13.第一王子と第二王子
軽快な音楽に合わせて体を揺らす一組の男女がいた。
日に焼けた肌に、エキゾチックな顔立ちの青年ルークと、透けるような白い肌に、絹糸のようなすべらかな銀髪の少女アドレアだ。
二人は驚くほど息ぴったりに、楽し気に踊っていた。
何を話しているのかは分からないが、アドレアの表情を見て、二人が意気投合しているのが傍から見ても分かる。
先ほど、アドレアの交友関係の広がりを望んだくせに、こうして実際に誰かと仲良くしているのを見ると嫉妬する、というのは心が狭いという言葉に尽きる。
レオンはそんな自分の感情を持て余しながらも、それを表情に出さないように気を付けた。
レオンはルークが隣国の王女であるということを正しく理解しているつもりだった。アドレアと楽し気に踊る青年の中身が何たるかを、頭ではわかっているのだ。しかし、実際がどうあれ、アドレアが他の男と踊っているように見える今の状態は、やはりレオンの心を荒ませた。
心なしか、自分といるときよりもルークといるときの方が楽しそうに見える。
そんなことを考えてレオンは首を緩く振った。
ここにいては、アドレアの邪魔をしてしまいそうだ。
そう思ったレオンは、そっと大広間を抜け出して、バルコニーに出た。夜風がレオンのマントを揺らした。揺れたマントを止めるのは、アドレアが送ってくれた留め具だ。
アドレアの瞳を思わせる美しいサファイアがあしらわれたその留め具に手を当てると、レオンはゆっくりと息を吐いた。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
夜風に乗ってピオニーの花の香りが、レオンの意識を現実へと戻す。
「アドレア」
やや確信をもって振り返りながらその名を呼ぶと、やはりそこにいたのは、サファイアの瞳を持つ少女アドレアだ。
「振り返る前に名前を呼ばなかった?」
「香りで分かったよ。君はこういうとき、いつもその香水をつけている」
そしてその香りは、アドレアが初めてくれた贈り物と同じ香りだ。
「……本当、記憶力のいい男ね」
称賛しているような、呆れているような、そんな絶妙な表情をしたアドレアは、まあいいわ、とレオンの隣に並んだ。そして彼女は意図することなく上目遣いになってレオンを見つめた。
ダンスを踊って上気した頬はアドレアの従来の美しさに色を添えており、普段アドレアに見慣れているレオンでさえも、その色香にぐらりと来るものがある。
「レオン?」
「……あ。すまない。君も休憩かい?」
「ええ」
アドレアはそういうと、レオンから目を話し、空に視線をやった。その先にあるのは瞬く星なのか、それとも雲隠れした月か。
「私は、もう一つ意外だったことがあるわ」
唐突に切り出されたその話題が、数日前の会話の続きなのだと気づき、レオンはその続きを待った。
「あなたが、あなたとの婚約に足る女と、まったく絡みがないことよ。噂になっていないだけで接点のある女はいると思ったのに」
「他の女に現を抜かす婚約者より、そういう誠実な男の方がいいだろう?」
「あなたをずっと婚約者にしておくつもりなら、そうね。でも私は―――」
「―――私が王位継承権を放棄したら、君は素直に結婚してくれるのか」
以前も似たような話をしたことがあった。
しかし今回は、以前よりも断然本気だった。レオンは、自分の望むものを手に入れるために、王位継承権を放棄することを真剣に検討しているのだ。
その本気が伝わったのか、アドレアが動揺した表情を見せた。
「あなたが卒業までに婚約解消する気にならなかったら、私はあなたと結婚する。そう伝えたのは忘れたの?」
彼女は微妙に論点をずらして返した。彼女のはレオンとの婚約にかなり消極的だが、それ以上にレオンが自分のために王位継承権を放棄することの方が嫌なのだろう。そしてそれはレオンを思ってのことではない。レオンにそういう行動をさせてしまった自分と、それに対する周囲の反応を憂いて彼女はそれを阻止したいのだ。
「聞いたよ。でも、それは君にとって最善手ではない。君にとって最悪の未来にならないための予防線にすぎない、だろう?」
「それは……」
「私は、君に私を望んでほしいんだよ」
「王位継承権を放棄してでも? 正気なの? それが……どれほど重い選択で、どれほどあなたの周囲の人に迷惑をかける行為か理解しているの? あなたのお兄様だって、そんなこと……」
「……理解しているつもりだ。私にかけられた期待も、私が兄上と全く同じことを今まで教育されてきたことの意味も、私の中に流れる血の宿命も、すべて」
理解してるからこそ、レオンはこの道を歩もうと決めたのだ。
レオンの大切な二人の憂いを取り払うこの道を。
「あなたの捨てるものと、あなたが得られるものは、本当に得られるものの方が大きいと思っているの? その道を進んで、あなたは私の憂いを取り除く以外の何かを得ることができるつもりでいる?」
「それはもちろん。……君のためだけに王位継承権を放棄する、と宣言したほうが格好がつくのかもしれないと思ったんだけど、それは嘘になるから、本当のことを伝えようと思う」
君のためだけでなく、兄上のためでもある。
そう言って、レオンは昔話を切り出した。
レオンにとって、第一王子エイブラムとの出会いは鮮烈であった。
エイブラムとレオンは母を同じくする兄弟であったが、実は初めて顔を合わせたのはレオンが七歳の時である。セントレア王国の習わしとして、国王の子どもは七歳になるまで本城ではなく、離城で過ごし、国王と王妃、および身の回りの世話をする従者や教育係以外の人間とは顔を合わせない。
それは、できるだけ接点を絞ることで、狙われやすい王の子供を守るためとも言われているし、自制ができる前の兄弟間の諍いを避けるためとも言われている。
「レオン殿下は本当に芸事に秀でていらっしゃいますね」
「それに比べてエイブラム殿下は……」
六歳までのレオンにとって、兄エイブラムは名前だけの存在であった。
レオンに聞こえていないと思って教育係や使用人同士で話しをする時、彼らは必ずエイブラムを引き合いに出してレオンを評価したからだ。
ある時はレオンが評価され、ある時はエイブラムに比べて劣っているという烙印を押された。しかしそんな彼らといちいち衝突するのはバカらしいし、それを母である王妃も望んではいない。
口さがない噂には、毅然とした態度で応じろと母は常々言っていた。あなたが王子としてふさわしい行動をしていれば、自然とみんなそれに従うものなのだから、と。
母の言葉があったから、レオンの評価に必ずついてまわる兄の存在を、ただ素直に受け止めていた。噂話をかき集め、総合的に判断すると、兄の方が人間味にあふれていて、芸事に弱く、しかし抜群に頭が切れる、というのがレオンとの相対的評価であった。
そのことを事実としてレオンは受け止め、羨望するでもなく、かといって見下すわけでももちろんなく、どんな顔なのだろうか、と想像しながら過ごしたものだった。
そして、いよいよ七歳になり、レオンは生まれて初めて本城に足を踏み入れた。狭い世界で生きてきたレオンにとって、美しく壮大な本城は、なんともいえぬ不安と、胸躍るような期待を抱かせるようなものだった。
「あ……」
その人物と対面した時、思わずレオンは声を漏らしてしまった。
色こそ違うが、自分とよく似た目をした金髪の少年が、目の前に立っていた。着ている服装と顔の造形から、間違いなく彼が自分の兄だとレオンは悟った。
「エイブラム。この子がレオン、あなたの弟よ。レオン、こちらがエイブラム、あなたの兄よ。せっかくだから、庭園を案内してらっしゃい、エイブラム」
「はい、母上」
母の言葉にエイブラムはうなずくと、行こう、とレオンを誘った。
兄の声はよく通り、快活な笑顔が印象的だった。レオンを庭園まで案内する道すがらだけでも、顔見知りの騎士や役人と言葉を交わし、朗らかに笑い、その実直な様子で兄が親しまれているのが分かった。
「ここが母上が気に入っている庭園なんだ。離城にもある花がたくさんある」
エイブラムはそう言いながら庭園の真ん中にある噴水の前にポツンと置かれたベンチに腰をかけ、レオンにも座るように促した。
「本城に来た感想はどうだい?」
「そうですね......今まで過ごしていた場所とは比較にもならないほど広くて、少し圧倒されました」
「敬語は要らないよ。私は君の兄だからね」
「承知し......わかったよ、兄上」
兄上、という言葉を出すのは初めてで、レオンは躊躇いながら、それでもそれを悟られるのもいやなのでできるだけ平静に努めて言った。
すると、エイブラムはその単語に感動したらしく、あからさまに嬉しいと言った表情を見せた。
「レオンに会えるのを楽しみにしてたんだ。兄と呼んでくれて嬉しいよ」
兄はストレートに感情を伝えられる人間だった。本当に同じ育ち方をしてきたのかと疑うくらいに。
そしてそんな兄を見て、なるほど人間味がレオンよりあるという評価はこういう言動から生まれているのだなと腑に落ちた。
「兄上は……想像していたよりも、話しやすくて安心した」
「ははっ。そうかい? それは良かった。実の弟に話しにくいやつ、と言われるのは辛いからね」
兄弟二人が黙ると、噴水の水音だけがその場に響いた。護衛の騎士たちはどこかにいるに違いないが、二人の前に見える位置に堂々とはいない。
初めて会った兄弟は、お互いに何を話すべきか思案していた。そしてやはりというべきか、先に話題を提供したのは、人生の先駆者である兄エイブラムだった。
「レオン。本城では、今まで以上に君の為すこと全てに茶々を入れるものが出てくると思う」
「それは……覚悟な上だ。どうせみんな好きに言いたがるからさ」
「そうさ。でもね、レオン。君は君の歩きたい道を自らの意思で歩き、それを周囲に認めさせる必要がある。第二王子としてね」
「歩きたい道?」
「私は、この国の王になって、国民みんなが笑顔になれる、そんな国を作りたいんだ」
齢九歳の兄エイブラムが語った言葉は、大人からすれば子どもの世迷言だったかもしれない。
しかし、その言葉を発したエイブラムの本気はレオンにはしっかりと伝わってきた。
何より衝撃的だったのは、同じ王子として育ってきた自分は、この立場と影響力を使ってこの国を良くするのだと、自分の意思として捉えたことがなかったことに気づかされたことだった。
レオンはずっと、王子としての道を歩まされているつもりだったが、第一王子として立つ兄は、自らその道を選び進むと決めていたのだ。
「私の理想を綺麗事だと笑わせないぐらい、実力のある賢王になる。そのためになら、私はきっとなんだってするだろう。それが、私の決めた道だ」
明るく迷いのないクリアな声は、レオンにきっと彼はそうするのだと確信させた。
子どもの夢だと笑われることは承知でも、きっとエイブラムはそのために全力を尽くすのだ。
「それなら、第二王子としての道を決めないといけないのか」
「そうだね。第二王子として何ができるか、考えてみて欲しい」
その時、エイブラムに宣言こそしなかったが、既にレオンは心に決めていた道があった。
エイブラムが太陽となってこの国を照らすのなら、レオンは影としてそれを支えられればいい。
自分は自分ごととして国民の幸せを願うほどの度量はないかもしれないが、エイブラムの歩む道を整えるための手段を思いつく頭はある。
ここまで話し合えた時は、アドレアは何かに気づいたような顔をした。もしかするとレオンの言動で、行動原理が腑に落ちた部分があったのかもしれない。
「だからね、アドレア。私の道は、王位継承権を捨てるところにあるんだよ。兄の道を脅かさないためにも。私はそれを望んでいるんだ。私が下手に継承権を持ったままだと、国が割れる恐れもあるしね。そして、この道は君の歩みたい道と重なる部分があるはずなんだ」
「あなたの考えは分かったわ。私たちの婚約は、お互いの意思を尊重できる合理的な選択だということも。でもそうすると……」
アドレアは何かを言いかけて口をつぐんだ。
その先の言葉が気になって、レオンは問い返したが、アドレアは首を横に振った。
「なんでもない。いいわ。そういう考えなら、私もあなたとの婚約を続けることを認めたほうがいいのかもしれない」
初めて前向きな答えをもらったという一点においては、アドレアの心に近づけた気がした。しかしそれでいて壁があるようにも感じるアドレアの答えに、レオンは何か自分が伝え方を間違えたのでは、と気になったが、どこがいけなかったか、ということに思い当たることはなかった。