6章11話 神殿の破綻
ファルマたちは夕暮れどき、馬車行列に平民少女を乗せ、エルヴェティア王国のはずれの街道を走っていた。
「もうすぐ、村が見えてきます。まさか、皇帝陛下の馬車行列に乗せていただいて、皇帝陛下にお仕えする高名な薬師様に直々に診ていただけるだなんて。恐れ多くて、母がびっくりして倒れてしまうかもしれません」
馬車から見える景色が珍しいのか、嬉しそうに窓にかじりついている平民の少女の名はエマといった。行列の最後にエマと一緒に同乗していたファルマは、彼女が無邪気に喜ぶのを見て、彼女の母を助けたいと願う。
もう少しで母親を名のある薬師に診てもらえる、エマはそんな期待を胸にいだいているようだ。
ファルマは馬車のシートで嬉しそうにしているエマの前に跪き、血豆だらけの彼女の足を見つめる。彼女はファルマの視線に気づいて足をひっこめた。彼女の顔が羞恥心でみるみる赤くなってゆく。
「きゃっ! 見ないでくださいっ!」
「ごめん、足の手当をしようかと思って」
「私の汚い足のことなど、ほうっておいてください。いつものことですから……治していただいたとしても、新しいものがすぐにできます」
「……そっか……次そうなったら見ていて、こうやってやるんだよ」
ファルマが今、彼女を癒したとしても、それは束の間の癒しであり、彼女を貧困から救えるものではないかもしれない。それでも彼は、彼女に必要な情報を伝えておく。彼女の泥と血にまみれた足を水で洗い、 血豆が大きくなったときに血を抜く方法、針の消毒の仕方、そのあとの保護の仕方などを教えた。彼女に処置を見せながら、彼女の歩んできた境遇に思いをはせる。
「これで処置は終わったよ。次は自分でできそう?」
「難しいですけどやってみます」
「ほかにもいくつか、役に立つこともあるかもしれない。字は読めるかい?」
「字は少し……お母さんが読めます」
「字が読めるようになったら、これを読んでみてくれ」
ファルマは最近、執筆した分厚い教科書を抽出して、一般市民も読める簡易版を作成していたところだったので、それを見繕って、彼女が利用できそうな簡単な項目のページの端を折って彼女に手渡した。薬は手に入れられないかもしれないが、予防方法を知っていれば防げる病、対症療法の方法など、それほど重篤でない場合には役立つことも多い知識だ。
「この本を役立ててくれ、病気や怪我になったときの処置の仕方、薬草、生薬の利用の仕方が書いてある。これを君が読んで、必要ならば筆写して周りのみんなにも教えてあげてほしい。分からなければ、巻末の住所宛に手紙を書いてくれるといい。返事を出すから」
「本を貰ったの、初めてです。名前を書いて大切にします」
彼女は手に取った本を眺めていると、涙がこみ上げてきたようだった。ボロボロの袖口で涙を拭いているので、ファルマはそっとハンカチを貸す。
「あ、ありがとうございます。……そういえば、診察とお薬の代金はすぐには払えないかもしれませんが、必ず働いてお返ししますので」
「お金のことは心配しなくていいよ、これは君が依頼したわけではなく、俺がただ押しかけているだけだから。治せるかどうかも、まだわからないしね」
ファルマは笑った。そんなやり取りをぽつぽつと続け、馬車は揺れる。馬を休ませるために馬車行列が小休憩をはさんでいると、そのすきにクララがファルマたちのいる馬車に乗り移ってきた。今にも泣きそうな顔をしている。
「薬師様、大変です。あなただけでも今すぐ帝都に戻れませんか」
「どういうこと?」
クララはうたたねをしている間に、また予知夢を見たのだという。
予知は刻刻と変化するため、以前は見えなかった危険が見える場合もある。クララの予知は漠然しているので、ファルマとしても先読みして対応することが難しい。
「帝都までの旅、他の方々に旅路の不安はあれど命の危険はありません、ほかの方は大丈夫ですので、あなただけすぐに帝都に戻ったほうがいいと思うのです」
「その言葉を裏返すと、俺だけに何か良くないことがある?」
「薬師様も命の危険はありません。ですがこの旅を急がなければ、あなたが生涯後悔をする予兆を繰り返し見ました。あなただけでも、馬を夜通し走らせてでも、帝都へお戻りください」
「何か取り返しのつかないことになる、そういうことだね」
「はい」
ファルマは診眼に諮ってクララを診た。クララの体調に異常はない。主である女帝を置いてファルマだけ先に帰れというのは、筆頭薬師としての服務違反だ。どれだけ無理を言っているのかわかっているつもりだとクララは言う。
「私の我儘に付き合っていただくことについて、皇帝陛下には私がお詫び申し上げます、どんな処罰も受けます、ですからあなただけは! 帝都にお帰り下さい!」
「わかった、エマのお母さんの病気を診たら、すぐに帝都に様子を見に行くよ」
「よかった……」
クララはほっとしたようにため息をついた。ファルマはクララの言葉を信じる。これから起きることを欠片ほど知っていたとしても、運命は変わらないかもしれない。だが、彼女の予知は守護神である旅神の加護を受けた神術なのだ。
今、ファルマが人外の力を手にしているように、それは無力な少女が得たたったひとつの奇跡だった。神術という未知の力の存在するこの世界で、彼女の言葉を軽視することは、すべきでない。彼女も、気まぐれな旅神の天啓に戸惑っている、ファルマは常々そんな悩みを聞いていた。
4つの秘宝の核を埋め込んだファルマの新しい杖ならば以前よりさらに加速にすぐれ、帝都まで瞬く間に往復できる。
「そんな大変なときに、母のことでごめんなさい」
事情を聞いていたエマが、寄り道をさせてしまうことを悪びれた。ファルマは肩に手を添えて首を振る。
「君は気にしなくていい」
「あっ、でも次の村が、私の家のある村です。よかった、もうすぐ着きます」
エマがそう言い終わらないかという時、馬車行列が急停止した。そのまま行列が動かなくなったため、業を煮やしたファルマは、エマにそこにいるようにと申し渡し、最後尾の馬車を出て先頭車列へと向かう。
女帝の乗る馬車の周りに、侍従たちが集まっていた。道の安全を確認する先遣隊が青い顔をしながら戻り、女帝に報告をしていたところだ。
「何があったのかもう一度つつみ隠さず申してみよ」
「は、ご報告申し上げます」
この先にある村には明かりがともっておらず、村は深い霧に覆われ住民たちが村のそこかしこに倒れていて苦しそうに喘いでいるというのだ。
女帝はふむ、と鼻を鳴らし、一拍置いてから側近に命じた。
「ならば直進だ」
女帝の判断を聞いた先遣隊の隊長は、歯切れ悪くこう述べる。
「おそれながら具申いたします。周囲に立ち込める深い霧は、ただの霧ではありません。馬も怯えて立ち往生するかと、私どもも、命からがら戻ってまいりました」
「何が言いたい、風の神術で霧など払えばよかろう。はっきりと申せ」
「この先の村は、霧の悪霊にとりつかれていると思われます。しかもその霧は、異様な速度で濃くなってきているのです」
それを聞いた筆頭侍従は、強く進路の変更を進言する。
「陛下! ここは迂回をご決断ください。村全体を襲うほどの悪霊とあらば、陛下の御身が危ぶまれます」
女帝とのやり取りを聞いていたファルマが筆頭侍従との間に割って入って口を開いた。
「お話し聞かせていただきました。その村人たちはまだ息はあるのですよね」
先遣隊はファルマの質問に渋い顔をしている。
「はい、まだ辛うじて。ですが既にもう虫の息で、救助できる人数ではありませんでした」
「陛下は迂回してくださって構いません、私が村の人々を救助に行きます。悪霊がいるなら、追い払ってきましょう。陛下と皆様はここでお待ちください」
ファルマは淡々と進言し引き下がろうとした。すると筆頭侍従がファルマをも引き留める。
「ド・メディシス殿。相手は悪霊、あなた様の御身も危険でございます。それに、ここは帝国ではありません、エルヴェティア辺境の管区神官や領主に救助を任せるべきです。過干渉はなりません、兵を送り領主に連絡はさせますので」
筆頭従長が強い調子で忠告をする。エルヴェティア王国は、内政も安定している。世界最大のサン・フルーヴ帝国といえど、あらかじめ申請している神聖国への往還のための通行以外の、現地共和国民への帝国の干渉は歓迎されないだろうとのこと。しかしファルマは切り返す。
「政治的にはそうかもしれません、ですがこれは内政干渉ではなく民間人救助で人道的緊急措置です。人が大勢倒れているなら、悪霊であってもそうでなくても村人を助けなければなりません、この大きな街道に面した村で発生した悪疫を放置しておけば帝国に多大な影響を及ぼします」
ファルマが毅然として告げると、子供に正論でぶたれた侍従たちは女帝の顔をうかがった。
先遣隊は悪霊の存在を察知したというが、ファルマは大規模な流行病の発生も視野に入れていた。その村に住んでいるという、少女の母親の高熱が気にかかる。
そこで帝都神官長のコームがやってきた。
「我々が様子を見に参ります。管区神殿にも連絡をとりましょう。悪霊の撃滅と病人の救済は我々の仕事です。しかし妙です、このあたりには大きな神殿があるはずですが」
喧喧諤諤のやり取りを聞いていた女帝がいらだったように述べた。
「ええい、さっきから聞いて居れば。何をうだうだと申しておるのか、このまま直進すればよかろう。平民の少女の家はその村なのだろう! 悪霊ごときは、余手づからうち払ってくれる」
「それはなりません、陛下」
単騎でも直進するといわんばかりの女帝を、ファルマはたしなめる。融解陣を負ったまま悪霊や疫病などと接触して、女帝の身が持つとも保証できない。ファルマは含むように言って聞かせる。
「私は悪霊もですが、はやり病も疑っております。そうであった場合、陛下がおでましになられると、流行病に感染してしまわれるかもしれません。白死病の際にご存じのように、陛下は神力に優れておられますが、常人より免疫が弱いお体にございます。感染の危険性がございます」
「さようでございますぞ、陛下。ご無事に帰国していただかねば困ります」
「陛下に万が一のことがあれば、我々は首を刎ねられます」
「ええい、こうるさい者どもめ」
女帝はふてくされたが、ファルマたちの説得が実り、女帝とその従者たちの馬車列は一つ前の宿場町まで引き返すこととなった。
「母さんたち……皆倒れていたんですか? 村に悪霊がきたんですか?」
馬車から出て話を聞いていたエマがガタガタ震えていた。怯える彼女を見つけたジュリアナが抱きしめる。エマの家がどうなっているのか、彼女は気が気でないようだ。
「エマ。お母さんと弟の名を教えてくれ、無事を確認してくる。君はここにいて、悪霊のことは神官に任せるんだ」
ファルマは家族の名前を聞き出すと、エマを信頼のおけるド・メディシス家の使用人に任せ、自身も診療バッグと神杖を手に救助隊に加わった。
五名の神官に加え、親衛隊五名、ド・メディシス家の聖騎士数名、ジュリアナとサロモン、ファルマがそれぞれ馬で一団となって次の村へと駆ける。
コームは道中あることに気付いたようで、懸念を口にした。
「しまった……そうだ。管区神殿が機能していないとなれば、状況は最悪です」
「コームさん、どういう意味です?」
「あなた様は、神殿がどのような場所に建てられているかご存じで?」
コームは黙りこくってしまった。コームの言葉をうけ、ファルマと馬を並べていたサロモンとジュリアナの表情も硬くなった。コームに代わり、ジュリアナがファルマに話す。
「大都市や交通の要所に建築された神殿もあります。ですがこういう辺鄙な場所にある大きな神殿については……非常にたちのわるい大悪霊を無理やり封じたまま、その上に建築された場所がほとんどです。つまり、神殿が破壊されたり、常時展開されている神術陣が破綻してしまっていたら」
ジュリアナは息継ぎもせず一気に告げた。サロモンが総括する。
「神殿は機能を失えば悪霊の巣窟ともなりえるのです、ファルマ様」
(神殿って……この世界では重要な施設だったんだな)
なんとも間抜けな感想だが、ファルマは目から鱗だ。コームを脅すために、以前安易に帝都神殿を破壊するなどと言ってしまったファルマは考えの足りなさを反省する。
「見えてきました。丘の上の神殿はメッゼノ神殿です! ん?! 不滅灯がともっていない!」
コームが馬上で地図を確認しながら叫ぶ。丘の上に遠目に見えるのは、比較的規模の大きな、白亜の神殿であった。不滅灯というのは、神殿に併設された鐘楼にかかげられる神術の炎で、神殿が正常に機能していることを示す合図だとサロモンがファルマに教えてくれる。
「神殿の根元部分に、黒い霧がかかっているようです」
「神殿から悪霊が出てきているってことですか?」
となり村に続く街道に分岐が見えてきた。片方は直進コース、もう片方は丘の上の神殿に続く細道だ。
コームが切羽詰まったように口走る。
「ファルマ様、私どもは先に神殿に向かい、神術陣を組みなおしてまいります、悪霊の発生源となっているのかもしれない。村に向かうのであれば、お気をつけて。とはいえ、悪霊が発生していた場合に備えて、浄化術の使える神官を一人随行させましょう」
「ご心配には及びません、浄化術でしたら私、ジュリアナが心得ております」
ジュリアナが名乗ると、コームは苦笑した。
「はは、もと枢機神官に、もと神官長だ。これは頼もしい、失念していましたよ。あなたがたに守護神の加護のあらんことを。はっ!」
馬に鞭をうち、コームたちは馬を駈歩に切り替え速度を上げた。分岐せず直進したファルマたちは、ほどなく前方の異変に気付く。
「確かに……何かいる!」
村に近づくにつれ、先遣隊の報告通りあたりを濃い黒霧が覆いつくしてゆく。
カミュと対峙したとき、あるいはユーゴーの屋敷の地下で見た悪霊と同じ気配が薄く大気中に広がっているのをファルマは感じた。
(これは確かに、悪霊のほうか……)
「”清めの疾風”」
風属性神術使いの聖騎士が、先頭を走りながら霧を払い、視界を確保する。しかし霧の発生はすさまじく、息苦しささえ覚える。救助隊の間でうめき声が上がり始めた。
「ごぶぁっ!」
黒霧に溺れ、窒息した帝国の聖騎士の一人がもんどりうって落馬した。馬が暴れ、前進できなくなった者も。ファルマは馬上で杖を出し、先頭を駆けながら新たな薬神杖を繰り出した。
「神術で霧を吹き飛ばします、”疫滅聖域!”」
ファルマは杖を進行方向に向け、疫滅聖域を前方に放った。普通は同心円状に発動する神術だが、集中すれば指向性を持たせることもできるのだ。薬神杖固有の浄化神術に、神力の奔流が黒霧を一気に吹き飛ばす。術の発動に手違いはなかった。
だが、ファルマは以前と手ごたえが違うことを鋭敏に感じ取る。
(疫滅聖域の圏域が……狭すぎる! 向こう五百メートルぐらいしか効いてない?)
それでもつかのまの間、黒霧を退けることはできた。
ファルマが放つ聖域で、黒霧の渦の中に台風の目のようにこじ開けられてゆく空間の中を、救助隊は追いすがりながら突貫する。落馬した者も慌てて馬に飛び乗り、黒霧が寄せる前にファルマの後を追った。
村に到着すると、ファルマは霧を払うがすぐに霧に浸食されて深くなり、効果は薄くなってくる。
「神殿の神術陣が回復すれば霧もなくなるでしょう。霧は相手にしても仕方がない、救助のほうを急ぎましょう」
「そうですね、手分けして探しましょう」
ファルマはサロモンの提案に従うことにした。
救助隊は数名ずつの編成に分かれて村の路地へ入ってすぐ、ファルマたちは村から逃げようとその半ばで倒れ果てたいくつかの死体を見つけた。はだしのまま逃げ出して、そのまま倒れこみ力尽きたようで、死体はまだ温かかった。
「くそ……遅かった。悪霊にやられたのか?」
ファルマはふり絞るように声を出し、手袋をはめ、外傷がないことを確認し、簡易的に死因をさぐるため死体の下瞼をめくってみる。そして、粘膜上に小さな出血、溢血点を見つけた。毛細血管の破たんによる出血で、窒息死の兆候となるものだ。
「窒息死のようです。黒い霧に飲まれて息ができなくなったのでしょうか」
ファルマがそう言っている間にサロモンは素早く聖符を書いて死体の背に貼り付け、なにがしかの詠唱を行った。サロモンは死体を見慣れているのか、手際がいい。
「それは何をしたんです?」
「死者が悪霊にならないように簡易的に弔っています。特に神殿が機能していない今、弔われない死者は、すぐに悪霊となりますので……あんなふうに」
サロモンは振り向いて、村の路地に浮遊し近づいてきた二、三体の黒い影をみとめた。
サロモンに少し遅れて悪霊を視認したファルマが前に出ようとすると、すっとサロモンの杖が視界の前に割り込んできた。
「大悪霊ではないので、この程度の悪霊の相手は私にお任せ下さい、ファルマ様とほかの方々は村人たちの救助を」
「わかりました」
サロモンに悪霊を任せ、ファルマはジュリアナと数名と村人の捜索を開始した。そして宿屋の奥からかすかに物音がするのを聞き分けたファルマは、ジュリアナと顔を見合わせて中に踏み込む。すると、真っ暗な宿屋の中に、弱弱しく人のうめき声が聞こえた。明かりを向けると、宿泊客と思しき男女が倒れていたので、ファルマは彼らに近づいた。
「お待ちください。“あしきものは彼方へ去れ”!」
ジュリアナは聖水の瓶を開封し男女にかけ、限局型の浄化神術をかけ、部屋の窓を開けた。
彼女はそのまま手早く部屋の四隅に炭でいくつかの記号を書き、神術の発動詠唱を唱える。すると生存者の男女の体内から霧が湧き出し、霧は部屋の中に渦巻き、ポルターガイストのように室内の家具が乱れ飛んだ。ガラスは砕け、宿にある物は床へと散乱したので、ファルマは氷の壁で要救助者らを囲み、飛びかう家財から彼らを守る。しばらくすると、風は弱まってきた。
部屋が完全に浄化された後、要救助者は恐怖に打ちひしがれたのか、二人で抱き合ってへたりこむ。そのころには二人の意識もはっきりしていた。一仕事を終えたジュリアナはほっとしたようにファルマを振り返った。
「悪霊にとりつかれようとしていましたが、これで一安心です」
「ありがとう、ジュリアナさん」
ファルマは元枢機神官であるジュリアナの素早い対応に感心しながら、要救助者二人に声をかける。
「助かりましたよ、しっかりしてください」
「はあっ、はあっ、息が楽になってきました。ありがとうございます」
「わかりません、気が付くと体が重くなり息ができなくなって、倒れてしまいました、もう死ぬかと」
神力を持たない平民には、よほど感覚が鋭敏な者をのぞいて悪霊は見えない。
ジュリアナが、彼らの身に起こった出来事を解説する。
「黒い霧には実体化しないおびただしい低俗霊の念が含まれています、彼らは生者を求めているのです」
「急がないといけませんね。生存者を探しましょう」
ファルマは救助に徹した。村内では一見多くの村人が倒れているように見えたが、実は昏倒していた者が多く、窒息寸前だったものも酸素を給し悪霊を払えばかろうじて目を覚ました。数え上げた犠牲者は十数名にとどまっていた。
「やれやれ、こちらも片付きましたよ」
ファルマたちがサロモンと合流したときには、彼は八体もの悪霊を軽々と駆逐し、遭遇した死者を集めて弔っていた。ファルマたちは、村の中央広場に集められた生存者の中に、エマの母親と弟を見つけた。かなり憔悴しきっているが、命には別状はないようだ。
エマの母親が高熱を患っていたのは、診眼で確認するところによると、急性扁桃炎のようだった。口を開けてもらうと、膿栓を確認できた。
「エマさんがあなたのお体を心配しておられました。神術薬を求めておられましたが、それよりよく効くお薬がありますので出しましょう」
「あの、あなたは」
「私は薬師のファルマ・ド・メディシスと申します。エマさんは安全な場所にいます」
「ええ……あの子が。なんとお礼を申し上げていいか」
ファルマは解熱剤と抗生剤を往診バッグから取り出して母親に手渡し、服薬説明をする。その間にジュリアナとサロモンが、晶石を配置し広場の中央に神術陣を描き、生存者をその中に集めた。
「この中は安全です、この神術陣の囲いから出ないでください」
「あんたは神官様かい? ありがてえ……死ぬかと思った」
「さっき、馬でやってきた貴族が逃げ帰っていったから見捨てられたのかと。助けを呼びにいってくれたんだなあ」
「神術使いの聖職者や貴族様がいねえと、悪霊にとり殺されてしまうんだなあ」
「この近くには神殿があるのに、悪霊が出るなんてねえ」
犠牲者を出したものの、村人たちが救助隊に感謝の言葉を述べる。神術を使う貴族や神官が、この世界でどういう役割を果たしてきたのかをファルマは垣間見た思いだ。貴族の存在意義は、こういう非常時に発揮されてきた。生存を喜び、救助隊を取り囲む村人たちに束の間頬を緩ませながら、ファルマはそれでも腑に落ちないことがある。
(それにしても、俺の聖域の効果はなくなったのか?)
サロモンが以前言っていたように、以前はファルマの周囲には悪霊をよせつけない聖域が発生していた。存在すら実証できないその聖域とやらを妄信していたわけではないが、それによってかファルマにはこれまで、よほどの大悪霊でない限り遭遇しにくくなっていた。
ありふれた悪霊などは彼の目の前に出現することができず、ファルマが近づけば、悪霊はほぼ自動的に消滅していた。それが今はどうだ、ファルマの目の前で黒い霧が発生し、悪霊も出現した。
ファルマの神力や、使える神術などに特に変化はない。しかし確実に、以前とは様子が違う。
(大神殿の鎹の歯車の底が抜けて、大神官が亡くなって、世界が変わってしまったのかな)
「まだ、神殿に不滅灯がともりません」
村の高い建物の上から丘の上を眺んだ聖騎士の一人が救助隊一団に告げる。ファルマはその言葉を聞いてコームの存在を思い出した。
「そういえば! コームさんたちに何かあったのでは……」
「神術陣の復旧に手こずっているようですな。あれほど時間がかかるというのは……」
サロモンの言葉を聞いたファルマは、即座に決断する。
「ここは任せていいですか」
「えっ、どういうことですか?」
ファルマはジュリアナとサロモンに告げる。
「神殿に行ってみます。皆さんは、村人の保護をお願いします」
「ファルマ様! お一人ではなりません! 私どもも……」
「まだ霧が発生し続けている中で、手勢を分散させないほうがいいと思います。悪霊に対してなら、俺が一人でできることのほうが多い」
ファルマの言葉に、サロモンは言い返す言葉を失ったようだった。ファルマは危険な場所に大勢の人間を連れてゆくことを回避すべきだと考えた。さもなければ、また女帝やピウスのような犠牲が増える。
「ごめん、ここにいる人たちを信頼しているよ。だからこそ、一人で行かせてほしいんだ」
「ファルマ様!」
ファルマは猛然と走り出すと、霧の中に姿を消した。一人で行動するなといつも誰かに忠告を受けながら、それでも、自分だけがその場に赴かざるを得ない場面に遭遇してきた。
ファルマは様々な思いとともに霧を駆け抜けながら、杖に神力を通じ飛翔する。森を飛び立ち、ものの数秒で急浮揚し、神殿の上空に到達した。
(最初からこっちに俺が行っていればよかったんだ)
遠くから見れば一見立派な守護神殿の天井には、不自然に大きな穴があいていた。その穴の中からむせかえるような腐敗臭がし、近づいてみると神殿には蔦がはびこり、廃墟のような不気味な景観をあらわにしていた。
ファルマが目を凝らすと、聖堂の床にはどす黒いタールのような黒塊が堆積し、それが波打って流体を形成していた。その流体の間に漂う青白い神術の光が見える。五名の神官たちが、彼らを今にも飲み込まんとする流体に必死に抗っている神術の光だった。
その流体の表面は、大小の人面のようなものでびっしりと覆いつくされていた。
ファルマは杖に神力を一気に流し、上空から一気に急降下して地上と接触する寸前に神力をほとばしらせ、流体に杖を突きたてた。
彼の杖に宿る4つの秘宝の核が悪霊を認識し、流体を覆いつくそうと協働して聖域を発生させる。その威力は甚大だった。
「消えろ!」
ファルマが極限にまで集中を高め力を籠めると、流体の表面にあった顔のようなものは焼けただれ、そのままぼとぼとと溶け落ちて神殿の床下へと押し戻され吸い込まれていった。
ファルマは悪霊の凝縮した流体を地下へ押し戻しながら、神殿の床面に神力を踏みこむ。
それだけでは手を緩めず、神殿の床の神術回路に彼の神力を充満させ、神殿の聖域を回復させる。神術陣の構造など知ったことではないファルマは、力技でねじ伏せるしかなかった。それでも大抵、この世界の神術はファルマの意図に応えてくれた。神術の術式は、念を具現化させたものなのだろう、だから詠唱もなにも本来は必要なく、こうしたいという思いとそれを叶えるための神力こそが奇蹟を顕す。ただ、神力が十分でないものは、術式の効力を借りる他にない。ファルマは最近になってそう思うのだ。
「薬神……様……ゴホッ、ガハッ」
朦朧としながら倒れ伏していたらしいコームが、吐血しながら起き上がり、膝をついてファルマを見上げる。彼の瞳には、もう敵対や猜疑の色は宿っていない。ほかの神官たちはぐったりと床に倒れていた。ファルマは一人一人声をかけて助け起こす。よほどの激戦だったようで、神力を使い果たしてしまっていた神官もいた。
「全員、なんとか無事ですか? 戻って手当をしましょう」
「守護神殿の秘宝が力を失って、この地に封じられていた悪霊が地上に甦ってこようとしていました……それが原因で、周囲の村に被害が及んだのです。情けない話ですが、あなたが来て下さらなければ、命はありませんでした……この御恩はけっして忘れません」
「気にしないでください、あれを相手にするのはその、無理でしょう」
人間が相手にできるものではなさそうだった、とファルマはコームたちの善戦を讃える。
コームはファルマの目を見ながら唇を震わせ、言葉を繋ぐ。
「しかしこの変化は、この神殿のみではなく、各地で起こっているものと考えられます……。神術陣の脆弱な神殿から、神殿は機能を失うでしょう。大神官の空位が世界中の神殿に影響しているのです」
クララの予言が脳裏によぎる。
いま、帝都神殿はどうなっているのだろう。
「世界の破滅の序曲が聞こえてきます。一刻も早く、大神官が見つかることを祈ります……」
コームは憔悴しきった様子でそう呟き、意識を失った。
…━━…━━…━━…
「市民は名と住所を名乗り、学内へと避難せよ」
サン・フルーヴ帝国医薬大学校総長のブリュノは、大学周囲の住民に避難指示を出し、避難者を学内に受け入れていた。
「全門と全敷地内に緊急隔壁を展開、防壁神術陣を維持」
神術陣の扱いに長けた風属性の大学専属職員が、敷地の境目に悪霊の侵入を防ぐ強力な神術陣を編み上げて行く。それらの神術陣に近づいた悪霊が蒸発してゆくのが、平民には見えないが貴族たちの目に映っていた。
「ありがとうございます、尊爵さま。この御恩は忘れません」
「どうなることかと思いました、これで安心です」
平民市民が荷物とともに、帝国医薬大学校へとなだれ込んでくる。
「なに、こういうときのために帝国貴族がいるのだ。安心しなさい」
正門で市民を迎え入れていたブリュノは感謝の言葉に応じるかのように、不愛想に鼻を鳴らした。ブリュノの判断に少し遅れて、宮廷からは国務卿発令で帝都全域に緊急避難警報が発令され、帝都各所の鐘楼では、避難を告げる警鐘がけたたましく鳴り響き、帝国軍が市民の避難を誘導しはじめた。
有事の際の平民保護と悪霊との戦闘は、サン・フルーヴ帝国に住まう貴族の最も重要な義務だ。
悪霊が広域に発生した場合、市民は帝国の指定避難場所へ、間に合わない場合は赤い旗をかかげている貴族の屋敷へと一時避難することになっている。
指定避難場所は宮廷や帝国軍関連施設など、帝国医薬大学校も指定避難場所の一つだ。
夜は特に悪霊の影響が強まり、昼間は霧のようだったものが、夜には実体化して市民を襲うこともある。
帝国医薬大学校では、市民に配布するための寝具と、浄化神術をかけた腐りにくい食料を備蓄していた。水属性の神術使いたちが水を生成し、市民に飲み水を支給する。神術による生成水を使うのは、避難生活に腐りやすい水を各個人に持たせると、感染症を招くからというブリュノの判断だ。市民たちは滅多に有り付けない物を支給されて喜んでいる。
「ありがたい、神術の御水だ。透明だぞ」
「お貴族様はこういう時には気前がいいんだね、いつもは偉そうにしているのに」
「しっ、声が大きいわ」
貴族に対する市民たちの印象もまちまちだ。
「いつまでもちこたえればよいのでしょうか」
ブリュノは弟子を各所に送って帝都の全容を把握させていたが、帝都神殿はすでに機能不全となっていた。神官は神術陣を交代で維持するために神殿に張り付きっぱなしで、身動きがとれないそうだ。それでも帝都に発生しはじめた悪霊をこれ以上増やさないために、神殿の守りは絶対だという。
貴族たちが平民をかくまう避難所で展開される神術陣はかなり強力なものたが、これほどまでに大規模な神術を使い続ければ、いつかは神力が切れる。
すでに限界まで神力を使い果たし、神術を使えなくなった者もあらわれた。
「総長、お話がございます」
そんな防衛戦ともいうべき状況のなかで、教員を集め情報収集に追われるブリュノに、放線菌の専門家としての名をあげたキャスパー教授が声をかけた。ブリュノが振り向けば、キャスパーを先頭に、数人の老教員がそこに集まっている。みな、何がしかの決意を秘めた強いまなざしをブリュノに向けていた。
「私どもは老い先短く、今後の安寧など考えておりません。禁書庫を開き、私たちの神力を使って霊薬ハバリトゥールを調合してください」
キャスパー教授は、決然としてブリュノに提言した。サン・フルーヴ帝国医薬大学校の禁書庫の禁術系列には、神術使い一生分の神力を代償に、薬神守護神の神術使いのみが調合できる、悪霊祓いの霊薬が存在する。それを聞いたブリュノは、声を失い、霊薬と聞いた教員たちは敏感に反応する。
「な、なにを言っておるのだ。ならん、禁術を使ってはならんのだ」
「神殿の悪霊は増える一方で、神術陣も長くはもちますまい。脆弱な避難場所から悪霊に飲まれてゆきましょう。霊薬ハバリトゥールを一滴でも飲んだ者は、数日間、どんな悪霊も近づけなくなります。それを帝都市民全員に給すれば、全員が安全に帝都にほどちかいランブエ市に避難する時間は稼げましょう。避難のための体力を考えますと、避難民が心身ともに消耗してからでは遅いのです、国務卿にそのように具申下さいませ」
「しかし……霊薬の調合には命の危険がともなう。それに、ランブエ市も無事かどうか」
ブリュノが難色を示したが、キャスパー教授たちは引かない。
「先ほど、ランブエ市の老学者と連絡が取れました。守護神殿は無事との報を受けました。帝都から二十羽飛ばして、たった一羽戻ってきた鳩による吉報です。信じられないことですが、皇帝陛下と神官長ご不在の今、帝都は悪霊の手に墜ちようとしています。ならば、市民の命を守るのが、私たちの使命ではありませんか」
「うむ……貴殿の言葉の通りだ、キャスパー教授」
「私どもは、総長がこれまでどんな難解な薬の調合も失敗したことがないことを存じています、たとえ霊薬であっても。たとえご子息が筆頭薬師となられても、帝国最高の神術薬師の座は不動です」
ブリュノは、彼らの熱い思いにうたれたのか、申し出を受け入れる。
「そうか。その覚悟、しかと受け止めた。力を貸してくれ」
それからわずか三時間後、霊薬ハバリトゥール調合の報と、ランブエ市への帝都民全員の一時避難の進言が宮殿にもたらされた。
その直後、サン・フルーヴ帝国は、国務卿令で帝都全域に避難命令を発布した。




