の主は二次面接で目を輝かせていたあの面接官の堀だった。
「守永さん、面接お疲れ様、社長もすごく褒めてたよ。」それを聞いて菜月は表情を緩めたが、就活生という立場を思い出し、丁寧にお辞儀した。
「そんなに萎縮しないで、本当はこんなこと教えるのはダメなんだけどね、君は内定確実だから」堀はそう言ったあと
「だけど守永さんほどの人材なら航空業界にも行けたんじゃないの?君も例の感染症で諦めた人?」堀は不思議な人だった。ズケズケと踏み込んでくるくせに、まるで不快感がない、そんな独特な話し方をする男だった。
「実は親に反対されて、そこからは一般企業しか受けてないんです。航空業界は募集人数を減らしてさらに狭き門になったので」 気づけば菜月は、二度しか会ったことのない、ましてや面接官の中年男性に胸の内の未練について話していた。堀は黙ってそれを聞いた後、少し考えて、口を開いた。
「ウチはとてもいい会社だ、それは間違いないし、僕もそう思ってる。けどね、君にとってのいい会社は君が心の軸に基づいて、君自身が選んだ会社だ。もちろんそうして選ばれた会社がウチであればたまらなくうれしい。重ね重ねでしつこいかもしれないが、君の内定は決まっているんだからね。少しくらい遠回りしたってかまわない。」
そう言って笑いながら去っていく小太りな後ろ姿を、菜月はしばらく見つめていた。
家に帰り、二人で夕食を食べながら、将也に今日の話をした。将也は笑いながら
「そんなこと言っても、女の人は出産もあるし、無理してリスクを犯す必要はないかもねぇ、菜月は俺が養ってあげるし」と言った。
菜月は身体中の血液が沸騰するような感覚に襲われた。理由はすぐにわかった。彼は私を「庇護される人間」として扱っているのだ。彼の優しさは、私を無意識下に下に見ているからなのだと気づいた。
彼は彼自身の尺度によって、私の幸せを決めつけている。それがたまらなく悔しかった。対等で尊重し合えていると思っていたのは自分だけだったのだ。彼は私の両親とは違い、私の幸せなど考えてはいなかった。
私は翌日、一度実家に帰り両親とこれからについて話した。両親は私の意志を聞くと、笑って送り出してくれた。
これからどんな人生を歩むのだろう。世間からすればとても幸せとは呼べない遠回りかもしれない。もしかすると私が手放す日々こそが世間が幸せと呼ぶものかもしれない。
しかし、一つだけ言えることがある。
私は自分の足で今ここに立っている。
私の心の軸は、確かにここにある。
菜月は大きく伸びをしたあと、その足で将也の家へと向かい合鍵を返し、彼の家を出た。
郵便局へと向かう私の手には、航空会社宛の封筒が握られていた。