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【完結済】異世界薬局(EP4)/【連載中】世界薬局(EP4.1)  作者: 高山 理図
Chapitre 6 神術使いと呪術使い  Arcane et interdit (1147年)
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6章7話 鎹の歯車のいざない

「Wi-Fi拾ってる――!?」


 あまりに不意打ちな爆弾投下に、思わず声が出てしまったのは致し方なかったとファルマは思う。女帝は振り向いたし、神官たちには妙な顔をされてしまったが、取り繕う余裕もなかった。そして女帝にはばっちりと聞かれてしまった。


「む? どうした、ファルマよ。ワイファだと?」

「腹の具合が悪くなってきたので、申し訳ありませんが少々時間をいただけますか」


 ファルマはとにかく一旦、一人になって状況確認がしたかった。

 多少周囲を待たせることになったとしても、いつまで電波を拾っているか分からないのでそうせざるをえない。女帝と枢機神官は、ファルマの体調が急変したというので、遅刻を諾するしかなかった。


「構いません。お具合がよくなってからまいりましょう、多少遅れますと、ピウス聖下にお伝えします」

「すみません……体調管理が悪くて」


 ファルマは、最寄りのトイレ付き休憩室に通された。

 神聖国のトイレは、この世界では割と最先端と思しき水洗式だ。

 穴のあいた陶器の便座の下は下水に繋がっていて、上部に貯めた貯水槽から配管された水が流され、排泄物を洗浄する、18世紀にイギリスで発明されたビクトリア朝のウォータークローゼットに似たものだ。思い出せばサン・フルーヴ帝国ではいまだに椅子式便器で、椅子の下部には引き出しがついており、使用人が汲み取って指定の場所に捨てるのが一般的だった。

 神聖国のトイレは清潔でいいなあ、と思うけれども、とりあえず今はトイレに用はない。


 スマホを手に、先ほど撮ったばかりの地下へと繋がる扉の写真を拡大して確認する。

 写真画面には、妙なものは映っていない。

 ファルマは神聖国にきてからというもの、観光と調査と記録がてら、スマホで写真を惜しみなく撮っていた。ファルマが研究室から持ち出してきたスマホは秘宝化して人間の目には見えなかったし、シャッター音も聞こえないようだからだ。 

 でも、ファルマがこの世界にスマホを持ち出してからというもの、Wi-Fi電波を拾ったことなどなかった。

 当然だが、ただの、一度も。

 そして、この休憩室ではWi-Fiは圏外。ファルマは先ほどWi-Fiを拾った扉により近い窓へと近づき、窓を開け放つと、辛うじて電波を拾って接続することができた。

 発信源は、先ほどの方角にあるらしい。神聖国枢機部がフリーWi-Fiスポットだったなんて、ファルマも理解を超えている。


「ここにきてネット繋がるだなんて。どこだよ、異世界に電波売った会社は……」


 ファルマはすかさずSSIDを確認し、アクセスポイントの識別名を見た。

 しかし、そこにあったのは、まったく予想外のIDだった。


「は!? これ……うちの研究室の……」


 ファルマの生前所属していた大学の学内無線LAN、そして自分の研究室で用いていたものだったのだ。そして、電波状況を調べてみると、飛んでいるWi-Fiは一つではなかった。

 しかしファルマが思い返すに、聖泉から入れた異界の研究室の中では、無線も有線LANも飛んでいなかった。つまりこの神聖国というのは、地球に近い場所ということなのだろうか。ファルマは手が震えてスマホを落としそうになりながら、地球のそれと思しきネットワークを経由してインターネットに接続した。時刻情報や数々のアプリがデータ通信を始める。


(同期した……)


 ファルマは懐かしさがこみ上げて来た。宇宙の果てから、地球に帰ってきたような……。


(さあ、いつだ。地球では、今はいつなんだ!)


 すると、薬谷が死亡したまさにその日、その時刻が表示されていた。

 調べものをしながらそのまま5分ほど待っていると、時間が一時間ほど巻き戻って時計に表示された。


(あれ? 戻った。あの、俺が死ぬ間際の時間が、延々と繰り返されてこの異世界と繋がっているのか……)


 ファルマはSNSから簡単な投稿をしてみた。しかし、いつまでたっても更新はできないまま。データのダウンロードはできるが、アップロードはできなかった。空メールの一つも送れない。

 つまり、地球のネットワークの、たった一時間程度の情報を閲覧することはできても、こちらから交信をすることは許されていないようだ。時間が切り取られているのだろうか。

 また、位置情報を見てみたが、やはり取得されていない。文字通りここは、異世界なのだ。


(総括すると、俺がいた研究室という空間と時間が切り取られて、俺の死の直前か直後に異世界に繋がってしまったのか……)


 スマホの液晶を通して、地球を垣間見ることしかできないだなんて。

 そしてファルマが今現在、ネットワークに繋げてえられる情報は、これ以上更新されてゆくことはないだなんて。そう思うと、無念ではあった。


 地縛霊って、こんな感じなのかなあ。とファルマは思う。


(それでも、自分の葬儀の情報やニュースを見なくてよかったのは、ありがたいかな)


 薬谷の死後は、まず確実に、大騒ぎになるだろう。

 薬谷 完治は世界的な業績を残していた。少なくとも学界からは惜しまれただろうし、日本でも大きくニュースになるほどには有名だった。マスコミには過去を根掘り葉掘りされ、亡くなったのをいいことに美談や醜聞を流されただろう。同級生たちにも取材が行ったかもしれないし、親族のコメントを取られたかもしれない。


 それとも、ファルマが異界の研究室でたった一度だけ因果を覆して生還させた薬谷の一人は、何事もなかったかのようにその先の時間を生きていて、ファルマの中に分かたれた自我の一部だけが、あてどもなく異界を漂っているだけなのか。それはそれで、虚しいものを感じる。

 そういったことを、一方通行の状態で目の当たりにしなくてよかったというのは、多少気が休まる思いがした。


 まだ誰も、薬谷が死んだことを観測していない。あるいは、彼は生きているのかもしれないが、薬谷 完治の生と死が重なり合った時間。

 ファルマがアクセスしているのはそんな時間軸なのだ。

 それにしても、この世界は一体どこなのだろう。と、ファルマは思う。

 孤独に押しつぶされそうだった。


「ファルマ、腹が痛むのか」


 部屋の外から、痺れを切らした女帝が呼びかけた。

彼女の声は、ファルマをひとときの間、思考の渦から救ってくれたような気がした。


「申し訳ありません。ちょっとなかなか用を足せなくて」

「糞詰まりか、ならばゆっくりと致せ」


 そんな受け答えをしたものだから、きっと女帝の中では便秘で苦しんでいた人ということになってしまっただろうな、とファルマも多少恥ずかしい。それはともかくだ。


 地下神殿に、何かある。過剰な期待はすべきではない。

 でも、少なくとも、Wi-Fiのアクセスポイントはある。危険もあるかもしれないが、これまでオフラインだったものが、オンラインになれば、そして発信源が見つけられれば得る情報は大きい。

 どちらにしろ確かめるしかない。ファルマは、地の底へと行く決心をつけた。


 女帝も神官たちも待たせていたので、詫びて地下会談の場へと向かう。

 地下へと続く階段は急峻で、時計にして十分ほど下ると、階段が石づくりから晶石へと材質が変わった。ファルマは階段を踏み外して転げないように気を付けながら歩きスマホをしていると、Wi-Fiの電波はどんどん強くなってゆく。それが、ファルマの興奮をかきたてる。やはり地下にアクセスポイントがあるようだ。

 ファルマたちが突き当たったのは、分厚い、そして透明な晶石の飾り扉だ。高さも幅も、大人の数倍ほどもある。


「鑑査の扉でございます」


 案内の神官は、この先の間には、扉を開けられる選ばれた者しか進めません、と述べた。

 晶石の扉は神力計を兼ねていて、神力が足りない者が扉をムリに開けて中に入ると、精神を破壊されてしまうという。中にはピウスと上位枢機神官二名のみ待機している、とのことだ。


「逆を申し上げますと、大神殿でこの扉を開ける者は、三名しかいません」

「神力を試す扉か。客人を招きながら、力量をはかるとは面白い。余に開けさせよ、誰が皇帝だったか、思い出させてやる」


 女帝は扉に両手で触れ、神力を注ぎながら内側に押す。

 すると、扉の表面に獣の眼のような模様が三つ現れ、女帝を睨みつけたあと、彼女を受け入れて内側へと扉を開いた。


「はっはっは、軽い軽い」

「皇帝陛下は適格でございます、どうぞ中へ。私どもはここで待機しております」

「俺もやってみますね」


 ファルマが女帝に続いて、一度閉じた扉を開こうとすると、彼が扉に触れる前から扉は全面開放していた。

 ファルマ一人を迎え入れると、ぴしゃりと扉は閉じる。そのあとに続いて、女帝たちに付き添っていたお供の聖騎士数名のうちファルマが神脈を開いていた者だけが中に入れた。変装したサロモンも、その一団の中にしっかりと紛れ込んでいたのだが、バレることはなかった。神官は驚いたような顔をして、「サン・フルーヴ帝国の近侍の方々はつわものですな」と、青い顔をしながら世辞を言った。


 ファルマたちが扉の内側に入ってすぐの広い空洞は、さながら晶石造りの宮殿のようだった。絢爛豪華に輝く内部には中央に円卓があり、ピウスらが席についてファルマたちを待っていた。


「ようこそおいでくださった。おや、大勢いらしたな。ファルマ殿は体調を崩されたと聞きましたが、いかがですか?」

「もう大丈夫です。お待たせしました」

「さて、ここからは秘密会談で、記録には残りませぬ。忌憚のないお話を聞かせいただきたい。皇帝陛下にもご臨席たまわりましたが、このたび我々がお話を伺いたいのは、あなたです」


 女帝はむっとしたような顔をしたが、ピウスは最初からファルマを指名していたのである。女帝は物見遊山というか、ボディーガード兼付き添いだ。


「ぶしつけですが、早速薬神様とお呼びしてよろしいですかな」

「承服いたしかねます」


 ファルマは笑顔を保ちながらも、断固却下した。

 そして彼は話が始まる前に、持参した薬神杖の箱をテーブルに出した。


「その前に、薬神杖をお返しします。サロモンさんを通じて、長い間お借りしていました、ご高配をありがとうございます」

「これは結構。まさか返却してくださるとは。それにしても薬神ではないのなら、何故”薬神杖”を使えたのです? 妙な話だ」

「使えたから使った、という以外にありません。薬神杖を使えることと、私が何者かということは、まったく別の話です。第一に私は、そのような名を名乗ったことはありません」

「自明のことを隠し立てなさる意味が、わかりませんが」

 

 ピウスはファルマの毅然とした態度に気おされたように見えたが、傍にいた枢機神官にひとまず薬神杖を箱ごと受け取るように指示した。傷などがないか、変わった部分がないか、時間をかけて調べさせた。

 なかでも、贋物ではないのかという疑惑は払拭できないらしく、念入りに”人が持てない”ことを確認していた。


「結構。本物でございます。では薬師ファルマ殿。いよいよ本題に入りましょう。鎹の歯車のことは、ジュリアナから聞きましたかな」

「ジュリアナさんに襲撃された時にお話をうかがいましたが、その時の件ですか? それでしたら、概要だけ聞きました。それで、ジュリアナさんに神力をお渡ししたのです。その神力は、有効活用していただけたかと」

「その件については、ぜひとも詳しく説明を聞きたいものだな、ピウス猊下」

 

 女帝が追及に乗り出してきた。ファルマはまだしも、女帝は、例の襲撃事件については腹の虫がおさまっていないのだ。しかし、ピウスはつっかかってきた女帝を軽く退け、冷静に謝罪した。


「部下の独断で、いきすぎた面があったことはお詫びする。以後はこのようなことがないようにしたい」


 ピウスは、例の件については関知していないと言い張った。そう言われてしまうと、ファルマも女帝も何も言い返せなくなる。ピウスの指示があったことを立証する方法はないのだ。


「だが、今後、あなたは、鎹の歯車をどのように運用なさるおつもりか。ファルマ殿」

「ちょっと待ってください。”鎹の歯車”のことは本当に知らないんです。一体、何なんですか?」


 するとピウスは、ファルマの言葉を怪しむような顔をした。

 その反応から、自白剤の効果を疑ったのかもしれない、とファルマは勘づく。


「本当にご存じないのですか」

「本当に知らないんです。まず、鎹の歯車というものが何で、どうして神力が必要なのかを説明してもらえますか」


 ファルマとしても大雑把なところは、ジュリアナから聞いたつもりだ。

 鎹の歯車は、この世界と別の世界を繋ぐ鎹が外れないようにするために、歯車で締め上げている、その器械を動かすには、神力が必要だと。そう聞いたが、それ以上は知らない、とファルマは伝えた。


「その装置は実在しているんですか? どこかで見れるんですか?」

「よせファルマ。危険だ、むやみに近付くな」

 

 女帝がファルマが迂闊に近づくのを制止しようとする。ピウスはにやりと微笑んだ。

 

「興味がおありなら、実際に見ていただくのがよろしかろう。私も直接に見たことはありませぬ、なにせ、人間には見えない装置ですのでな。あなたなら見えるかもしれない。いかがなさいます」

「見せてください。ここまできて、見ないのは腑に落ちません」

「それは結構、感謝しますよ」


 ピウスは席を立ち、枢機神官をその場に残し、神杖に明かりをともし、地下洞穴に架かる宙づりの暗い空中回廊をゆっくりと踏みしめるように先導していった。

 かなりの時間、足場の悪いスロープをくだってゆく。

 ピウスと、女帝、そしてファルマたちの足音が、広い空間の中を反響する。

 どれほど下っただろうか、ずいぶんと地下まできたようだ。

 ピウスが神杖の光を照明代わりに明るくすると、平面鏡が床一面に敷かれた晶石づくりの広間が見えてきた。

 その空間を構成する壁面は黒い晶石で覆われており、表面には幾何学的な模様が浮かび上がっている。その上を色とりどりの蛍光が脈動しながら、蛍のように乱反射している。

 女帝は杖を抜いていた。サロモンも杖を構えていた。その幾何学模様が神術陣のように見えたのだろうな、とファルマは察する。

 ファルマは神術陣が設置されている気配は感じなかったので、その空間に入る前から、スマホで動画を撮っていた。

 そして肉眼には見えない青白い光塊が、人魂のように映り込んできては、ファルマの周りにふよふよと集まるのを感じていた。見えないが、この空間は無数の死者たちで満たされている。


(なんだ、ここ……)


 神力を含んだ、じっとりと密度のある白い霧が立ち込めはじめた。

 ピウスは足を止め、そしてファルマたちに向き直った。


「この向こうにあるのが、鎹の歯車だ。私がこの装置に関して、知ることは少ない」

「装置だと? どこにそんなものが」


 ピウスは女帝の質問に、床を杖で示して答えた。


「鎹の歯車は、二つの世界を繋ぐ装置で、神々の神力によって駆動されている。この歯車が完全に回転を止めると、世界は崩壊すると言われている。有史に一度か二度、数年で停止するというところまで危機的な状況に陥った年があった。その時、二つの大陸といくつかの人種が消滅したと言われている。大陸が滅んだ痕跡は、地上のあらゆる場所に残された。あなたが信じようが信じまいが、我々はその伝承を信じ、厳しい戒律と結束をもって世界の崩壊を食い止めているのだ」


 その伝承の真偽は、結局のところピウスにも確かめようがないということだった。

 サロモンはピウスの言葉を、少し離れた場所から聞いていた。サロモンは風の神術を放ち、濃霧を払った。すると、クリアな鏡面が現れた。


「ここにあるのはただの鏡の床。我々にはそう見えるし、鏡は私たちの姿を映している。それは、この鏡は人間を受け入れるつもりがないということだ。だが、ファルマ殿、あなたにはどう見える? 我々とは、見え方が違うはずだ、あなたの姿は今も映っていない、鏡に反射しないということは、向こう側に行けるということにほかならない」


 ファルマには影がない。

 だからこの特別な鏡に、ファルマは映らないのだとピウスは断言した。

 ファルマがその場で硬直していると、ピウスが鏡の床の中央の文字を杖でなぞる。すると、装飾のこらされた晶石の台座が鏡の中から生えるように現れた。ピウスは台座の傍にファルマを呼んだ。


「ここに、鎹の歯車の先端があるとされている。人に歯車の一端が見えるように、守護神が目印を付けたのだと。ジュリアナの持ち帰った宝剣はここへ奉じ、この鏡はあなたの神力を吸い尽くし歯車に送り込んだ」


 台座の表面には、ファルマには読めないが、この歯車が機能しなくなり世界が破滅に至るまでのカウントダウンが表示されているという。

 台座の下から鏡の向こうへと放たれた青白いレーザー光のような何百本もの光条が、奥へ進むにつれて減衰してゆくのが見えた。

 ファルマは台座の前に立って、光を頼りに、闇の奥へと目を凝らした。

 ファルマの姿が鏡に映らない代わり、鏡の向こうに見えたのは……すり鉢状の巨大な歯車機構とブラックホールを彷彿とさせる大空間だ。

 無限に繋がる歯車の回転に巻き込まれて吸い込まれそうな気がする、しかし、どこかで見たことがあるような気もするのだ。そしてそれは異界への入口のように見えたのだった。ファルマが明らかに「その先」を見ていると知ったピウスは、ファルマにもう一つの情報を告げた。


「台座に神力を通じると、鎹の歯車全体が動くと言われている。どうするかは、あなた次第だ」

「わかりました」


 ファルマは奥の構造を明るくしようと、台座に手を添えて神力を注ぐ。すると明るい閃光が台座から放たれ、細いレーザーは太い光線となって闇を切り裂き、ファルマははっきりとそこにあるものを見た。

 鎹の歯車の内部構造の一端を。

 素早くスマホを確認すると、Wi-Fiの電波はもっとも強くなっていた。この歯車そのものが、地球と異世界を繋げる鎹なのだろうか。

 そんな予感もしないでもない。そして、彼の目に飛び込んできたのは……。


(メビウスの歯車じゃないか……)


 遊星歯車機構と、メビウスの輪が合体したような機構を持つ、途方もなく巨大な歯車のように見えた。表層の材質は漆黒で、滑らかな石のような質感。歯車の中央部には、鎹のような模様が光線で編まれ、ホログラムのように偏光していた。

 ファルマは地球で実際に制作された、この歯車にモチーフの似たものを見たこともある。非常に複雑な形態をしており、3Dプリンタで出力しなければモデルさえ作れないようなものだったと記憶している。


(こんな大掛かりな装置、人が作れるシロモノじゃない……)


 この歯車が回転すると、裏面と表面が入れ替わってしまうのだ。それが何を意味しているのか、何と何を繋ぎとめているのか、分析も追いつかない。


 女帝がファルマの後ろから覗きこむように声をかける。勿論、彼女は鎹の歯車は見えていないらしい。


「何か見えるのか、ファルマ。説明してみよ」

「見えます。なんと言ったらいいんでしょう……形容しがたいものです」


 ファルマはカメラのシャッターを切ったが、暗くて映らない。女帝にも見せたい気はあるが、そう簡単に世界の中枢は暴露されないようだ。そして、先ほどからファルマが感じていた既視感の正体を知った。


(ああ……異界の研究室の窓から見えたのは、この空間だったのか)


 ゆっくりと、のったりと、歯車の回転にあわせてかき回されるように渦巻く宇宙のような空間に対峙しながら、ファルマはどうすればいいのか判断に困った。

 ひょっとすると鏡を隔てて歯車の奥にある世界は、元通りの時間と空間に繋がっているのかもしれない。ファルマは、異世界にやってきた時、生前とは利き手が逆になっていたこと、そして鏡文字で生前につけたメモが書かれていたことを思い出す。


(つまりこの異世界は、地球と対になった、逆の世界なんだろうか。ならば鏡を抜けて歯車の中へ飛び込んだら、地球に帰れるんだろうか)


 その先の空間はひどく、魅力的に思えた。奥の構造を調べるために飛び込んでしまおうか、そう思ったファルマは、女帝の手が肩を叩いて呼んでいたのに気づきはっと我にかえる。女帝はかなり真剣に呼んでいた。サロモンもすぐ近くにいて、神術を使ってファルマの意識を呼び戻そうとしていた。ピウスはサロモンに気付いたようだった。


「どうしたファルマ、ずっと呆けたまま動かなかったぞ。立ったまま死んだのかと」


 ファルマの体感では、それほど時間は経っていない。しかし、スマホの時間は十分程度経過している。時間が凍ってしまったかのようだ。


(意識が……向こうに引っ張られてた……!)


 歴代の守護神たちを飲み込み、アリ地獄のように誘い込んですり潰したかもしれない歯車は、無音のまま動き続けている。ファルマはすんでのところで踏みとどまった。


 一人でここに近づいていたら、今頃は確実に魅入られて向こう側に行ってしまっただろう。ファルマに縁のある人がここまで付いてきて、親身になって我が身に立ち返らせてくれたことに、ファルマは感謝した。


 この装置の謎を解明し、今後永劫に動かすにしろ破壊するにしろ、各地に散る秘宝の中に眠る古い情報を集め、歴代の守護神たちの足跡を辿り正しい結論に結びつける必要があると、ファルマはここにきて強く感じたのだった。


「今は何もできません。また、これを見にきてもいいですか」


 どうぞ、とピウスは意味深な表情で頷いた。ピウスと二人でここに来たら、歯車の中に突き落とされていたかもしれない。そんな疑いも晴れはしなかった。


 ともあれ、鎹の歯車は実在するという事だけはわかった。

 それはファルマにとって新たな頭痛の種となった。


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