2.この茶番を永遠に
アドレア・ストラーテンを婚約者に選んでからの、レオンの一日は激変した。
まず、あれほど頻繁に催されていた茶会や夜会の数がぐっと減り、それを埋めるかのように、王子としての勉強や訓練の時間が増えた。
また、婚約者として選ばれたアドレアの生活も同じく変わったようだった。
「忙しい」
「そうですね。ですが家庭教師が褒めていましたよ。あなたはなんでもすぐに吸収すると」
「それは何度も同じことを言われるなんて時間の無駄だからよ」
今日はアドレアとレオンが親交を深める日だった。婚約者となってから、お互いを知るためといって、週一度、互いの家を行き来している。
今回はアドレアが王城に来たため、王城の庭園の一角で用意された休憩スペースに、アドレアとレオンは向かいあい、たわいのない話に興じていた。
夜会や茶会と違い、アドレアとの話は楽しかった。彼女の話は理路整然としていて、付け入る隙のないものだった。たとえ疑問に思って質問しても、的確で明快な答えが返ってくる。
基本的にはレオンが質問し、それに愛想のまるでないアドレアが答える形での会話だったが、途中でふと、アドレアは思いついたように質問してきた。
「あなた、いつ私を解放する気なの?」
「迷惑そうにおっしゃいますが、あなたにも利点があるとおもうんですよね。あなただって、婚約者を探す茶会や夜会から解放されているでしょう?」
「あなたのせいで嫁き遅れそうだわ」
アドレアは苛立たしげに、紅茶に角砂糖を放り込むと、やや乱暴にかき混ぜた。
レオンでさえ小言を言われがちなマナー講師が絶賛していたのだから、その気になればアドレアは完璧な淑女になれるはずだった。
しかし彼女は、レオンの前では淑女を演じる気がないらしい。
「私があなたを解放する前提なんですね」
「それはそうでしょう。あなた、自分に興味がない女を妃にする気?」
「どうでしょう。必要があれば、そうするかもしれません」
アドレアが紅茶を口に運んだ。その所作は美しく、完成されていて、むしろ先ほどの所作の方が彼女が意識をしてやったのだと思わされた。
彼女は紅茶を飲み終えると、ふとレオンの方を見た。彼女の青い目にじっと見つめられると、なんだか落ち着かない気分になる。
「どうかしました?」
「いつまでその胡散臭い話し方をする気なの?」
胡散臭い、とまた言われて、レオンは言葉に詰まる。話し方は意識して変えているつもりがなかったため、予想外の指摘だったのだ。
「あなたの素の話し方は、あの時の台詞でしょう?」
「あの時?」
「私にまるで興味がないなんて、万々歳だ。それだけで君を選ぶ理由になるよ。っていう台詞。忘れたの?」
「ああ……なるほど」
たしかにあの時のレオンは普段よりも砕けた口調だった。あの場面では胡散臭いと言われたことに対する当てつけの気持ちもあったためだ。
あの場のレオンは王子として取り繕うことよりも、自分の感情に正直に行動していた。それが素というならば、確かにそうなのかもしれない。
「私に対して、今更猫を被っても遅いじゃない。それなら普通にしていなさい。そうじゃないと、私が王子にこんなぞんざいな話し方できないじゃない」
「本音は後半にありそうですが……そうだね。君に対して、取り繕うのもおかしな話だ」
レオンが話し方を切り替えると、アドレアは満足したように唇の端を釣り上げ、頷いた。
レオンが無理やり婚約してから、アドレアは口調の雑さも、無表情さもなにもかも取り繕うことを放棄しているようだった。
そのため、こうしてたまに笑みをこぼさせることに成功すると、レオンは妙な達成感を得た。
「君は……どうして怠惰な生活を送りたいの?」
紅茶を静かに飲んでいた彼女は、伏せていた目線をあげ、レオンを見た。
何度か瞬きをした彼女は、優雅に首を傾げてみせた。
「面倒なことが嫌いなの」
「でも君は家庭教師の授業は真面目に受けているし、成績も優秀だ。天才の称号すらほしいままにしている。面倒ごとが嫌いなら勉強もマナーも、もっと雑になるんじゃ?」
「目の前の面倒ごとを放置して、将来の面倒ごとを増やすことを察せられないのは馬鹿なのよ。私は貴族に嫁ぎたい。それの方が、私が働かなくていいもの。でもそのためには、私の価値を上げる必要がある」
なるほど。とレオンは思った。
彼女は怠惰に生きたいといいながら、最低限、自分に必要なことを見極めている。
真に怠惰に生きたいなら、ある程度家格の高い貴族の家に嫁ぐべきという彼女の思考は、非常に論理的だった。家格の低い貴族では、使用人が少なく、女主人に求められる仕事も多い。
「それなら私の妃も悪くないじゃないか。大抵のことは使用人がやる」
「何を言ってるの? まったく違うわ」
アドレアは呆れたような表情で首を横に振ると、すっと立ち上がり、レオンの方まで歩み寄ってきた。そして、テーブルのレオン側に片手をつくと、レオンの方を指して言った。
「あなたは、貴族ではなくて王族よ。しかも第二王子。すなわち王位継承権は第二位。あなたを担ぎ上げたい人間や、あなたを退けたい人間からの思惑に、あなたは晒され続けなければならないわ。その王子妃なんて、面倒ごとの最たるものよね。人間関係の闇ほど、私を煩わせるものはないわ」
「つまり、私が臣下に降れば、君は満足するということ?」
レオンの切り返しに、アドレアは視線を上に向け、なにやら考えているようだった。
その間に風が彼女の髪をさらい、長い銀の髪が波を打って揺らめく。陽光を受けた髪はキラキラと輝き、風の収束とともに彼女の背にそっと落ちた。
「あなたが臣下に降っても、やっぱりダメよ。王位継承権はあなたにあるはずだもの」
「王位継承権を捨てることが、条件というわけか」
「そうね。でも、できないはずよ。王族の男児は今、二人しかいない。傍系まで辿ればいるけれど……」
アドレアは途中までは自信のある淀みない口調で言い切ったが、最後の方は少し言葉の続きを躊躇ったようだった。
そのため、アドレアが言い淀んだ言葉の続きは、レオンが引き取ることにした。
「傍系の王族は稀代の遊び人だ。あれが王になれば、王族の家系図は、いっきに賑やかになるね」
「そうなれば、必然的にあなたは王位継承権を放棄なんてできないわよね?」
「どうかな?」
レオンはあいまいに彼女の疑問に対する返答を誤魔化した。
レオンの中では、兄こそが王になるべき存在だった。自分が王に、などと考えたこともない。望むままに動いていいのなら、むしろ王位継承権は完全に放棄したいぐらいだった。
ただし、二つ年下でまだ十歳のアドレアが言うように、レオンは王位継承権を放棄できる立場ではない。それは、兄が結婚し、子どもが生まれるまでは続くだろう。
彼女はそんなレオンの微妙な立場を、きっちりと理解している。
王宮の家庭教師がおべっかから“天才”の称号を与えたわけではないことが分かる。
「ねえ、聞いてる?」
思考の海から帰ってくると、長いまつ毛に縁どられた青い目が目の前にあった。
その美しさに思わず息をのみ、レオンは体を少しのけぞらせて、問い返した。
「ごめん。なんだって?」
「私はしばらくこのバカげた茶番に付き合わされるのよね? あなたの虫よけとして」
「だとしたら、どうなんだい?」
「私のことはアドレアって呼んで。私はあなたに敬語を使う気はないわ。胡散臭い話し方であなたが私に話すのも勘弁。それなら、親しいふりをするに越したことはないもの」
「……なるほど。じゃあアドレア。君も、私のことを名前で呼ぶといい。その理論だと、お互いにそうすべきだよね?」
アドレアがしてきた提案だというのに、彼女はなぜか少しだけ渋い顔をした。しかし、レオンのいう言葉が理にかなっていると納得したのだろう。
少しためらいながら、彼女は口を開いた。
「レオン」
初めて名前を呼ばれたこの時の、何とも言えない感情に名前をつけることはできない。
ただ、今でもはっきりしているのは、この時のレオンは、一ミリだって、彼女を手放すことを考えてはいなかったということだ。