6章13話 世界劇場の開幕
エルヴェティア王国郊外、メッゼノ神殿の悪霊を駆逐したファルマとコームらは、すぐさまエマの家族の住む村へと引き返し、サロモンとジュリアナ、聖騎士らと村で合流した。
サロモンとジュリアナは、不安そうな住民たちに応じていた。そこへ現れたファルマが声をかける。
「もう異状はありませんか? 守護神殿の神術陣は復旧しましたが、どうなったでしょう」
「ええ、神殿の機能が戻ったのか、悪霊の発生も落ち着きました。これで村人たちも家に帰れそうです」
「ですが私たちは念のため、しばらくこの村の様子を見ています」
彼らは朝まで村を警戒し、そのまま女帝一行が街道を通過した際に女帝一行と合流するのが合理的であろう、ということでその場に残る段取りになった。ファルマは女帝に進路が通行可能であると報告をするため、単独で引き返すことになった。
「では私が陛下のもとに、この村までの進路が安全であることを報告して参ります」
「薬神杖でお戻りになるのですね、賢明なご判断にございます」
ジュリアナが察すると、サロモンは一歩進んだ提案をした。
「そのまま帝都にお戻りになったほうがよいでしょう。この様子では……帝都も同じ状況になっているかと」
「そうですね。陛下に報告のうえ、お許しを得たらその足で帝都に急ぎます」
「どうかご無事で。幸運を」
「ありがとう、この場はよろしくお願いします」
ジュリアナはファルマの手をとりあげて両手で握りしめ、祈りを込めるようなしぐさをした。ファルマはその手の中に、彼女の微かな神力を感じた。
ファルマは新たな薬神杖を携え、神力を与え浮力を得、そのまま夜空高く舞い上がり、雲を切り裂く。
月を仰ぎ方角を得ながら、目指すは女帝一行のもとだ。
眼下には街道にぽつりぽつりと灯る民家の明かりが、まばらに見える。
目的地が見えてきた。人目を避けるため少し離れた場所に降り立ち、街道沿いの宿で休息していた女帝の一行に加わる。
女帝は寝間着に着替えることもせず、クララらと酒を嗜みながらファルマの帰還を待っていた。
ファルマは女帝に帰還の報告とともにエマの村の無事を告げ、悪霊にとりつかれた守護神殿の様子、悪霊への対処の経緯を説明した。神殿から悪霊が発生していたという情報を耳にした女帝は、深刻な面持ちになった。
「神殿は、秘宝により悪しきものを封じていたと。秘宝が機能しなくなったとなれば、難儀なことだな」
「はい……。それに絡みまして陛下、私を緊急に帝都に戻していただいてよろしいでしょうか。帝都には大きな守護神殿がございます」
話を脇で聞いていたクララが女帝の前に割り込み、ファルマの隣に平伏し加勢する。
「陛下、私からも奏上いたします、なにとぞ薬師様に勅令を賜りたく」
クララは、ファルマを一刻も早く帝都に戻すべきだという天啓を受けたと女帝に直訴した。女帝はクララの勢いに面食らいつつも許諾した。
「帝都で何が起こっている?」
「それを、私の目で確かめてきます。帝都の守護神殿が悪霊の発生によって陥落していた場合、尋常な方法では済まないと思います」
「しかし同時多発的に発生しているものならばこそ、そなただけで止められるものとは思えん……そこでだ。この災禍を止める、たった一つの方法があろう」
女帝は言葉をなぞりながら、蒼白になっていった。
「余の背には、ピウスが負っていた融解陣なるものと同じものがある。これを見よ」
彼女は自身のその目で確認したのだろう。ファルマに背を向け、正確な口述で融解陣の形状を説明する彼女は、全てを受け入れたかのような強靭さと凛々しさがあった。
ファルマはかける言葉が見つからないまま、女帝の次なる一言をうかがう。
「大神官の不在により各地に悪霊が発生しているのならば、この印を授かった余が形式だけでも大神官となればよいのだ。違うか」
融解陣を負った者が特別な儀式を行うことにより、世界各地の神殿の神術陣を維持して悪霊を地鎮する効果を発揮しているという話は、ファルマが細心の注意を払っていたため、断固として女帝の耳には入っていなかった。
しかしいくら隠したとしても、鏡を見て、そしてピウスの融解陣を目にしていた彼女は、今後の行動を模索していたのだろう。
ファルマは彼女が、事実を知りひそかに思い詰めていたと気づいた。
「陛下、神聖国に戻ってはなりません。ピウス猊下が絶命し、陛下もあの時、ピウス猊下と共に鎹の歯車にとりこまれ落下していたかもしれないのです」
大神官は、鎹の歯車の潤滑油として殺されてしまう運命にある。
神聖国に戻れば、いつか彼女は鎹の歯車に誘われ、その餌食となるのは不可避だ。ファルマとしては、融解陣を負ってしまった彼女には少しでも脅威から離れていてほしかった。世界中どこにいても安全な場所はないが、それでも、神聖国は最も危険が待ち構えている。
しかしそんなファルマの懸念とは裏腹に、女帝には強い思いがあるようだ。
「神聖国の専属の大神官になるとは言っておらんぞ。あくまでサン・フルーヴ帝国皇帝との兼務だ」
世俗の権威である皇帝と、聖職者の最高権威が同一であること。
この世界では前例もないという提案だが、地球史においてはしばしばあらわれた概念だったなとファルマは思い出す。
「神聖国を……併合すると仰るのですか?」
「今を置いてほかにその機はなかろう。神聖国は飲まざるを得ん」
女帝の言うように方法はそれしかないが、女帝に大神官をつとめる意思が存在する限り、それは悪手だとわかりきっている。
ファルマは哀れな生贄たる先代大神官のピウスの命を、彼の目の前で取りこぼした。
このうえ、ファルマとひとかたならぬ縁のある女帝のそれも失うのはまっぴらごめんだ
鎹の歯車が新たな生贄を欲し、歯車の欲しがるままに生贄をくれてやるのでは、これまでと何も変わらない。ファルマは打開のための思案を巡らせるが、暗中模索だ。
「そうとなれば、神聖国に急ぎ使いを送らねば」
女帝は神聖国に、大神官への就任と兼務を条件に、併合を迫ろうとしている。
しかしファルマはそれをとどめた。
「しばしお待ちを。陛下がそのようなことをなさらずともすむよう、私が繰り回しますので。歯車にいいようにされるのは、これきりにしましょう。私を信じてください」
鎹の歯車の中に残っていた先代農神の少女の記憶が教えてくれた、墓守という存在。
”この世界を創り、破綻させ、壊れかけたものを繕っているもの”
もし、墓守が何かの意図をもってファルマをこの世界に放ったのなら、絶対に思い通りに動いてやるものか。徹底的にそむいて、もう誰も失いたくない。
「融解陣は感染症です。呪いなどではありません。ならば私の職責において陛下の治療をさせてください。陛下のご健勝のためお力添えをするのが、私の主治薬師としての第一の仕事です。その中には」
ファルマは薬神杖をとり、不安そうな女帝の瞳を見据えこう告げた。
「陛下のお命を守ることも含まれます」
…━━…━━…━━…
女帝のもとを去り、ファルマは四コアの新たな薬神杖に跨がる。
スピードを飛ばしに飛ばして帝都上空を目指す。
時刻は午前五時。
道中、ファルマは上空から地上で起こる異変を俯瞰していた。
帝都に近づくにつれ、闇が深く霧が濃くなり、黒い霧でドーム状に覆われてゆく。
「既視感があるな。大陸全土で何が起こっているんだ?」
ファルマは警戒して上空でブレーキをかける。
帝都上空をわたる風は湿気を含み、生暖かく、時折不自然な突風が吹き上げてくる。霧の合間に、闇が蠢いているのが見えた。霧は全て悪霊から生成されているようで、壮麗だった帝都の夜景が一変し、廃都と化したかのようなおどろおどろしい雰囲気に包まれている。
(クララの言った通りだ……。まだ手遅れでないといいけど。人はいないか)
”診眼”
ファルマは全身から血の気が引いてゆくと同時に、心臓の鼓動が跳ねるのを感じていた。
精度は粗めで、帝都全域に診眼をかける。上空から診ると、建物の中にいる人間の状態を把握できる。
だが、街の建築物や商店、家々の中には殆ど人が残っておらず、ひっそりと静まり返っていた。
(生きている人間を見つけられない、市民はどこに行った?)
ロッテやエレン、家族、薬局職員の顔が脳裏によぎる。彼らは無事だろうか。そうでなかった場合など考えたくもない。ファルマは霧の中を泳ぐように近づきながら診眼をかけ続ける。
注意深く見渡すと、帝都の一か所に幽かに青い光がぽつぽつとともる。
「帝国医薬大に、誰かいる」
ファルマは束の間、緊張の糸が緩みそうになる。診眼は帝国医薬大の敷地内に、生きた人間の気配をとらえていた。
空中から近づいてみればかなりの人数が残っており、多数が無事のようだ。
ファルマは薬神杖を繰り、霧の中に飛び込むようにして、目視で人々の無事を確かめようと接近する。帝国医薬大の壁上回廊には、大学に飛び込んでこようとする無数の悪霊を神術で打ち払い続ける神術使いたちの姿があった。
彼らは神力をすり減らしたのか、ぼろ雑巾のようになってへとへとの様子だ。
ファルマは彼らのいる壁上に降下しながら、即座に彼らの援護を行った。
”疫滅聖域”
杖の先が閃光を発し、同時に清らかな陣風が大気を駆け抜ける。
ファルマの神術に煽られた悪霊の霧は四散。大学を黒々と包んでいた悪霊の邪気が払われ、透明となった夜空が丸く切りとられて現れる。
取り戻された月光の怜悧な輝きが、彼らを明るく照らした。
「誰だ!」
「なんだ、今の光は! 新手か?」
ファルマの神術を敵襲だと勘違いし、一部の神術使いが瞬時に反撃をしてきた。ファルマは素早く反応し、炎の神術使いの放った火球をいとも簡単に大気に散らす。
高度五メートルほどまで近づくと、ファルマの接近に気付いたようだ。ファルマは先に声をかけた。
「みなさん、無事ですか⁈ 私です、怪しいものではありません。ファルマ・ド・メディシスです」
「教授!」
「ファルマ教授ではないですか!」
「どうして上空から! そういえば陛下に随行されていたのでは⁉」
鐘楼や回廊に上っていた職員や学生からも、大きな歓声が届く。歓喜に満ちたその声は、エメリッヒとジョセフィーヌ、そして教職員の一団からのものだった。
エメリッヒが空に浮かぶファルマを目撃して、何がおかしいのか哄笑する。
「やはり跳躍ではなく飛翔神術! 教授は革新神術をお使いなのですね」
空から降ってきたファルマが、四属性の範疇を超えた神術を使ったと分析した結果、エメリッヒの中ではそういうことになったらしい。ファルマはその質問を聞き流して留保し、その場にいた者たちに落ち着いた口調で尋ねる。
「こちらのことは後です、それより今の状況を聞かせてください」
「は、はいっ。外壁に沿って張り巡らせていた神術陣が決壊しました、悪霊が際限なく押し寄せたのですが、私どもも神力切れでもう術が立ち上がらず、防戦一方でした」
「教授が悪霊を押し返してくださって助かりました! これで暫くもちこたえられます」
ジョセフィーヌが口走り、エメリッヒが謝辞を述べる。
神術使いが一日に使える神力は決まっている、神力切れを起こしては小技しか使えず火力にはならない。その状態を、MPの切れた魔法使いと似たようなものだとファルマは感覚的に理解している。大規模に悪霊が出現する状況は想定されていなかったからか、殆どの神術使いは接近戦に強くない。
詠唱を連続させたため喉を枯らせへたばっている神術使いたちに、ファルマは氷でコップを作り神術水を満たして配った。束の間の慰労に、彼らは生き返ったような顔をする。
「ぷはーっ、教授の生成水、いつもより格別にうまいや!」
「この悪霊はいつ、どこから湧いて出ていますか?」
「はっきりとはわかりませんが、帝都市街地から湧いてきたようです。夜半過ぎにはもう帝都中に広がっていて……という状況です」
「そんななか、帝都市民はどこにいるんですか?」
ファルマは尋ねながら、不安に駆られる。もぬけのからとなった帝都。彼が親しく接してきた人々の安否が気にかかる。
「ランブエ市に避難をしていると思います」
帝都市民は避難をして無事だと聞いて、ファルマはようやく生きた心地がした。
「でも、この悪霊の霧の中をどうやって? 神術使いであっても外に出るのは危険だと思うのですが」
「それにつきましては、帝都市民を悪霊から守るため、ド・メディシス総長が霊薬ハバリトゥールを調合し帝都市民全員に順次配給をしています。霊薬を受け取った市民から順に、神術使いの庇護のもと夜を徹してランブエ市へと徒歩で移動をしています。我々は追っ手がかからないようここで悪霊を引き付けつつ、敷地内にいる市民の保護に徹しています。宮殿の聖騎士も同様の防衛線を敷いています」
「霊薬……ハバリトゥール? 父が禁術を?」
「は、はい。そのようです」
ファルマは予期しないタブーの登場に驚いた。
ジョセフィーヌに代わってその場にいた他の教員が言葉を繋ぐ。
「禁術ではありますが、致し方なかったと聞きます。五名の神術使いの生涯分の神力を代償とする調合です」
「総長が四名ぶんを担い、不足した神力を補うためキャスパー教授の神脈も潰れたようです」
「私たちも神力の供出に志願したのですが……失敗のリスクを考慮したうえで、総長は御許しになりませんでした」
その場にいた者たちが、交互にブリュノとキャスパーの偉業を伝える。中には感極まったか涙ぐんでいた者もあった。彼らは息子であるファルマのショックを気遣っているかのようだ。
それにしても、ブリュノはもともと神力量に秀でていたが、四名分を充足したとは恐れ入る。
(ブリュノさんと、キャスパー教授の神脈と引き換えに……)
ファルマは正直言って禁術系列には、詳しくない。
薬谷完治が憑依する前のファルマ少年にも知識がなければ、エレンやブリュノから習うこともなく、ファルマも積極的に調べたことがなかった。代償を必要とする神術薬学を、ファルマは否定的にとらえていたからだ。
ファルマは、ブリュノがキャスパー教授の神脈と引き換えに禁術を使ったということにショックを受けた。
神術を使わなくても済むよう、ファルマは現代薬学を広く伝えてきたつもりだった。
ただ、この世界の神術薬学は悪霊に対する特効薬として受け継がれてきて、それらに対する知見をまるきり欠いていたということを突きつけられる。
ブリュノが神術薬学で対応できず、禁術を使ったことは由々しき事態を物語っていた。
神脈が潰れ神力がなくなるということは、貴族として与えられたすべての特権を失い平民に落ちるということになる。自らの持つ特権と権威の失墜を一慮だにしなかったというブリュノの潔さは賛すべきだ。ファルマはようやく、起こってしまったことの重大さに目がくらむ。
帝都市民は隣の市へ移動したというが、徒歩にしては骨の折れる距離だ。しかしそうも言っていられなかったのだろう。ハバリトゥールは悪霊を数日間寄せ付けない効果があるので、効果が切れないうちに悪霊の手に落ちた帝都から脱出しようというのだった。
短いやり取りのなかで、ファルマは最低限の状況を把握した。
脱出者の中に、ファルマの家族、薬局職員、知己も含まれていると信じながら。
「ここには主に、移動手段がなく移動できない傷病者、歩けないもの、体の弱い者たちをかくまっています」
「想像以上の変事ですね。そこで、この場所を守るために防御神術陣が必要なわけですね」
「はい、ハバリトゥールはあくまでも、悪霊が体内に侵入するのを防ぐ霊薬であり、神術陣も立ち上がっていないこの状況で膨大な数の悪霊に押されれば……この大学に残った私たちも無事ではすみません」
「そういうことなら。ジョセフィーヌさん、術をかりるよ」
ファルマはジョセフィーヌが携えていた杖の柄を彼女の手の上から握り、構えさせた。
彼女はファルマの大胆な行動に赤面し、面食らったような顔をする。
「ななっ、何を?」
「私は神術陣には詳しくないんだ、神力を貸すから適切な神術陣を組んでほしい!」
「は、はいっ」
ファルマは彼らに指示をする。ファルマの神力を杖を通じて受け取り、杖は異様な発光をみせる。ファルマは杖を破壊してしまわないように気を付けながら彼女に神力を供給する。
ジョセフィーヌは慄きながら、まるでそれがわがものでないかのように、自身の神杖を見る。
「なんて強い神力、失敗したら術者ごと消し飛んでしまいそう」
「そんなことにはならないよう制御しているから落ち着いて」
彼女はファルマに促され、震える声で神力を神術へと変換し発動詠唱を宣する。
「"きたれ天空の陣風、生けるものを裡へ、死せるものはたちいるべからず"」
「”風神の聖界!”」
ジョセフィーヌの杖は、青白く輝く颶風を天に放った。
それは複雑な気流の渦を形成し、組みほぐれながら、外壁が神術陣の風壁に覆われてゆく。ファルマの神力を原資にした神術の威力は強烈で、風の防御神術陣が安定状態で即座に立ち上がった。
「こ、こんな広域神術陣が! たった一人で!」
ジョセフィーヌは驚きを通り越し、恐懼の表情を浮かべた。ファルマはジョセフィーヌの杖を手放し、離れる。
「次々いこう」
ファルマは手を休めず、その場にいた一人一人の杖に手を添え、多種多様な神術陣を起動させ、防衛線を盤石な守りとして固めた。特に、薬神を守護神とする神術使いとファルマの神力の相性はよく、エメリッヒなどは他と比較し数倍の出力を可能とし、本人も驚くありさまだった。
ファルマと彼らの連携によって、大学の周囲を漂っていた悪霊は一匹たりとも侵入できない状態にした。
「今、八つの神術陣が同時に立ち上がっています。持続時間はおよそ一日です」
「その間に帝都の悪霊が発生しないように何とか対処しないとな」
「教授はこんなに神力を秘めておられたのですね。教授の神脈はどうなっているのですか」
ジョセフィーヌが信じられないといったように尋ねる。ファルマはあまり詮索されたくなかったので、「まあ、色々あって」とごまかす。
「しかしこれほどの神力を使ってお体に差しさわりは……もう一生分使い果たしたのでは」
心配した教員が、二本の神力計を持ってきて有無を言わせずファルマに強引に握らせた。
すると神力計のインジケータは二本ともぐいぐいとゲージを振り切って、上端が弾けて割れてしまった。
「えっ」
神力計には神力量に応じて使用できるスケールがあり、それぞれ生涯神力量と日別使用可能神力量を測る目盛りがついている。
教員が持っていたのは十万スケールと一万スケールの神力計であり、十万スケールのほうは女帝クラスが使うもので、予備的に持ってきたものだろう。
十万スケールを破壊したということは、女帝の神力量を上回っていて、ファルマの神力を測れる神力計はこの世には存在しなくなる。その事実を知ったエメリッヒ以外、誰もが唖然とした顔になる。ファルマと直接対決をしたことのあるエメリッヒは、驚きはないのか軽く唇を引き結んだだけだ。
「故障ですかね」
ファルマは迂闊だったと思いつつ言い訳じみた調子で一言呟いたが、その言葉が受け入れられた様子はなかった。
「ここはしばらく大丈夫ですね。私は神殿に行ってきます」
「あっ、神殿には近づくなというお達しが。……ファルマ教授!」
ファルマはその場を彼らに任せ、大学を囲う城壁の上から大きく助走をつけ市街へと飛び降りた。ジョセフィーヌたちが悲鳴をあげたが、壁の淵に駆け寄って下を覗き込んだときにはファルマの姿はなかった。
ファルマは飛び降りた瞬間、薬神杖に神力を通じ、そのままバーストさせて再び飛翔態勢に戻った。時間を無駄にしてはいられない。
メッゼノ神殿での経験から、ファルマはまず帝都の守護神殿をおさえることにした。
帝都に大規模な異変が起こっている場合、神殿の神術陣が破綻している可能性が高いというコームの話を思い出す。ファルマは一直線に帝都の守護神殿の方角を目指し、上空に到達する。
確かに、守護神殿はメッゼノ神殿以上の密度のどす黒い霧に包まれていた。ファルマはさきほどより直接的に神殿に神力の塊をぶつけ、霧状に覆っていた悪霊を吹き飛ばす。
ファルマを認識した悪霊は、ファルマを避けるかのようにゆっくりと移動を始めた。
ファルマは冷静に、無詠唱で神術の雨を降らせ追尾をかけ黒霧を蹴散らす。
ファルマの神力を受けた守護神殿の表層には神術陣の回路があらわれ、光を取り戻し始めた。開けた視界から鳥瞰すると、神殿の周囲に大勢の人々が倒れているのを発見した。
診眼を通して診れば、全員に生命反応がなく死亡している。
悪霊との戦闘で力尽き命を落とした神術使いや、神殿を守ろうとした神官たちだろうか。ファルマの見知った顔もあった。
ファルマは流体状の悪霊がぼこぼこと湧き出てきている、神殿の窓や出入口を見据える。
「神術陣を回復させて秘宝を置かないと」
ファルマは悪霊を切り払いながら、悪霊の噴出口となった神殿内部に踏み込んでゆく。際限なく湧き出してくる悪霊に神力をぶつけ、押し込めるように戻す。何度か踏み込んだことのある帝都の守護神殿の構造は、くまなく頭に入っていた。
彼はより瘴気の密度が高い回廊を逆走し、悪霊の発生源を辿る。神殿通路にはところどころ大きく穴があき、礫が積み上がり、足場は最悪だ。
そこを抜けると、帝都神殿の広い聖堂に入る。
聖堂内には祭壇の下部から竜巻が起こり、祭壇は破壊され、神官たちの遺体が折り重なっていた。
豪華な装飾品もモザイク壁画のあしらわれた壁面も、損耗し無残なものだ。
彼は真っ先に天井壁と床に刻まれた神術陣の修復を試みた。幸い、帝都神殿の神術陣は対称形で推測できるので、剥落した部分を補って神術陣を書き足す。神術陣を電子回路に見立てれば、どのようなものをどこへ補えばよいのかは感覚的に理解できなくもなかった。
まさか自身が悪霊云々に神術陣を頼ることになるとは思わなかったが、それが持続的な効果を発揮すると聞けば、効率的に利用せざるをえない。やみくもに疫滅聖域を使い続けても、確実な防御とはならないからだ。一心不乱に修復を続け、完成すると一気に神力が守護神殿の内部を駆け巡り、聖域が立ち上がる。
「よし戻った! あとは安定化」
ファルマは薬神杖のうち、職員証の核の一つを抜いて詰め込めるだけの神力を込めると、神術陣の中枢、秘宝の安置されていた祭壇の真下へとねじ込んだ。これを秘宝として安置し、持続的に神力を供給するための核とする。職員証は例の研究室への鍵であるため、異界へ出入りできなくなってしまうが、背に腹は代えられない。神術陣を復活させ秘宝を安置させると、神殿内部は光条で満たされ場に満ちた神力に潰されるように悪霊は消滅していった。
ひとまず発生源を制圧、後は帝都中に発生している悪霊を各個撃破。
とシミュレーションしながらファルマが神殿を出たとき、彼は大通りの正面を見て立ちすくんだ。
(何かいるぞ)
彼の目に、目視での異変は見えていない。だが、真正面に位置する空間が歪んでいるかのような大きな違和感だけが存在する。ファルマがその座標に視線をとめた瞬間、時間が凍り付いたように思えた。
鎹の歯車の内部で体験したあの感覚とまったく同じ……。
(巨人……⁉)
停止した時間の中を、ゆらり、ゆらりと帝都大路を歩く、黒いフードを被った巨人の影が見えたのだ。目算で全長百メートルはあるだろうか。
帝都の街並みを悠然と、どこかを目指して進む影の巨人、彼にはそう見えた。
(俺は、こいつを知っている……こいつは俺をこの世界に連れてきた)
ファルマの視線に気づいたのだろうか。
黒い巨人はわずかにファルマのほうを振り向いたが、フードの中には虚無が広がるばかりで、実体はなかった。
ファルマが視認されたと覚ると、巨人は向きを変えゆらりゆらりと歩み霧の中へと消え去ってしまった。
巨人が消えると同時に、帝都の刻は再び動き始めた。
「あれは、墓守だ」
ファルマは口から自然と出た言葉に思い当たり、静かに驚きをかみしめた。
「俺はあれを知っていたんだ」
この世界の人々によって農神と呼ばれ、鎹の歯車の中に捧げられ自我を溶かされていった少女神がファルマを助けた時に言い残した言葉を思い出す。「”君を助けることが、墓守の逆鱗に触れるかもしれない”」彼女の残渣が消滅しそれと引き替えにファルマが助かった後、帝都をはじめ大陸中の国々で、神殿がその機能を失い、悪霊が溢れだし、多くの犠牲者が出ていると推測される。
まるでファルマを絶望に陥れるかのように帝都で災厄をふりまく墓守の襲来を目の当たりにし、猛烈な自責の念が押し寄せてくる。
自分のせいなのだろうか、と。
「もしかして、俺が助かった結果がこれなのか。俺が歯車の生贄になって磨り潰されなかったから。俺が助かったから……俺の代わりに、こんなに犠牲者が」
生贄の守護神をささげ、人間の魂で鎹の歯車を駆動させ続ける存在。
ファルマが救った命の数だけ命を刈り取り、時空連続体を自在に駆け、見えない次元の狭間に潜む不可視の存在。
この世界には摂理を司り、時空を制する管理者がいる。
ファルマは絶望というものを味わいつつある。あれに抗えるとは、どうしても思えなかった。
ファルマの有する神力や数々のチート能力も、あれの前には霞む。
しかし、ここで遭ったが百年目、という思いも同時にもたげてくる。
この機を逃して、次にいつ墓守を捕捉できるかわからないのだ。墓守に逃げられてしまえば、被害はさらに拡大の一途をたどる。
勝算は完全にゼロ。神に楯突くようなものかもしれないが、それでもとファルマは奮い立った。
「逃がすか――っ!」
ファルマは薬神杖ただ一本を携えると、がむしゃらに跳躍し、徐々に綻びが繕われてゆく空間めがけて飛びついて杖を突き立てた。この世のものならざる秘宝、薬神杖のコアは綻びを見逃さず、罅を走らせ空間をこじ開ける。
この世界の時間が再停止する。
ファルマは空間の緞帳を引き裂き、裏の世界へと飛び出し墓守を強襲する。
世界を一撃のもとに崩された墓守は慌てる様子もなく振り返った。振り向きざまに、ファルマは神力を纏わせた杖でフードの中の虚空へと渾身の一発を食らわせる。
墓守の衣を引っ掴んで殴りつけた手応えは軽く、ファルマの攻撃はすり抜けたように思う。
「くっそ……!」
攻撃の瞬間、位相をずらされた。そう感じた。
そのまま墓守の姿は完全に視認できなくなり、ファルマは元の世界にはき出された。
(届いたのか……⁉)
逃がしてなるものかと食い下がって再度空間をこじ開けようにも、今度は空間の綻びすら見つけられなかった。墓守と接触したファルマの手は、墓守の素体を構成するモノの一部を握り込み、それはやがて黒曜石のような輝きを持った晶石と化した。
(晶石には記憶が詰め込まれているんだったよな……これを分析してみる価値はありそうだ)
煽りをくらって空に放り出され錐もみとなりながら、ファルマは地上で神術の発動音を聞き取った。
強力な神術が地上で発動したようだ。
神力がファルマのいる高度まで到達すると、術の中にふわりとエレンの神力の気配を感じ取った。
その清涼かつ甘やかな気配は、ファルマの意識を駆り立てる。
「エレン!?」
ファルマははっとして目を見開くと杖を握りしめ、異世界薬局へと向かう。
その間にも薬局を覆おうとしていた氷壁神術が、悪霊に破壊され今にも崩れようとしていた。
ファルマが急降下し、正面扉を割るようにして薬局の一階に踏み込むと、エレンは黒霧から実体化した無数の人型の悪霊に囲まれ、一斉攻撃を受け、神術を繰り出しつつも追い詰められていた。
「消えろ!」
ファルマが怒りにまかせて片手を振ると、薬局内にいたすべての悪霊が消滅する。
エレンはぐったりと調剤室の前の床に倒れこみ、肩で息をしていた。ファルマは駆け出して彼女を助け起こす。彼女が身を挺して幾重にも結界を張り氷の壁の中に閉じ込めて守っていたものは、調剤室と薬歴やカルテ。ファルマが異界の研究室から持ち帰った貴重な試薬も一緒だ。
(まさか、このために……エレンは命がけで)
「エレン! エレンしっかりしろ!」
「ファルマ君……戻ってきたの……」
ファルマはがっくりと力を失ったエレンを抱き起こして呼びかけた。
有事の際には躊躇せず逃げろ。薬局のことはどうなってもいい。ファルマは彼らにそう言っていた筈だ。しかしエレンはそう思っていなかったのだろう、彼女は気丈にもこう返した。
「逃げられるわけないわ。ここにはかけがえのないものがたくさんあるの」
「薬はまた作れるから、カルテも薬歴もまた聞き取ればいいから。頼むから君の命を大切にしてくれ」
「でも、ファルマ君が死ぬ思いをして聖泉から持ち帰った、この世界では造れない薬もあるでしょう。それがどれだけ多くの人の命を救うか、私は知っているわ」
「……エレン」
言い返せなかった。エレンの言うとおりだ。ここにあるものの物質として、あるいはそれ以上の価値をエレンは知っていてくれた。しかしファルマは伝えなければいけないことがある。
それらのものよりずっと、エレンのほうが大切だということを。
「これからも、君のなす……べき……ことをして……ね」
エレンは途切れ途切れに吐き出す。その声が震えているのに気付いたファルマは、ぎゅっとエレンを抱きしめる。呼吸は喘ぐようで、肌は冷たく、しっとりとしている。
「エレン?」
ファルマは彼女がただ消耗し体力が尽きたのではないと気付く。彼女の背に回したファルマの手に、温かいものがまとわりついた。
ファルマは手を引き、その色彩に目を奪われる。
それは、彼女の背から湧き出してくる夥しい量の血液だった。
床の上にメガネのレンズの破片をみとめ、ファルマはそれを視線で追うと、大きな血だまりを発見した。
「もう……助からない……から」
エレンは儚げな表情で微笑み、その手をファルマの頬に添えた。
「いいのよファルマ君。君と出会えて、最高の人生だったわ」
「そんなこと言うなよ……」
「だか……きちんと……お別れをさせ……て」
「エレン! だめだ!」
「あ……りが……とう」
エレンは力を失うかのように、ゆるゆると瞳を閉ざした。彼女の手が、がっくりと虚脱する。
そこで初めて、ファルマは診眼を使い彼女の全身を検索する。
彼女の体を赤い光が覆い尽くし、薄くなってゆこうとしていた。
直感的に判断すれば、外傷性の出血性ショックだ。しかし、ファルマはわずかに引っかかる。出血が原因だとしたら、何故診眼は全身性病変だと言っているのか?
”循環血液量減少性ショック”
”外傷性出血性ショック”
こう問いても、光は消えない。違和感を覚えながらも、とにかくそのままにしておけば、彼女は助からないという状況は確定している。全身病変の原因の探索はあとだ。
「諦めるかよ……」
ファルマはエレンの出血部位を検索し静脈性出血と見積もる。圧迫しつつ、頭部を後屈し顎先を挙上、時計を確認した。そしてエレンが守った調剤室の中に、緊急で傷病者が運び込まれてきた時のための乳酸リンゲル液を準備していたことを思い出す。さらに、薬局職員全員が二週間おきに全血を保管していたことも幸いしそうだ。エレンの血液型は、ロジェとレベッカと同じ。三人分の輸血ができる。
どんな状況にもできるだけ対応できるようにと彼がコツコツと行ってきた日ごろの備えが、ファルマに一縷の希望を持たせる。出血量は、室内の床の血だまりを見るに、一リットル強ほどだろうか。
ファルマは思い出した。確かにクララは、”女帝に随行している旅人は誰も死なない”と言った。
だが帝都に残っていたエレンやその他の人々が死なないとは、クララは一言も言っていない。ファルマの危惧が一気に高まり、緊張の糸は引きつれ、彼の頬を幾筋もの涙が伝っていた。諦めたくない。
「繋いでみせる、生きろエレン!」
声なき者に畳みかけるその言葉は、ひどく空虚に聞こえる。彼女を助けたいと願った。
この世界に、神はいない。
今、彼女の命はまぎれもなく彼の手の中にある。
ここからは、時間との戦いだ。
死へのカウントダウンが始まった。
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