17.カルラ・エリサルデ
『アドレア 攫われた 恐れ』
その文字が目に飛び込んできた瞬間、レオンはぐしゃりと手紙を握りつぶした。
息苦しい。心臓の音が直接耳に鳴り響いているかのようだった。まさか恐れていた事態が起こってしまうなんて思わなかった。
こんなことならば、アドレアに早く事情をはなして警戒を促せばよかった。
「殿下!」
テオバルトの声に我に返ったレオンは、手紙を持ってきた兵に尋ねた。
「それ以外の伝言は?」
「ルーク様は、順当に思い当たる節を当たられる、と。ただしそれが間違っていた時に、レオン殿下まで同じ場所に来るのはロスになるため、殿下は殿下で心当たりのあるところを、と」
わざわざ本題を紙に書いたのは、これにウェストカーム王家の紋章の透かしが入っているからだろう。この伝令の言葉の真偽についてレオンが悩む必要が無いように。
「順当に思い当たる節、か……アドレアを誘拐したのがカルラ・エリサルデであるなら、まずは王都にあるエリサルデ家の別邸にいくのが順当だろうな」
「確かにそれなら、アドレア嬢は途中まで自分が誘拐されていることにも気づけないでしょうね」
「急ぎ、エリサルデ伯の別邸に向かう」
レオンは高らかにそう宣言すると、自室を後にした。
そこからは、まさしく時間との戦いだった。
第二王子の婚約者を害そうとしている者の屋敷に行くのに、レオンとテオバルトを含む数名の騎士で身軽に行く、というわけにはいかなかった。
そのためレオンがすぐに動かすことのできるレオン直属の騎士をほぼすべて動員し、エリサルデ伯の別宅に向かう羽目になった。人数が増えれば増えるほど行動は遅くなりがちだが、レオンの苛立ちが伝わったのか、あるいは、さすがは王子直属の騎士というべきか、招集理由を告げた五分後には、全員準備が整っていた。
全員が馬に乗り終わり、これから城を出るというところで、レオンは一度大きく息を吸った。そして、高らかに宣言した。
「これより、アドレア・ストラーテンの救出に向かう! 何よりも優先すべきはアドレアの無事だ! アドレアの生死にかかわるようであれば……迷いなく斬れ!」
何を優先するかを決めておくことが、有事の際の判断をわずかながら早くできる。迷いを消し去ることが、秒単位で生死が争われるような瞬間には必要なのだ。
レオンは自分の騎士たちが、自分の命令に応えたのを確認するなり、馬を駆った。
馬の手綱を握る手が、かすかにふるえているのが分かる。それは馬上の振動ではなく、レオンがこれまでにないほど、動揺しているからだろう。
それは、未だかつてない恐怖だった。アドレアに婚約破棄されるかもしれない、という恐れは常にあっても、アドレアがいなくなってしまうかもしれない、という恐怖は感じたことがなかったからだ。
それに、今、自分がしている判断がもしかすると全くの見当違いで、アドレアを連れ去ったのが違う人物である可能性もまだ残っている。いっそ、アドレアが誘拐されたという情報事態が間違いであればいいが、ルークは確信がないのにレオンに連絡を寄越したりはしないだろう。たとえ、その手紙に確信ではない、という意味合いの文字が書かれていたとしても。
必死に馬を走らせて、エリサルデ伯の屋敷の前に着いた時、レオンは自分の判断が間違っていなかったことを確信した。
「これは……!」
一緒に連れていた騎士の数名が声を上げる。
エリサルデ伯爵家の門は不自然に開き、門番と思われし男が数名倒れていたからだ。
「状況が読めないが……仮にアドレアの件と関係なくとも、屋敷に踏み込む理由としては十分そうだな」
レオンはそういうと、屋敷の中へと踏み込んだ。
そうしてしばらく馬を走らせた後、遠目からでも馬車が止まっているのが見えた。その馬車を数名が取り囲んでいるのが見えた。
そして、遠目でも、レオンが絶対に見間違えることのない人物が、そこにいた。
「アドレア!」
レオンとその直下の騎士団が馬車の周囲を包囲した時、状況は最悪ではなかったが、最善とも言えなかった。
カルラ・エリサルデがアドレアに剣を突きつけており、その周囲に数名彼女の仲間と思しき男たちが剣を抜いて立っていた。久しぶりに見るアドレアの姿は相も変わらず美しかったが、やはり動揺しているのか、顔が青ざめている。
そして、カルラたちに相対しているのは、ルークとおそらく彼女の手の物である五人ほどだ。
「助けに来たの……?」
カルラ・エリサルデはレオンの姿を見て、なぜか動揺しているようだった。まるでレオンが助けに来るのが予想外だとでも言わんばかりの様子だ。
「アドレアを放せ」
レオンは馬から降りると、アドレアを見た。首元に突きつけられた剣は、まだ彼女の肌を傷つけてはいないようだったが、危うい。
「っ……あなたたちがおとなしく婚約していれば、こんなことはしなくて済んだのよ」
「どういうこと? どうして、あなたはこんなことを?」
剣を突きつけられながらも、アドレアは落ち着いた声でカルラに問いかけた。
カルラはどうやら何が何でもアドレアを殺してやる、といった雰囲気ではなさそうだ。しかしどことなく悲愴な覚悟を持っているようにも見え、素直に説得に応じるようにも見えなかった。
「カルラ……いや、ミーシャ・ノクティス」
ルークが静かに語りかけると、カルラはびくりと肩を揺らした。
「その名を……どうして?」
「カルラ・エリサルデが随分前に亡くなっている、ということは調べがついた。当時の医師を見つけ出したからな」
「亡くなっている? では、カルラはいったい……?」
アドレアが戸惑った様子でそういうと、カルラが突然笑い出した。それは、どこか狂ったような笑い方で、彼女の手元がぶれてアドレアの肌を傷つけるのでは、とレオンは危惧した。
「私が誰かって? そうよ、そこの王子が言うように、私はミーシャ。貧民街の出身で、エリサルデ伯爵とは縁もゆかりもない女よ。でも私は、カルラとしてこの十年を生きてきた。……まさか私の本名がバレるとことになろうとは。たとえこの策に失敗しても、カルラ・エリサルデとして、私を……利用したあの男の娘として死んでやろうと思ったのに……!」
カルラは怒りのためか、手が震えているようだった。それが微かにアドレアの首を傷つけ、アドレアが小さく息をのんだのが分かった。
「やはりこれは、エリサルデ伯爵の指示なんだな?」
ルークが静かに問いかけると、カルラはふんと鼻を鳴らして首肯した。
「そうよ。最初の伯爵の作戦は、王子妃になることだった。でも、アドレアが王子妃に内定したから、いったんはそれを伯爵もあきらめて、今度はアドレアと親しくなるようにと言われたわ。未来の王妃と親しくすることで、権力を高めようと思ったんでしょうね」
「未来の王妃? 何を言っているの? レオンは第二王子よ?」
「あら、アドレアも知らされてなかったの? エイブラム殿下を排除しようと動いたのよ、あの男は。そうすれば、レオン殿下は瞬く間に次期国王。……まあ、それが失敗したから、今、あなたを誘拐することになっているんだけど」
カルラはどうやらエリサルデ伯爵の悪事をすべてつまびらかにする気のようだった。死なば諸共ということだろうか。彼女がエイブラムが排除されそうになった事実を知っているということは、エリサルデ伯爵の関与がほぼ決定的になったと言っても良い。すでに証拠があるとはいえ、証人がいるのといないのでは今後の動きのスムーズさが変わってくる。
「……なるほど、通りで……」
カルラの言葉に、アドレアはアドレアで思うところがあったようだ。小さく何かをつぶやいている。
彼女を早く解放してほしいところだが、今のカルラの状態はかなり不安定だ。自分が助かる見込みがないと思えば、アドレアを巻き添えにして自死を選らぶ恐れもある。
カルラの注意がルークに向いている間に少しずつレオンはカルラとアドレアに近づいていた。
「どうしてこうなってしまったのかしら……。レオン殿下、私はあなたが憎いわ。あなたのせいよ」
カルラの頬から伝った涙は、アドレアの肩へと落ちていった。
レオンは突然向けられた憎悪に驚きながらも、静かに問い返した。
「私が、何をしたと?」
「あなたがアドレアを愛したから……いえ、そもそもあなたが付け入るスキを与えたから……」
カルラはそういうと、顔を上げた。
その表情を見た瞬間、レオンはまずいと直感した。
「だから私は友人を殺す羽目になった!」
カルラはそう激昂して叫んだ。
そして次の瞬間、アドレアのドレスが、鮮血に染まった。