6章14話 彼女の願いとファルマの賭け
ド・メディシス家のパッレとブランシュ、そしてその使用人であるカトリーヌとロッテが馬車の中で揺られていた。馬車の窓の外には、暗く垂れ下がった空が見えている。ロッテは馬車の座席に横たえられ、母カトリーヌに付き添われていた。そんな中、ロッテの意識が清明になってきた。
彼女は弱々しく掠れたうめき声を出し瞼をもたげるが、身を起こすだけの体力はないようだ。
「お前、お前! 目が覚めたのかい? ……パッレ様とエレオノール様のおかげだよ」
「母さん……ここは」
ロッテの快復を諦めかけていたカトリーヌは歓喜に泣き咽びながら娘を抱きしめる。彼女らの向かいにはパッレとブランシュが相席し、二人のやりとりを見守っていた。
「ロッテ、よかったね。助かったんだね、どうしようかと思ったぁ」
「ブランシュ様……」
ブランシュがロッテに飛びつき快復を喜ぶ。エレンとともに禁術を成功させ、寿命の半分と引き替えにロッテを死の淵から蘇らせたパッレは、ロッテの意識が戻ったことに安堵の表情をみせた。
ロッテは二人のやりとりをきょとんとして、カトリーヌに補足説明を受けている。彼女は実に数日間の間の記憶がすっかりとないようだった。
悪霊に取り憑かれ、生死の境をさまよっていたとみられる。軽度の脱水症状のために目の周りはげっそりとして、少し小さくなってしまったロッテの容態を、パッレは気に掛ける。
「寝たままでいい、少し診せろ」
パッレは、ロッテの腕や下肢に杖を当て、深部反射や表在反射を確認した。現代医学と神術をかけあわせた方法で、反射が正常であるかある程度わかるのだ。それに加えて、血圧、脈拍、体温などをチェックする。そして、グラスを取り出すと神術で生成水を作成し、その中にロッテの体調を整える神秘原薬を混ぜ、神術をかけてよこした。
「微熱はあるがひとまずは問題ないようだな。よく効く薬だ、それを飲んでおけ。それでシャルロット、お前は一体どこまでのことを覚えているんだ?」
「た……たしか、私は薬局にいたと思います。その後、変なご様子のお客様がいらして。よくわからないのですが、パッレ様が助けてくださったのですか? あのう、ありがとうございます」
「エレオノールにも礼を言っておけ。また、会えたらでいい」
「会えるよ! 大きい兄上ったら、変なこと言わないで」
縁起でもないことを、とブランシュがパッレに反論する。悪霊渦巻く帝都の薬局に残ったエレンや、当主ブリュノの代わりにド・メディシス家の留守を守ろうとして屋敷に留まっているベアトリスのことを思ってか、少しナーバスになっているようだ。
「あの、パッレ様。エレオノール様は今どうしておられるんですか?」
「……ロッテ、黙っていなさい」
パッレに率直な疑問を投げかけるロッテを、母親がたしなめた。
「私たちは、どこへ行こうとしているんですか?」
「帝都は悪霊に占拠され、市民はランブエ市に避難している。お前らを避難場所に送り届けたら、俺は帝都に戻る」
「パッレ様。危険です、帝都はもう……」
「黙れカトリーヌ。どんな相手であろうと、俺は敵前逃亡ってのが大嫌いでな」
「しかし、次期当主となられるあなた様に何かがあればド・メディシス家は……ベアトリス様もそのように」
「だが母上も父上も残った。ただ尻尾を巻いて逃げたのだとしたら、そんな家はゆくゆく滅亡あるのみだろうさ。悪霊の発生と拡大は流行病のそれと相似する。成長した悪霊はさらなる悪霊を呼び、急速に拡大してゆく。ならば、帝都での惨禍を食い止め、流行病でいうところのエンデミック(局所的流行)の段階にとどめなければ、そのうち世界は悪霊に飲み込まれてしまう。そうなれば、誰も生きてはいられないだろう」
「パッレ様……」
「神力が尽きるまで戦わずして何とする。それが、守護神に選ばれし者の定めだ」
パッレはベアトリスの指示に面従腹背であったことを宣じ、使用人たちの安全が確保できた後のことについては、素直に避難するつもりはなさそうだった。
「兄上、私も!」
「お前は足手まといだブランシュ。来るべき日のために備えてこなかったのだからな。お前は屋敷の者とともにランブエ市に避難し、身近な人間と市民を守れ、ランブエ市の守護神殿の結界がまだ機能していれば、小悪霊を追い払うくらいのことはできるだろう。今にでも戻りたいが、母上との約束を果たしてからだ」
「……兄上ぇ……死んじゃうよう」
「困りました。あなた様のそういう部分、お父様とお母様譲りでございます」
カトリーヌは当惑を言葉の中に含めたが、否定することはしなかった。
様々な思いを抱えた彼らを乗せたド・メディシス家の馬車列は、ランブエ市へ向け全速で疾走してゆく。
…━━…━━…━━…
ファルマはぐったりとしたエレンの服のコルセットやベルトを緩め、床に清潔なプラスチックのシートを敷きシーツをかける。
その上に彼女を横向きに寝かせ、創部のある背中にガーゼを当て、毛布をかけて保温する。
薬局の店舗内は冷え込んでいたので、暖炉に火を入れ部屋を暖かくする。
「心拍数は上昇、血圧は低下。出血は1L~1.3Lか」
診眼を使いながら、ファルマはこれからなすべきことを頭の中で整理する。
出血性ショックに対しては初期輸液を行い、血圧を回復する。
先に止血したくなるのが人情だが、出血が続いていても最初に輸液だ。
出血により血圧が下がりきってしまえば、助かるものも助からない。血圧が安定すれば維持輸液、あるいは出血量が多い場合は輸血をしながら、そのあとやっと止血に入る。
彼は出血性ショックの重症度を見積もる。
「エレンの体重を50キロと見積もると、循環血液量は体重の1/13、つまり3.85kg。出血量はギリ35%以内におさまるか、超えてるかもしれないな」
ブツブツ言いながら出血性ショックインデックスという指数にあてはめてみると、重症度は四段階中の三、最大の出血量と見積もって、四。厳しい状況だが、ここは薬と設備の整った薬局であるというのがせめてもの救いだ。
ファルマは薬局の調剤室に飛び込むと、輸液セットをかき集める。
I型糖尿病の牛乳売りの少年がケトアシドーシスに陥った時のために常備していたことから、乳酸リンゲル、酢酸リンゲル、重炭酸リンゲル液はすぐに使える状態にあり、その他の急患への輸液も想定して準備が整えられていた。エレンの血液型は血液型や不規則抗体などの項目が予め検査済みであり、週一で採血して全血を冷蔵で保管している。マニュアル通りの対応をしていれば、エレンの自己血は最適な状態で保管されているはずだ。
さらに冷凍保存している赤血球と血漿成分もある。
調剤室の鍋に神術で湯を張り、水で適温にうめて酢酸リンゲル液の入った点滴瓶を39℃程度に加温できたら、治療開始だ。
「やるしかないのか……」
この場にもう一人でも、手を貸してくれる人間がいれば状況は劇的に違っただろう。
一人での処置は不安だらけだ。
しかし、全ての備えは、”その時”にかえってくる。
「落ち着け。俺も前と同じ状態ではない」
以前のファルマは、薬学者という立場から、医業にかかわってはならないと線引きをし、臨床から一歩引いたところにいた。しかしこの世界では診眼の補助もあり、代任もなしという状況の中、臨床薬剤師としていくつもの症例を経験し、クロードの解剖や手術にも少なからず立ち会ってきた。
経験は、少しずつ積んでいる。
アップデートされた知見と手持ちの技能を照らし合わせながら、やるしかないのだ。
現実に向き合う。
まずは動脈を触知する。
総頸動脈は触知できるが、手首の橈骨動脈が触知できない。ファルマはエレンのスカートを裂く。救命のために遠慮などしていられない。鼠径部にある大腿動脈を触知。この時点で、経験的に血圧は70~80mmHgということになる。
末梢静脈路を確保するために、腕を縛り、腕や手の甲(手背)を見る。末梢静脈は血圧の低下によって全体的に虚脱し循環血液量が減少しているため、血管が見えにくくなっている。それでも、18ゲージに相当する、内径およそ1mmの留置針で、末梢静脈路を二本以上は確保しなければならない。
一度失敗しながらも何とか橈側皮静脈に針を刺入し、静脈留置針刺入部にフィルムを上から貼って固定し、一本目のルートとした。
もう一本を、太い静脈路である大腿静脈に穿刺し、静脈路への急速大量投与の準備はできた。
「もちこたえてくれ」
静脈路に酢酸リンゲル液を初期輸液として投与を開始する。最初からアシドーシスを改善してくれる重炭酸リンゲルを使いたいところだが、使用前に二酸化炭素を充填しなければならないことから、一人での対応を迫られている緊急時には却下。次善の酢酸リンゲル液は等張電解質液であり、循環血液量が減少したときに細胞外液を補給し、何より血圧を回復してくれるはずだ。代用血漿薬であるヒドロキシエチルデンプン(HES)なども加えたいが、それなりに集中力を要する構造式であるため、合成ミスを防ぐためにもひとまず考慮しない。
これで血圧が戻り、循環動態が安定すれば輸血をしなくてもよいのだが……失血量を概算すると、輸血なしでやり過ごすのは厳しそうだ。
「投与量は1L~2Lまでか」
急速投与で大量の輸液を続けると、低体温や代謝性アシドーシスなどを起こす危険を伴い、さらに循環動態や血圧が安定してこなければ心停止が見えてくるため、投与量が3Lになる前に輸血の判断を下し、開始しなければならない。
血圧が回復してくることを祈りながら、エレンの自己血を輸血しようと準備にかかり、ファルマは破滅的なことに気付いた。
「待てよ……そんな、何で神術陣が」
自己血をストックしていた調剤室の保冷庫と冷凍庫、その冷却を担っていた水属性神術の神術陣が破綻していたのだ。薬局内での悪霊との戦闘によって壊されたのか、以前から壊れていたのか。その判別がつかない。ただ、保冷庫の中には常温になった、ファルマを除く薬局職員全員ぶんの自己血がストックされていた。
「いつから室温になっていた……?」
もしかしたら数時間以内に常温になったのかもしれない、その場合は使えるが、いつ常温になったのかが判別できない以上、この自己血を使うことは憚られる。
あれでもと思い輸血瓶を見てみるが、赤血球が溶血し、一部は凝固している、使えなさそうだ。
(これは……輸血ができないの……か)
帝国薬学校に戻って輸血の出来る人間を連れてくればよいのかもしれないが、往復の時間を考慮すると、救命率は絶望的に下がる。
かといって出血している彼女をここから動かすのは愚策だ。
(教えてくれエレン、どうすれば君を助けられる……)
彼女の手を包み込む。
あらゆる対処方法を脳内で走らせながら、彼女の顔を祈るような気持ちで見つめていると、幻聴が聞こえてきた。
『ファルマ君、苦しそう』
(エレン……俺は、今まさに君を失おうとしているんだ)
『溺れて息ができなくて、もがいているみたいね』
まさにそうだが、この言葉は聞き覚えがある。あれは、エメリッヒ・バウアーとその家族が苛まれていた致死性家族性不眠症の治療の前段階としてゲノム編集の技術改良に取り組んでいたときのことだ。疲労のあまり研究室で寝落ち、朝までまどろんでいたファルマに、エレンが小さな声でひとりごちていた。
まどろみの中で途切れ途切れに聞いた言葉を、今になってひと繋りに思い出した。
『君には薬神の力があって、自分をかえりみず全身全霊で誰かを助け続けてる……。持ち得た力が大きいからこそ、与えようとするものも大きくて苦しみを負ってるのね。その眼に映る全ての人を助けようとして』
(俺はそんな立派な人間じゃない、ただ怖いだけなんだ。目の前で大切な人や家族を、助けられる病気で失うのが、怖くてたまらないんだよ。ましてやこれから墓守が、揺り戻しを仕掛けてくるかと思うと……)
『私がいつか、君がいつもしてくれるみたいに、君のことを助けられたらなぁ』
(エレン、俺には君が必要だった。いつも君に支えられ助けられていたんだ)
ファルマはもどかしかった。
薬神の力があるとしても、それが何になる。今、エレンを救える力なんて持ち得ていない。
彼女の命運を左右するこの事態が、墓守の企図したファルマへの報復や当てこすりだったとしたら、どうやっても助かる気がしない。
(どんな薬も神術も今の君を癒せはしない……人の血液は、人にしか賄えないんだ)
墓守は巧妙にこの状況を作りえたのだろうか。そして、ファルマがこの世界で縁を持った人々を、根こそぎ奪ってゆくつもりなのだろうか。力なく反芻しながら、気力を振り絞りファルマはまじないをかける。
薬はないが、使える神術はありそうだと気付いて。
”始原の救援”
彼だけに使える薬神杖の固有の秘儀で彼女を包み込む。神術の光は、エレンの体表に薬神紋を落とし彼女の身体に吸い込まれていった。
たとえこの世界全ての現象が墓守の手の裡にあるとしても、黒死病のときのように、この神術で多少の時間稼ぎになるかもしれない。
まじないを終え、ファルマは自分の手にふと視線を落とす。
「まだだ。まだ使えるものがあった」
今度はまじないではなく、物理的に使えるものが残っていた。
(俺の血液型なら……血液型は違うけどいける)
同型輸血が基本だが、異型適合輸血を行うことも可能ではある。
幸いにしてファルマの血液型は地球でいうところのO型、エレンの血液はA型に対応する。数々のチート能力を持ち、実体ですらないファルマ自身の血に対する信頼のなさから、自身の供血を視野に入れていなかったのだが、そういえば適合はしていた。
ファルマのO型赤血球には血液型抗原がないため、全ての血液型の患者に供血できる。しかしO型血漿中にも凝集素があり、大量輸血した場合には副作用を起こし危険だ。だが、大量投与でない限りは凝集素はエレンの血液で希釈されさほど問題にはならない。
より安全に赤血球のみ分離をして輸血したいところだが、分離をしている時間もなさそうだ。
「俺の血はベストではないが、不適合でもないとなると」
躊躇はあったが、緊急避難的な対応が求められている。今は彼女にとって非常事態なのだ。
ファルマは自分の血液をエレンへ輸血しようと思考を切り替え、自身の採血を行いながら処置を進める。ただ、血液のように薬剤でないものは、診眼を通じてそれが彼女の身体に適するか否か問えない。輸血してみるまで副作用の有無は判別できなかった。
「運を天に任せるにしても、クロスマッチはしとくか」
それでも、酢酸リンゲルを大量投与している間の時間を使い、ファルマとエレンの血液の間に免疫反応が起こるかどうかの確認はしたい。
ファルマは自己血について詳しい検査をしたことはあるが、できる検査は限られていた。こうなると、血液どうしを直接反応させるのが一番だ。その検査すらスキップして一度彼女の体内に入れてしまえば、彼女の体内で輸血副作用が出るのをコントロールできなくなるかもしれない。
そこで輸血用の供血者の血液と受血者の血液間で、抗原抗体反応を起こさないかどうかを確認するクロスマッチテスト(交差適合試験)というものを行った。遠心後、だいたいのヘマトクリット値を目算しながら、検査の結果から、輸血はできそうだと判明した。
ファルマは自身から採血した血液の瓶の入り口にチューブを接続し、白血球除去用の不織布のフィルターを噛ませて白血球を除去する。それでも白血球は残るので、本来の手順のように放射線照射を行い白血球を除去すべきなのだろうが、設備がないので割愛する。
酢酸リンゲルのルートに一度生理食塩水を充たし、輸血を開始した。
「いけ。今の俺が君にあげられるものは俺の血しかない」
ファルマはまだ未成年であり、そもそも献血ができる年齢ではない。年齢を無視して体重からすれば本来400mLしか献血してはいけないところを700mLも採ったが、これを使い切る間に止血を行わなければエレンの命はないだろう。
「今のうちに、止血を急がないと」
ファルマは出血の責任血管を検索しにかかった。
診眼を使えば、どこが出血しているのか発見できる。ファルマはそれほど労せず損傷部位を見つけた。だが、その出血部位がどこの血管に対応しているのかまでは診えない。
「見つけた……」
事態を深刻に受け止め、ファルマはエレンの背に手をまわし、思い切って創部から手をつっこむ。意識が完全に落ちているのと、一人で麻酔の管理を仕切れないということで、無麻酔で処置にかかる。
そしてファルマの手は、素手の時に限り人体を透過できるため、その特性を最大限利用する。
透過現象はいつ見ても夢のようで、自分自身がこの世界にとっての異物であることを思い知らされる。
(止血するには、責任血管である静脈につながっている上流の動脈、あるいは門脈を探さないといけない。俺が血管分布と対応する支配域を覚えているわけがないから……しらみつぶしになる)
ファルマの指先は、素手の状態だとエレンの全ての血管をすり抜けるのでつまむことができない。血管に触れるためには、ファルマの指先に何かを噛ませなければならない。彼は薄い金属膜、ここではチタンを創造し、それを介してクランプのように血管を挟む。血流を確認したあとは、物質消去し元の状態へもどす。
まずは血流の大部分を司る門脈を遮断したが、出血はおさまらない。
次に太い血管から細い血管へかけて、丁寧に確認をおこなう。
肝臓へ流入する血液の70%は肝臓に栄養を運ぶための門脈血、30%が酸素を運ぶための動脈血だ。肝臓で合流して、類洞と呼ばれる毛細血管を通り、静脈へと合流している。門脈遮断で反応がないとなると、出血のコントロールのための血管検索の難易度は上がった。
「この動脈だな、見つけた」
摘まむと肝静脈からの出血が減少する動脈を見つけた。門脈ではなく、大動脈から処置のためにアプローチできる肝動脈であったために、ファルマにとっては好都合だ。
このままチタンでクリップしてしまえばいいが、物質創造はできても整形はうまくできないために、うまくクリップできず血液を漏らしてしまう可能性がある。
(ここは確実に、動脈塞栓術にしよう)
血管の外からクリップをして遮断するのではなく、血管の中を詰まらせて止血をする、動脈塞栓術(TAE)を選択することにした。ファルマは、塞栓する予定箇所の血管径を見積もった。
次に直径2~3cmもある、人の体の中で最も太い血管、大動脈の中に、親指と人差し指で環っかを作ったまま透過させ指先を突っ込む。
エレンの血流を感じながら、親指と人差し指の間に挟み込むように氷片を作り、解けないうちに氷片の土台に載せるようにして塞栓物質を物質創造する。塞栓物質にはスポンジ状になったゼラチンを使いたいところだったが、ゼラチンは単純な物質ではないのでファルマには創造できなかった。
代案としてn-ブチル-2-シアノアクリレート(NBCA)を用いる。これは、日本では血管内での使用を推奨されていない。
(これを流すなよ、流したら大変だ)
この塞栓物質を血管内で飛ばすと、他の血管を閉塞させてしまう。なかでも肺などに飛ぶと致死的だ。ファルマの場合は飛ばしたとしても診眼で追跡して物質消去で除去できるが、余計な仕事を増やさないために細心の注意を払う。
塞栓物質として用いるNBCAは瞬間接着剤として用いられ、その名の通り微量の水分と触れると瞬間的に重合する。
重合の終わった塞栓物質の粒をつまみ、土台にしていた氷が解けるのを待つと、血管内を伝って大動脈から肝動脈へ導き、先ほど目星をつけた細い血管まで運んでゆき、最終的に塞栓させた。ファルマが創造したNBCAは彼が見積もったより少し大きくできてしまったが、径はそれほど重要ではなく、とにかく目的の血管を塞栓すればいい。
「いいぞ。これで塞げる!」
ほどなくして静脈の血流が止まり、出血の殆どはおさまったかに見えた。血圧は90mmHg程度に回復。保温していたため低体温の兆候もなく、酸素飽和度は不明だが、心拍も安定しつつある。
背中の創部からガーゼを詰めて、貯留していたあらかたの血液を吸い取り、ガーゼを創部からとり出す。肝臓の出血部位以外の臓器損傷も検索したが、肺や腎臓、胆のうや胆管、主要な神経などに損傷は及んではいなかった。
(これでいいんだろうか)
輸血は、全量を使い切ったところだ。駄目押しに診眼をかけると、光の反応は創部にとどまり、赤くなっていた全身も紫へと転じはじめていた。一命はとりとめたと意味なのだろうが、ファルマは放心しない。創部の洗浄を行ったあと、手の届く部分は縫合し、胆汁が漏れていないことをガーゼを当てて確認する。
「ドレーンを留置しないとな」
エレンの体内に貯留した血液や浸出液などを体外に排出するためにドレナージ(排液)を行う。開腹手術のあとには腹部からドレーンを挿入するが、今回は背中に刺創がある。新たに腹部にドレーンを刺入するか迷ったが、新たに穴を作るのを躊躇した。
「この刺創を利用するかな」
通常の手術ではしないのだろうが、背中側からの刺創の傷の周囲である創縁は直線状で挫滅や壊死もなさそうなので、刺創をドレーンを出す孔として利用することにした。背中側にドレーンを出すと仰向けになった時に管が潰れるので、内側にひだのあるチューブを開放式ドレーンにして潰れても排液できるようにし、ドレーンの先端を滅菌したガーゼで覆う。
彼女を診眼を通して診ると、彼女の全身を包んでいた光は薄くなり快復へと転じつつあった。
あとは凝固系を監視し、輸血副作用の有無をみながら酸塩基平衡を補正してゆく。そして、無麻酔での処置だったが、ここにきてようやく鎮痛のために点滴でペンタジンを流し、低血糖を予防するためブドウ糖を大動脈内に物質創造で少しずつ加える。緊急事態を脱したことで少しずつ、落ち着いた管理ができるようになってきた。
ファルマは彼女にかぶさるように抱擁した。
彼女の傍から、かたときも離れたくない。
「エレン、君に会いたい。君の声が聞きたい。失いかけて初めて、君の存在の大きさに気付いたんだ。ちょっと遅すぎたよな……ごめんよ」
薬神などではなく、今、彼女の守護神になりたかった。
彼女に救われていたこと、彼女から受け取っていたもの、この短く極限の時間の中で彼女へわきおこった感情の全てを、まだありのまま伝えていない。
「好きだ、エレン。俺は君が大好きだったんだよ」
二人きりの薬局内に、ファルマの涙まじりの独白が響く。
――返事はなかった。
しかし……エレンの手首に、見慣れた紋様が浮かび上がった。それはファルマの上腕にある薬神紋の薄いもののように見えた。ファルマの血液がエレンの全身を駆け巡り、何らかの作用しているのだろうか。二人の血液が混ざり合ったその証としての、薬神紋の顕現なのだろうか。疑問は尽きぬまま身を起こし佇んでいると、ほどなくしてファルマの手をかすかに握り返す、あたたかな反応が返ってきた。
(帰ってきた……)
ファルマはもう一度彼女の、生の証を両手で握りこんだ。
■本項は、医師・医学博士の叢雲くすり先生に監修いただきました。
輸血の項につきまして企業研究員のとくがわ先生にも考証いただきました。
その他の薬剤について、薬剤師のnene先生にも考察いただきました。
留置針等について、獣医師のごる先生にご指摘いただきました。
どうもありがとうございました。
■9/23日 コミカライズ版異世界薬局2巻が発売されます。




