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4. 鏡の裏

 ルンの王国の姫君は、幼い頃から三人の教師に育てられた。一人は学問を。一人は音楽をはじめとした芸術を。最後の一人はお妃が最も信頼する古くからの友人で、王宮の中では知ることができない、ファンタージェンの世界中のことを伝える者だった。吟遊詩人だったのである。


 王は心配だった。

 オグラマール姫は、教師の中では特に、吟遊詩人のカーミュラがお気に入りだったからだ。

 カーミュラの話が楽しいのは当然だった。歌と竪琴と物語。

 王は聡い人だったので、少しカーミュラの受け持ち時間を減らしてはどうかとお妃にこぼしてみたが、もちろん反対された。

 悪気があるわけではないが、何を話しているのか、本当には分かっていないのだ、と王は一人、心配をかかえて過ごし、その日が来ないよう、密かに願っていた。


 オグラマール姫の性格を決定づけたのは、『ムーアのシチュー』だったのかも知れない。


「遠く離れた田舎の村に、その宿はありました。これはそこでごちそうになったものです。ハーブを使いますが、他に特に変わった食材を使うわけではありません。きちんとした方法で素材を扱い、正しい時間で煮込み、心をつくせばいいのてす。これが良い料理の基本でございます」

 カーミュラは、昔のことをしみじみ思い出しながら言うのだった。

 芸術家と、そうでない人の区別はどこにあるのかといえば、そのひとつは、ある印象が、ずっとその人の中で消えないということがあるか、そうでないか、ということだろう。

 ルンの姫は、そのシチューに感激した。ただ美味しいということのほかに、今の自分ではうまく表現することができない、何かとても大切なものがあるような気がしてならなかった。

 他にも、このような料理があるのでしょうか、と姫は尋ねた。カーミュラは頷いた。

「何しろ、路銀も時間も限られていましたので、あの素晴らしい宿屋でお願いして、しっかり身に付けられたのは、シチューのレシピだけでした。他にも、リンゴパイやヌガーなどのありきたりのお菓子がありましたが、独特でしたねえ。苦味のない家庭菜園のサラダもありました」

「ムーアってひとは、素晴らしい女性ね!」

 カーミュラは、くすくす笑った。

「あら、言っていませんでしたね。ムーアは男の人なのですよ。私が宿で過ごしたのは、あなたがお生まれになる前で、彼は若く独身でしたが、才能と親切にあふれておりました。きっと今頃は家庭を持ち、レシピも、もっと増えているでしょう」

 オグラマール姫は、世界の大きさに圧倒されたものだった。


 それからしばらくは、料理の授業になり、シチューの作り方を何とかものにすると、姫は、夢のように素敵な宿のことをあれこれと聞いた。お茶の入れ方や、裁縫の仕方など、あらゆることをカーミュラから引き出そうとした。

 旅の心得を知りたがるようになった時、カーミュラは心配になりだした。王が、最初から危ぶんでいたことに、ようやく気が付いたのである。


 吟遊詩人の相談を受け、お妃はうろたえたが、王は落ち着いたものだった。

「姫の意思をさまたげてはならんぞ。今まで、あらゆるものをそろえておいて、いざ自分で、と手を伸ばしたところで取り上げる真似はいかん」

 それでもお妃が心配するので、それでは、と王はオグラマールと話をしに席を立った。

 お妃が王に呼び出されたのは、まもなくのことで、その時はもう姫は、三年前の誕生日に贈られた白馬に乗り、王宮の前の大通りを土煙を立てて、遠ざかっていくところだった。

「わしにも負けない、立派な勇士を見つけられたら、戻ってくるそうな。それが、姫の夢らしい」

 王は王宮の窓辺に立ち、自分の国から離れていくわが子の様子に目を細め、首を振った。「さんざん渋りおったが、一年以内と、わしは日を決めさせたよ…。妃よ、お前が辛抱できるのも限度があろうからな。なに、前向きに考えよ! 姫はルンの国に偉大な勇士をもたらすかも知れんのじゃて!」

 

* * *


 ルンの姫、オグラマールが単身、旅を進めて三ヶ月が過ぎる頃に、彼女はヒンレックを見いだした。

 彼は花が咲き乱れる丘の上いた。そこは屋外の広い土俵で、レスリングの試合をしているところだった。

 ヒンレックの二倍は胸板が厚く、頭もひとつ分は大きい、いかにもレスリングの先生を相手に、彼は元気よく取っ組み合っていた。彼は姫が見ているとは知らなかった。

 もうもうと土煙を立てながら師弟は技を掛け合ったが、ヒンレックはとにかく素早かった。気がつくと、若くてハンサムな青年は、師匠の禿げあがった頭を小脇に抱えて、地面に仰向けにひっくり返していた。

 ヒンレックは晴れ晴れとした笑顔でもって、敗者を助けおこし、一礼して別れた。

 オグラマールは、すぐさま彼の前に立ち、あなたは勇士なのかと尋ねた。

「この土地での、そのためのテストをたった今、合格したのです」ヒンレックは一礼した。「私はヒンレックと申します」

 オグラマールも礼儀正しく頭を下げた。

「ご丁寧にどうも。私は『すべてのものを打ち負かす』勇士を探しています」

「それはまた、豪気ですね」ヒンレックはにっこり笑った。「理由を聞いても、よろしいですか?」

「ルンの国にとって、そうした勇士が王になるにふさわしいと考えているからです。私は一年だけ、そうした人物を外で探すことを許されました。申し遅れましたが、私の名はオグラマール。ルン王国のプリンセスです」

 そういって、彼女は王家の紋章を彫りこんだ銀のペンダントをかかげてみせた。

「そのような方にお目をかけられたとは。これは、光栄です」ヒンレックはぶしつけでない程度に目を輝かせた。

「ですが、あなたは、まだ勇士になりたてでいらっしゃるのね」

 オグラマールは軽い失望をあらわにした。

「そうです。だが、あなたは私に最高の贈り物を下さりました。つまり、勇士であるなら持つであろう、目的です」

 ヒンレックは大きな木のそばの粗末な切り株の椅子とテーブルを示し、そこに向かって二人は歩き出した。

「私は兄弟の多い家に生まれまして、赤ん坊の頃に子供のいない老夫婦のもとにやられ、大切に育てられたのです。十年前、育ての両親は立て続けに亡くなってしまいました。亡くなるまえに、父は言ったものです。どうか丈夫で、長生きしてくれと。元気で当たり前に、正しく育ってくれ、これだけでいいから、約束してくれるかと」

 育ての親のことを思い出したヒンレックの目に涙がにじんだが、彼は上を向いて…それからにっこり笑うと話を続けた。

 二人は木陰に入り、切り株の椅子に差し向かいに腰を下ろした。

「私は父に約束し、その通りになろうとしてきました。身体を鍛え、正しい道を学んできたつもりです。さて、心身ともに鍛えた分だけ強くなり、このあたりで一番のレスリングの先生も負かして、卒業となった途端にです、姫よ! ありがとう。あなたは私に新しい目的を下さったのです」

 オグラマールは、ヒンレックに背を向けて、肩越しに言うのだった。

「あなたが私の望む者に一番近いとおっしゃるの? でしたら、私はあなたに付いて行きましょう。見極める時間を下さいな。けれど、私の望む者でないと思ったら、私は去りますからね。たとえば、良くない行いをしたら。たとえば、あなたが何者かに挑戦して、負けるようなことがあれば…」

 ヒンレックは少し眉をひそめた。

「実を言えば、私はまだ修行の計画のなかばなのです。のんびり旅をしつつ、身体を鍛え、見聞を深めるつもりでした」

「のんびり、は無理ね」オグラマールは言った。「だって、私の旅はもう四分の一が終わってしまったもの」

「でしたら、すぐに参りましょう」

 ヒンレックは立ち上がった。

「私はソーリンの街で剣術の修行をせねばなりません。そのあとは剣と鎧を手に入れ、馬も手にいれます。漆黒の馬ですよ。その頃には姫よ、私はあなたが望んでいる者になっていましょう」

 こうしたわけで、二人は旅をともにすることになった。


 ヒンレックは自分が言うように、ほとんど平和なファンタージェンにあって、誰も抱いたことのない気高い夢を持った。それだからこそ、彼は誰よりも熱心に励んだ。

 ヒンレックほど、たくさんの師匠をもった勇士はいないだろう。

 オグラマールは、ヒンレックの前では、少しばかり意地悪になってしまう自分を知っていた。

 最初に会って、話しかけた瞬間から彼のことを好きになっていたのだ。

 そんな風に、自分の心を簡単に変えてしまったヒンレックが小憎らしかった。だが、はっきりと分かっていたわけではないし、認める気もなかった。


 やがて二人は勇士の一行と合流し、アマルガントでの競技大会のことを知った。


 ヒンレックは堂々と大会に出場し、勝ち上がった。

 オグラマールの夢は、とうとう叶ったのだ。

 が、次の瞬間、誰も予期していなかった人物が現れ、ヒンレックは下着だけの惨めな姿で立っていた!

 アトレーユがバスチアンを紹介し、人々が驚きと興奮で揺れる最中、ヒンレックは競技大会の外へ逃れた。

 オグラマールは叶ったばかりの夢をはぎ取られ、茫然自失だった。我に返ると、彼女はヒンレックのあとを追いかけた。

 アマルガントでその時、真の悲しみに暮れているのは彼らだけだった。

 皆が喜びに声をあげている…。私たち二人だけが、悔し涙を流しているのよ。オグラマールは世界中に笑われているような気分だった。こんなおかしなことがあるものだろうか! それとも、私たち二人は自分たちだけのために生きてきたので、天罰が下ったとでもいうのだろうか。

 急ぎ足のオグラマールの目には、涙が次々にあふれた。


 しばらくは誰とも会いたくないと言って、酒場の二階にある宿の一室に引きこもってしまったヒンレックを知ると、オグラマールは頭に血が上った。その場で紙に別れの言葉を記した。それをヒンレックの部屋のドアの下の隙間から放り込むと、そのままアマルガントを出発したのだった。


* * *


 人生のある時点で人々が、最も愛すべき者から離れ、最も親しい者を嫌うのはなぜなのか。それを夢見るのはなぜなのか。やがて自らあやまちに気がつき、その人の正体を知る時がくるのはなぜなのか。それこそ真実の愛だ、と今になってルンの姫・オグラマールは知ったのだった。分からなかったことにはっきり気がつくということ。今の姫にとって、それはヒンレックへの親愛以外の何ものでもなかった。


 彼女の大事なリュートは、銀の都から故郷ルンへと続く小道に投げ出されたまま、今もまだ草の中にうもれているにちがいない…。バスチアンにやぶれたヒンレックに見切りをつけた、ふるさとへの帰途なかばに、事件は起きた。


 都から離れ、曲がりくねった小道を馬に乗って、オグラマール姫は進んでいた。

 昼に小休止した時、彼女の指は、小さな楽器から悲しい音色をつむぎだしていた。

 日は、まだまだ明るかった。いつもは優しい言葉を馬にかけてやったり、鼻歌をうたって楽しく旅をするのだが、オグラマールはずっと黙って、曲の続きを考え込んでいた。

 山道をゆっくりと下っていた時、彼女は不意に巨大な生き物と遭遇した。

 竜だった。

 カンガルーのように後足で立ち、かかとは浮かせていて、ねばねばした膜でできた羽が呼吸に合わせてゆっくり浮き沈みを繰り返していた。

 怪物の息の音を聞いているだけで、彼女の鋭い感性は、邪悪が自分を征服しようとする意図をはっきり読みとった。

 こんなおぞましい意志が、ファンタージェンにあるとは、信じられない!

 その身の丈は、小さな家ほどもあった。

 その時、オグラマールは気付いたのだった。

 自分が、ヒンレックの名を呟いていることを…。


 白馬は後ろ足で立ち、その前足が宙をむなしくかき乱すと、横倒しになった。

 彼女は馬の後方へ何とか飛びのいたので、潰されずにすんだ。また、腕や脚を折らなかったのは、小脇に抱えていた大切なリュートが彼女の下で砕けて、衝撃を抑えてくれたからだった。

 寸足らずの白い手が伸びてきた。

 彼女の愛馬はそいつにつかまった。美しい生き物は恐怖に泡を吹き、カッと目を見開いたまま、たちまち石に変わってしまった。

 醜い竜は、自分の造形物をとっくり眺めると無造作に、肩越しに投げ捨てた。

 ほとんど足音をたてず、怪物はゆっくり近づいてきた。そいつは目にあたるところに小さな頭がひとつずつ生えていた。そいつらが彼女を見ていた。

 オグラマールは嫌悪感で気を失いかけた。腰がぬけていた。両手と力の入らない脚を使って、懸命に後ずさったが、背中が大木にぶつかった。

 頭の中からは、とっくにファンタージェンの〈救い主〉バスチアンの名は消えていた

 わたしはヒンレックにこそ、助けられたいのだ。何を望んでいるのか、はっきり分かった時はもう手遅れだった。

 情けなくて涙が出てきた。いつもの私たちなら、こんなことにはならなかったろう。わたしはヒンレックのあとに続いていて、彼はしょっちゅう私の気を引こうと快活におしゃべりをしていただろう。

 ここまで進んできたのは、ただのわがままだった。置き手紙をしてきたのに、ヒンレックがすぐに駆け付けてくれなかったから、寂しかったのだ。

 分かっている。私はヒンレックに甘え、ヒンレックをいじめ、ヒンレックといっしょにいたかっただけなのだ。あのまま半日も進んでいたら、私は引き返していたに違いない。だが、もうそれは叶わないかもしれない。

 彼女はヒンレックの名を口にした。そうすれば恐怖が和らぐことが分かっていた。自分では叫んでいるつもりだったが、祈るようなつぶやきにしかなっていなかった。


 ヒンレックはその少し前、彼女が遠くあとにしてきた街の酒場の片隅で失意に打ちひしがれていたが、バスチアンがアトレーユと勇士たちを連れてやって来ていた。

 折しも今まさに、気の毒な彼のためにと、人間の子が物語る竜について、耳を傾けているところだった。

 新たな目的が生まれ、やすやすと若者の前に差し出されるのを、アトレーユはじっと見守っていた…。


 巨大な生き物の影が自分に落ちかかった。

 オグラマールは自分が、ヒンレックが、やはり正しかったことを、息が止まるような後悔の痛みと、体にまとわりついてきた白い手の恐怖とからはっきり悟った。

 バスチアンは〈アウリン〉に守られた人間の子なのだ。

 ヒンレックだろうと、目の前に現れた怪物だろうと、ファンタージェンのものがかなうわけがないではないか。 

 ヒンレックは、そうだ、他のだれでもない、最初からわたしの勇士だったその人は、とうとう、あらゆる勇士が集った競技大会を見出した。

 彼は最後に勝ち残ったヒクリオン、ヒスバルト、ヒドルンの三人を一度に相手にして、見事打ち負かした男だった。

 オグラマールの夢は叶ったのだ。誰でもない、私がそのことを知っている。認めている。

 その夢は短く、消えてしまったかに見えたが、そうではない! ヒンレックこそ、ルンの王にふさわしい、私の旦那様になる人、王にふさわしい人なのだ。わたしがそれを否定してなるものか!

 他のだれでもない、私が言ってあげなくては。

 だが、魔法の白い手がオグラマールをつかみとった。

 白い手は恐ろしく冷たかった。その手に包み込まれてしまうと、なにも見えなくなった。まるで冷たい沼の底に沈んだかのようだ。必死になって手足を突っ張ったが、石のように、びくともしない。

 おぞましい竜は地面を蹴り上げ、空へと飛び立った。急に頭を押さえつけられるような空気の勢いで、オグラマールにもそれが分かった。

 誰も追ってくることのできない空へ! 

 三重の堀に囲まれ、千年ものあいだ勇士たちを殺してきたおのれの住処、鉛のラーガー城へ向けて、ファンタージェン最強の竜は飛んでいった。

 途中、無造作に背の高い屋根や木々に足や、手を引っかけて小休止するほかは、誰の目にも止まらぬほどの速度だった。そのたびに何かが石になり、竜に気が付いた者は悲鳴をあげた。

 わたしのヒンレック! 助けて!

 オグラマールはどこかでそう叫んだ。竜が苛立ち、吠え立てるのを聞くと、彼女は意識を失った。


 勇士の名前を叫び、オグラマールは無意識のまま体を起こした。

 夢の中のヒンレックに向けて伸ばした手の先には扉があった。ちょうど音を立てて閉まるところで、ドアの向こうにいる者の姿は見えなかった。ただのドア。ノブが一つ。格子も窓もついていない。

 彼女は大きなベッドの真ん中にいた。

 やがてオグラマールは目をはっきり開け、恐怖に立ち向かう決心をした。

 だが、恐怖よりも先立って感じられたのは、泣きたくなるほどの深い後悔の念だった。

 愛する人をまちがって傷つけてしまった…。

 リュートは壊れた。

 大切な白馬のバンダーは石にされた。

 そしてわたしは、信じられないことに、竜にさらわれたのだ!

 おまけに今は自分がどこにいるのかも分からない。 

 事態は最悪だが、このまま何もせずにいたら、きっと、もっとひどくなる。

 姫は息を吐くと、思い切って足をずらし、床に下りた。彼女はすぐ、奇妙なことに気がついた。

 ベッドのシーツが埃をかぶっていた。きちんと整えられているのに、足の下のじゅうたんもほんの少しよごれている。

 ながいこと家を空けて、何もせずに放っておかれた部屋はこんな有様になるに違いない。

 締め切られた部屋に特有の湿っぽい臭いもする。

 だが、どうしてだろう。オグラマールは不思議に思い、あたりを見回した。

 あのように大きくて恐ろしい竜が住んでいる場所に、ベッドや、じゅうたんなどの家具が、なぜ必要なのだろう。

 それとも、私は誰かに助けられたのだろうか?

 部屋は薄暗かったが、目を凝らすと、だんだん物の影が浮かび上がってきた。

 中央に丸テーブルがあり、水差しとカップが二つ置いてあった。くだもの入りのかごまである。あんな怪物が自分の生活のために用意したのだろうか。あんなに大きく、不気味な生き物に、そうした細やかな思考の働きがあるのだろうか。

 オグラマールは自分の想像力がもたらしたジョークを歓迎した。自分のおかれている状況がそれほど深刻なものではなく、ユーモアが含まれているのだと信じたかった。

 心の眼には、巨大な生き物が買い物かごを下げ、市場の行列におとなしく並んでいる光景が見えていた。

 ばかね。

 彼女は自分の才能に苦笑し、かぶりを振った。まったくなんてことを考えるんだろう。竜は岩穴で眠り、処女を丸飲みにするんでしょう。そのくらい、子供でも知っているわ。

 思いにふけっていたせいで、背の高い老人が自分のそばに立っていたことに気づかなかった。何の脈絡もなく、彼女は自分が一人ではないことを唐突に発見することになった。オグラマールは悲鳴を上げて立ち上がり、誰かが出て行ったドアまで駆け寄った。ノブは回らなかった。

「気の毒にね。わしもさらわれてきたんだよ」老人が悪びれもせずに、ぽつりと呟いた。

 オグラマールが振り返ると、彼は一歩も動いておらず、弱々しい微笑みを向けてきた。

「わしは占い師なんだ。もうずいぶん長い間ここにいるのさ。よければ、きみの名前を教えてくれないかね」

 オグラマールは深いため息をついた。

「おどろいたわ! 大きな声を出して、ごめんなさいね。わたしは、オグラマール。ルンの国のプリンセスです」

 老人は頷いた。

「さぞ怖かっただろうね。ここまでの道中は。長い間、色んな女性がさらわれてきたんだよ。だかお姫様とは、初めてだ。もしかしたら、これまでより、ずっと多くの者がここへ来るようになるのかもな。だが、あの竜は強い。滅ぼせる者などいないのだ」

「真の勇士ならできます」

 口から出た言葉は自分でも驚くほど力強く、確信に満ちていた。

 老人は目を見開いた。そこに恐怖の色が映ったように見えたのはなぜだろう。

「あなたの名前は?」オグラマールは、彼が立ったまま、いっこうに身動きしないので、尋ねてみた。

「シュトラウス」と彼は言った。


 オグラマールは竜にさらわれ、意識を取り戻してからずっと、自分の手先が楽器の弦に触れたがっているのを胸に痛いほど感じていた。

 何であろうと、『調和』がほしかった。それぞれがありのままでありながら、整っているありさま…。またみんなと調和できる日がくるだろうか…。


 理由は分からないが、竜は、人さらいをしたあと、ひと月は姿を見せないと老人は言った。

「さらってきた女を財宝のように思っているらしい。直接手にかけることは滅多にないが、場合によっては、何ヵ月も竜の姿を見ることはない。また、自ら生活の術を持たないような女は、たちまちここで餓死してしまう」

 オグラマールは怪訝な顔つきになった。まさかとは思うが…。

 そもそも、その質問をすべきだろうか?

 彼女は入り口から一番遠い、部屋の隅に置かれた二人がけの、こじんまりしたソファに腰をおろし、じっくり考えた。

 老人は相変わらず、ベッドの傍らに立っている。その目は実に興味深く、こちらを見つめている。

 姫は思った。これから、わたし自身がすることで、わたしは死ぬかも知れない。

 だが、このような状況で、疑問を口にせずにはいられない。このまま黙っていれば、緊張で気が狂うだろう。

「あなたが竜なの?」オグラマールは震える声で言った。

 老人は顔が裂けるかと思うような笑みを浮かべた。口は耳元まで開き、目は怪しく、黄色に濁った。

「勇気があるほうだな」と彼は言った。「この姿を見ても、まだ耐えているな」

「お前は、何が目的なのです。見えすいた作り話…嘘では何も語れませんよ」

 オグラマール姫は、王族であるプライドを奮い立たせた。汚らわしいごまかし! ここには明らかに不正がある。

「退屈しているのだよ。ファンタージェンで最強になって、したいことは何でもしてきた、あらゆる者たちを打ち負かしてきた! だから…時々役に立ちそうな女たちをさらっては、身の回りの世話をしてもらっている」

 老人は初めて身動きしたように見えたが、人の動きではなかった。暗がりで顔や、耳の片方が間延びして、すぐ元に戻ったのだった。

「だが、お姫様とはなあ。楽器を持っていたからてっきり、吟遊詩人か、芸人かと、思ったのだが」

「なぜ、わたしが吟遊詩人や芸人だったら良かったのです?」

「『お話』だよ。言ったろう? わたしは退屈なんだ! わたしはずっとこの世界にいたいが、あまりにも、ここに長くいすぎているのだ」

「お前にとって幸いなことに…わたしは数多くのお話を知っています」とオグラマール。「わたしを育ててくれた教師の一人は、吟遊詩人のカーミュラでしたから」

「そうだったか!」

 老人は不気味に裂けた口で笑い、そして、言った。

「『千夜一夜物語』だな! 少なくとも今までよりは楽しめそうだ。お前はさしずめ、シェヘラザードというわけだ。お前の『お話』がつきる時、お前の命も潰えるのだな!」

「『千夜一夜物語』とはなんです? わたしは聞いたことが…」

「気にするな!」

 老人はさも嬉しそうに、喉の奥で笑いながら続けた。「この世界のお話じゃあない! そしてお前は、シェヘラザードにはなれない! なぜならファンタージェンの者は、誰も物語を作れないからだ。シェヘラザードのようにお話を作って生き長らえることは不可能だ。お前は知っていることを話すしかない。もしくは、わたしの気に入るような退屈しのぎを考え出すことだな」

 オグラマールは、呆気にとられ、目を見開いた。

「お前は…いったいどこから来た悪魔なの?」

「考えても無駄なことだ」

 竜は取り合わず、埃をかぶったリンゴをつかむと、姫に投げてよこした。

 オグラマールは胸の前でそれを受け取り、喉の渇きを覚えた。だが、とてもその汚れた食べ物に口をつける気にはなれなかった。

「シュトラウス。私はあなたに、千は無理ですが、百の物語はしてあげられるでしょう。それだけのたくわえは、あるのですよ。それに、わたしは幼い頃から旅に憧れてきたので、たいてのことは自分で出来るのです。お前がおそらく口にしてこなかった料理をふるまうこともできるでしょう。もちろん音楽もね。お前は、私からお話を聞きたいと言う。しかし、わたしは、のどが乾き、お腹も減りました。まだ、生きているのですから。金のガチョウの話を知っているのなら、わたしの正しい生活のために、必要なものは与えるのです。約束しなさい…。私を引き裂いても、脅かしたとしても、かえって聞けるはずのお話が減るばかりなのは、分かるでしょう。私を敬えとは言いません。お前が抜け目のない生き物であることは理解出来ているつもりです」

「欲しいものを言うがいい」シュトラウスは頷いた。

 オグラマールは、慎重に考えつつ、言った。

「清潔な水。井戸はあるのでしょうか。ここで寝食をとるのなら、掃除道具がほしいですね。そして、料理をするための鍋や包丁、皿などの道具が必要です。洗面所はもちろん。あとは新鮮な食材といったところです」

「まったく理にかなった女の要求だな。それだけでいいのか? 実を言えば、似た取引をこの千年の間に幾度も行ってきたのだ。月に一度でいいから、家に帰りたいと泣いた者もいたのだぞ。家族にひと目会わせてほしいと泣いた者もいた。お前には親しい者はいないのか?」

「哀しい生き物よ。私が親しい者たちにお前のことを語る時は、ここから自由になった時です。その時までは、泣き言は言いません。お前がそのことを楽しむならなおのこと」彼女は義憤にかられながら答えた。

 シュトラウスは頷いた。「城を案内しよう」そう言うと、先程まで開かなかったドアを、軽く押した。ドアは素直に、向こう側へ開いた。

「『鏡の裏』から出て来るがよい、ルンの国のプリンセスよ」


 オグラマールはためらったものの、ドアをくぐった。

 その場所こそ、ラーガー城だった。実に奇妙な城だった。

 真紅の絨毯が通路にしきつめられ、その両側に、等間隔で人の背丈ほどの鏡が取り付けられている。窓にも鏡がはめこんであり、外が見えない。

「姫は、『鏡の裏』にとらわれているのだ」

 シュトラウスは笑った。

「どういうことです」

 鏡がギラギラと光っているので眩しくて、目がくらみそうなほどだった。

「これは、城に敵が攻め込んできた時に役立つ道具だ。鏡の中、つまり裏の世界に逃げ込むことがてきるのた。敵が背を向けた時に、中から剣や槍を突き出すこともできる。鏡同士は内部でつながっている。実際は別の城へとな。つまり、ラーガー城とは、『鏡の裏』を持った双子の城なのだ…。鏡を一枚や二枚割っても意味はないし、私が許可しなければ、『鏡の裏』に入ることはできない」

「あなたは充分強いでしょうに、どうしてここまで…?」

「念には念を入れる。賢い者は用心を怠らないということだ。いや。本音を言えば、為す術もなく、何が起きているか分からないまま倒れる勇士たちを見るのは、至極愉快だからな」

 シュトラウスは城の中庭に出ると、足をとめた。

 オグラマールにとって素晴らしいことに、空が見えた。日が注いでいた。あと一時間もすれば夕暮れかと思われた。

 そこには井戸があったし、驚いたことに、ガラス張りの部屋がいくつもあった。内部には野菜や果物が実っているようだ。

「これは何です? 畑なのですか?」

「ビニールハウスといっても分からないだろうが、それの豪華版だ。寒さから作物を守ってくれる」

 オグラマールは驚いて彼を見た。

 シュトラウスは目をそらした。

「毎度、人家を襲って食い物を手に入れるのは面倒でな。その度に悲鳴や怒号…飽き飽きだ。いちいち遠くへ出かけるのも億劫というわけだ…」

 孤独な隠者が手がけた作物らしく、出来栄えはそれほど良くはなかった。すべて独学なのだろう。

「畑に手を入れてもいいのですか? たとえば、トマトは、反対側に生えているあのハーブと一緒に育てるのが良いのですよ。お互いの相性が良くて、両方が、育ちやすくなります」

 オグラマールは、シュトラウスが子供のような熱心さで聞いているのに気づき、成り行きをじっと見守った。

「たいていのことは望めば手に入る。だが食べ物や飲み物だけは、何もないところから生み出しみても、味気ないのだ…。おそらく、」彼は自嘲した。「記憶にないものは生み出せないからだろう」

 オグラマール姫は、彼のことを理解したように思えた。すなわち、シュトラウスが、何者であるかということだったが、その質問は本当に最後の時が来るまで隠しておかなけらばならない。

 その質問をしたら、間違いなく、生きてはいられないだろう。


「ここはヴォドガバイという石化した森の真ん中にある。この城は第一に緑の毒、第二に硝酸、第三に大人の足ほどもあるさそりがひしめく堀によって守られた鉛の要塞なのだ。

「ラーガー城。誰もがひどく恐れ、口にするのも嫌っているので、今となってはこの森も、この城も、我が名も、知る者はほとんど、いなくなった。ところで」

 ふと我に返ったシュトラウスは、シチューが入っていた皿を掲げた。

「これほど美味いものを食ったのは千年ぶりだ。いや、実に美味かった。我が城にある食材でこのような料理が…」

 彼はかぶりを振った。

「これまで、何人もの女たちがそれなりのものを作りはしたが。こんなものは味わったことがない。これはルンの国の王宮料理なのか?」

「まあ」オグラマールは呆れた。「これは『ムーアのシチュー』と言って、私の得意料理のひとつですが…」そこで少し言葉を切って、「…どこの誰かは知りませんが、確かに作った者は素晴らしいコックだったのでしよう。ムーアは『伝説』です。吟遊詩人たちの間では、よく…知られているようですが」

 真実を織り交ぜると、誠に嘘は聞こえが良くなるものだ。

 オグラマールは、どうかシュトラウスがムーア本人をラーガー城に連れてこようなどと思いませんようにと願った。憧れの『先生』がそんな目に遭ったら、私は申し訳なくて、舌を噛みたくなるだろう。

 シュトラウスが話の続きを待っているようだったので、オグラマールは口を開いた。

「カーミュラから、私は彼女の知る『ムーア料理』をすべて聞き出しました。シチュー、ヌガー、アップルパイに、おつまみサラダです」

「シチュー、ヌガー、アップルパイ」シュトラウスは繰り返した。「おまけに、おつまみサラダとな!」

「生活にはリズムが必要です。今日から7日おきに、『ムーア料理』をごちそうするというのは? 楽しみがあると毎日に張り合いが出るもの。すべてを一気に味わったら、あなたには何が残るでしょう?」

 シュトラウスは熱心に頷いた。

「退屈はごめんだ! 良い提案だ。それでいこう。ではあとの日は、『物語』だな?」

 オグラマールはサーカスの芸人がするように手を頭の上から胸元へ円を描くように回して引き付け、会釈した。

 シュトラウスは大きく頷くと、鏡の裏から出ていった。


 オグラマールは、深く息を吐き、暗くなる前にできるだけ埃を払い落としたベッドに倒れ込んだ。

「ヒンレック」声を押し殺して彼女は呟いた。「私に勇気をちょうだい! 私には分かってる。あなたはきっと私を探している…。だけどあなたが来るときまで、私のお話はもつのかしら」

 オグラマールは激しく首を振った。

「こんなことじゃだめね。あなたが恋い焦がれたオグラマール。弱虫だったら、きっとがっかりするでしょう。あなたは会った時から、そして、きっと今も私の期待に応えてくれている。私も少しは頑張らなくてはね…」


  * * *


 最初の一ヶ月は、シュトラウスは機嫌が良かった。

 二ヶ月目も、無事に過ぎた。

 三ヶ月目に入ると、オグラマールからなかなかお話が出てこなくなった。楽しい歌や遊びも、シュトラウスは飽きてきた。

 オグラマールは無理にお話を作り出そうとして、眠れない日々を送った。

 この城にあってさえ、姫は正しい生活を送ろうと努力していたが、出来ないものは出来ないのであって、彼女は記憶を必死にたぐっているに過ぎなかった。


「今日は『お話』がないの。歌も…料理も…。私はひどく疲れました」

 オグラマールは、その日、とうとう昨夜はよく眠れず、目の下には疲労でくまができており、体は熱っぽく、頭痛もしていた。

 シュトラウスはしばらく何も言わなかった。

「明日になれば。あるいは待っていれば、そなたから何か生まれるだろうか?」

「あなたの望むものは、もう生まれないでしょうね」オグラマールは、正直に打ち明けた。

「実に残念だな」

 竜の足もとから、影が部屋中に広がっていった。


 オグラマールは老人に愛想をつかし、背中をむけていたので異変に気づかなかった。ただ目の前が真っ暗になったのを知って驚いた。彼女は喘いだ。

「寒い…。体が急に重くなったわ」

「だったら休むがいい。何もなくなったお前には失望した。今まで楽しかったと言っておこう。だが今のお前を見ていると、退屈がまた心によみがえってくるのが分かる。ここからいなくなってもらう。ああ、忌々しいことだ! また退屈になる!」

 長い爪が老人の後ろに回した右手から、一本伸びた。床まで垂れ下がった。

 オグラマールは気づかない。

「いいえ」彼女は背を向けたまま言った。「わたしは…もう、出て行かなくては。自分の居るべきところは、はっきり分かっているの。ここにいる訳にはいかないの」

「なぜ、ここにとどまらないのだ」

 不意に冷たい肉の固まりが、オグラマールの全身をおおい、きつく締まった。覚えのある感覚だった。忘れられるものではない。


 闇が部屋の隅から巻き取られていき、持ち主の所へ戻っていった。徐々に明るくなる部屋の中で、彼女は息を深く吐いた。

 巨大なアーチ型に変わった老人の右腕がオグラマールをつかまえ、宙に持ち上げていた。触れたものをもの言わぬ石に変えてしまう、魔法の白い手。彼女のドレスが平たい石に変わり、音を立てながら割れはじめた。

 オグラマールは自分の体が冷たくなっていくのを感じた。竜の手は彼女から熱を奪っていた。見下ろすと、床に立っている者は、もう人間の形をしていなかった。

 左右の目玉が膨れ上がり、表面に口や鼻が生えてきた。服の下で何かが這い回っていた。口がとがり、どんどん前へ突き出てきた。

〈お前を片付けて、堀に放り込んでけりがついたら、また別の、今度こそ本当の吟遊詩人を見つけることにするよ、ルンの姫よ。この三ヶ月、決して悪い生活ではなかったがな〉

 奇妙な声だった。大人と子供、それに老人の声が重なって聞こえた。

「あなたのアウリンはどこにあるの? 教えてごらん、人間の子よ」

 オグラマールは、小さな子にさとすように、優しく語りかけた。

 彼女の前髪が細かい櫛の歯のようにとがり、細かく砕け始めていたが、死が目前に迫った今、気にすることといえば、寒いということだけだった。

 オグラマールは震えた。自分の表面が崩れ落ちていくのをどうすることもできなかった。

 彼女は話しはじめた。何かしていないと今にも握りつぶされるかも知れない。どう考えても、小さな男の子…竜に忍耐力があるとは思えなかった。

「あなただって、初めからみんな分かっていたたはず。みんなに知られているって。ここに来た人はね、みんな知っていたに違いないわ…。知っていても、みんな、あなたが竜になることを恐れていたのよ。本当のことを言ったら、竜になってしまうことが分かっていたのよ。もしかすると、あなたを傷つけたくなかったのかも知れない…」

 オグラマールはどうにか右腕を引き抜いた。冷たくてやりきれなかった。

 彼女が見ている前で、指先が石柱に変わった。

 ヒクリオン、ヒスバルト、ヒドルン、そしてヒンレック。

 彼らと共に過ごした時間が爆発した。輪郭のはっきりした絵となって目の前によみがえった。郷愁の思いが血の中に熱くあふれて心臓に流れ込んだ。痛みの激しさに彼女は小さな悲鳴をもらした。オグラマールの目から涙がこぼれた。

 もう作れない! 音を。楽しいひとときを。指同士が重なり、彼女の腕は石の棒になった。夢をつむぐ者にとって、できないということは最大の恐怖だ。

〈お前のように生意気な女は初めてだったぞ。ルンの王女、オグラマール〉

 竜は吠えた。

〈どっちみち、もう用はないのだ。早く石になるがいい〉

 スメーグはすっかり本性を現していた。

 左の目は老婆のしわだらけの頭で、唇は血の色をしていた。右の目は老人の頭で耳がとがり、断末魔にもがく悪鬼の眼をしていた。ワニのように突きだした口。背中の、ねばねばした膜でできた羽が、呼吸に合わせて上下する。

〈お前に何ができる、オグラマール姫。世の中の自称・勇士たちに何ができる。わたしはファンタージェンで最も強い。実におかしなことだが、ファンタージェンでそのことを知る者は、もういない。わたしにとって最大の敵である肝心の勇士たちでさえ知らぬのだ。賢者にいたっては、やつらは竜などもういないのだと高をくくっている〉

 スメーグは鼻を鳴らした。

〈わたしが楽しいのはな、オグラマール。彼らの背後から忍び寄ることだよ。勇士たちに傷つけられたことは一度もない〉

「あなたは…」

 オグラマールは目が見えなくなってきた。まぶたまで石化が進み、唇も動きにくくなってきた。「あなたは弱虫よ」

 体をしめつける力が強くなり、全身の感覚が急速に消失した。

 オグラマールは両目をつむった。自分には魔法の力に対抗する術はないし、竜と戦う力もない。それでも彼女は、なんて情けない子だろうと、聞き分けのない息子を相手にした母親のように、怪物にすっかり失望していた。

 こんな馬鹿げたたわごとを聞かされるのはうんざりだった。

 この部屋へやって来てから、何か正しいことが起こったためしはなかった。

 そればかりか、ここでは人間らしい、まともな話をしたことがなかった。

 自分の慣れ親しんだリュートに正しく指をすべらせることを、彼女は幾度も夢に見た。正しい和音、正しい旋律。仲間との合奏、合唱、そして、オーケストラ…。

 調和と、その進行こそ、芸術のもたらす恩恵であるとオグラマールは信じた。

 反対に、ここには嘘と不正しかない。

 正しい生活もこれまでだ。

 

 オグラマールは怪物が本当に求めているものが分かった。

 彼は幼い頃の自分とおなじで、調和と進行をほしがっているのだ。もっと正直にいえば、あたたかい家庭、あたたかい料理、清潔なシーツとベッド、規則正しい生活、厳しい師弟関係に、憧れている。

 幾度も間違った方法で試みてきたのだろう。どれだけの人々が犠牲になったことか。自分を隠していては、手をとってダンスを踊る相手が見つからないのも無理はない。誰でも、影と踊る訳にはいかない。


 オグラマールは最後に微笑んだ。ほんのわずかな微笑みだった。勇士たちの物語を覚えていることが誇らしかった。調和と進行。馬鹿げた部屋で、おかしなと言っても間違ってはいないだろう、奇妙な形に膨れあがった竜に、わたしは石にされてもうすぐ心臓が止まってしまう。これほど常識からひねくれた状況にあっても、自分が正しさを求めていることが分かって嬉しかった。

 わたしは時間の上を漂っている調和と進行をきちんと感じることができる人間なのだ。このお化けみたいに、嘘でくるまり、停滞しなくていいのだ。

 オグラマールは口を開いた。彼女はしゃべりたかった。自由を奪われ、死が迫った今、言葉を重ねていくことが、自分を取り巻いている恩恵への、彼女ができる唯一のお返し、だった。


 彼女の言葉に恐怖の響きが微塵もないことに、竜は忌々しげに目を開き、そして細めた。オグラマールの声は眠たげだったが、言葉は流暢に、部屋の隅まで流れて行った。

「あなたは…勇士という名を…知っている」これが最後の息になるかも知れないと思いながら、吐き出し、できるだけ吸い込む。それはため息に似ていた。深い、安堵のため息だった。

「この世で最も強いのは、ものの名前…。名付けられたものたち…。あなたが勇士という言葉の意味を知っているかぎり、その人は必ずあなたの前にあらわれる。あなたは何処へもいけないわ、スメーグ。あなたは自分を隠し続けているから。だからこそ、あなたを解放する者が、いつかは必ずやって来る----」

 竜の、オグラマールを持ち上げていた手が強く握りしめられた。自分の顔の前に持ち上げて、そのまま石になっていた彼女の右手にひびが入った。ひびは腕を伝い、胸に達し、首から彼女の顔を稲妻型に走った。


〈来るべき者が来ると思ったら大間違いだぞ、オグラマール〉スメーグは押さえた声で言った。  


 出し抜けに千人の兵士が一度に扉を拳で殴ったような音がした。

 竜はオグラマールを掲げたまま、ゆっくり振り返った。

 殴られたのは、あの、鉄格子も小窓もついていないドア。ノブが一つきりのドアだった。

 はじめ、スメーグはただ当惑していた。あまりも長い間、起こりえないと考えていたせいだった。次に扉が内側にむかって吹き飛びそうなほど叩かれると、思わず叫び声をあげた。醜い羽根を使って宙に浮かび、部屋の奥まで後ずさった。

 外からの連打は激しさを増した。こんなに続けざまに力いっぱい叩ける者がいるとは、スメーグには信じられなかった。

 

 いつか、誰かが語ることがあっても、こんなことは誰も本気にしないだろう。

 みんなが本当は心の底で望んでいる物語なのに。優しい話なのに、虚無にとらわれた人間は、魔法を認めないから。

 エイデルはそれでも物語るだろう。

 それが真実であればよいのにと希望を持ちたがっている人々のために。彼はこの場面を上手に、声をひそめて話すだろう。


〈こんなことはあり得ない!〉

 どれほど多くの人間が、その言葉を口にしてきただろう。

〈こんなことが起こるはずがない!〉


 夢が現実となった時、誰もが死に物狂いで戦わねばならない。

 スメーグが心の奥底で願っていた『解放』をもたらす者がやってきたのだ。


 次第に、扉にひびが入りはじめた。日の光がひとすじ、真っ直ぐに差し込んでオグラマールの額を照らした。彼女は閉じかけていた目を開き、扉の様子を見て微笑んだ。

 こんなことは、きっと、あの人しかできない。

 スメーグは外から真っ直ぐに差し込んでくる日の光に怯え、自分の許可なく押し入ってくるものに怒号を浴びせた。

 かわいそうに、とオグラマールは思った。この怪物は気の毒な存在にしか思えなかった。ファンタージェンにやって来て、スメーグが一度でも本当に『戦った』ことがあるとは、彼女には想像できなかった。何もかも自分の思うとおりにやってきたのだろう。一度も本物の冒険などしたことがない、可哀想な子。


 鏡が壊れた。

 破片がひとつ、転げ落ちた。またひとつ。またひとつ。スメーグの許しがなくては、外の光をいっさい中へ通さなかった、内側のものを何一つ出さなかった、魔法の鏡は粉々に砕けつつあった。

 外で誰かが剣をふるっているのが見えてきた。

 鏡はまだ魔法を保っていた。頑固に音も言葉も通さなかったが、古くなって釘がすっかり浮き上がった本箱のように、危なげに揺れていた。時々、剣をふるっている人が叫んでいるのだろう、ドアの表面が激しく震えた。城のてっぺんにある大鐘が鳴ると、階下にある部屋の壁が震えるのにそっくりだった。

 来てくれたんだ。

 とうとう来てくれたんだ。待っていた人が。望んでいた人が。

 オグラマールの目から最後の涙がひとすじ流れ、瞬く間に細い石となって顔にはりついた。

 スメーグは外からの響きを耳にし、鏡が震えるのを見て恐怖のあまり絶叫した。ほとんど意識しないまま、石になりかかっているオグラマールを部屋の隅へ放り出した。


 世界が回転した。この世の最後に、世界と踊るのもなかなかいい。

 彼女は安らかな気持ちだった。いや、心身ともに疲れ切っていた。調和と進行。自分がそれを望んでいるのが分かっていた。たび重なるあやまちで、すべてがすっかり狂ったのも分かっていた。今また、そこへ戻って行くのが分かっていた。

 調和と進行。

 強く、きびしい響きを持つ言葉だ。にも関わらず、それが自分の人生に欠かすことのできない言葉であることを彼女は分かっていた。どんな世界でも、正しく、まともに生きることは義務であり、難しいことなのだ。だからこそ、尊いのだ。それを忘れれば、嫌われものの竜になってしまうかもしれない。

 オグラマールは愛しいヒンレックのことを思い浮かべたが、不思議なことに、考えはスメーグの方に寄せられていった。可哀想な子。あなたは、あなたの世界へ帰らなければ。私には、どうすればいいのかわからないけれど。


 部屋の壁にぶつかってしまう前に、オグラマールが目にしたものは砕け散る鏡と、部屋の中に飛び散り、広がった陽の光、外の光の中に立っていた、金髪のヒンレックだった。

 彼は鏡の内側に踏み込み、オグラマールの名を叫んだ。彼女はその声を聞いた。

 壁が近づいてきた。完全に石となったオグラマールはもう何も考えられなかった。

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