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鮪のためいき

作者: 小山彰

 数秒……ためらった。

 雲間から蟻んこのような人間が私を見上げているのが見えた。もうこうなったらヤケクソよ。「エイッ!」と気合を入れようと思ったけど声にならない。私は今どこにいるのかわからなかった。

 死んでもいい、と思った。

 目を閉じると足を踏み外していた。物凄い速さで雲の間を突っ切っていく。私の横を大きな翼をもったクジラが通り過ぎていった。夢中で手を広げたら私は空を飛んでいた。

 まったく不意に性感がよみがえった。引き締まった肉体に羽交い絞めにされ私は忘我の境に落ちていく。

なぜだろう……。見知らぬ男が私を抱いていた。やがて私の体を激しく貫く男の顔が蒸しあがった肉まんのように膨れ上がり、そのまま私の乳房の上に落ちた。

「なんかへん?」

 今度はつき立ての餅のような男の三段腹が私のお尻に当たってタプタプと音をたてた。

「違うよ、これって」

 勝手に昇天して果てたタヌキは隣で高いびき。タヌキが主人であることを知って夢だとわかった。

貪りあうように愛し合っていた頃はときめきだけで昇りつめることもあったのに、粗末な交尾を繰り返しているうちに身体が次第に反応しなくなる。そして情感と性感が互いに背き離れるようになったら、きっと桃源郷に誘われるセックスはもうおしまいなのよね。悲しくはないけれど主人とは月に一度、深夜、突然発情して私のところへやってくる。こちらのことなどお構いなく猪突猛進、一気呵成。ベッドの中に侵入したタヌキの行動はすべて把握できている。恐怖のマンネリ。愛し合うなどというセックスはもうずいぶん前に終わっていた。どうして不倫が燃え上がるって? そんなの決まっているよ。なにが起きるかわからないという不安が性感をたかめるのじゃないの。かれこれ五年前から主人とは枕が並ばなくなった。主人は前述のごとくタヌキの様相を呈し、哀れ私も養殖マグロになりつつあった。「タヌキにつきあってマグロになるのはまっぴらごめんよ」とつぶやいて、フーとためいきをついたところで夢から覚めた。

 当年とって四十五歳。すでに「ボディーのたるみ角」は遠い昔に過ぎていた。私の胸は小学生の頃から気味悪がられるほど大きかった。でも今はそれも市民権を得ているので少しぐらい垂れていてもそんなに気にはならない。問題はヘソから下。荒れた段々畑のように盛り上がったお腹はどうあがいても元には戻らない。無駄な抵抗。

 常々「お腹が気になりだしてもベタ靴とアジャスターフリー(ゴムパンツ)に逃げてはいけない。苦しくてもベルトをしてできるだけ高い靴を履き、背筋を伸ばすようにすれば足元も緊張感を失わずくびれた足首をキープできる」そう自分に言い聞かせていたにも拘らず、私は次第に肥大する下半身の膨張を止めることはできなかった。気がつけば関取顔負けの見事な肉付きになっていた。お相撲さんのように苦労して肥った身体はラクして痩せられるけど、ラクして肥った身体は苦労しなければ痩せられないよねきっと。

 数々のダイエットに挑戦したがすべて利子のついたリバウンドで惨敗した。それでも諦めきれず、最近流行っている低インシュリンダイエットと電気ビリビリベルトを未だ継続使用中。前者は美容院の先生の奥様から紹介された。早い話がカロリー計算ではなくてインシュリンの分泌量が少ない食物を選んで食べるという療法である。乱数表のようなメモをいつも持ち歩き、食事のたびにそれをチラリと盗み見る。「これはいい」「これはいけない」やってはいるけど、正直食事が美味しくなくなった。後者は、結構面倒である。テレビのCMに出ているような見事な肉体ならいざしらず、ぶよぶよの身体にゼリーを塗ってベルトを締め、裸で部屋をウロウロするのは自分一人でしていても見苦しい。家人がいればかなりの勇気がいる。今はまだ購入費の元を取ろうと仕方なく続けているが、私の予想ではおそらくこの名機もお蔵入りしそうな気配である。

「ミユキ、ちょっと太った?」

 昨日、二十七年ぶりに中学の同窓会に参加した。席上、当時クラスの男子生徒を独り占めにしていたマドンナ中園タカ子が相変わらずの細い顔でいった。タカ子は胸元が大きく開いた上着に超ミニのタイト、それに五センチ以上もあるパンプスを履いて同窓会に出席していた。あの頃のアイドル南沙織に似ていたタカ子は、今もその面影を漂わせている。そしてかつては『隣の真理ちゃん』ともて囃されていた私は、ボディースーツに固めた巨体を花柄のワンピースで包んでいた。悲しいかな、『マグロに衣装』は、メリハリのあるプロポーションにはほど遠い。同級生でなければ私がテニス部のキャプテンをしていたなどと今は誰も思わないだろう。清純可憐な真理ちゃんはどこを探してもいなかった。 

 ちょっと? と聞かれて厭味な奴だなと内心私はムッとしたが、「そうちょっとね」と言い返して微笑んでいた。悔しいけど太刀魚のようにシャープなプロポーションをしているタカ子は同窓会でも男子生徒を釘付けにしていた。

「ミユキじゃないか、久しぶりだな。今、どうしてるんだ?」

 学生時代、私とつき合っていたサッカー部の村岡洋輔が私の足元から胸元へ舐るように視線を送った。タカ子がいった「ちょっと」の確認作業のようなまなざしだった。

 洋輔は当時ロードショーで話題になった『小さな恋のメロディ』にでていたマーク・レスターにそっくりの二枚目だった。私もトレーシー・ハイドになって洋輔とトロッコに乗って虹の彼方に漕ぎ出す夢を見たこともあった。しかしどう見ても今は釣り合いがとれない。洋輔は渋みが出てまた一段といい男になっていた。ダブルのスーツ姿も決まっていて集まった男どもの中ではやっぱり一番輝いている。私と洋輔の距離は地球の裏側にいるほど離れてしまっていた。

「三食昼寝つき、主婦してるわよ」

 本当は主人の給料だけではやっていけないので週末ラーメン屋でバイトをしていた。主人ともそこで知り合ったのだがいわずにおいた。二十七年ぶりの同窓会である。さもしい見栄もある。

「そうなんだ」

「洋輔は?」

「オレは女房に逃げられてシングルアゲイン。寂しいロンリーボーイってとこかな」

 洋輔は小さく笑った。当時のサッカー少年は今と違って相当キザだった。

「でもね、洋輔ったら、店してるのよ」

 タカ子が二人の会話に割って入った。タカ子のレーザービームのような視線が洋輔の横顔に照射されたような気がした。

「店?」

「そう」

 洋輔は柑橘系の香りがする青いフィルムのような名刺を私に差し出した。他にもたくさんいい女がいるのに今更どうして私にくれたのかわからない。

『LOUNGE Mrs. ROBINSON』

なんだこれ? 私は名刺を見つめながら首をひねった。 

「心配ないよ。カラオケバーさ。今度、よかったらどうぞ」

「気が向いたらね」

 そういえば夢に現れた男は洋輔に似ていたような気がする。私に向けられたタカ子の視線はやっぱり嫉妬で熱かった。


 主人は会社の出張と称して泊まりでゴルフに出かけた。突き出たあの三段腹の前をゴルフクラブがどういう軌道で通過するのか疑問だが、同僚たちと練習場に通っては月に何度かは山へ芝刈りに行く。もちろん優勝などしたことはない。毎年、紅白歌合戦の後『行く年来る年』の除夜の鐘を聞きながら、「今年は山でこの鐘(108)を聞かずに済みますように」と念仏のようにぶつぶつ唱えている。上手くならないのなら辞めればいいのに誘われたら断れない優柔不断の性格は食事の仕方にも表れている。鯨のように酒を飲み、馬のように周りにあるものを食い散らす。誰が見ても常人の域を超えているのだから。ダーウィンも真っ青。タヌキは確実にクマへと進化しつつあった。 

 ひとり娘の裕香は友達を誘って映画に出かけた。娘は昨年の春、隣県の大学に合格し、むこうで借りた1DKのマンションで一人住まいをしている。長い夏休みを利用して家に帰っていた。今時の娘にはめずらしく地味でおとなしいのを心配していたが、最近色気づいて化粧品も洋服も男の目を意識したものに変わってきた。髪が金色に染まっていくのにつれてスカートの丈が短くなっていくのが、少々気にかかる。どうであれ今はまだ決まったボーイフレンドはいないようだ。

 溜まった洗濯物を最近ローンで買った全自動洗濯機に放り込み、私は掃除機をフル回転させながら部屋中を駆けずり回った。夏はこれだけでも結構重労働である。流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら脂肪が燃焼していることを実感する。ダイエットの基本は汗を流すこと。セックスというハードワークが無くなった今、これは非常に大切なシェープアップの為のトレーニングだった。

 二階にある主人の寝室の扉を開けるとカビた臭いが鼻先を突いた。今年変えたばかりの真っ白なカーテンがもうタバコのヤニで黄ばんでいる。私は窓を全開にしてタヌキ部屋の空気を入れ替えた。部屋の外から引っ張っていた電気のコードを寝室のコンセントにつなぎ変えるのにベッドの下に手を伸ばしたら、分厚い写真集のような本が顔をのぞかせていた。

「PLEASURE & PAIN」 

 表紙をめくると若い女性がサーモンのように荒縄で縛られ逆さに吊るされたり、首輪をされ犬のように四つん這いになった年増女のお尻に腹の出たタヌキ親父が噛みついたりと、それはどこにでもあるようなSMマニア向けの専門誌だった。私は掃除機を止め、ベッドに腰掛けると時間つぶしに最初から目を通した。どれを見ても痛そうなものばかり。痛みは実感できてもその痛みがどうして快感になるのか私には想像もつかない。それでも会社のオフィスでOLが制服のまま縛り上げられ、デスクのパソコンモニターの前に恍惚の表情をした顔を突き出している姿は、ゾクッとするほど緊迫した雰囲気が漂っている。自分に置き換えてみようと思ったが、今の肉体じゃいい絵になりそうもなかった。私にとってはもちろんときめくような趣味ではなかったが、一頁、一頁めくるたびに他人の秘め事を覗き見るようなスリルが味わえた。


 突然電話が鳴った。


 悪いことをしているところを見つけられた子供のように私の心臓は高鳴り本を持つ手がブルブルと震えた。あわてて電話を取ろうとして立ち上がった時に掃除機のコードに足を絡ませ、私はフローリングの床に胸からダイブした。額と胸をしたたか打ちつけて息が苦しい。

「U銀行の北原です。先日はご融資のお申し込みありがとうございました」

 娘の裕香が中古車を購入するのにお金がないというので、先週の金曜日、主人の名義で銀行のマイカーローンに申し込んだ。娘が勝手に申し込んだ高いローンの保証人になるくらいなら親が借りて子供に貸しても同じだと思い、U銀行とは公共料金の引き落としぐらいで特に取引はなかったが、家の近くにある支店の若い行員が度々勧誘に来るので申し込むことにした。

「いいえこちらこそ……」

 乳房の付け根の辺りがズキズキする。

「どうかしましたか?」

「なんでもありません」

「実はご融資の件ですが、まことに申し訳ございませんが今回は見送らせていただきたいのですが……」

 ついこのあいだまで明るく元気ハツラツだった行員が、一転、口ごもって言葉をつまらせた。冗談じゃないわよ。自分から日参して借りて欲しいと頼み込んできたくせに今になって貸せませんとはいったいどういうつもりなの。私は頭にきてぶちかましそうになったけど、そこはじっとこらえた。

「どういうことでしょう?」

 怒りで今度は心臓がバクバクした。

「保証協会の審査でちょっと……第三者の方で保証人をご用意いただけましたらもう一度審査を受けることができますが」 

「もう結構です!」

「申し訳ございません……」

 新規に口座を開設させてキャッシュカードまで作り、おまけに主人の所得証明まで用意させておきながらこの結末である。確かに借金はある。家のローンや他にもいろいろあるに違いないが、踏み倒して逃げているわけじゃあるまいし到底許せない。銀行なんて国民の税金のおかげで首の皮一枚つながって営業できているくせに懸命に生きている一般庶民を助けようという正義感はないのか。腹が立つやら恥ずかしいやら、私は右手にエロ雑誌、左手に電話機を持ってしばらく立ち尽くしていた。

「なんなのよ!」

 受話器をベッドに投げつけたら電話が再び鳴った。

「ミユキ? わたし、先日はどうも」

 電話の主はタカ子だった。

「あら、タカ子。痛ぇ~」

 正気に戻ると胸がまたズキズキした。

「エッ、なにかいった?」

「なんでもない、ちょっと。こちらこそお疲れ様でした。ずいぶん久しぶりで楽しかったわね。みんなの変わり様には驚いたけど。さっそく電話をくれてどうしたの?」

「今週の土曜日、時間無いかしら。ミユキにね、是非付き合ってほしいところがあるんだけど。ダメかな?」

 気丈なタカ子がいやにお願い口調になっていた。

「どこ行くの?」

 その日は午後から主人が勤める電機会社の部下の結婚式になっていた。夜はラーメン屋のバイトが入っている。まあバイトは前もって連絡しておけば休めなくはない。そうはいっても行き先だけは気になる。

「ミユキ、このあいだ名刺もらったでしょ。洋輔の店よ」

「洋輔の?」

 嫌な予感がした。スレンダーなタカ子と一緒じゃ私はまるで見世物じゃないか。

「同窓会には来てなかったけど同じクラスだったアキ子にも声をかけているのよ。ねぇ、いいでしょ?」

 アキ子は学生時代バレーボールをしていた。百七十センチもある長身のスポーツウーマンで今もママさんバレーの現役選手である。昨年の暮れ、街で偶然に出会った。以前にもまして巨漢は顕在だった。アキ子は土建会社の社長婦人に納まっていた。メンバーの選抜に意図的なものを感じたが、でもマンネリ化した日常から逃げ出したい気持ちもなくはない。

「夕方ならべつにかまわないけど……」

「それじゃ決まった。土曜日の朝、もう一度電話するから!」

 急に明るくなったタカ子は弾むようにそういうと一方的に電話を切った。きっと洋輔に客寄せを頼まれたのに違いない。

「まあ、いいか、それにしてもあのタヌキこんなモノを見て発情して!」

 私は本をベッドに放り投げると挿し込んでいたコンセントを力いっぱい引き抜いた。


 結婚式当日、私が髪のセットと着付けを済ませて家に帰ると主人はまだパジャマ姿でウロウロしていた。

「あなた、なにをしてるの? 早くしないと遅れるじゃない」

 出かける前に帰る時間をいっておいたのだが、まるで準備はできていない。兎に角、なにをさせてもゆっくりしている。これでよく仕事が勤まるものだと思う。結局、私が家に帰ってから「あれどこだっけ?」を十数回繰り返した主人は、ようやく礼服姿で二階から降りてきた。まだ出かける前だというのに玄関に立った黒熊は大汗をかいていた。

「車、呼んだのか?」

「あなたが心配しなくていいの。もうとっくに来てるわよ」

「そうか。祝儀はどうした?」

「ここにあるわよ」

「そうか。ところで靴、どこだっけ?」

「目の前にあるでしょ!」

「そうか」

 万事がこの調子の毎日である。いったいこの人はなにを考えて生きているのだろう。食べさせてもらっている以上文句はいえないが、こうやって年老いていくことが不安になることがある。

『熟年離婚』最近この四字熟語が脳裏をかすめては消えていく。

「隣はいつもきれいにしているな」

 玄関を出た主人が隣の家の庭に咲く朝顔や向日葵の花々を見ながらいった。

「よその家の花を褒める前に庭の草むしりでもしたらどうなの。男の仕事でしょ。それとも私にしろっていうわけ」

「……」

 私の剣幕に恐れを為した主人は黙って車に乗り込んだ。都合が悪くなると死んだふりをするのが主人の常套手段だった。

 タクシーが走り出してまもなく、スピーチを頼まれている主人は用意した便箋を背広のポケットから取り出した。予行演習をするつもりである。上がり性の主人のこと、練習しても無駄なことはわかっていたがいわずにおいた。

「めがね、どこだっけ?」

 黒熊は四十半ばにしてすでに強度の老眼。

「もう遅いわよ」

「そうか」

 しょんぼりする主人を見ていて、私は深いためいきをついた。

 披露宴は午後一時からだった。仲人の月並みな挨拶に始まって主賓の挨拶、乾杯、お色直しとあらかじめ綿密に組まれたスケジュールが淡々と進行していく。新郎新婦が同時にお色直しに出てまもなく、正面入口の左右の扉が一緒に開いて、二人が先に火の着いたサーベルを仲良く握って入場してきた。主人のスピーチはキャンドルサービスの後すぐである。喉が乾くのか、主人はたて続けにビール三杯を一気に飲み干した。

「あまり飲みすぎたらだめよ」

「そうか」

 緊張のせいで顔色が悪い。身体は人の二倍近くあるというのにまるで気が小さい。蚤の心臓とはまさにこのことである。

「がんばれよ!」

 来賓客から新郎新婦に励ましの声がかかる。私たちのテーブルにもキャンドルが灯された。

「係長、これからもよろしくお願いします」

 痩せて小柄な目の大きな新郎が主人に向かっていった。白のタキシード姿がよく似合っている。細くて軽そうな体型は今の流行なのだろう。よく見ると新郎の友人たちも同じような顔つきをしている。新婦の方はすでに小太り形態。申し訳ないが私には子どもを産んだあとの新婦の将来の姿が予見できる。

「うん、そうか……」

 主人はそう答えるのがやっとで、もう涙ぐんでいた。司会の流暢な紹介が流れるたびに瞳はウルウルし通しである。おそらく主人の涙腺は破壊されているのだろう。特に年がいってからは凄まじい。情に厚く涙もろいといえば格好がいいが、ところかまわず泣きまくりである。テレビを見ていても同じ。雅子さまが愛子さまを産んだといってはうれし泣き、好きな阪神タイガースが勝ったといえばまた泣く。ドキュメンタリーで偉人の話を聞けば尊敬の涙にくれ、北朝鮮のキム・ジョンイル総書記と金大中大統領が抱き合った時などはよその国の話なのに号泣した。

 司会のアナウンスが流れ、主人がマイクを握った。恐怖におびえた黒熊はホテルで借りた老眼鏡をかけ、手に持った皺くちゃの紙を広げおそるおそる読み始めた。

「本日はお日柄もよくご両家におかれましては誠に……」

 主人はいつも決まって自分の好きな山本周五郎の『日本婦道記』の一節を語る。この人には読書以外趣味と呼べるものがない。ゴルフは練習を含めて誘われたら行くが自分から進んでいかないところをみると趣味とは呼べないのだろう。まあとにかく暇さえあればいつも本を読んでいる。江戸時代の一般庶民を描いた山本周五郎の大ファンで、司馬遼太郎は苦手なようだ。『司馬先生は大上段から人生を語る大作が多くて僕にはね、生きていくのが精一杯だから』というのが主人の司馬遼太郎評である。私は司馬さんの作品のほうが血沸き肉躍るのだが主人はついていけないらしい。

も う十年以上も同じスピーチをしていながら主人は未だに虎の巻がいる。聞いている私が覚えてしまっているのだからあきれてものがいえない。

「山本周五郎いわく『夢の行き着いたところに結婚があるのではなくて、結婚から夢の実現がはじまるのです』これは誠にありがたい言葉です。今日お二人が結婚されたことは紛れもない現実であります。このことはすなわち、幸せな家庭を築く第一歩が始まるということです。それは希望に満ちたものでありますが、裏を返せば苦難の連続でもあるわけです。夢の実現に向けてよりいっそうの努力をされることを、切に、切にお願いする次第であります……」

 苦難はわかるが結婚生活のどこに夢などあるのか、私は主人のこの話を聞くたびに、本当にそう思って話しているのか疑いたくなる。それでも今日はなかなかうまく話しているようだ。

「ピー! ピー! ピー」

 スピーチをしている主人の真横に座っている新郎の友人グループのテーブルでケイタイが鳴った。主人の話に耳を傾けていた客たちがケイタイの鳴るテーブルに注目した。

 事態は急変。主人は慌てふためき、とんでもないところに話を転じた。

「あ……。家内と私は今でいう遠距離恋愛でありまして……え~と。つまりその、私は、大学で故郷を離れ、アパート暮らしを……しておりまして、毎晩、家内に電話をかけるのに、銭湯のつり銭を握り締めて、え~と、空いている公衆電話を探してですね、そう当時は十円玉でしかかけられないので、両替を忘れて大変でした。『あ~もうすぐ切れるよ、また明日』などといいまして、そうやって毎日、家内の声を聞くのが、私たちが交際していた頃の楽しみでありまして……」

 主人は話を落とすことが出来ずに暴走を始めた。 

「なにいってるのよ。もういいから、早く終わりなさい!」

 私は主人の礼服の袖を引っ張りながらいった。

「そうか……終わります」が見事、マイクをとおり会場に流れた。会場が爆笑の渦に巻き込まれる中、私の顔は真っ赤に火照りあがり全身から汗が噴き出していた。

 家に帰ると主人は礼服を脱ぎ捨て、ジャージに着替え、庭に出て草むしりを始めた。出掛けに私がいったことを気にしていたのだろうか。なにをするのも突然で理解に苦しむ。

 私は持ち帰った引き出物の包装紙を一つ一つ丁寧にはがした。一枚の大皿には新郎新婦の写真と今日の日付が印刷されていた。私はこんなに趣味の悪い物はないと思う。こんなものをもらって部屋に飾る人がいるのだろうか。恐らく身内親戚でもいないだろう。いくら祝い事でも幸福を押し付けられるのは余り気分のいいものではない。最近はお祝い返しに商品券や通信販売のカタログをくれる人もいる。『好きなものを選んでください』などと書かれているのを見ると、それはまったくの儀礼だけのことで、人への愛情がなくなってしまったのではないのかと思えてくる。相手への様々な思い入れがあればこそ心を込めた贈答品が選ばれるのではないのだろうか。いやまてよ、私だって主人のパンツ一枚買うのに愛情を込めているとはいいがたいが。

 私はお茶を入れると、突然の労働にわき目もふらず熱中している主人を呼んだ。隣の家の大きな向日葵がこちらを向いていた。

「お茶が入ったわよ」

「そうか」

 主人は首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら縁側に腰をかけた。

「どうしてあんな話をしたの?」

 私はもらった赤飯に箸をつけながら混乱スピーチのわけを質した。

「僕はケイタイが嫌いなんだ」

「それだけ?」

「そう」

 だったらどうなのか。それでどうしたのか。主人の話はいつも尻切れトンボ。二十数年ともに暮らしてきたが、未だにその先が読めなかった。でも若い頃はこのはっきりいわないことを私は優しさと勘違いしていた。付き合い始めた頃、私はよくデートに遅刻した。遅れること一時間、主人は待ち合わせた喫茶店で本を読みながら延々と待ち続けた。そして決まって「今来たところだよ」と私を責めることはなかった。そういえば結婚以後も以前も主人が真剣に怒った記憶がない。いや、そうだ、一度だけある。結婚してまもなく、私は退屈しのぎに知り合ったセールスマンにそそのかされて八万円分のコンドームをローンで買ってしまった。仕事から帰った主人がその時だけは送られてきたダンボール箱を蹴り飛ばして怒った。収入が十万円そこそこの時代である。主人の怒りはもっともだった。その頃は私もまだ純情で泣いて詫びた。当時はクーリングオフ制度もなく一年間ローンを払い続けた。

「いい結婚式だったなぁ」

 主人はカバの鼻のように大きな穴から煙草の煙を漂わせながらいった。

「そうかしら、あまり感動的じゃなかったわよ。料理も和洋折衷なんていいながら中途半端だし、それに式場の空調が悪くてタバコの煙が充満してたじゃないの。これからは公式の場はすべて禁煙にすべきよ。それにあなたの同僚の高村さん、煙草吸いすぎよ。まるで中毒じゃない。あんなに痩せぎすで、きっと病気になるわ。あんたから少し注意してあげたら」

「自分のウエイトコントロールもできない人間が人のことをいえないよ」

 主人はそういうと煙草を灰皿でもみ消し、お茶をすすり上げた。

 タカ子との約束は午後六時だった。夏に留袖を着たので汗が尋常ではなかった。着物を脱ぎ捨てる私の後ろ姿を見る主人の視線がいつもと違っていた。突然発情されると困るので、私は視線を合わさないようにして風呂に飛び込むと髪も下ろして洋服に着替えた。

「ちょっと遅くなるかもしれないから夕飯は出前か何かとってちょうだい。引き出物でいただいた赤飯も残っているから」

「そうか」

 主人は缶ビールを飲みながら野球中継を見ていた。背中を丸めたタヌキが拗ねていた。


 周りにいる女性客を真似るように立て続けにカクテルを飲み干したら、カウンターのテーブルライトがグニャグニャと溶け出した。店内を見渡すとすべての照明に霧がかかっていた。客の話し声がまるで洞窟にいるかのように共鳴し頭がグルグルと右回りに回転を始めた。止まり木に置いた足がふわふわとして宙に浮いているようだった。調子に乗っておかわりしたドライマティーニが効いたらしい。私はカウンターに崩れるようにうつ伏せになった。私の肘が側に置いてあった灰皿を押し出し、そのままカウンターの向こうに突き落としてしまった。

「ガシャ!」

 灰皿がシンクにおいてあったグラスを砕いたような鈍い音がした。

「ミユキ、大丈夫?」

 カウンターの向こう側に並んだ若い男に愛敬を振りまいていたアキ子がいった。

「ごめんなさい。大丈夫よ」とはいえ、かなり酩酊している。

 タカ子に連れられてついてきたところは洋輔が経営するホストラウンジ。カラオケバーというのは真赤な嘘だった。待ち合わせの場所に現れたタカ子とアキ子を見て、私は絶句した。タカ子は光沢のあるジャガード地の紫のワンピース。それも膝上十センチはあるミニ。同窓会の時よりも過激だった。薄いジャケットを羽織っているが、下はおそらくノースリーブに違いない。首には金ピカのシャネルが光り、ダイヤが散りばめられたロレックスには眼を瞠るものがあった。タカ子の主人はコンピューターシステムエンジニアの会社を経営している。要するにタカ子も社長婦人なのである。大手都銀の専属会社で事業はすこぶる安定しているそうだ。今はリストラの嵐が吹き荒れる大不況だが、タカ子の主人が経営する会社は取引先の銀行が今度合併して世界最大規模になるという。前途洋洋である。その気になればこの程度の贅沢は許されるのだろう。うらやましい話だが住む世界が違いすぎる。私の主人のような安サラリーマンの給与では到底真似のできないゴージャスさだ。

 加えて私にショックを与えたのはアキ子の変貌ぶりだった。女子プロレスの選手と思えるくらいに肉付きのよかったアキ子が、しばらく見ないうちに激ヤセしてダイエット食品のチラシに登場するモデルのような体型になっていた。グレイチェックのダブルのジャケットに黒のパンツ。足が異様に細くなり、ベルト下のお腹の肉は見事に削ぎ落とされていた。左胸の薔薇のコサージュがとても品がいい。アキ子は男役のタカラジェンヌに化けていた。共に社長婦人、やはり永遠の美貌を維持するためにはお金がいるのだろうか。

 タカ子とアキ子はすでにこの店の常連らしく、たくさんいるホストの子を名前で呼んでいた。甘い罠に陥れられた私はひとり場違いのオバサン姿で酒を飲むだけだった。酒量は限界を越えていた。

「手洗いはどこ?」

 隣の席にいたタカ子がいなくなっているのが気になったが、気分が悪いのと、女の宿命であるそろそろ来るはずの月に一度のお客さんのおかげで腰と背中が痛い。私は席を立った。

「一番奥の左側よ。ほんとうに大丈夫?」

 アキ子は同じことをいった。私は手を振ってアキ子が指差した方向に歩き始めた。女のための竜宮城は佳境に入っていた。それにしても広い店である。スナックなら四・五店舗は十分入るだろう。テナントビルのワンフロアーをぶち抜いて作ったに違いない。ダンスホールでは輝度を抑えた照明の下で数組のカップルがゆったりとしたバラードにあわせてチークを踊っていた。マグロに絡みつくタコのように若いホストの手が脂の乗った客の下半身を撫で回していた。抱き合ったまま平然とキスをしているカップルもいる。淫靡な有閑マダムの享楽の宴。私には馴染めようもない異次元の世界だ。

 トイレのガラス戸に手をかけようとして私は思わず目を疑った。トイレの手前右奥にあるタバコの自動販売機と公衆電話の陰でタカ子が茶髪の若い男と抱き合っているのだ。髪を振り乱し一心不乱の彼女は、黒服の若いその男にむしゃぶりついていた。男の白いカラーがタカ子の口紅でピンク色に染まっている。押し倒し奪おうとしているのがタカ子であることは誰の目にも明らかだった。武者震いをするような驚きと興奮が私の身体を熱くさせた。私自身、目の前で繰り広げられるような若い男との情事を夢見ることがないわけではない。主人とのセックスがなくなったといっても、私にだって男を求める気持ちは人一倍ある。飼い殺し状態のマグロにだってそりゃ男に抱かれたいのが正直な気持ちよ。

 うらやましかった……。

 私はバンジージャンプ台に立ったように急激に血の気が下がり酔いと眠気が一気に吹き飛んでいた。横目で二人を覗き見ながらトイレに入った私に、やっぱりお客さんが来ていた。

「今夜のお洋服、素敵ですよ。ミユキさんはタカ子さんと同じでフォーマルなスーツがお似合いですよね」

 トイレを出たところに待っていたホストの一人がそういっておしぼりをくれた。長髪で彫りの深い顔立ちは嫌いなタイプじゃない。

「そんな……」

 私は黒のスーツを着ていた。選んだ理由は一番細く見えるというただそれだけ。タカ子を真似たタイトスカートのファスナーは半分しか上がらなかったし、ウエストホックはとても無理なので安全ピンで留めていた。

(なにがフォーマルよ! なにがタカ子と同じよ! よくいうわねまったく)

 心の中でそう思ったが、褒められることに飢えている私は満更でもなかった。ブラウス一枚、髪型ひとつ、いやハンカチ一枚にでも女は精一杯の乙女心でそれを選んでいるのよ。わかっていないのは男のほうで結婚してからの無関心は残酷そのものじゃないの。新鮮な刺身だって食べずに置いていたら腐ってしまうわよ。妻の不倫も熟年離婚も長年放置され続けた女のリベンジ……かもしれない。

 カウンターに戻った私に気づいたアキ子が男と話すのをやめて振り向いた。

「酔ったの?」

「ちょっとね。普段あまり飲まないから」

 首を振ると頭がズキズキした。

「ご主人は晩酌しないの?」

「ビールなら底なしね。休みの日なんかだらだらと一日飲んでる。つきあってもつまらないから一緒に飲むのをやめたの」

「そんな風にいっちゃご主人が可哀相じゃない?」

 主人の話などうんざりである。

「そんなことより、アキ子、あなたやせたわね。このあいだ会った時から随分やせたでしょ。どうしたの?」

 悔しかったが訊かずにおけない。

「知りたい?」

 優位に立ったアキ子は誇らしげに腕を組んだ。ぺチャパイが悩みの種だったはずのアキ子の胸に深い谷間ができていた。

「うん」

「洋輔から紹介されたダイエット食品をつかってるの。『スキニーズ』っていってね、外国製の健康食品会社から発売されているのよ。私はタカ子に勧められてつかうようになったのだけど」

「なにそれ、やせ薬のこと?」

 私は身を乗り出していた。もう一度、春を取り戻して男の目を振り向かせたかった。

「まあそうね、身体の新陳代謝を活発にさせて体脂肪を燃焼させる薬のようなものよ。難しいことは私にもわからないんだけど、医薬品じゃないので『薬』というのは薬事法に引っかかるそうだけど」

「高いんでしょ?」

 金に糸目をつけぬ二人だからこそできる荒業に違いないと私は思った。

「それがね、そうでもないの。少しばかり出資金がいるけど」

「出資金?」

「出資金といったって自分が最初に使う分の発注をするだけ。入会金もないしノルマも強制もないのよ。自分が使ってよければ友達に紹介してお客を増やすの。これが結構儲かったりするのね。身体はスリムになるし収入はあるし、まさに一石二鳥ってとこね」

「ほんとうなの?」

「うそじゃないわよ。実をいうと洋輔もそれで儲けてこの店買ったんだから」

「エ~ッ! この大きな店を?」

 あいた口が塞がらなかった。今どきそんなおいしい話があるはずはない。

「それってインチキ商売でしょ。今、問題になってる」

「私も最初疑ったわよ。それが不思議に今では小遣いくらいのバックがあるのねこれが。まあ儲かるのは別にしてキレイになれるのはどうなのよ。最近、私が紹介した友達で二十キロ近くもダイエットに成功した人がいるもの。そんなに無理しなくても十キロは軽く落とせるわよ。やせるのってわけはないよ」

「そう……」

 キレイになれる、やせられる、という言葉に、私はタカ子と若い男の抱擁を重ね合わせていた。

「一度話だけでも聞いてみたら」

「お願いしようかな」

「今度セミナーがあるから呼んであげるわ」

「うん」

 結局、閉店になってもタカ子は席に戻らなかった。アキ子は驚く風もなく私を連れて店を出た。なぜか支払いはタカ子が済ませていた。

「洋輔とタカ子はどこへ行ったのかしら」

 入店したときは洋輔が出迎えてくれたが、しばらくして姿を消した。タカ子もあの情事の後は行方知れずである。私は二人の消息が気になってしようがなかった。

「洋輔は店に来てくれるお客さんのところを回っているのよ。ようするに営業。タカ子はたぶん次の店でしょ」

「次の店って?」

「野暮はいいっこなしよ」

 アキ子はそういうとウインクした。


十階のセミナー会場には『二十一世紀の健康を考える会』と書かれた案内板がでていた。受付にはタカ子とアキ子がすまし顔で陣取っていた。

「間に合ったかな?」

「ご心配なく。まだ始まってないわよ」

 タカ子が笑った。今夜は打って変わってシックなベージュのスーツを着ていて、まるでPTAの会長のようだ。

「これに記入してくれる」

 アキ子が名簿とボールペンを差し出した。私はその紙に名前や住所など必要事項を書き込んだ。緊張で手が震えた。

「今日の会費は私が持つからいいよ。席に座りましょう」

 ポロシャツにジーンズ姿のアキ子がそういうと私の背を押して部屋へ誘った。部屋は二十人くらい入る会議室で教室のように机と椅子が並べられていた。ほぼ満席に近かった。会場は冷房が効いて涼しい。ほとんどが女性で男性は数えるほどしかいない。

 洋輔は主催者が座る席で白髪の男性となにやら打ち合わせをしているようだった。おそらく洋輔の相手は今日のセミナーの特別講師の先生に違いない。あの夜、タカ子と戯れていた若い男の姿も見えた。アキ子は一番前の空いている席に私を座らせると自分は後ろの席へ戻ってしまった。こちらを向いた洋輔が、「よう!」と小さく声をかけてきた。私は会釈だけ返してテーブルの上にある資料に目を落とした。慣れない雰囲気に戸惑いトイレに行きたくなった。ドキンドキンと早まる心臓の鼓動を感じながら、私は早く始まればいいのに、と思った。

 最初の一時間は、予想通り白髪の教授然とした紳士が、環境問題や二十一世紀のライフスタイル、それに現代病といわれる成人病などについてスライドを使い詳しく説明してくれた。結構説得力のある話で興味深かった。それから若くて体格のよい男性にバトンタッチして本題の健康食品の話に移った。取り扱い品目はビタミン剤から化粧品まで揃っていた。アキ子がいっていた腸内の悪玉細菌を取り除き体内脂肪を燃焼させる食品もその中に含まれていた。半年で健康な身体とスリムなプロポーションが実現できる画期的な『薬』であるといっていた。頭の禿げた男性の髪も完璧に元に戻せるなどといういかがわしいものもあった。そして最後、派手に着飾った五十過ぎの女性によるビジネスプランの説明があった。彼女は入会一年ですでに月百万円近くを稼いでいるという。頑張り次第で収入は無限大、外国車もマイホームも夢じゃないと力説した。少しばかり自分の成功談に酔っているようだった。夢のような話にうっとりと聞きほれている参加者が目を輝かせていた。私は他の参加者ほど感動も受けなかったし、胡散臭さも払拭できなかった。あまりに話ができすぎているのだ。世の中ってそんなに甘いものだろうか。周りにいる参加者がサクラに見えてしようがなかった。

 セミナーが終了し、ホテルの一階にあるティラウンジでお茶を飲むことになった。

「五十万! とても無理無理。あなたたちと一緒にしないでよ」

 ダイエット食品購入の初回金にタカ子が提示した金額は私の予想を遥かに上回っていた。そんなことだろうと思ってはいたが余りの値段の高さに呆れてものがいえなかった。夫婦共稼ぎで家のローンを払い続けている私たちにとって五十万円は莫大な投資である。娘の車の購入費もまだ目途がたっていないというのにどうやってそんな大金が用意できるものか。有閑マダムのお遊びにつきあってはいられない。マグロのままでけっこう。勘弁して。

「折角だけどわたし、あきらめるわ!」

「まあまあ、ミユキ、そんなにムキにならないで。よく考えてみましょうよ。ひょっとするとその投資分なんて半年で戻ってくるかもしれないのよ。もちろん五万円から始めてもいいんだけど、それじゃビジネスにならないし面白みがないのよね。どうせだったらいいポジションで始めて自分の購入費くらいペイしたいじゃないの」

 立ち上がった私をなだめるようにタカ子が私の肩に手を置いていった。

「そりゃそうかもしれないけど、逆さになってもそんな大金ないわよ」

「大丈夫。ローンがあるじゃない。月々僅かずつ返済しながら、紹介リベートが入ればその返済に充てればいいのよ。金利が心配だったら私の主人の会社が取引している銀行のフリーローンが安いわよ。アキ子もそれで申し込んだのよ。ねえ?」

 タカ子は横にいるアキ子に視線を送った。

「そうよ。今はまだ返済中。正直なところ大変だけど投資しても使わないものじゃないし、その分だけ商品は手元に届くからね。まるっきり損をするんだったら勧めはしないよ。こんなにスリムになって私は感謝してるよ。ミユキ、タカ子と私を信じてちょうだい。損はさせないよ、絶対に」

 アキ子はきっぱりといってのけた。そういわれればそんな気がしないでもなかった。要するに必要なものを先買いするのである。タカ子やアキ子のようにスレンダーなボディーを取り戻せることを考えたら五十万は安いかもしれない。今まで買ったダイエット器具の購入費やエステサロンの費用を合算すればそれどころじゃないのは事実だ。残ったものはガラクタとためいきだけだもの。

「今すぐ返事しなくていいの。考えて欲しいのよ。けっして無理にとはいわないから」

「そうね、考えてみようかなぁ」

「強制とノルマがないのがこのグループの素晴らしいところなの。それで今、急成長してるのだから」

 タカ子はカバンの中からセミナーで紹介されたダイエット食品を私の前に差し出した。

「これしばらく使ってみてちょうだい。ビタミン剤のつもりで毎日飲めばいいから。きっとお腹がすっきりして私たちがいっていることを信じるようになるわ」

「もらっていいの?」

「もちろん」

「ありがとう」

「なに水臭いこといってるの、私たち同窓生じゃない」

 タカ子のまなざしは真剣そのものだった。

 帰るという私を強引にひきとめて、二人は今日も洋輔の店に行こうといいだした。前回はタカ子の奢りという約束で同伴したが今夜もご馳走になるわけにはいかない。洋輔の店はどうみても私のような者が出入りするクラスの店じゃない。

「わたし今夜はもちあわせがないのよ。また今度にしましょうよ」

 私は洋輔の店の前で再び二人の誘いを拒んだ。

「ミユキ、ここまで来てなにいってんの。お金の心配なら任せといて。ここで遊ぶくらいのお金なら主人の給与に手をつけなくても私のビジネスで稼いだ分でおつりがくるんだから」

 タカ子はそういうと店の扉に手をかけた。

「でも……」

「心配いらないったら。入会させるためにご馳走するわけじゃないのよ。そんなケチな手は使いません」

 タカ子は私の手を力いっぱい引くと店の扉を押し開けた。

 店は静かでこのあいだより客はずっと少なかった。閑を持て甘していたホストたちが一斉に出迎えに来た。ゆったりとしたボックスに通された私たち三人にそれぞれ一人ずつ男の子がついた。私の隣には先日と同じ彫りの深いハンサムボーイがついていたが、乾杯の後しばらくして洋輔に代わった。

「ミユキ、今日のセミナーどうだった?」

 洋輔はさりげなく私の膝の上に手を置いた。私は思わずその手を振り払おうと思ったが気だるい酒場のムードがそれを許していた。洋輔からもらった名刺と同じコロンの匂いがした。タカ子とアキ子はそれぞれのホストとすでに盛り上がっているようだ。

「まあね……」

 私は洋輔の手が気になって上の空で返事をした。コロンの香りと洋輔の吐息が二人の間を埋めるように漂っている。主人以外の男性がこんなに接近するのは何年ぶりだろうか。私は高鳴る鼓動が膝の上の手を伝わって洋輔に気づかれないかつまらぬ心配をしていた。

「この店、オープンしてどれくらいなの?」

 私は話を転じることで心の動揺を振り払おうとした。

「まだ三ヶ月だよ。これからも頼むよ」

 洋輔の手が膝上を優しく撫でた。小さな虫が這うような微弱な電流が背中を走った。

「ええ……」

 そうとしか答えようがなかった。

 アップテンポのBGMが、ぬめるようなバラードに変わった。

「みんな踊ろうか?」

 洋輔が立ち上がっていった。

「そうね」

 タカ子はお気に入りの男の手を引いてフロアに立った。アキ子もそれに続いた。

「ミユキは僕と踊ろう」

 洋輔が手を差し出した。

「だめよ。私はだめだめ。ダンスなんて知らないわよ。ここで飲んでる」

 必死で抵抗した。冗談じゃないよ。こんなブヨブヨの膨れた身体を洋輔に預けられるわけがないじゃない。上着に隠れたスカートのファスナーは今夜も半開きなのに……。

「心配要らないって。俺がリードするから」

 洋輔は不意に私の手を引き上げた。中腰になった私の横腹の辺りで「ピチ」という嫌な音がした。ウエストホックの代用をしていた一つ目の安全ピンが飛び、ファスナーが数センチ下がったような気がした。洋輔は構わず私をホールに連れ出し、強引に私の背中へ手を回した。後ろに回った洋輔の手がくっきりと浮き出た下着の上を撫でていく。洋輔の頬が私の頬に触れた。カクテル光線の下、私は正夢を見ていた。


 翌朝、キッチンで朝食の準備をしていると主人がナマズのような声を出した。

「ミユキ~」

主人はテーブルの前に立っていた。手に何か持っている。

「なによ。忙しいのに」

「これ」

 主人は手に持った青いフィルムのようなものを差し出した。それは洋輔の店の名刺だった。私はヤバイ、と一瞬思ったが後ろめたさを怒りに転嫁させて主人に噛み付いた。

「どこで見つけたのよ!」

「椅子の上に落ちていたけど……」

主人は私の剣幕に狼狽している。おそらく昨夜家に帰った私が、よそ行きの財布から普段使っているガマ口にお金を入れ替えた時に落としたようだ。

「あっ、これね。これはこのあいだの同窓会でもらったの。同級生の子がスナックをしているのよ」

「男が?」

「そう。女の子を何人か雇っているみたいだけど、わたしはよく知らないわ」 

私は口からでまかせをいった。そして何気ない風を装い主人の手から強引に名刺を取り上げた。

「そうか。それにしても『ミセス・ロビンソン』って懐かしい名前だな」

 主人は椅子に座ると感慨深げにいった。

「何が?」

 私はピンとこなかった。懐古趣味の主人は何かといえば古い話を持ち出してくる。いちいち付き合っていられない。

「ダスティン・ホフマンの『卒業』じゃないか。キャサリン・ロスのお母さん役で娘の恋人ベン(ホフマン)を誘惑するロビンソン夫人、たしかアン・バンクロフトだったっけ。今でいう熟女、怖いほど色気があったね。まあ、でも、何といっても教会のガラス戸を叩いて叫ぶ『エレン!』のラストは……」

 主人はそこまで話すとコーヒーを飲み始めた。もう自分の話に感極まって瞳が真赤に染まっていた。つくづく主人は単純な人だと思う。こうやって結婚前には文学や映画について熱弁をふるい私に聞かせてくれたものである。それが今では小うるさく聞こえるだけでまったく私の胸を打たない。そういえば『卒業』も主人とリバイバル上映を見に行ったような記憶がある。二十年も一緒にいるのにいつから思い出も共有できないほど冷めてしまったのだろう。勝手なもので洋輔と学校を休んで観に行った『メロディ』は今も忘れずに覚えているのだから。

「そうだったわね」

 私はそっけなく答えて焼きあがったトーストを主人の前に放り投げた。主人はそれから一言も話さなかった。

 主人が出社してまもなく裕香がすごい剣幕でキッチンに駆け込んできた。

「おかあさん、ビデオ触ったでしょ!」

「なんのこと?」

「だって録画予約していたのが勝手にキャンセルされてるのよ。おかあさんじゃなかったら誰がするのよ!」

「そんなこと知らないわよ。アナタも知ってるでしょ。わたしも夕べは家にいなかったじゃない。大体わたしはアナタの部屋に勝手に入ったりしません。もしかして……」

 主人の顔が浮かんだ。

「おとうさんなの。もうっ! 好きなドラマだったのに。あれは私のビデオだからね。見るんだったら居間のテレビにビデオをつければいいでしょ。もう決めた。これから部屋に鍵をかけるからそのつもりで」

 裕香は牛乳を一気に口に流し込むと部屋にこもってしまった。寝起きの悪さも手伝って裕香は激怒していた。娘からも完全に見放された主人の面目はどこにもなくなっていた。

 私は一週間ぶりの大掃除を始めた。臭いタヌキ部屋も出入りしたくはないが放っておいたらゴミ捨て場になってしまう。私はいつものように掃除機をうならせながら主人の四角い部屋を丸く弧を描くようにルンルン気分で行進していた。「フフッ」と独り笑い。ついで鼻歌がでた。洋輔とのチークダンスは私の女心に火をつけるのに十分だった。みんなと別れた後も抱かれていた時の興奮が何度もよみがえり家に帰るまで思い出し笑いを抑えることができなかった。下半身から脳天に突き上げられるような快感は私の自律神経に異変をきたし始めている。水以外の食事が喉を通らないのである。私は掃除機を止め、エプロンポケットの中に入っている洋輔がくれたケイタイを左手できつく握り締めるとためいきをついた。

「これ使えよ。ビジネスを始めたら役に立つからさ。タカ子やアキ子の携帯番号も登録済みだし、もちろん俺のもね」

 私が主人のケイタイ嫌いを話すと、洋輔は店用の余った電話機をくれた。

「あのダイエット食品をはじめようかな」

 私は掃除を中断しベッドに腰掛けると独りごちた。タカ子やアキ子のようにスリムになれるのなら、と何度も心の中を思いがよぎった。でもどう考えても五十万は高すぎるよなぁ、といっぱしの理性がそれを押しとどめる。少しだけ売ってくださいなんて洋輔の手前いえるわけないし、ジレンマとの闘いは私の決断を鈍らせていた。

 相変わらず主人はベッドの下にエロ雑誌を隠し持っていた。以前は私がその気になると決まって「弱くなった」とか「疲れてその気にならない」などといった。そんな言い訳は信じられるものじゃない。男なんて一旦外に出れば鼻の下を伸ばし他の女に言い寄るにきまっているのだから。よく見ると知らぬ間にベッドの下の雑誌が増えていた。一冊引っ張り出そうと手を伸ばしたら雑誌の上に置いてあったビデオテープが転げ落ちた。表紙写真は女学生の超ミニスカート。別角度の挿し込み写真で白いパンツが写っている。タイトルは『盗撮コレクション・禁断の……』なんとこれは娘のビデオデッキを触った犯人を特定する明白な物的証拠だった。

 私はキレた。

もはやこれは許すことのできない妻への裏切り行為である。「ヨシ!」腹は決まった。私は若い男を弄ぶロビンソン夫人なんかになるつもりはない。メリルストリープのようにスレンダーなボディーになってロバート・デニーロと『恋に落ちて』やる。失望のためいきとはグッドバイ。妻のリベンジを思い知るがよい。

 私は怒りが沈むまもなくケイタイでタカ子に電話した。

「例の件だけど」

 決起の勢いは十分だったが私にはローンで購入するより手がない。正直なところ、私は先日銀行の融資が受けられなかったことが気になっていた。

「その気になった?」

 タカ子の声がやけに弾んでいる。

「ビジネスプランで始めようと思うのだけど実をいうと、ローンがね」

「大丈夫、大丈夫。私に任せてくれればうまくいくから」

「でも……」

「ご主人の名前で申し込めばいいわ。それとも何か他に問題があるの?」

「実をいうとこのあいだ銀行にカーローンを申し込んだら第三者の保証人をつけなきゃダメみたいなこといわれたの」

「どこの銀行?」

「U銀行」

「今までに取引はあったの? ご主人の給料の振込みは?」

「公共料金の引き落としくらいで給料は別のところ。振込先はね、そうそう、タカ子のご主人が取り引きしているD銀行よ」

「そうか、ところで公共料金の引き落としはうまくいってたの?」

「失礼ね、タカ子。もちろんよ。そりゃ遅れたりすることもあるけど電話が不通になったり電気を切られたりしたことは一度もないからね!」

 いくらなんだって馬鹿にするなよ。タカ子の失礼な問いに私は少し腹が立ってきた。

「ミユキ、怒らないで聞いてよ。銀行の信用調査の一番は給与の振込先が自社であるかどうかと公共料金の引き落とし実績なのよ。一回でも遅れるとそれが信用不安につながるのね。申し込みをした人が公共料金の支払いをきっちりとしているかどうかはリストを見れば一目瞭然。仮に遅れるということは貸付金の返済も同様とみなされるわけよ。給料の振込みが別のところだったら特に。過去二年間はさかのぼってその支店に実績として残っているから引き落とし先の口座と給料の振込先を変更しておいたほうがいいわね」

 タカ子の話には説得力があった。さすがである。その日暮らしの暢気な主婦はそんなところまで気が回らない。引き落とされようが窓口に持っていこうが払えばそれでいいじゃないか。生活に支障はないんだから。

「まあ任せてちょうだい。今日の午後でも知り合いの銀行員をつれていくわ。その時に入会申し込み用紙も一緒に持っていくから。大船に乗ったつもりでいなさいって」

 タカ子はやり手のセールスマンのように強気だった。

 言葉どおりタカ子は、夕方、銀行マンと一緒に私の家にやってきた。カーローンということにして裕香の車の費用との合算で申し込むことにした。〆て百二十万円。莫大な投資に手が震えた。なだめすかすような二人の笑顔と私の真剣な顔つきは対照的だったに違いない。

 タカ子たちが帰ったあと、主人に内緒で借入金を増額した後ろめたさと不安が募りはじめていたが、洋輔のメールがそれを追い払った。

『俺も応援するから』

 私は夕食の準備にとりかかる前に「ヨッシャ!」と気合いを一発入れ、タカ子にもらったやせ薬を二日分一気に飲み込んだ。数時間後、激しい腹痛が私を襲うことになろうとは夢にも思わなかった。


 銀行からOKの返事をもらって一週間後、我が家に小型トラックいっぱいのダンボール箱が送られてきた。玄関に山積みされた商品を見て私はその数の多さに度肝を抜かれた。これをこのまま放置するわけにはいかない。車のローンのことは主人に話していたがこのことは内緒にしているし、見つかればいくら温厚な主人でもただでは済まないだろう。あのコンドーム事件以来となる主人の激怒が目に浮かんだ。

 しかし困った。だいたいこの小さな家にはそもそも収納するスペースがないのである。とりあえず私はダンボール箱を開梱して商品と送り状とを照合した。ほとんどをタカ子に任せていたので私には何が送られてきたのか知る由もなかった。裸にした商品をひとつひとつ並べてみると廊下に足の踏み場が無いほどぎっしりと並んだ。玄関には空のダンボール箱と剥がしたガムテープの山が、来た時よりも膨れ上がっていた。私はダンボール箱を折りたたみ、荷作り紐で縛り上げて表に積み上げると、近くのスーパーのダンボールばかりをストックしている倉庫に持って行った。店長と知り合いだったので事情を言って引き取ってもらった。

 家に戻り、普段使うであろうと思われるシャンプーやリンスなどのお風呂用品や台所洗剤、それに化粧品などは、従来あった使いかけの物を処分して入れ替えた。「自然環境破壊の産物」と講師の先生がいっていた古い商品だけでダンボール一箱分はあった。それをそのまま不燃物の袋に入れベランダに出した。それでもまだ三分の二以上は廊下に並んでいた。夏物との衣替えで空いている衣装ケースがあったので、私はそれを四つある部屋のそれぞれの押入れに小分けにして押し込んだ。流れ落ちる汗。まるで悪事をせせら笑うようにアブラゼミがやかましく鳴いていた。

 私は寝室の押入れを整理したときに見つけた学生時代の洋輔との思い出を綴った日記を引っぱり出し、座椅子にもたれかかりながらそれを開いた。赤茶けた大学ノートの表紙がちぎれて落ちた。


 IN MY HEART


  わが心の中に秘めし想い 

若き日の愛と涙とそして希望と


 人群れのさ中にあるとも

 ただ一人孤独である

 ただ一人を恋するゆえに


1972 9.10

顔がまん丸で、歯と歯のあいだがすいてて、目玉が大きくて、背がひくくて、横にふとくて、そして、かわいいのが、オレの大好きなミユキです。                             YOHSUKE


1972 9.14

私、もうだめかもしれないよ。私がみんなの足を引っ張っているんだ。昨日、由香里から言われた。ショック……死んでやる!                                     MIYUKI


1972 9.16

たとえ世界中の人たちがミユキを非難してもオレはミユキを理解できるよ。そしてオレが冷静に考えてミユキが間違っていたとしたら、ちゃんと口に出して言ってあげられるし、むろん正しければオレだけは本当にミユキのことを理解できると思う。だからヤケを起こさずに、世界中でたとえ一人でも、ミユキのことを思っている男がいるということを忘れないように。ミユキはテニスコートの花だよ。辞めるな。明日、クラブが終わったら一緒に帰ろう。                                       YOHSUKE

 

1972 9.18

洋輔はこれからも私をリードしてくれるんでしょ? 私、期待しています。私はいままでにない楽な気持ち。とっても楽な気持ちでいられるのがうれしいんです。本当に洋輔って、楽しい人。バレー部のアキ子が言いました。「うまくやりなよ」って。                         MIYUKI


1972 9.20

 冷静に考えれば考えるほど、喜びもますし不安もつのる。ミユキとやっとうまくいくようになれた喜びといつ訪れるかわからない別れの不安。しかし先のことばかり考えるのはよそう。今日の日を楽しくミユキとともに生きよう。

(追伸)近い将来、オレはうんとお金持ちになって高級車を買うんだ。ケンとメリーのスカイラインでミユキをきっと迎えに行くよ。                                    YOHSUKE

   

健康食品を購入したおかげで押入れにあったこんな青春時代の宝物に巡り会えた。洋輔は今でも私のことを愛してくれているのだろうか。なに馬鹿いってるの。そんなはずないじゃない。どんなにじたばたしてもあの頃に戻ることはできないのよ。しばし沈思黙考。立ち上がって深いためいきをついたらお腹がグーとせつなく鳴いた。

 やせ薬を服用し始めてしばらくは下痢が続いた。タカ子にいわせれば最初のうちは誰も同じような症状がでるらしい。

「悪い細菌と長い間腸の中に住み着いていた残留物が薬との戦いに敗れて追い出されているのよ。お腹がすっきりしたような気がしない?」

 そういわれるとそんな気がしないでもなかった。確かに下腹の盛り上がり具合が一頃に比べて小さくなったように思える。一ヶ月足らずで体重が三キロも減っていた。もっとも洋輔とのあの抱擁以来、食事の量が減っているのも事実である。退屈でしようがなかった毎日が不思議に充実していった。なぜか家族にも優しくなれた。知らぬ間に主人に対する刺のある返答もなくなっていた。一日何度かは洋輔を思い浮かべ、ときめきで胸が苦しくなった。四十を過ぎたおばさんがときめきですよ。ときめき。ソワソワしては時計を見る。ケイタイを握り締めてはためいきをつく。食事を始めると箸が自由に動かなくなりほとんどを残す。そして三度三度やせ薬と水を飲むことだけは欠かさなかった。一心不乱にやせ薬を飲み続けているうち、どうやってもファスナーが上がらなかったタイトスカートがすっきりと私の下半身を包むようになっていた。

 私はいても立ってもいられず土曜日のバイトの日には洋輔の店に立ち寄るようになっていた。最初は一人で行くのが照れくさくタカ子やアキ子を誘って行こうと画策したが、今はもうまるで常連気取りで店の一席を占有することに抵抗がなくなっていた。洋輔との間に何か起きたわけではない。会話をしてはお決まりのチークダンスをする。そんな子供だましの様なお遊戯でも私は満足だった。そこへ行けば男たちが自分を一人の女として扱ってくれる。たとえそれが地球を一回転するほどのゴマすりであることがわかっていても酔いしれて阿呆な女なることを受け入れることができた。その分、総合口座の残高はマイナスに逆転し、信販会社のキャッシングの残高は増え続けていた。銀行で借りた百二十万円も不気味に残っていた。

「今日はオレが送って行くよ」

 洋輔がめずらしく店が終わってから私を送って行くといいだした。

「無理しなくていいわよ」

 嬉しかったが建前上断った。でも次の言葉が欲しかった。

「まあ、そういうなよ。食べやしないから」

「そうね」

 私は洋輔との一線を越えることを心のどこかで望んでいた。しかし冗談でも「食べてもいいよ」とはいえなかった。

 洋輔の愛車は真っ赤な2シーターのコルベットスティングレー。学生時代から車が好きだった洋輔は夢を実現していた。隣に座る貧相な私はどう見ても不釣合いである。主人のゴミ溜めのような中古車に乗りなれている私は落ち着かなかった。突然、ジェットエンジンが爆発したような音がして車が発進した。本革シートに吸い寄せられるような感触がむず痒かった。瞬時に冷風が車内をクールダウンする。うっとりするような快適さである。

「ちょっと寄り道しようか?」

 信号で停まったとき、洋輔が正面を向きながらいった。私は下を向いてうなずいていた。顔を上げると洋輔の顔が大きくなって私に迫ってきた。ゴツンと互いの唇がぶつかった。かまわず洋輔の舌が並びの悪い私の歯をこじ開け舌を探しはじめていた。後ろの車がやかましくクラクションを鳴らした。

 洋輔の自宅。二十階建て高層マンションの最上階。白い翼を広げたような姿はまるでリゾートホテルさながらの景観である。生活臭をまるで感じさせない人工的な構造物は近寄りがたい高級感を漂わせている。車だけでなく洋輔は贅の限りを尽くす生活を手中におさめているのだ。

扉を開けて部屋を覗いた途端、私は急に臆病になった。

「……?」

玄関には磨き上げられた真っ赤な女物の靴が無造作に置いてある。それに下駄箱の横にはペパーミントグリーンの派手なレディースのゴルフバッグがオブジェのように飾られている。どう見ても女の匂いは濃厚だ。

「ミユキ、どうした?」

「だって……洋輔、あなた独り者だといってたじゃないの」

「そうだよ。心配ないって。女房はもうこの部屋には戻らないよ。今、引っ越す段取りをしているんだ。そのときに処分しようと思ってそのままにしているだけ。そこいらのホテルで顔でも見られたら、俺は別にかまわないけどミユキは困るだろ。ここなら安心だよ。心配ない」

「そんなこといっても……」

「こんなに暑いところでグズグズするなよ。上がるの? 上がらないの?」

 夜になってもむせ返るような外気が息苦しいほどである。私は身体に貼りついたタンクトップのブラウスが、噴き出す汗を吸い上げていくのを感じていた。洋輔も煮え切らない私に少し苛立っているようだ。洋輔の顔にもじっとりと汗が滲んでいる。

「わかった。お邪魔します」

 洋輔は私の顔を見てうなずくとスリッパをつっかけ、部屋の奥へ歩を進めながら振り向いていった。

「鍵、閉めて」

 私は回転キーをロックするとチェーンまで鍵穴に落とそうとしたが、手が震えてヘッドがうまくすべり落ちず鈍い金属音が部屋の中に異様に響いた。

「なにやってんだ!」

 洋輔が再び振り向いた時、私が揺さぶり続けていたチェーンがストンと落ちた。

「ミユキ、早くしろよ」

 慌てて部屋に上がろうとする私の片方のパンプスが跳ね上がり、扉の郵便受けに当たって裏返しになっていた。

 

「おかあさん!」

 突然、裕香が風呂の扉を開けた。あわてて湯船に身体を沈めると二つの胸がタプンと音をたてた。

「なに? 驚かせないでよ」

 私は裕香の訝しげな表情が気になった。人は秘密を持つと臆病になる。平静を装いながらも瞳は定まらずソワソワする。そして何もないのに顔をあわせる度にヘラヘラ笑う。

 あの夜以来、週に一度の大掃除が日課になった。食事の仕度も知らず知らずのうちに以前より念入りになっていた。心境の変化はそのまま不自然な行動の変化につながる。ひょっとすると私の変化を同じ女である娘はすでに見抜いているのかもしれない。裕香のまなざしが私の心の臓を射抜いていた。

「おかあさん痩せたね。かっこいいよ。まだ若いんだからそうでなくっちゃ」

「そうかな。それだけ?」

「それだけ。いつも飲んでる薬、私にもちょうだいよ」

 娘の興味は薬のようである。

「あんた必要ないでしょ。そんなに痩せっこけて。それ以上痩せたら病気じゃない。若いうちは少しくらいふっくらしていたほうが可愛いわよ」

 そういうと私はほっと胸をなでおろした。

「油断禁物。備えあれば憂いなし。これいただくからヨロシク」

「コラ! 勝手に」

 裕香はやせ薬のビンを私に見せるとバタンと扉を閉めた。その拍子に天井に溜まっていた水滴が私の首根っこに落ちた。

 ゾクッとした感触が洋輔の舌先に似ていた。あの日、洋輔の唇が凍りついたアイスクリームを舐めるように、ゆっくりと私の身体の隅々を這っていった。予測のできない行為を受け入れるという期待感だけで私は昇りつめていた。私の身体は無意識のうちに幾たびも波を打ち、アイスクリームは正体なく溶け出していた。あの日の交接を覚えているはずの乳房が湯船に浮かんでいる。

「金融界も大変な時代になったものだね。大手の銀行が三つも一度に合併したりして」

 風呂からあがると、テレビを見ながらビールを飲んでいた主人が誰にともなくいった。いつもの独り言である。

「どこの?」

「MとHとD。世界でも三本の指に入る銀行になったよ」

「そう」

 私は別段驚きはしなかった。タカ子が話していたとおりの展開。晴れてタカ子の主人の会社は日本最大銀行の下請け企業に名前を連ねることになったわけである。

 人間万事塞翁が馬などというが、タカ子のように次から次へと幸運に恵まれるのはどういうわけか。大きな家を二軒も持ち、夫婦そろって外国車を乗り回し、子育ての終わった二人は正月を含めて年に三度は外国旅行をし、そしてタカ子は主人の知らないところで気まぐれのように若い男を食べている。それに比べて私などは十年前に買った中古車を未だに乗り、娘の生活費と学費の仕送りのために夜中にアルバイトをし、それでもって小さな建売住宅のローンを一生払い続けなければならないのだ。人をうらやんでも何の解決策も生まれてこないことは百も承知だが、この落差をなんとも思わないほど私はできた人間ではない。もう人生もそろそろ第四コーナーを曲がろうとしているというのに主人には今の環境を好転させようという気概も覇気も感じられない。まるでムチが入っても最後尾を走り続ける駄馬のようである。口を開けば、「清貧」などと坊主のようなことをいう。エロ雑誌を蒐集するタヌキ親父が、なにが清貧だ。奇麗事なら誰でもいえる。現代人はお金がなかったら寂しくて寂しくてたまらないのだ。しこうして私の謀反は正当化されるのである。

「文句があるか!」

「なにかいった?」

 主人の声がした。バスルームで恍惚のためいきに浸っていた私は、主人を前にしてやっぱり落胆の深いためいきをついていた。


ベッドサイドに置いてある目覚まし時計を見ると午前三時になろうとしていた。私の胸に顔をうずめ、「今夜は泊まっていけよ」と何度も繰り返していた洋輔は知らぬ間に寝息をたてていた。私は洋輔をそのままにして身支度を始めた。脱いだ下着を再び身に着ける時にはいつもちょっぴり罪悪感が私の胸をよぎった。このままズルズルと洋輔との関係を続けていてもよいものだろうか。盲目になりつつある肉体が正直怖かった。あれほど不潔だと思っていた洋輔の部屋がまったく気にもならなくなった。最初の夜は誰と寝たのかわからないベッドに入るのさえ抵抗があったのに、今ではまるで自分の寝室気取りである。さりげなく手近な小物を自分の好みのものに変えたりしているのに気づいて思わず頬を赤らめたりする自分が可笑しかった。 自分が夜顔と昼顔を使い分けられるなどとは夢にも思わなかった。それが今、オスカー級の主演を演じているのだ。愛されているという自信が自分に磨きをかけていくのを実感する。そして不安、焦燥、緊張の連続が期待以上に身体をスリムにしていく。痩身は物理や化学を頼りにしていては実現できないのだ。環境、そう環境、女になれる環境。これだ。これしかない。でも私はいったいどこまで走り続けるのだろうか……。

 丸テーブルの上に置いてある洋輔のタクシーチケットを一枚切り取ると私は部屋を出た。こうやって別れるのもドラマのワンシーンのようで気に入っている。正直なところ自分が何をしているのか自分でもよくわからない。ただフワフワと宙に浮いている。

 エレベーターが一階に着いて扉が開くと真夜中だというのにフロアに人がたくさん出ていた。警察官の姿も見える。外を見ると救急車が赤いランプをグルグル回しながら待機していた。どう考えても異常事態。来るときは見かけなかったが、きっと呼び出されたに違いない管理人風のおじさんが、私服のおそらく刑事だと思われる角刈りの大男と、管理人室の中で立ち話をしていた。おじさんはしきりに首をひねり、まるでいじめられているようである。野次馬も当然出動しているが、私にはもちろん誰が誰だかわからない。

 あまりよろしくない視線を全身に感じながら、私はマンションの自動扉を開けて外に出た。外にも人垣ができていた。物々しい雰囲気が私の浮かれた気分を一掃した。こんなところで身元が知れたら実も蓋もない。場面はかなり際どい。うつむいて中央突破するしか打開策はなさそうだ。私は足元を見つめひたすら歩を進めた。

「誰が怪我をしたの?」

「若い女性らしいわよ」

「ここに住んでる人?」

「違うみたい。よそから来てあの非常階段を上がって九階のあそこ、あのあたりから飛び降りたらしいわ」

「ひょっとして死んだの」

「もちろん」

「いやだわね。気持ち悪い」

 したり顔で話す野次馬のオバサンたちの声が聞こえてきて、私はやっと事態が飲み込めた。

(これはまずい……)

 引きかえそうと思って振り返ると、大きなノートを持った若い華奢な警察官に捕まってしまった。

「ちょっとすみません?」

「はあ……?」

「こちらにお住まいですか?」

「いえ」

「失礼ですがお名前は?」

「一之瀬ミユキです」

「年齢は?」

「四十五……です」

 警官は真顔で人定尋問を始めた。私はあきらめて、聞かれることに適当に答えることにした。


 夏が終わろうとする頃、洋輔が突然一泊旅行をしようといいだした。私と二人で行くのかと胸を躍らせたが期待はあっさり裏切られた。タカ子やアキ子、それにホストの若い男の子も一緒に行くことになった。早い話が洋輔の店の慰安旅行のようなものである。それに招待されたわけである。私はいつもの口からでまかせで主人を納得させた。主人を信用させるためにタカ子を家に呼び、彼女のご主人はこの度のMHD銀行と提携しているATMのシステムエンジニアの会社を経営しており、ご主人はそこの社長であると紹介した。タヌキはただただ恐れ入って妖艶なキツネにイチコロで騙されていた。

 洋輔は小型のマイクロサルーンバスで私たちを迎えに来た。行き先は学生時代にキャンプをしたことのあるU高原。あの頃と同じようにテントを張り、飯盒炊爨でカレーライスを作った。それに当時はなかったが、洋輔の持ってきていたバーベキューセットで焼肉をし、ビールで乾杯した。予想以上に若い男の子たちがよく働き、同行した女性たちを上げ膳据え膳の歓待でもてなした。さすがにキャンプファイヤーをしながら『遠き山に日は落ちて』は唄わなかった。

 洋輔は普段と変わらずみんなにやさしく接していた。まだ『スキニーズ』に入会していない女性たちにも洋輔はしきりに勧誘していた。いつもより積極的なのがシャクに触った。意識過剰になっている私は洋輔との会話がギクシャクして噛み合わなかった。

 私の中で化石になっていたありとあらゆる女が完璧に再生していた。もうとうに忘れていた嫉妬がめらめらと炎をあげている。自分でイヤになるほど心がささくれ立っている。恥ずかしくなるほど……。それにしても洋輔のマンションを出て警察官に捕まったときは冷水を浴びせられたように情事の余韻が飛び散ったが、事情を話し、洋輔に連れ戻しに来てもらってその場からなんとか逃げ出すことができた。部屋に戻ると洋輔は再び服を着たままの私を求めた。枯死寸前だった肉体が男を渇望する日々に悶々としている。

 みんなと打ち解けずに孤立するのは変な勘ぐりをされるしみっともないと思い、私は焚き火に薪をくべているタカ子に声をかけた。タカ子のか細い顔が燃え盛る炎をうけて青白く揺れていた。

「おかげでダイエットうまくいってるわ」

「そう。よかったわね……」

 今朝からどうもタカ子に元気がない。口数も少なく気弱な態度が気になった。

「どうしたの? なんだか辛そうだけど」

「べつに、なんともないわよ。ちょっと疲れているだけ」

 タカ子は汚れた手を掃って薄っすらと笑みを浮かべた。

「元気を出しましょうよ。一緒に踊りませんか?」

 タカ子のお気に入りのホスト金髪のヒデキが二人の会話に割って入った。

「あんたはいらない世話を焼かずに黙っていればいいのよ! あっちへ行きなさい」

 タカ子がすごい剣幕で声を張り上げたので、火を取り囲んでいた全員が会話を中断した。気まずい雰囲気が流れ、薪が焼けるパチパチという音だけがその場に鳴り響いていた。

「テントに戻ってちょっと休めよ」

 洋輔がタカ子をなだめるようにいった。そしてタカ子を抱きかかえるようにして火の側を離れた。

「どうしたのかしら?」

 私は不安でアキ子に視線を送った。

「ちょっとね……」

 アキ子は右目でウインクしながら首を右方向に傾げた。それはなにかを知っているが語りたくないという仕草だった。

 翌日、誰にも告げずタカ子はキャンプ場から姿を消していた。


 キャンプのお礼とタカ子のことが心配になり洋輔のケイタイに電話を入れると、タカ子と同様電話が不通になっていた。アキ子に聞いてもわからないという。私は心配になって週末にバイトが終わってから洋輔の店に行ってみた。道すがら、あせりとともに嫌な予感が何度も脳裏を過ぎった。そして予感は的中した。


『都合により、しばらくの間、休業いたします。 ミセス ロビンソン 店主』


 シャッターが下ろされ、新聞やチラシが辺り一面に散らばっていた。思わず店の前にしゃがみこんだ私の肩を誰かが叩いた。サングラスをした強面の男が立っていた。

「こちらの店の方ですか?」

 男は見かけとは違って優しい口調でいった。それでも私は震え上がった。心臓が溶けてしまいそうだった。

「ちょっとお話を……」

 私は一目散に駆け出していた。あまりの恐ろしさに後ろを振り向かず全力で走った。最初の角を曲がるところで右足のパンプスのかかとがどこかに飛んだ。コンビニに駆け込んだ時には左は裸足になっていた。

「どうかしましたか?」

 私の乱れた姿を見て若い女店員が目を丸くしていった。

「トイレを貸してください」

 私は便器に腰をおろしながら息を落ち着かせた。

「何も悪いことをしたわけでもないのに冗談じゃないよ。いったいどうなってるの」  

 用を足した後、私は無意識にトイレットペーパーを引っ張り続けていた。

 家に帰ったのは午前零時。いつもこの時間は主人が遅くまで起きているので玄関を開けるとテレビの音が聞こえてくるのだが、どうしてか今夜はどの部屋の明かりもついておらず静まり返っていた。キッチンにだけ豆球が燈っている。テーブルの上を見ると置手紙があった。

『裕香のことで警察から呼び出しを受けたので中央署まででかけます。車を置いてあるので帰ったらこちらに来るように』

(裕香? 警察……?)

 裕香と警察がどう繋がるのか。私はまるで心当たりのない事態の連続に取り乱していた。ハンドバッグをテーブルの上に投げ捨てると、リビングの整理ダンスから新しいストッキングを取りだして履き替えた。そしてキッチンに戻って冷蔵庫のウーロン茶をペットボトルのままラッパ飲みした。虫歯に沁みて口元が緩んだ。洪水のようなよだれが口からあふれ出し上着を茶色に染めていた。


「じつは売春防止法違反での検挙というのは表向きで、今回の捜査はウラの暴力団組織とのカラミもありましたからね。本人同士は何も知らないかもしれませんが、ケイタイで出合ってこんなふうに若い女性を食い物にするのも実のところはヤクザの資金源になっているんですよ。今夜のところは厳重注意ということでお引取り願って結構です。今夜はなにもなかったようですが、まあそれでも、未成年のお嬢さんがアルバイトにするような仕事とはいえませんな」

 白髪交じりのベテラン警察官が隣に連れている裕香へ視線を送りながら皮肉を込めていった。

「ご迷惑をおかけいたしました」

 主人は腰が折れ曲がるほど窮屈にお辞儀をした。私も主人と並んで深々と頭を下げた。

寡黙で実直な主人にとって、今回の事件は容易には受け入れがたいものだったに違いない。厳しい表情がどこか哀しそうだった。

「帰るぞ」

 主人は不機嫌に言い捨てると裕香にかまわず警察署の出口に向かって足早に歩き出した。

「大丈夫よ」

 私は裕香の背を押しながら一緒に主人の後を追った。コツコツと主人の靴音が警察署の廊下に響いていく。主人からの叱責を覚悟していた裕香は拍子が抜けたように主人の背中を見つめていた。

 主人の怒りのバロメーターがどこまであがっているのか私には計り知れなかったが、主人はいつものように多くを話さなかった。

「乗れ、帰るぞ」

 扉の開いた車の前に立ち、主人は同じ言葉を厳しい口調でいった。

「あたし、帰らない」

 裕香は車に背をむけた。

「お前ってやつは……」

 主人は左手で裕香の胸倉をつかみ、そのまま路上に突き飛ばした。

「キャッ!」

 裕香の短いスカートの裾がはだけ、下着が電燈の灯りに照らされて青白くのぞいた。

「あなた、怪我するじゃないの!」

 私は裕香を助け起こすと主人に正対した。

「お前は黙っていなさい。車だけならいざ知らず、ケイタイなんて持たせるからこんな馬鹿なことをするんだ」

「そんなことをいっても、今はそのくらいのことは世間並みじゃない。この子が特別ってことはないでしょ」

「お前と話しているんじゃない」

 主人は私を払いのけると、逃げようとする裕香の首根っこをつかみ上げ、そのまま車に引きずり込んでいた。主人の怒りがその右腕にこみ上げていた。

「もう放してあげて……」

 私は気弱になっている自分が情けなかった。


「裕香、ちょっと車借りるね?」 

 翌日、部屋に閉じこもったきりの裕香を家に残し、私は洋輔のマンションを訪ねてみることにした。連絡がつくのはアキ子だけだったが、「今はなにもわからない」の一点張りで要領を得ない。スキニーズの日本支社にも電話をしてみたが何度かけても話中だった。不安が積もり重なっていく。いてもたってもいられなかった。自分の蒔いた種、覚悟の決起であったはずなのに、後悔が、夢見心地であった過去を罪にしていく。追い討ちをかけるようにして起きた裕香の事件を、切り離して考えられるほど私の度量は大きくなかった。悪女に憧れ、悪女を気取っても、生活に押し流されている家庭の主婦など所詮は小心者。身にしみてそう思うとやっぱり哀しくてしようがなかった。

 駐車場に車を停め、高層マンションの最上階を車窓から眺めようと思ったが、高すぎて洋輔の部屋まで見通すことができない。そそり立つコンクリートの壁。あの日、あれほど瀟洒に見えたブルジョアの楽園が、まるで監獄の壁のように冷徹に部外者を遮っている。

「まるでホテルで生活しているみたいね?」

 洋輔に抱かれながら私がそういうと、「でも、こんな暮らしを続けていると、人間ってわがままなもので、汚れて散らかった部屋が恋しくなるものなんだ」と洋輔は薄ら笑いを浮かべていた。確かに洋輔の部屋にあるものは私の家のものとは雲泥の違いだった。おそらく百万円はくだらないだろうと思われる高級家具や電気製品が部屋中を席捲していた。子どもの玩具で四畳半一間がつぶれていた。しかも子供用のテレビが三十インチ。一本三千円近くするアニメキャラクターのビデオテープが壁一面を覆いつくしている。ほこりひとつ落ちてはいない。子ども部屋なのに壁にシール一枚も貼った形跡がない。分厚い絨毯に染みも見当たらない。玩具も異常に整理されている。じっくり見てみると確かに奇妙だった。

「『あんたの家、落ち着かないわねぇ』って田舎のおふくろがいつもそういって俺の家に来たがらなかったよ。俺にもわかるような気がするけど」と洋輔は嘆息をもらして私に部屋を紹介した。私には何も語らない物たちがやけに虚しく感じた。

 私は車から降りるとマンション玄関に向かった。螺旋の非常階段の上り口に花束と牛乳ビンに入ったお水が供えられていた。恐らく先日自殺をした女性の供養のためだろう。事情は一切わからない。でも私には死んでこの世を捨てる勇気はない。『死んでもいい』などというのは、生きていることに甘えているだけだ。生きているほうが辛いに決まっているのだから。

 ガラス張りの自動扉からエントランスホールの様子は見渡せたが扉は開かない。洋輔の部屋番号2001をインターフォンしても返答がない。二度、三度とボタンを押しているうちに見覚えのある管理人のおじさんが管理人室の小窓からこちらを覗いていた。しばらくして『村岡さんは外出していますよ』とインターフォンがしゃべった。

 私は車に戻ると、もう一度ケイタイでスキニーズへ電話をしてみた。やはり話中で繋がらない。電話をダッシュボードに置き、両手でハンドルを二度、三度と叩き、車を走らそうとキーに手を伸ばしたら、ケイタイが『恋に落ちて』を奏でた。

 電話は裕香だった。主人に内緒でケイタイを持っていることを裕香には知らせていた。私は車を降りて電話にでた。

「おかあさん、昨日はごめんなさい」

「すんだことじゃないの。もういいわよ気にしないで。それより元気を出して」

「うん」

「それだけ?」

「あの会社のことおかあさん知ってるの?」

「なんのこと」

「のんきね。あのやせ薬の会社、潰れちゃったみたいよ。今日の正午のニュースでいってたもん。借金を苦にして飛び降り自殺をした人もいるらしいよ。ひょっとしておかあさんもだまされたんじゃない?」

「エッ! うそ……」

 くらくらとめまいがした。手から滑り落ちたケイタイがアスファルトの上で弾けてバッテリーが飛び散っていた。


 健康食品『スキニーズ』は詐欺罪で摘発された。だまし集めた金は一億数千万円。客を紹介させその見返りとしてリベートを還元するという幼稚な手法は一年足らずで破綻した。洋輔は主犯格として逮捕され、洋輔と愛人関係にあったタカ子にも同様の嫌疑がかけられていたが、彼女はあの日以来、行方不明になっていた。

 事件の摘発が世間に公表されるとアキ子があわてて電話をよこした。

「じつはタカ子の主人の会社ね、今度の親会社の合併では下請けから外されていたのよ。それで抱えているエンジニアたちが路頭に迷ってしまうから、なんとかしようと思って洋輔の話に乗ったみたい。社員のことだけじゃなくて今の贅沢を手放したくないっていうのが本音かもしれないけど。私もタカ子に頼まれて組んだ百万円のローンだけじゃなくて主人の会社からも百万円つぎ込ませていたし引き返せなかったのよ。ごめんなさい。だますつもりじゃなかった。嘘じゃないの、万分の一かもしれないけど、うまくいくんじゃないかなという期待もあったんだから……それにしても許せないわ。あいつら!」

 私は言葉を失っていた。どうしようか、と地団太を踏んだが、どうしようもなかった。結局、山のようなインチキ商品とそれぞれの欲に見合った分の借金だけが残った。

『働くのは最初のうちだけであとは何もしないでお金が入るのです。直接労働などいつまで続けられますか? いいですか、権利収入があれば生涯安泰です』

 こんなうまい話にコロリといかれてしまうのはやっぱり人間が欲の塊である証拠なのだ。それに「美しさ」と「健康」「不老長寿」を加えれば、詐欺のテーマそのものだもの。何の能力も資金力もないものが客を紹介するだけで権利収入などを得られるわけがなかろう。画家や小説家が印税を得ることができるのは秀でた才能ゆえの報酬だし、地代家賃で生活できるのもそれを得るだけの資本があるからだ。日々労働に勤しんで生活に窮している一般庶民のどこにそんな力があるというのか。わかりきったことなのについつい夢を見てしまう。やりきれないがこれが現実なのだろう。裏切られた腹立たしさもなくはなかったが、私はアキ子ほどの落胆も怒りもなかった。インチキ薬のおかげにせよ、身体がスリムになったことだけは事実である。それよりなにより旧友を失ったことのほうがショックだった。

 数日後、タカ子はケイタイの出会い系サイトで知り合った男性にラブホテルで殺され、遺体で発見された。同窓会であれだけ華やかに振舞っていたタカ子の寂しい最期だった。


 タカ子が好きだった『コーヒールンバ』のBGMが再び流れ始めた。葬儀社の若い進行役の男性が、気味の悪いほど不釣合いな低音で出棺の時間を告げた。参列者は棺に花を供えながら最後の別れに嗚咽をもらした。私は主人にわからないように洋輔からもらったケイタイを棺の隅におさめた。

 黒い塊が出口に向かって移動を始めた。主人はもうハンカチで瞳を覆っている。妻の友人、それも一度しか会ったことのないタカ子の葬儀に主人は当然のように参列してくれた。そしていつものように進行役のとってつけたような故人の紹介に何も知らない主人は感極まり涙を流していた。映画俳優のように美形であるタカ子の主人は、感極まるどころかまったく平静で落ち着き払っていた。二十数年連れ添ったつれあいが訳はどうあれ死んだのである。嘘でも泣けないものか。妻を殺した保険金詐欺の夫でさえ見事な芝居を演じるというのに。私はタカ子がひどく可哀相な気がした。

 表に出ると一生に一度だけ乗ることになるはずのお迎えの車が、残った夏の光を浴びて当たり一面に黄金色のシャワーを降らせていた。車が立派であればあるほど死ぬことのはかなさがひしひしと伝わってくる。そう私は生きている。借金を払い続けなければならない人生が待っている。

突然、主人が口を開いた。

「あんなにたくさんの秘密をつくるケイタイは便利だけど僕はやっぱり好きになれないな。あの頃、十円玉を握り締めて公衆電話を探していたのは、君だけにかけるためだったんだ。いつでもどこでも使えるケイタイは一度に何百人にもかけることができるのだから……」

 長いクラクションが響いた。そろりそろりと黒い車が走り出した。それに続いて同じ黒塗りのハイヤーが数台続いた。参列者は車の姿が消えると普段の表情に戻り、笑顔で知人に挨拶を交わすと散っていった。

「あそこ、ほら!」

 主人が霊柩車のあった参列者入口を指差した。バリアフリーのために作った乗り入れ口のコンクリートの割れ目から名も知らぬ真っ赤な花が一本、美しい花びらを空にむかってひろげていた。

健気けなげだね」

主人がいった。

「そうね。健気」

 主人と私は顔を見合わせて笑った。

                                 〈了〉

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