3.アドレア・ストラーテンという少女
セントレア王国では、王族や貴族問わず、十七歳になる年から十九歳になる年まで、上級学校に行くことが義務付けられている。いままで家庭教師をつけて学んできたことに加え、社会での立ち回り方を学ぶためだ。
セントレア王国第二王子であるレオンも例には漏れない。
そのため、来月から始まる学校の準備と、学校に行っている間には勉強しづらい王族としての執務にまつわる勉強に追われて、やや疲弊していた。
あまりの疲労に一度倒れて、アドレアに三か月会うことを禁止されたほどである。しかし、それ以降は反省し、疲労はしつつも、倒れる前にはきちんと休むようにして、アドレアとの予定は復活させていた。婚約して五年も経つのだが、レオンにとってアドレアに会う日は、いつだって安らげる時間なのだ。だから今日も、疲弊していながらも、彼女の屋敷へと向かう。
アドレアと婚約してからの五年は、長いようで短い期間だった。アドレアは何かにつけて婚約の解消を促してきたが、レオンは意外とこの関係性を気に入ってしまっていた。
アドレアもレオンも、互いに執着しているわけではない。しかし、そこに愛がなくとも、友情ぐらいはある、とレオンは思っていた。
そしてその友情があれば、意外とこのまま結婚してしまってもうまく行くのではないか、と。
そんなことを考えていたら馬車の揺れが止まり、扉が開かれた。
レオンは少しだけ息を吐き、首をふるふると振って気合を入れる。自分が疲れているということを、アドレアに気取られないようにするためだ。
そして馬車から降りたレオンは慣れた足取りで屋敷の中を進んで行く。
そして客間に通されると、部屋の真ん中に用意されたソファに、アドレアは座っていた。
「アドレア」
レオンが名を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
そして、なぜか眉を顰め、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は外でのんびりしましょうか。天気もいいことだし」
「君が外に出たがるなんて珍しい」
「私をひきこもりみたいに言わないでいただける?」
「ごめんごめん。そういうつもりはなかったんだけど」
王城の時には庭園でお茶を飲んでいることが多いが、ストラーテン家の屋敷では、どちらかといえば、室内でいることの方が多かった。そのため、アドレアは室内の方が好きなのではないかと思っていたのだ。
「行きましょう。適当なものを包ませるから」
「ありがとう」
アドレアに先導されて、レオンはストラーテン家の屋敷の外に出た。そうしてしばらく歩いていくと、大きな池のそばの木の下でアドレアは立ち止まった。
そして使用人に向き直って言った。
「それを預かるわ。ストラーテン家の敷地内で誰かに襲われることはないでしょう。だから、あなたたちは戻っていいわ」
「承知いたしました。お迎えにはあがりましょうか?」
「いいえ。私がこの屋敷で迷うとでも思っているの?」
「愚問でした。ごゆっくりなさってください」
アドレアが使用人の持っていたバスケットを受け取ると、使用人はアドレアの言葉通り屋敷へと戻っていく。普段はアドレアがこうして人払いをすることがないため、レオンはそんな彼女の行動を不思議に思った。
「人払いなんて、何か話したいことでも?」
「……いいえ。単にそういう気分だっただけ」
アドレアはそういうと、木の下にゆっくりと座った。ドレスが土に汚れるのもかまわず、外で座るなんて彼女らしからぬしぐさだった。
「座らないの?」
アドレアに言われて、レオンはその隣に腰を下ろした。
池の上を通ってきた風だからなのか、涼やかな風がレオンの横を吹き抜けていく。眼前の池は太陽の光に照らされてキラキラと光っているが、レオンとアドレアは大きな木の陰にいるおかげで太陽も直接はあたらない。心地よい空間がそこにはあった。
「学校への入学準備は順調?」
隣に座っているアドレアが、下からレオンの顔を覗き込むようにして聞いてきた。
「順調に進んでいるよ。幸い、兄上のおかげで、学校側の準備も万端だからね」
「王太子殿下は今年ご卒業されたのよね」
「そうだよ。兄上が入っていた寮に入れ違いで入る形になる。部屋も全く一緒だ。多少、荷物を入れ替えるぐらいで私は入学できるというわけさ」
「……でも、学園側はともかく、レオンは大変なんでしょ」
「どうして?」
「どうしてって、そんなに疲れた顔をして言われてもね……」
アドレアの言葉に、レオンはかすかに眉を上げた。まさか気づかれてしまうとは思っていなかったのだ。レオンは、どちらかといえば、取り繕うことが得意な方だと自負していた。比較的、感情が読みやすい兄と違い、レオンは何を考えているのかわからないと言われることがほとんどだった。
「なんでわかったのか、って顔してるわね。何年の付き合いだと思ってるの」
「五年だね。でも付き合いの長さでは必ずしも測れないさ。君と母上以外で、私の本心を言い当てる人に会ったことがないからね」
「……そう。とにかく、やすみなさい。疲れてるんでしょう」
「でも……」
レオンが言いよどむと、アドレアがぐいっと腕をひっぱってきた。あまりに不意を突かれた行動で、レオンの体はアドレアへと傾いていく。そうして、レオンの頭は、すっぽりとアドレアの膝に収まる形で止まった。
いわゆる膝枕である。
「しばらく寝れば、その顔も少しはマシになるでしょう」
唐突に、レオンはアドレアが珍しく外に出た上に、人払いした意味を理解した。
つまり彼女は最初から、こうするつもりだったのだ。
「……すこし経ったら、起こしてほしい」
「ええ」
静かなアドレアの返事を聞くと、レオンは目をつむった。
どうやら思っていたより疲れていたようだ。目をつむると、レオンは急激に眠気に襲われた。彼女のぬくもりと甘い香りも、もしかするとレオンの導眠に一役買ったのかも知れない。
そうしてどのくらいの時間が経っただろうか。
レオンは自然と目を覚ました。ゆっくりと目を開けると、太陽がだいぶ傾き、池は橙色に染め上げられていた。
思っていたより眠ってしまったことに気づいたレオンは、はっと目を見開き、顔を上に向けた。
「起きたの? ……すこしはマシになったわね」
アドレアはそういうと、珍しく、口元をほころばせた。どことなく彼女の満足気な表情に、レオンは妙に落ち着かない気持ちになった。
「まだ眠る?」
「いや。起きるよ。ありがとう」
これ以上甘えていては、彼女の足に負担がかかりすぎる。ただでさえ、レオンは数時間くらい眠っていたようなのだ。
レオンはゆっくりと身を起こすと、アドレアに向き直った。
「起こしてくれてよかったのに」
「……起こす理由がなかったのよ。たまには静かに日向ぼっこも悪くないわ」
アドレア・ストラーテンという少女は、こういう少女だった。
普段話しているときは不愛想で、王族であるレオンにもある種不遜な態度をとる。その代わり、持ち前の観察眼と頭の良さで、レオンに心地よい時間をくれる。しかも彼女はそうしたレオンへの気遣いに対して、決して恩を着せることはない。
だから、レオンはアドレア・ストラーテンを婚約者にしてから、一度として彼女以外に目を向けたことがなかったのだ。
「私の婚約者殿は、ずいぶんと気が利くね」
「いつでも解消してくれていいのよ。腐っても侯爵家だから、あなたに婚約破棄されても、きっとどこかには嫁げるわ」
こんなやりとりは日常茶飯事だった。
アドレアはいつだって、王子妃になりたくないとためらわずに口にした。いつもなら、そんな彼女の言葉を適当に聞き流していた。
しかし今日は、アドレアの言葉通りになった時のことを想像して、ひどく嫌な気持ちになった。
アドレアが他の男のものになる。
それが、明確に嫌だと思ったのだった。
「アドレア」
「? どうしたの?」
「私は、君との婚約を解消するつもりはないよ」
レオンが告げたその言葉に、アドレアは少なからず驚いたようだった。それもそのはずだ。レオンは今まで、彼女の婚約解消の提案を明確に拒否したことはなかった。
「急にどうして?」
「さあ……。どうしてだろうね」
今日アドレアと会うまでは、アドレアとレオンの間には恋情はないと思っていた。あるのは穏やかな友情だと。
しかし、レオンはようやく気付いたのだ。
アドレアがレオンをどう思っているかは分からないが、少なくともレオンには、アドレアへの愛があるということに。
レオンは渡したくないのだ。アドレアを誰にも。
「レオン? どうして笑ってるの?」
どうやら無意識のうちにレオンは笑ってしまっていたようだった。
「秘密」
レオンは今度は意図的に微笑んで見せた。
今はまだ、彼女にこの思いを告げることはない。
ただ、気づいたからには、振り向かせてみせよう。何年かかっても、必ず。
この日を境に、レオン・エメラルド・セントレアは、アドレア・ストラーテンを振り向かせるべく奮闘することになる。
それが思っていた以上に困難で、レオンを苦しめることになるとは、この時はまだ、思ってはいなかった。