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1. 夢が現実になるとき

 エイデルがラーホー村からいなくなる三日前のこと。

 その日の夕方は、午後からの雨があがり、空がオレンジ色に染まっていた。大気は洗われて、どこまでも透き通り、光も影も際立って、いつもより遠くの山まで見渡すことができた。

 その山々よりもはるかに遠い、涙の湖・ムーフーから、ヒンレックはそこかしこで噂を聞き込んでは、いたるところに足を運び、とうとう、この村にやって来たのだった。

 彼はレイ川を渡り、谷間をあがっていった。

 ヒンレックは旅の始まりから、誰もわずらわせることがなかった。彼はこの三ヶ月の間、ただ一人で、頼りになるものを何も持つことができないまま、旅を続けてきたのだった。

 かつて意気軒昂だった若者は、すっかり気落ちしていた。

 彼の黒馬もすっかりくたびれている。この一週間は道が悪く、ヒンレックを乗せて走ることはなかった。


 谷間は幅が広く、険しい上り坂で、ヒンレックは馬のくつわを、何度も引っ張る羽目になった。

 坂をようやく登り詰めると、その先には、短い草しか生えていない、長くなだらかな丘になっており、きちんとした街道がすぐ手前で尽きているのだった。

 もう目と鼻の先には、村がある。

 ゆっくりと坂を下り、息が整う間には、夕食でにぎわう家々の明かりが、馬の疲れた目に希望の光のように映えていた。

 ヒンレックは、道が平らになると愛馬にまたがった。とたんに、自分が何者か、どうしてここにいるのか、はっきりしてきた。

 馬の足取りも久しぶりに軽やかだつた。

 (静かな村だ)

 竜の影など、どこにもなかった。

 道の先を見つめる勇士の瞳は、まだ暗かった。


 乗り手は喧騒を聞き付けて道をたどり、酒場を見つけると手綱をしぼり、馬の背から軽々と飛び降りた。

 愛馬を軒下にある柵につなぎ、置いてあった水桶に鼻面を優しく導いてやる。


 カラスの羽のような闇が空の片一方から翼を広げつつあった。ヒンレックの今日のはかない希望も、もう、まもなく暗く沈んでしまいそうだった。

 今日も、手がかりはなし、と彼は思った。


 すると、酒場の両開きの扉が開いて、あふれた光が闇を切り開く。


 そして、この上なく幸せそうな顔のエイデルその人が、よろめきながら現れ出る。


 酔っ払ったエイデルは、ヒンレックとばったり出会った。

 誰であろうと、相手に酒くさい息をふきかけたくなくて、エイデルはぐっと足をふんばると口をおさえて入り口の脇の柱に軽くもたれかかった。

 エイデルは目をみはった。


 物語がはじまるとき、誰もが目をみはるものだ。


 ヒンレックは銀の都アマルガントでの一件で装備を失っていたが、三ヶ月の旅の間に、すっかり元のままとはいかないが、誰が見ても勇士と分かるほどには、立派ないでたちをしていた。

 村全体を横目で見渡していたが、疲れた、穏やかな目つきでエイデルを真っ直ぐにとらえると、彼は微笑んだ。元々、肩まであった金髪は今や腰に届くほどになっており、やや、やつれたその姿は、華奢な女性のようだった。声は若々しい青年そのもので明朗だったが、どこかに、わずかな影があるようにエイデルには思えた。彼は哀しんでいる。

「驚かしてすまない。ちょっときくが、ここは何という村なのかな」

「ラーホー村です。勇士様」

 エイデルは言った。酔いがどんどん覚めていった。こんな大事な時はなかった。哀しみに押しつぶされそうな勇士が、何かを追い求めて長い旅をしてきたのだ。

 今こそ、子供の時から聞いていた物語が始まるのだ。

 口から手を離すと、まばたきをして、宿屋の息子はさらに目を大きく開けた。

「ほう」ヒンレックは頷いた。「勇士と認められるなんてうれしいよ」

 彼はバスチアンに手ひどくやられ、恋人に愛想を尽かされ、長い間ひとりぼっちで、自信を失っていたのである。

「俺、エイデルです」

「わたしはヒンレックだ。ひとつ尋ねたいことがあるんだがね、エイデル。最近、おそろしく大きな影を見なかったかね」

 エイデルはつばを飲み込んだ。

「大きな影ですって…。竜ですか、ヒンレック様」

 ヒンレックは、話が早いので目を丸くした。どうしてこの男は分かったのだろう。

「そいつの名は、スメーグと言うんだが」

 ヒンレックは肩をすくめた。「とんでもない生き物さ。ファンタージェンに生き残っている竜の中ではもっともおそろしい。しっぽはさそり、後ろ足はバッタに似ている。前足は赤ん坊の手みたいに寸足らず。首は長くてかたつむりの触覚みたいに出したり引っ込めたりできる。頭は三つある。一つは大きくてワニに似て、口から氷の炎を吐き出すことができる。目にあたるところには頭がひとつずつあって右は男、左は女のあたまさ…」

 ヒンレックは相手が本気で聞いていてくれると分かり、ほっとして息を継ぐと、話を続けた。

「こんな生き物が、ねばねばした羽で空を飛び回っているんだ」

 ヒンレックはそれ以上、何と言っていいか分からず、急に黙りこんでしまった。

「あなた様が」エイデルは声を震わせて言うのだった。

「そのように哀しそうなのは、大事な、愛する方を奪われたからに違いありませんね!」

 ヒンレックは、彼もまた目を見開いていた。

 ようやくだ、と彼は久しぶりに全身が活気づくのを覚えていた。何か、大切なことが始まろうとしている。

「その竜を滅ぼしに行かれるのでしたら、どうぞ、私も連れていって下さいませ! 

 私は生まれついての宿屋の息子、エイデル。幼き頃から旅人たちの話に耳を傾け、いつか冒険に出たいと、愚かな夢を見ていたのでございます。ただ、人には愚かであっても、私には常に変わらぬ輝く光だったのです、生き甲斐だったのです。

 いつでも、そうです、機会が巡ってくれば、その時に! 旅立つ準備はできています。

 私は道中、あなた様の身の回りの世話を致します。馬には毎日ブラシをかけます。気が滅入るときには曇り空もぶっ飛ぶような、愚かしさでいっぱいの笑い話を披露できます。どうか!」エイデルは頭を深く下げた。「私をあなた様の旅路に加えて下さいませ!」

 ヒンレックは驚いた。

 本当だろうか。このような真摯な友達を、こんなにも故郷から離れた世界で得ることができるのか。


 エイデルは興奮して顔の熱が冷めていた。体中が痺れているようだった。

 もし断られたら、その時自分はどうなってしまうのか。

 やっと巡ってきた【時】が、今なのだ。自分の人生はこの時を夢見ていた。

 夢が現実となった時、誰もが死にものぐるいで戦わなければならないことを、エイデルは今や思い知った。


 何てことだ。本物の勇士様がここにおられる。

 何てことだ。想像するだけでも吐き気のする怪物ではないか。

 何てことだ。これこそ自分の望んでいた物語ではないか。


 エイデルは頭を下げたまま、緊張で吐き気がしてきた。

「エイデル」

「はい、勇士さま!」

「せめてヒンレックと呼んでくれたまえ」彼は苦笑した。「順番に、ひとつずつ進めよう」

「はい。竜のことでしたら、ご覧ください。この酒場の屋根を。元々、木の屋根だったのが奇妙にも半分ほど、石になっているのです。あれは三ヶ月ほど前のことでした。一晩中、嵐が吹き荒れた翌日、こうなっていたのです」

 ヒンレックは不意をつかれて血の気がひくのを覚えた。

 彼もまた、ひとつの夢を追ってきたのだ。だが、いざそれが目の前に現れると、慎重にならざるをえなかった。


 今度もし失敗したら、私はどうなる?


 見上げると、暗がりにおかしな屋根が見えてきた。向かって左半分はまともだが、右半分は白色の石で、その重みで歪んでいる。

「村のみんなで話し合った結果、魔法に違いないと結論づけました。それからしばらくは、村の周辺をみんなで嗅ぎ回ったものです。何か良くないものが来ていないか、と」

「何か見つかったのか?」

「まったく何も、です。それから一ヶ月くらいは、心配で夜通し起きている年寄りもいましたが、今ではみんな、忘れようとしています」

「今日はもう充分だ。君の宿屋に行くとしよう」

 まだ親父の宿屋ですが、と言いたくなったが、ヒンレックと彼の馬がくたびれきっているのを見て、エイデルは黙って頷いた。


 こうして二人は連れ立って歩いた。

 エイデルはヒンレックの馬をひいて、一歩先を案内した。

 酒場でながっちりになっている父親を怒鳴りつけようと、怒り肩で歩いていた娘のドロシーは、エイデルを見て冗談のひとつでも言おうと口を開けた。が、見たこともないほどハンサムで、立派ないでたちの若者に気がつくと、一瞬呆気にとられたが、すぐ気を取り直して「こんばんは。エイデル。この方は…どなたなの?」と尋ねていた。

「勇士ヒンレック様だよ、ドロシー」エイデルは真顔で頷いた。「俺はね、明日にでもヒンレック様のお供をして、竜を追いかけるのさ」 

 三回、頷いたあと、ドロシーは叫びだした。

「たいへん! たいへん! エイデルが勇士を見つけたよ! 明日にでもいなくなるんだって!」

 エイデルがびっくりして止めようと手を伸ばした時には、ドロシーは走り出していた。

 すぐさま、周りの家の窓や戸がバタンと音を立てて開き、「エイデルが?」と誰も彼もが騒ぎだした。

「どこへ行くんだ、エイデル!」

 ずっと勇士になりたがっていた飲んだくれのエイデル。この町の愛すべき語り部が、自分のすすむべき道を教えてくれる男を見つけてしまった!

 この不幸なニュースはその晩のうちに村中の人間に伝えられた。

 眠っている赤ん坊さえ、悲しい気配を感じて、もっとお話を聞かせてくれとでも訴えるように泣き出した。

 ヒンレックは、「人気者なんだな、エイデル」とつぶやき、エイデルは黙って肩をすくめた。


 エイデルとヒンレックが宿屋に向かったあと、酒場では、村長まで引っ張り出される騒ぎになっていた。

 みんな、エイデルを愛していたから、彼の望むことをとめることはできなかった。あれだけ、夢に見ていたことなんだからなあ。

「問題は、俺のところの結婚式だ!」と木こりのワイズは嘆いた。「結婚式は来週だぞ! とっておきのスピーチを依頼してたのに!」

 ここ二十年ばかりの村中のエピソードをたくわえているエイデルは、若者たちの仲人だったのだ。

 ワイズは歯を食いしばっていたが、突然、指をパチンと鳴らした。

「ルーシー!」と結婚相手を手招きしてそばに呼ぶと、両肩をつかんで、「明日、結婚しよう!」

「なんですって!」とルーシー。

「いや、結婚式のあとのスピーチを、先にエイデルにしてもらうのさ。式はそのあと、ゆっくり挙げればいい」

 みんな、一斉に話し出した。

 やがて、村長がひととおり意見を聞き終わると、スピーチを聞くべき者がちゃんとそろうのなら、後でも先でも差し支えなかろう、と呟いた。

 これできまりだった。

 ワイズはすぐに席を立ち、真夜中近かったが、宿屋を目指していった。ルーシーもその場で両親と打ち合わせを始めた…。それを見た若者たちの中で、付き合っていた男女の何組かは、これもまだ帰らず、秘密の相談を始めたのだった。彼らもまた、エイデルに話をしてもらいたかったのだ。

 そこかしこで、プロポーズの言葉があがり、みな、それっと自分の家へ走り出した。


 あんな奇妙で興奮する出来事は、とラーホー村の長は、後日、村を訪れたサーカスの団長に語ったものだった。この広いファンタージェンでもまずもって珍しい出来事じゃないか? わしらファンタージェンの者は、お話を作ることはできないといわれているが、エイデルはそいつをやってのけたのかも知れん。な、面白い話じゃないか…。

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