12.リプレゼンタティブ・ダンス
セントレア王国第二王子レオン・エメラルド・セントレアは、非常に目覚めの悪い朝を過ごした。
というのも、自分の婚約者が、見知らぬ男にサファイアの装身具を渡して、ダンスホールに行ってしまう、という今のレオンの心配をそのまま具現化したような夢を見たからだ。
アドレアの性格上、婚約者がいるこの時点でそんなことをやりはしないだろう。心のうちはともあれ、自身のあるべき姿から逸脱しないことで、彼女は面倒事を遠ざけているのだから。
それでも、アドレアへのプレゼントを鞄に入れながら、朝食に向かうレオンの足取りは重かった。
以前の約束どおり、朝食は一緒にとっているので、その時に渡すことは決めていたが、その時に昨日の買い物は何だったのか問い詰めずにいられるか、レオンは自分に自信がない。
そんな気持ちで待ち合わせ場所に立っていると、爽やかな声がレオンの耳に届いた。
「おはよう。レオン」
「おはよう。アドレア」
まだ朝も早く人がいないからなのか、二人でいる時の気安い声で話しかけてきたアドレアは、風に靡く美しい銀髪を押さえながら言った。
「これ、あげるわ」
そう言いながら、アドレアが差し出してきたのは、質の良い紙に包まれた何かだ。
これはまさか、と思って受け取るなりお礼もそこそこに包みをあけると、アドレアのに瞳を思わせるようなサファイアのついた留め具がでてきた。
月桂樹をモチーフにした繊細な意匠に、澄んだサファイアをはめ込んだその留め具は、正装の時に身に着けるマントによく映えそうなものだった。
他の男と買い物に行っていたことを気にしていたあの憂鬱な気分が、これをアドレアが自分にくれたことによる喜びで吹き飛んでいった。アドレアがなぜこれを自分にくれたのかは分からないが、あの店に入って買ったものが自分へのプレゼントであったことだけで十分だ。
「どう?」
レオンがしばしの間言葉を失っていたからなのか、アドレアが覗き込むようにこちらを見つめてきた。そんな彼女の可憐さに目を奪われながらも、レオンは平常通りの笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。嬉しいよ。マントにもすごく映えそうだ」
「ふふ。そうでしょう?」
「じゃあ、私からはこれを君に」
レオンはカバンから持ってきていたイヤリングの包みを取り出し、アドレアに手渡した。
アドレアはそれをいったんは受け取って、そしてあることに気が付いたような表情で、レオンの胸にその包みを押し付け、こういった。
「う、受け取れないわ! これを受け取ったら交換になってしまうじゃない!」
半ば叫ぶようにそういったアドレアの様子を見て、どうやらアドレアは装身具を交換するという例の流行りを知っているようだった。婚約破棄をして優雅な貴族生活を続行したいアドレアとしては、レオンとの仲が良好であることを願掛けするのはためらわれるのだろう。
そこで、レオンはどうにか”交換”を成り立たせるために一芝居打つことにした。
「交換して、何か困ることがあるの?」
「え……あ……なるほど。そうよね……私も想定していなかったんだから、レオンも交換のつもりじゃなかったのよね……お互いがそのつもりじゃないなら……」
「アドレア?」
小声でつぶやきながら逡巡しているアドレアが冷静に考えられないよう、レオンは畳みかけるようにアドレアの名前を呼んだ。まるで、自分はまったく何の他意もない、と言わんばかりの笑みで。
「……なんでもない。ありがたく頂戴するわ」
「開けてみてくれる?」
「ええ」
思惑どおりアドレアにプレゼントを受け取らせることに成功したレオンは、彼女の反応をただじっと待った。
彼女は包みを丁寧に開けると、中から出てきたイヤリングを見て目を丸くした。
そして徐にそれを取り出し、彼女はそれをその場で耳につけた。
耳にかけられた絹糸のような銀髪と、エメラルドのイヤリングは、既製品であるというのに、彼女のために作られたかのごとく似合っていた。
「気に入ったわ! どう? 似合うでしょ?」
「綺麗だよ、アドレア。つけてくれてありがとう」
新入生歓迎パーティの時を想定した贈り物ではあったものの、日常使いできるようなデザインのものを選んだおかげで、こうしてすぐに身に着けてくれるのは嬉しかった。
正式なパーティではドレスに合う装身具をオーダーメイドで作らせるが、そういうときのものは、基本的に一度きりしか使われない。それはドレス自体を複数回着ることがないため、それに合わせて作られた装身具は、その一部として同じ扱いを受けるからだろう。
そんな風に考えたから、レオンはお礼を言ったのだが、それを聞いたアドレアは、さも当然とばかりに肩をすくめて言った。
「せっかくもらったものを付けないのもおかしいじゃない。まあ、あなたのそれは、正装の時じゃないとつける機会がないものにしてしまったけれど、既製品だし、この学校のパーティーぐらいでしか使えないかしら?」
「いや? そうでもないんじゃないかな? 既製品といえど、君のことだからそこそこのお店で買ったんだろう?」
「ええ。一応、うちと縁がある商家を選んだけれど……」
レオンの記憶の中で、アドレアに消えもの以外をもらったのは初めてのことだ。それがどことなく嬉しくて、衣装係にどうにかこれを正装の時の装身具としてねじ込んでもらえるように言っておこう。
「それなら大丈夫だよ。せっかくアドレアにもらったものだから、一回だけというのはもったいないしね」
「そう……。それならオーダーメイドにした方がよかったかしら……」
「アドレアが選んでくれたというのも嬉しいよ。アドレアも既製品じゃ嫌だった?」
「いいえ。これは日常使いできるもの。今度からは、日常的に使えるものを考えるわ」
「ありがとう」
今度から、とアドレアが未来を匂わせる発言をしたことに、レオンはなんだか嬉しくなった。
もちろん彼女のその言葉に深い意味がないことは分かっているのだが、少なくとも彼女は、またレオンにあげてもいい、と思ってくれているのだろう。
そして、その数日後。
新入生歓迎パーティ当日がやってきた。
「踊っていただけますか、アドレア」
「ええ。もちろん」
正装したアドレアをエスコートしてダンスホールに入る。代表舞踏のためだ。
学校中の視線が集まるこの瞬間、レオンやアドレアに緊張はない。なんだかんだで婚約者になってからの年月で、二人はすっかりこういう場に慣れていたからだ。
いつものように彼女の細い腰に手を当て、視線を送る。彼女は心得たばかりに美しく微笑んで見せた。
それが、第二王子の婚約者としての仮面だと知りながら、レオンはその美しさに見惚れずにはいられなかった。
自分を写すサファイアの瞳を見つめながら、曲の始まりと共にレオンは最初のステップを踏み出した。
「意外だったわ」
彼女がステップを踏むたびに揺れるエメラルドのイヤリングを視線で追っていたら、アドレアが唐突に言った。
口調から察するに、彼女は一昨年のルナリークとは違い、ダンス中の会話は他人に聞かれることはないだろうと踏んでいるようだ。
「なにが?」
「ルークという友人を作って、あなたがちゃんと学校生活を楽しめていることが、よ」
「それに関しては、ルークのおかげかもしれないな」
「そうね。そしてそれでもなお、あなたはきちんと第二王子としての自分も両立している」
彼女は誰と比較しているのだろう、とレオンは思った。あなたは両立している、ということは、両立できていない誰かを前提にしている。
そしてこの状況で言うならば、それはアドレア自身のことに他ならないだろう。
「アドレアは、両立できない?」
「......ええ。そうね。私はいつだって多重仮面を纏っている。もう自分でもどれが私か分からないぐらいにね。多重仮面を纏う限り、私に真の友人ができることはないのよ」
アドレアはダンスの中で、自然とレオンの胸に頭を寄せて視線を下げた。だから、その先のアドレアの表情をレオンは窺い知ることはできなかった。
「だから私は、あなたが羨ましい」
低く呟かれたその時の表情は。
「ねえ、アドレア」
仄暗い感情を孕んだ声音を聞きながら、それでもレオンは動揺を見せずに、彼女をリードし続けた。
そして、彼女の言葉でどうしても聞き捨てならなかった部分だけを確かめる。
「アドレアは......私に対しても多重仮面をかぶっているの?」
アドレアにしては本当に珍しく、ステップが乱れた。
レオンはそれとなくそのミスをフォローして、ことなきを得る。周囲の人間は誰もその小さなミスに気付いてはいないに違いない。
「レオンには......それは、被っていないけれど、だからといって、じゃああなたは私の友人なの?」
「友人は婚約者や恋人を包括する概念だと思うから、その答えはうん、と答えるよ。でも、人間の関係性というものは難しいね。その線引きは目に見えるのでも、絶対性があるものでもない。ただ、自分の中でその人との距離と、見せる一面を決めて分類してるだけだから」
彼女は人生を出来るだけ小さな摩擦の中で生きていきたいのだろう。彼女は怠惰でありたいと昔言っていたが、本質的な部分は、人間関係の面倒から抜け出したいのではないか、とレオンは思っている。
彼女の過去の何がそう思わせるのか、今までそれを問うことを許してくれなかったけれど、彼女と過ごした少ない年月で、レオンはそう感じていた。
「君は敵を作る覚悟をした方がいいと思うんだ」
「敵?」
唐突に言ったレオンの言葉に驚いたのか、アドレアは周囲から顔を隠すそぶりも見せず、ただ目を丸くしてレオンのリードに身を任せている。
「心を許した味方を作るためには、誰かを敵に回す覚悟がいると思うよ。そうでなければ、本当の意味でその人の味方になれないし、なってももらえない」
「随分と哲学的ね」
「そうかな? そうかもしれない。でも、私は君の味方でいようと決めているから、君の敵は私の敵になる。私はそれでいいと思っている。もし私が誰も敵に回したくないというなら、アドレアが誰かと敵対した時に、私は中立でいないといけないだろう? そんなやつを本当の意味で信用できるかい?」
「それは......たしかにそうかもしれない。でも、敵を作るなんて」
「自ら敵を作りに行く必要はないよ。ただ、アドレアが真の友人を得難いと思っているのは、そこを恐れているからなんじゃないかと思って。アドレアだって、常にストラーテン侯爵家の模範的淑女である必要はない。私の前ではそうしないように、その範囲をアドレアは広げていいんだ」
アドレアが自分だけに心を許してくれるというのも、嬉しいことではある。
しかしアドレアがその閉鎖的な状況を望まない以上、レオンは状況打破に協力したかった。
彼女はいつだって、ストラーテン家の長女として完璧でありすぎる。それが枷となって彼女は動けずにいる。だから、その背をレオンは押すのだ。
「それにルークは、君の友人なんだろう?」
「それはそうよ。だってルークは……そっか……やっぱり、私はストラーテン家の娘という立場にこだわっていたのかしら……」
レオンの言葉に考え込むアドレアはそれでもダンスに迷いは見せなかった。長年の訓練が、彼女がたとえ考え事をしていても完璧なステップを踏ませるのだろう。
曲が終焉を迎え、二人はダンスを終えた。二人で踊っていることがあまりにも自然だったため忘れていたが、割れんばかりの拍手によって、これが代表舞踏だったと気づかされた。
二人は笑顔で生徒に向かって礼を取り、ダンスホールから下がった。それを見て、他の生徒たちがいっせいにホールに入っていく。
そんな中、生徒たちの動きに乗らず、まっすぐにこちらに向かってくる人影があった。
「アドレア嬢。踊っていただけますか?」
快活な笑みを浮かべてアドレアを誘ったのはルークだ。
アドレアは嬉しそうに笑顔を浮かべ、そして、やや迷った様子でレオンを見た。
「行っておいで。私のことは気にせずに」
「……ありがとう」
これがルークでなかったら、先ほどの話をした直後でさえ、アドレアを引き渡せたか分からなかった。世界を広げてほしいと願いつつ、男と密着されるのは嫌だ。
しかし、さすがにいくらなんだってレオンも、ルークと踊ることを禁止するほど狭量ではないつもりだ。見た目はどうあれルークは女なのだ。この場にいる男パートを踊る人間の中で、最も安全といってもいい。
そう、快く二人のダンスを見ていられるつもりだったのだ。曲が始まり、二人が踊りだすまでは。