15.第一王子の病
その知らせは、突然だった。
正に晴天の霹靂で、その報告を聞いた時、レオンは頭の中が真っ白になった。
第一王子エイブラムが急病で倒れたと言うのだ。
あの病とは無縁の兄が、と訝しむのも無理はないだろう。レオンの記憶の中にあるエイブラムはいつだって王にふさわしい風格を持ち、病など寄せ付けないような強いパワーを持った王子だった。
その彼が”病”で倒れたというのはいささか、いや、かなり疑問が残る。
むしろ、誰かが毒を盛った、とでも言われた方がしっくりくるぐらいだ。
考え事をしていたからだろうか、しばし近衛の先導に従って馬を走らせていると、あっという間に王城が見えてきた。レオンが城に着くと、エイブラムに普段ついている近衛の一人がレオンの到着を待ち構えていた。
「レオン殿下! お待ち申し上げておりました」
「様子は?」
「お部屋までご案内いたします」
「わかった。馬を頼む」
レオンは馬から降りると、手綱を馬番に渡し、早足で歩いていく近衛についていった。もう少し城は大騒ぎになっているかと思ったが、城内の様子はいたって落ち着いていた。どうやら情報が統制されているようだ。だからこそ、開けた場所で話すのを近衛は避けたかったのだろう。
それを察したレオンは、ただ通常通りの帰城を装って黙々と歩いた。
時間が時間でもあったため、第二王子レオンの突然の帰城に、やや驚いた表情をして迎えるものたちも多かったが、学校に入学してからそういう突然の帰城がないわけではない。みな、少し驚いた後に、通常通りの仕事に戻っていった。城ですれ違う者たちの表情を観察しながら、レオンは王城の中にある一室に通された。そこはエイブラムの部屋ではなかったが、治療のためにエイブラムがここにいるのだろう。
通された部屋は、一見、王城の中にあるただの客間のように思えた。広いといえば広いが、病に倒れたエイブラムを置いておくにはやや警備が手薄に見える部屋だ。
窓は広くベランダもあり、侵入経路が多い。ただ、厳重ではないからこそ、利点もある。それは、事情を知らぬものにエイブラムの体調不良を気取られることなく、ことを進められるからだ。
それにしたって、警備が手薄だ、と思っていたら、レオンの近衛が急に部屋の本棚の前で立ち止まった。
さらに奥の部屋にエイブラムがいると思っていたレオンは、その行動に驚いたが、次の瞬間、事態を理解した。本が引き抜かれると同時に、本棚がゆっくりと回転して道が開けたためだ。どうやらエイブラムは隠し部屋の奥にいるようだった。
ここまで来て、レオンは半ば、エイブラムが急病ではないだろうことを確信していた。本当に急病で倒れたのだとしたら、ここまで厳重に隠す必要はない。隠す必要があるのは、エイブラムの身に起きたことが、人為的な悪意によるものだと、少なくとも王家はそう思っているという意思に他ならない。
「レオン殿下。お手数ですが、後ろの仕掛けを閉ざしていただけますか。ただ閉めていただくだけで問題ありませんので」
本棚の合った場所をくぐり後ろを振り返ると、壁の横にレバーがあった。それを引いてみると、ゆっくりと本棚が回転し、道が再び閉ざされていく。
本棚の先の道は、案外長いものだった。すぐに部屋にたどり着くのかと思ったが、しばしそっけない石壁の道が続いた。何度か分岐路もあったため、一人で帰れと言われたら、やや怪しいかもしれない。
しばし歩いた後、急に視界が明るくなった。
そうしてたどり着いた先は、幼いころレオンが住んでいた離宮だ。
「ここに出るのか……」
「レオン殿下やエイブラム殿下がこの離宮に来た、ということを誰にも悟らせないために、遠回りをさせていただきました」
「やはり、兄上の容態は、箝口令を敷いているということか」
見知った建物を案内されながら、レオンは思考を巡らせた。
エイブラムが倒れたことを隠すにしても、想像以上に警備が厳重だ。あるいは、誰が犯人かを釣りに来ているともとれる。エイブラムに関わる人間の数を減らせば、情報が漏れた時に、犯人を特定しやすい。
情報が漏れたと判明するのは、噂になるか、新たなる事件が起きるか、の二択だ。
「失礼いたします」
レオンが考え事をしていると、いつのまにかエイブラムのいる部屋にまで案内されていた。
部屋の中はシンプルな作りだった。
大きなベッドが部屋の隅にあり、その横に小さなベッドサイドテーブル、そして、ソファとローテーブルが部屋の真ん中にあるだけだった。
当然のごとく、エイブラムはベッドに横たわっていた。
元気な兄の姿しか知らないレオンにとって、エイブラムがいかにも具合が悪そうな、青ざめた顔でベッドの上にいるというのは衝撃が大きい。
「レオン……久しぶりだね」
「兄上は急病……というわけではなさそうですね」
子どものころは無邪気に砕けた口調で話していたが、今はエイブラムは正式な王太子だ。レオンはいつからか敬語を使うように心がけていた。
レオンがベッドに近づくと、そっとそばに控えていた侍女が椅子を差し出してきた。レオンはそれに礼を言って座ると、病床に伏せる兄を見つめた。
「どうなさったのですか?」
「問う前に、レオンの仮説を聞かせてもらえるかい?」
「失礼いたしました。そうですね……帰城した時、城はいつもの穏やかな雰囲気で、特に慌てた様子はありませんでした。それはつまり、兄上がこのような状態になっていると知らないからでしょう。そして、兄上の状態が秘されているということはつまり、兄上は病気ではないのだと思っています。襲われたのか、毒を盛られたのか……何かしら、兄上を害そうとした者がいるからこそ、兄上はここにおられるのかと」
「いい推察だ。毒だよ」
病床でもなお、兄が王太子であることに、レオンはとてつもない安心感を覚えた。
彼は青ざめているが、選ぶ言葉は今まで接してきた兄であり、王太子のエイブラムとなんら変わりはない。
「私も手の者に探らせます。兄上を害すならば、おそらく……」
「おそらく、レオン、お前を王太子にしたい者の仕業だろう」
その可能性はあると思っていたが、それだけが推察される理由の全てではない。
兄の表情を見つめると、どこかこちらを伺うような様子があった。
「あるいは、兄上に強い恨みのある者か」
レオンがそういうと、エイブラムはゆっくりと唇を横に引いた。
彼は事あるごとにレオンを試している。
お前は王子なのだぞ、と教え刻むかのように。
「兄上の政敵か、兄上の行った施策で影響を受けた者をまずは洗います」
「ありが……ごほっ! っ!」
「兄上! 大丈夫ですか?」
椅子から立ち上がり、咳き込んだエイブラムの背中をさすると、彼は片手を上げ、大丈夫だ、と言わんばかりにレオンを見た。
「死にはしない。ただ……」
「ただ?」
「レオン、君が王太子になるかもしれない、ということを、君はどう捉えている?」
その質問は、この部屋で青ざめた兄を見た時以上の衝撃をレオンに与えた。
レオンが王太子になる恐れがある事態だということを今の今まで、微塵も考慮できていなかった。兄が死ぬ、あるいは王太子でなくなるほど弱る、ということをレオンは想像できてないなかったのかもしれない。
あるいは、自分が王太子になった時、アドレアが離れていくことを恐れて、それを望めないから、その可能性に見て見ぬ振りをしたのだろうか。
「レオン?」
兄が優しく、しかしながら、逃げは許さないとばかりに名を呼んだ。その言葉にレオンは顔を上げ、そして本音を打ち明けた。
「私は王子として生まれた以上、状況により王位を継ぐ可能性があることは、承知しております。その責務から逃げる気もありません。ですが……王位を望んでいるかと問われれば否です」
「本当に、望んでいないと?」
エイブラムが何故か不安げな表情を見せた。その表情は何を意味するのだろうか。
ただ、彼がどんな表情をしようが、レオンの気持ちが変わることはない。
「はい。私にとって王位は、状況に応じて果たすべき義務ではありますが、望みではありません。私が唯一、強く望むのは、きっとアドレアの心だけなのです。そして彼女は、王妃になることを嫌がっています。彼女と平穏に結婚したいなら、王にならぬ方がいい」
「なるほど……アドレアか。そうか。王位が望みではないのは分かった。ただ、アドレアがどうあれ、いざとなれば、王位を継ぐ覚悟は持ちなさい」
「承知しております」
兄に話したことで、レオンは自分の心に向き合えた気がした。
王位を投げ出すこともできないが、だからこそアドレアにそばにいてほしいのだ。王になろうがなるまいが、やはりレオンにはアドレアが必要だ。
そしてアドレアと平穏に暮らしたいなら、まずはエイブラムの敵を見つけることが先決だ。彼を王太子にすることこそが、レオンの望みを叶える道なのだから。