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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 6 神術使いと呪術使い  Arcane et interdit (1147年)
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6章16話 聖帝と、暗躍する遺伝子

 パッレが全速力で帝都に戻ってくると、破壊されたド・メディシス家がそこにあった。


「母上! ご無事ですか!」


 パッレはこの場で何かがあったと気づき、ベアトリスの名を掠れた声で呼ぶ。

 水一滴飲まず馬を疾走させて戻った我が家には、薄霞に包まれていた。

 まさかという思いで周囲を見て回ると、中庭で人の気配がする。パッレが杖を抜きながら近づくと、ファルマが負傷したセドリックに処置を施し、ベアトリスがそれを心配そうに見守っていたところだった。


「母上、ご無事でしたか」

「パッレ⁉ お前まで、どうして戻ってきたの……私は戻ってくるなと言いつけたわ。ほかの者は!」


 ベアトリスは次男に続き長男の帰還に困惑したようだ。 

 パッレはへらりとしながら釈明する。


「他の者はきちんと安全な場所に送り届けましたよ、ご安心ください母上」

「おかえり、兄上。セドリックさん、ひとまずこれでいいよ」

「ありがとうございます、ファルマ様。かすり傷でございますのに」

「いや、かすり傷じゃなかったよ」


 セドリックの処置を終えたファルマに、パッレが声をかける。


「ファルマ、お前はよく戻ってきたな。見てのとおり帝都は散々だし、俺は神力が尽きた。この後はどうする? いくら持ちこたえても、帝都中の神術使いが一か月ももたず神力が尽きてゆくだろう。日没になれば、またどこからともなく新たな悪霊がわいてくる」


 話を手短に要約し、ファルマに畳みかけるパッレからは焦りがにじんでいた。


「ああ、わかってる。何とかしないとな」

「薬神からの思し召しはあるか? 帝都のこの状況が、守護神の御意思か」


 パッレはファルマの両肩を強い力で掴む。その指先が、ぐっと強く肩に食い込む。


「……もう、俺にも止められない。帝都は守れても、手の届かないほかの国が悪霊に飲まれて滅びそうだ。こうなった以上は一時的に陛下に、命を預けていただくほかにない」

「筆頭宮廷薬師でありながら、皇帝陛下を命の危険に晒そうとしているのか?」


 パッレの眼光が鋭くファルマを射抜く。鬼気迫る形相だった。ド・メディシス家は宮廷薬師としての長い歴史がある。その薬師が、皇帝を脅かすとあれば穏やかではないのだろう。


「そうだ……だが、陛下のお命を守ることは約束する。俺にはこれ以外に思いつかない」


 兄弟の視線が激しくぶつかる。そしてパッレは、ファルマが消極的な決断をしているのではないと見て取った。


「わかった。逆臣となり果てようとも、お前がこの世界のために、お前に天啓を与える薬神の御心のままに、最善だと思うことをしてこい。失敗したら一緒に処刑台に上がってやる。母上、よろしいですね」

「……ええ、異存はありません。我が家の男は、三人ともどうしてこうなのかしら。いつもこうよ、いつも!」

「どうもこうもありませんよ。我々は、信じたことを信じたようにするんです」

「もう……その口調、あの人にそっくりだわ」


 嘆きながらも、ベアトリスはファルマをしっかりと見据える。

 パッレはファルマの背中をバチンと叩き、気合を込めさせた。


「行きなさい、ファルマ」

「いってこい」


 ファルマは一度視線を伏し、二人に向き直って息を吸い込んだ。


「行ってくる」



「今度は本当の悪霊が現れるなんてね」

 

 ランブエ市にある領地にある屋敷に、ロッテやブランシュなどを含むド・メディシス家とボヌフォワ家の面々を案内したメロディはホストとなり、ゲストに紅茶をすすめる。


「薬師様からいただいているこの薬は私の命綱なの。怖いものを見なくて済むわ、それに、私が私でいられる」


 統合失調症を患っているメロディは、今もファルマから処方される薬が手放せない。メロディ自身の病状は安定期に入っており、ファルマとカウンセリングをしながら継続して服薬を続けている。

 彼女が悪霊憑きと呼ばれていた頃、メロディは自分の中に見える幻想と戦っていた。皮肉なことに、彼女が「悪霊」と戦い続けていた経験が功を奏し、彼女の神術の技量は一定の水準に保たれていた。その彼女が、幻覚でない悪霊に遭遇したとき、彼女のこれまでの苦悩はこの時のためにあったような気になった。


「戦うときがきたんだわ」

「メロディ様、かっこよかったです」


 ブランシュが憧れのまなざしを向ける。ブランシュの師匠はエレンだが、勇敢な彼女の姿はブランシュの瞳に焼き付いたらしい。ロッテがメロディに疑問を投げかける。


「悪霊はどこから出てきたのでしょう」

「悪霊は人霊や動物霊、自然界に発生した霊だと言われているわ。強い思念がそこに残って霊になり、悪霊になるの。それは神殿の結界や神術陣によって普段は見えないものだけれども、常に私たちは危うい世界の上にいて、脅かされているということを思い出すわね」

「何か、神力を持たない私にもできることはありますか?」

「そうね……何かしら。弱気にならないこと、気を強く持つことよ。悪霊は思念によって生じるのだから、人の心が弱くなったときに悪霊に付け込まれ、悪霊に力を与えることになるの」

「そうなのですね……心を強く持ちます」


 実際に悪霊に憑依されてしまったロッテは、何か思うところがあったのか、うなだれる。

 その様子を見ていたメロディが、思いついたようにぽんと手を打った。


「それだけでは不安よね。そういえば、神術使いでなくても扱える神術があるわ。教えてあげましょうか。神力切れを起こした貴族や、杖を失った貴族が、悪霊に対する予備的な術として使う神術が少しだけあるの」

「えっ、神術をですか⁉ 私は平民ですが……神術ですか?」

「あなたが平民なのはよく知ってるわ」

「メロディ様。ですが、神術を平民に詳しく教えてはいけない掟があると聞いたことがあります…」


 ロッテが恐縮しておずおずと尋ねる。


「たしかに禁忌だけれど、神術は自分が見込んだ相手に教えるものよ。私はあなたと一緒に仕事をして、あなたの才能が神術使いに劣るとは思わない」


 メロディはいたずらっぽくウィンクしてみせる。

 そして彼女が持ってきたのは、これまでに自身が書きためてきたらしい、かなりの分厚さのある火焔神術陣のメモだった。ロッテは初めて、神術にまつわる記述をみた。平民には読めない禁書を除いては、神術にまつわる書物は存在せず、神術使いは師から弟子へ口承で神術を受け継いでゆくものだ。しかしメロディは、統合失調症を発症してからというもの、自身が神術を忘れないために、体系だてて印章を書き残していたという。


「様々な印章があるのだけど、この記録をあげるわ」

「こんな貴重なもの……あとで謄写版で複写してお戻しします」

「それが助かるわね」

「ありがとうございます! これを、どうすればいいんです?」

「簡単よ。浄められた特別な油でこの図柄を書いて、神術使いが造った種火で燃やすと効果を発揮するわ。大きく描いて中に入れば、低俗な悪霊には近づけない結界にもなる。神術使いの使う神術ほど強力ではないけど、一時的な防御としては十分よ。絵を描くのは得意だったわよね」


 メロディが笑いかけ、神杖を取り、掌で慈しむように神術で特別な神炎を現出させる。

 尊爵である彼女の透明で力強い神炎は、鮮やかな種火を作った。


「これが種火。聖油は私が定期的に作っているから、足りなくなったら来るといいわ」


 それをメロディは特製のガラスの炉に入れ、ロッテに贈呈した。

 そして、聖油も水筒に入れて分け与える。ロッテはメロディの嬉しいプレゼントに、顔を輝かせる。


「神術、庭で練習してみる? 教えてあげるわ」

「はいっ! お願いします!」


 ロッテは緊張した面持ちで頷いた。それを見ていたブランシュが羨ましがる。


「いいなー私も火の神術教えてほしいー、かっこいいのー」

「残念だけどブランシュちゃんは火と相反する水属性だから、教えられないわ。それにまだこの神術陣は複雑すぎて書けないと思うわ」

「あぁい」


 ブランシュは口をとがらせる。


「あの、そういえば神術陣を燃やしたあとの火の始末はどうすればいいんですか? どこかに燃え移って火事になったりとか」

「指向性を持たない神炎で着火しても聖油しか燃やさないから、聖油以外の場所に燃え移ることはないし、そのうち消えるわ。部屋の中で練習したとしても火事にはならないわよ」

「よかったです。お屋敷を燃やしてしまったらいけないので」


 ロッテとメロディの数時間にわたる特訓の末……。

 ロッテは基本的な悪霊払いの神術陣をいくつか書けるようになった。

 彼女は神術使いではないが、メロディの神力で発動する画期的な神術を習得しはじめた。


「今日はここまで、続きは明日。休憩にしましょう、シャルロットさんは思った以上にスジがいいわ。何より正確で速いの、驚いたわ。神術陣の専門職でもなかなか書けないわよ、あなたが神術使いだったら正式に弟子にしたいけど、残念ね」

「光栄です、貴重な知識を教えていただいて、何とお礼してよいか……絵でお礼したいと思います」

「絵もいいけど、お菓子を作ってくれるかしら。あなたのお店で食べたフルーツのパイ、美味しかったのよね」

「喜んで!」


 ロッテにとって、無力感に打ちのめされていた状況から一転、有意義で刺激的な疎開になった。


 ◆


「陛下、私がお仕えしていながらこのような事態に陥ったこと、誠に申し訳ございません」


 それからわずか三日後。神聖国中枢部に至る控えの間で即位の儀に臨む女帝に、ファルマは忸怩たる思いで謝罪した。 


「そのような辛気臭い顔をこちらに向けるでない」


 ファルマは帝都から女帝のもとに引き返し、大神官就任への進言を行った。女帝はファルマの進言を受け入れ、神聖国に融解陣の所在を明かし、大神官を兼任することになった。

 女帝は聖職者ではなかったが、神殿のもとで帝王学を学んでいたため、大神官としての基本の神技と神術は彼女が習得していたものと共通するものが多く、神聖神術の引継ぎはスムーズに行われるだろうとの見通しだ。


 これに伴い、サン・フルーヴ帝国は神聖国を併合する運びだ。

 神聖国の認識ではサン・フルーヴ帝国を属国とする思惑があるのだろうが、実質的な武力の差からすれば支配下に置かれたのは神聖国だった。神聖国では大神官の権威を絶対視しているので、反乱なども起こりそうになかった。


「結果的に、神聖国が手に入ったと考えれば、そう悪くもなかろう。それに、守護神を崇敬する新宗派を興すということは最初から余の計略のうちにあった。なに、大神官を受けるのはあくまで名目上にすぎん」


 ファルマに対しては強がってはいるが、内心は不安そうだ。


「こうなったからには、余は逃げも隠れもするつもりはない」


 そんな彼女の言葉を、ファルマは黙して聞いていた。


(彼女は俺が諦めたと思っているだろうが、むしろ逆だ。まだ足掻くためだ)


 局面で一時的に負けて、大局で勝つ。ファルマはそのつもりだ。このまま大神官とならず逃げ続けても、融解陣は皆既日食の日に必ず彼女を溶かすようプログラムされている。

 ならばこれまでに蓄積された大神官たちのデータを余すことなく利用できるように、彼女を通例の中に組み込む。融解陣の分子細胞生物学的なアプローチからの解呪はそれからだ。


 定刻を迎え大聖堂の扉が開かれると、神聖国の高位神官が集い、彼女にひれ伏す。

 即位拝礼の後、彼女は戴冠し、聖職者として「聖帝 エリザベスI世」という称号と宝杖を授与され、大神官に即位することになった。

 神聖国の最高位聖職者と国家元首の最初の言葉として、彼女は神官たちを広場に集め強硬な姿勢で言い放った。


「ただいまの儀をもって、余は聖帝エリザベスI世として神聖国大神官へと叙任された。余が神聖国を統治するにあたり、最初にそなたらに宣じておくことがある。余は当代守護神たる薬神、その神霊を宿すファルマ・ド・メディシスを敬仰する。守護神を蔑にする者、忠誠を誓わぬ者、逆心せんとする者は余と神聖国に対する叛逆とみなす。その者はただちに神殿を去るがよい」


 有無を言わせぬ語気で演説する女帝に、水を向けられたファルマは内心戸惑う。

 しかしそれもこれも、女帝流のファルマの安全を守る立ち回りのようで、それが厭というほどわかるだけに否定することもできない。彼女は鎹の歯車に選ばれた悲劇の生贄としての立場を微塵も感じさせず、重責を逆手にとり、強硬な姿勢で完全に神聖国を掌握しようとしていた。


「ファルマはそなたらの敵ではない。過去には邪神もいたやもしれぬが、ファルマは違う。数多の人々の心と病を救済してきた、余が彼の善性の証人である!」


 躊躇することなく訴える女帝を至近距離から眺めながら、ファルマは彼女との縁を思い起こす。彼女はざわめく神官らを諭すように続ける。


「そなたらが神術の枢機を知る神官が神に選ばれし特権階級であるという意識は今すぐ捨てよ。そなたらは神と世界人民の僕であり、神聖国はもっとも中立かつ公正な世界組織でなければならぬ。国家を超えた安全保障のための最も堅牢な社会の奉仕者であると心得、市民の心に寄り添う守護者たらんと誓え」


 神官たちは、表向きは正統な大神官となった女帝の意向に従う姿勢だ。そして、即位式典としての大祈祷などが行われた。神聖国の中には守護神が薬神の者も数名いたようで、彼らから祈祷を受けると、ファルマに神力が流れてくるのを感じた。


 即位後、特別な神杖を受け取り、大聖堂を起点に広がる一大神術陣に神力を通わせる地鎮の儀式を終えると、大神術陣から光が溢れ、光ファイバーのように世界各地への神術路を駆け巡りはじめた。ファルマはそれを見届け、女帝は最初の大仕事を終えた。

 膨大な神力を消費したからか、女帝はけだるそうに執務机に座す。

 その彼女を、ご機嫌伺いの神官たちが取り囲む。

 

「猊下のお力で悪霊どもは駆逐され、世に光が戻ることでしょう。各地の神殿の機能は完全に回復しました」

 

 高位神官も女帝の手腕を褒めそやす。彼女の身の回りの世話をつとめるジュリアナは黙って女帝が喪失した神力を計算し、神力回復のための聖水を晶石から蒸留しはじめた。女帝は神官らを部屋から追い払い、残されたファルマに言葉をかけた。


「ファルマよ、余も詫びねばならん、そなたが一番嫌がることをしてしまったな」

「いえ、そのようなことは……」


 ファルマは首を振る。女帝が謝罪しているのは、ファルマを神聖国内で神格化してしまったということだろう。

 今更どうこう言っていられない、余裕などない、お互い様な状況だ。神聖国の権力掌握に失敗すれば、彼女のサン・フルーヴ帝国の統治権にも波及する。

 多くの国民を擁するサン・フルーヴ帝国を神聖国の傀儡国家にするわけにはいかないという思いを、ファルマは女帝のスピーチの中に見てとった。

 

「そなたが一貫して人間の振りをしたがっておるのは知っておる。だが先例典拠に縛られ規律の厳しい神聖国のこと、これぐらい言っておけば妙な気を起こすものは現れまい。何しろ、つい先日までそなたを襲撃していた奴らだ。いいように御していかねば」

「仰せのとおりです。過分なお心遣い、ありがとうございます」


 ファルマが神聖国内では公式に守護神の化身認定されてしまったことで、それ以降神官たちから敵意を向けられることはなくなったが、常に護衛か監視だかの一団に囲まれるようになったのと、どこを歩いても神官たちに祈られてしまい、ファルマは非常に肩身の狭い思いをした。

 だが、その不便さと居心地の悪さと引き換えに、ファルマは神聖国のすべての秘宝に自由にアクセスする権利を得た。秘宝は元来守護神のものである、と女帝が断定したためだ。これは願ってもない特権だった。


 聖帝は就任後わずか数日のうちに、彼女が帝国内でそうであったように、神聖国の執政に対しても大改革を始めた。彼女はただちに虚礼を廃し、神殿枢機部を解散した。大陸各地の集落を悪霊から守るため、人口の多い地区を重点的に武装神官をもっとも効率的に配備するよう組織の改組を命じた。次に、神聖国の中枢機能をサン・フルーヴ帝国に移すことを次々に決定した。

 信頼のおけるサロモンを神聖国の責任者に据え、神聖国の統治と鎹の歯車の監視を任せた。ファルマの話を聞いたサロモンはただちに、世界各地に散らばる呪器の所在の把握と調査を命じた。そして、呪器のある場所には念入りな人員措置と封印を行わせた。


 主要な会議には参加し、聖帝から意見を求められ、多忙をきわめるファルマだが、病み上がりのエレンの経過観察のために、薬神杖を使って夜ごとに帝都と神聖国を往復していた。


 夜、帝国医薬大の医学部付属病院に入院しているエレンが、困ったように病室にファルマを迎える。


「……またきたの?」

「それは悪かったね、ランブエ市のロッテのことも診て帰るよ」


 ロッテはロッテで、悪霊に憑依された影響がまだあり、ファルマは経過観察を怠っていない。


「だったらなおさら、帝都には往復して来なくていいわよ。毎日多忙でしょうに。私なら平気、もう歩けるようになったんだから、そんなに心配をかけたくないわ」

「術後の経過も診たいし、心配だからね。陛下、じゃなくて聖下には許可をいただいているよ。何か不便なことはない?」


 ファルマは外科医であるクロードにエレンの日中の処置を任せていたとはいえ、定期的に様子を見に来なければ落ち着かない。


「侍医長様が処置してくれてるから、不便なことはないわ、微熱があるくらいよ。むしろ視力がよくなって便利すぎるわ」

「持ってた大量の眼鏡はどうする予定?」

「それはまた考えるわ。ファルマ君の血を輸血してもらったからそうなったのかしら」

「何が起こったのか俺にもよくわかんないな」


 とはいえ、輸血により薬神紋の一部を左手首に受け継いでしまったエレンの能力は、左目の診眼にとどまるようだ。しかも、病名の検索はできるが、治療薬の検索はできないというβ版のような仕様になっている。

 さらに彼女の神術の属性は相変わらず水属性で、物質創造、物質消去のようなことはできない。エレンの影が消えたり、体が透けたり、そんな異変もない。また、輸血によって能力が分け与えられるのかと思いきや、これも違うようだ。


「それからファルマ君の能力の一つをもらったのよね。病気の場所を診て、病名を正確に当てることができる……君ってこういうことできたんだ」

「他にも内緒にしていたことはあるよ」


 ファルマはあっけらかんと告げる。

 こうなった以上、エレンと秘密は共有しなければならない。

 彼女が診眼を使えるようになったのなら、この先ファルマの身に何があったとしても心強い。ただ、彼女は診眼を使うと一日分に近いほどの神力を消費してしまうようだった。それなら普段からの診療には使えないな、とファルマは考える。


「ねえ、君を診てもいい?」

「俺⁉」

「だめ?」

「だめじゃないけど、緊張するな」


 エレンの思いがけない申し出に、ファルマの声がうわずる。

 診眼で、ファルマを診る。今までファルマにはできなかったことだ。

 当然ながらファルマはこれまで、診眼を通して自身を見たことがなかった。

 というより、鏡を通して見たとしても何も見えなかった。

 エレンはそっと左目に手を添えた。診眼の輝きが宿る。

 他人が診眼を使うところを目撃するというファルマにとっては新鮮な気分を味わいながら、背筋をただした。


「あれ? 不思議。ファルマ君って、頭のてっぺんからつま先まで真っ赤っ赤に見えるわ、ほかの人はそんなことないのに」

「その真っ赤に見えるのは治らない病気か、もうじき死ぬって人を見た場合にもそうなる」

「君ってそんなに病んでたのね……知らなかったわ。何の病気なのかしら」

「心配してくれるのはありがたいけど、当たらないんじゃないかな」


 エレンはあてずっぽうに何か唱えていたが、最後には「降参」と言って匙を投げた。元のファルマの体は死んでるという意味なのかもしれないし、人として異常だらけという意味なのかもしれない。そもそもが異常だらけである以上、解釈は難しい。


「じゃ、また来るから。俺はロッテのところに行って神聖国に戻るよ」


 ロッテがメロディから神力がなくても使える神術を習っているというのは、ファルマも耳に入れていた。


「すごいわよね、ロッテちゃんも心配ね。気を付けて、飛んでる鳥にぶつかったりしないように」

「実際、ぼけっとしてるとバードストライクするからな」


 ファルマは冗談をはさみながら神聖国に戻る前にエレンを診る。


「んー」

「どうしたの?」

「そういえば、うっすらとエレンの全身に光が残って発熱してるんだけど、組織が破壊されたり出血した術後の吸収熱や、サイトカインによる発熱にしてももう5日目になるのに解熱しないのが気になるな。歩いたりするのもいいけど、日中は無理せずしっかり休んで」

「それって、吸収熱とかではなくてバテラスールの呪いのせいかしら……」


 エレンは霊薬調合の顛末を話し始めた。

 一部始終を聞いたファルマは開いた口がふさがらない。


「ロッテを助けるために、兄上と君が寿命を半分もっていかれる霊薬の呪いにかかった⁉ 何ですぐ教えてくれない!」

「ご、ごめん……君は聖下の呪いの件もあるって聞いて、煩わせたくなくて」

「こっちもごめん……命がけでロッテを助けてくれたことについては、感謝するよ」


 エレンは少し考えてファルマに疑問を投げかけた。


「ねえファルマ君。この呪いって私、感染症だと思ってるんだけど、もしかして君が言っている、陛下にかけられた呪いも同じなのかしら」

「どうだろう。よく診せてくれる?」


 ファルマは診眼を使う。エレンは両腕で胸を隠すようにしてファルマの前に立つ。


「ファルマ君の診眼、改めて見ると目力あるわね。ちょっと圧倒されちゃうわ」

「笑かさないでよ……”感染症”」

 

 疾患や病変を示す青い光に変化が生じた。

 この反応は、エレンが何かに感染していることを示す。


「当たりみたいだ、さすがエレン! 感染症といえば……ええと、”細菌”、”真菌”、”寄生虫”、”ウイルス”、”ウイロイド”、”プリオン”」


 一つずつ諮ってみる。

 大まかな分類から鑑別しようとしても、どれも手ごたえはない。


「感染症だとわかっているのに、どれも当たらないのか……」


 ファルマは興奮が醒めてゆくのを感じていた。


「ねえファルマ君。こないだ君がオイゲンさんをゲノム編集で遺伝子治療をしたときみたいに、核酸断片や酵素が細胞に勝手に侵入してくるのは感染症って言わないの?」

「あれは遺伝子治療であって、感染症とは言わないよ……。人工的にやらない限り、そんなことは起こらないし……」


(でも、自然に起こったことではなく、墓守やかつての守護神が故意に起こしたことなら……? 人工的な核酸配列で呪いが制御されていてもおかしくない)


 そんな発想が頭によぎる。


「”ペプチド導入”」

「”遺伝子導入”」


 ファルマは全身の血の気が引くのを感じながら診眼に諮る。

 遺伝子導入と念じると、青い光は僅かに反応をみせた。


「あ、当たった!」

「うそ。遺伝子導入のほう?」


 エレンが嘘だろうという顔をしている。ファルマも予想外すぎて思わず半笑いになる。


「当たってしまった。霊薬を作って呪われた瞬間、エレンと兄上の中に何かの遺伝子断片が入ってそれが血流にのって全身に回ってしまったっていうのか。でも、ただの遺伝子断片だったら血液で希釈されるし、増えたりしないよ」


 では、入り込んできた遺伝子は何なのか。ファルマは考え始める。

 エレンは霊薬を調合するとき、傷を作って感染し、それで寿命を半分持っていかれる呪いにかかった。

 

(……自己増幅配列を持つ、たとえば)


「”トランスポゾンの導入”」


 エレンに宿った光は完全に赤くなった。当たったのだ。


「トランスポゾンって何?」


 トランスポゾンとは、細胞内を動き回るDNA断片だ。ウイルスではないが、外部からやってきてゲノムの中に勝手に入り込み、自らの複製をつくる。

 できた複製は新たなトランスポゾンとなる。


(トランスポゾンなら何とかなるかもしれないぞ)


 ファルマの顔が思わずにやけたので、エレンはきょとんとする。


「トランスポゾンだと嬉しいの?」


 ファルマは確信めいたものを感じた。エレンはきょとんとする。


(いや、ただトランスポゾンだけで細胞に入り込むことはないから……細胞に導入される何かプラスアルファがあったはずだ。そこは謎が残るけど、霊薬調合の際に何か操作をするのか?)


 などと考えているうちにトランスポゾンのことが分からずエレンが混乱しているので、ファルマは紙に書く。


「”今夜は月がきれいだね”」

「何? 月、出てないわよ?」

「という順番の配列の遺伝子があったとするだろ。そこに、ある特定の、例えば★明日は晴れだよ★という配列が入り込む、この入り込んだ配列がトランスポゾンなんだ」


”今夜は月★明日は晴れだよ★がきれいだね”


「★から★の間の文章が入ってきたのね。★は何なの?」

「トランスポゾンには、★のように前後に目印の配列がついてる。この★が付いている間は、★を標的にして切り出して別の場所に入れる働きをする酵素によって、ゲノムの中をどこにでも移動できる。でも★が欠けると、目印が消えて移動できなくなる。こういう性質があるので、トランスポゾンは別名”動く遺伝子”ともいわれている」

「★が取れて”今夜は月明日は晴れだよがきれいだね”、のまま配列が動けなくなってしまうのね。文章の意味がなくなってしまったわ」

「そう、短い配列の挿入により、この遺伝子はつぶれてしまったんだ。このトランスポゾン入りの配列の残骸は、人体にも多く残されているんだよ。たぶん」


(まあ、本当にトランスポゾンの残骸が多く残されているか、解析データはそこまでみてないけど)

 

 ファルマが以前に行った数名の全ゲノム解析ではそこまでチェックする余裕はなかったが、それを調べてみると何かわかるかもしれない。


「ええーっ! 邪魔!」

「邪魔なばかりでもないんだけどね」


 これは特別な現象ではなく、地球における哺乳類のゲノムの三分の一、ヒトゲノムでは40%ほどがこのトランスポゾンがゲノムの中に入り込んだ残骸がみられるという報告もある。トランスポゾンによりDNA断片がゲノムに挿入されると遺伝子が破壊され突然変異の原因ともなりうるが、逆にそれが進化を促進してきたとも考えられる。


「んーと、よくわかんないんだけどその動く遺伝子っていうの、ファルマ君の教科書にも書いてた?」

「1ページぐらい書いたよ」

「ごめん、読み直す!」


 ファルマに一刀両断にされ、たじたじになるエレンだった。


「とすると、この呪いの治療薬はどんなものがいい?」

「ええと、私の中に入り込んできたトランスポゾンの★のような標識配列を認識して切り出すようなもの? でも、切り出してもまたほかのゲノムの中に入り込んじゃうのよね」

「エレンの中に組み込まれた呪いの配列がどんなものであったとしても、このトランスポゾンを★から★まで跡形残さず切り取って、二度とゲノムの中に入り込めないようにする酵素なら俺が既に持ってる。だから、これであってくれ……」


 ファルマは診眼に問う。診眼ごしにエレンと目が合う。ファルマは諮った。


「”活性型トランスポザーゼ”」


 エレンを赤く包んでいた光が、完全に消えた。


「正解みたいだ、エレンのは、これでいけそうだ」


 治療方針は定まった。ファルマはほっと息をついた。


◆謝辞

・本頁後半は、生物学者のmeso_cacase先生に監修いただきました。どうもありがとうございました。

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