6章3話 乳腺炎とブランシュの進路について
学会シーズンでたてこんでいて、更新が遅れて申し訳ありません。
「ロッテー、これあげるー」
「え、ブランシュ様、おやつくださるんですか?」
ある日のド・メディシス家のブランシュの部屋で、ロッテとブランシュの間でそんなやり取りが行われていた。ケーキ一個に目を輝かせて喜ぶロッテである。
「お嬢様どうなさったのです? お腹のお具合でも悪いのでしょうか」
「ちがうのー。でもケーキものどに通らないのー」
「何かお悩みでも」
悩ましげなブランシュが心変わりしないうちにケーキをせっせと口に運びながら、ロッテは心配そうに尋ねる。ケーキと引き換えに悩み相談に乗らねばなるまい、という雰囲気になっている。
「兄上たちがおりこうすぎて、ちっともほめてもらえないことに気付いたのー」
ブランシュはかわいらしく頬をふくらませながら、ロッテにささやかな悩みを打ち明ける。
「どうやったら父上と母上たちにほめてもらえるかな?」
「そうですねえ。旦那様はあまりお褒めになりませんが、奥様はお褒めになっておられるのでは」
「怒られるほうがおおいのー。お勉強ができたらいいのかな」
たぶんそうでしょうとロッテは思うが、それを言うとブランシュが拗ねかねない。
「ファルマ様やパッレ様にうかがっては」
「だめだめ。兄上たちには私のきもちなんて分からないんだもん。ロッテには分かる? 私の気持ち」
ロッテはうーん、と人差し指を立てて考えてから、
「えーっと、私はそもそもあまり褒めてもらったことがないので……私もお嬢様のお気持ちはなかなか理解いたしかねますが……」
ロッテは笑顔で、悪気なく召使い丸出しのコメントを出した。
上を見上げればきりがないが、下を見ればロッテがいた、という状況だ。
ブランシュは空気を読んだのか、子供ながらに気まずそうな顔になる。
「そういうことが聞きたいんじゃないのー」
「確かに、パッレ様もファルマ様も完璧でいらっしゃいますものね。神術がご上達なされば、褒めていただけるのでは」
「神術はいちおうやってるけど、勉強は何もやってないしー」
ブランシュは机の上に頬杖をついて溜息をもらす。
「お嬢様はまだ7歳でいらっしゃいますから、お勉強はもう少し大きくなってからで……」
「兄上たちはもう7歳のときには薬師のお勉強してたもん」
確かに、ブランシュはブリュノからは、神術の訓練をしろとは言われているが、学問をしろとは強くは言われていない。彼女は母親のベアトリスから読み書き計算を習っているぐらいで、薬師としての正式な家庭教師もついていなかった。
「では、旦那様に伺います?」
「そうするー」
そこで、ブランシュは、大学から帰宅したブリュノのあとを追いかけて一緒に彼の執務室について入った。
ロッテもドアの傍までお供をする。ブリュノは執務室でコートを脱ぎ、どっかりと椅子に腰を下ろして書類を広げはじめ、弟子がそれを手伝っている。相変わらず、威厳のある父親である。
「なんだ、ブランシュよ。そんなところに突っ立って」
そんな忙しそうなブリュノに、ブランシュは思い切った質問をぶつけた。
「ちちうえー。私って、しょうらい薬師になるの?」
ブリュノは仕事の手も止めず、苛立たしそうに聞き流した。
「なぜそんなことを聞く。我が家の家業は薬師だ、薬師以外に何になりたいというのか」
薬師になるのが、さも当然だと言わんばかりだ。
「でもー、私まだあにうえたちと違って、薬師の先生いないのー」
「ああ、そういえばお前もそんな年齢だったな。エレオノールに家庭教師をするように命じておくから、彼女を師としなさい」
ド・メディシス家の薬師育成の教育方針としては、家庭教師をつけるか、学校に入学させるかのいずれかだ。渋々でも服従の返事がないので、ブリュノはむっとしたように顔をあげた。
「薬師になるのは不服か。それとも、エレオノールが不服か。彼女は帝国で数本の指に入るほどの名うての薬師だが」
「そういうわけじゃないけどー」
「親に向かって何だその態度は。何かやりたいことがあるならば、自由にしても構わん。お前の守護神は水神だから、薬師になる責務はない。それにお前は勤勉でないし、不注意も多く、失敗をごまかすし、粗忽者だ。おまけに勉学に対する姿勢もなってない。お前は薬師には向かぬ」
ブリュノは弟子たちの前で、ブランシュをこきおろしはじめた。弟子たちはいたたまれなくなって、その場の作業に専念するふりをする。ブランシュは涙目になってきた。
「それって薬師にならなくてもいいってこと?」
「うむ、薬師は人の命を預かる仕事だ。半端者はいらん」
ブリュノは言い捨てた。ブランシュは泣きながら走って部屋を出た。
「父上に、薬師にならなくてもいいって言われたー。そこつものではんぱものだからってー。ほかにも色々怒られたー」
「ええーっ!? 本当でございますか!?」
涙をぶらさげ、しょげながら戻ってきたブランシュを出迎えたロッテは、あまりに厳しいブリュノの評価に絶句した。ブリュノの、ファルマやパッレに対する薬師としての評価は高い。だから、それと対照的に、ブランシュへの叱咤激励ともつかないこき下ろしは意外だった。
「そこつものってどういう意味? いい意味じゃないよね」
「そ、それは……どうでしょう」
ブランシュはロッテが返答に詰まったので、意気消沈していた。
思いがけない戦力外通告をされて頭をかかえるブランシュを、ロッテがなぐさめる。ブランシュは悔しかったのか、ロッテの服の裾を掴んだ。
「お嬢様は薬師になりたかったのですね?」
「……うん。でも、薬師にならなくていいとしたら、ほかに何があるんだろう」
「お嬢様の職業適性、ですか……」
ロッテは、ブランシュを食堂に案内し、お茶をすすめる。そしてブランシュの前にファルマの本棚から持ちだした一冊の書物を置き、それをブランシュに開いて向ける。
ロッテはファルマの本棚を自由に借りていいと言われてからというもの、少しずつ読書がはかどって教養を身に着けていた。
ロッテが手に取ったのは、神術属性の適性と職業を扱った書物だ。
「なあにこれ?」
コップに口を付けながら、ぐったりとしているブランシュにロッテは内容を説明する。
「お嬢様の守護神である水神様の職業適性です。医師、薬師、芸術家、音楽家、詩人など、人に癒しを与える関連のお仕事のようですよ~。ほら、こんなにたくさんありますよ! どれがいいですかねえ!」
水神を守護神に持つ者は、これといった職業適性が決まっていない部分があり、何になれと強いられることはないぶん、職業選択の自由度は高かった。それが、ファルマやパッレのように、薬神を守護神とするものは希少なので、半ば強制的に薬師への教育が施される。医神を守護神とするクロードも、同じようなものだった。
「うーん、どれもやったことないから、どれがいいか想像もつかないし悩むのー」
ロッテはあることを思い出して手を打った。
「あ、そうだ。クララ様に占っていただきますか! クララ様は未来のことが分かるようです! お嬢様の適性も分かるかもしれませんよ」
「うん。そうするー!」
思い立ったら吉日と、ブランシュはクララのもとへ使者を送って面会予約を取った。
ブランシュとお供のロッテ、そして数人の従者でクララの屋敷を徒歩で訪ねる。
クララが居候しているクロエの屋敷は、ド・メディシス家から徒歩十分ほどのところにある。
「いらっしゃいませ……」
一行が屋敷の中に足を踏み入れると、クララはエントランスの階段スロープに干物のように引っかかっていた。
今日はジャンとの航海の打ち合わせがあったので頑張りすぎたというクララは、午後も怠惰モードに入っていたが、ファルマの妹のブランシュが来訪と聞くと依頼を快諾したのだそうだ。
「えっ? 将来を占ってほしいのですか? それでは、はじめますん」
瞑想部屋と名付けられた真っ暗な部屋の中に、蝋燭で明かりがぽつぽつと灯され、神術陣の敷かれた怪しい祭壇の上でクララは瞑想したまま踊り始める。数か月先の未来は普通に見えるのだが、かなり先の未来となると特殊な儀式を必要とするようだ。
「はいーっ! はいっ、はいっ、ゆんあああああーーーー!」
奇声を発し始めた。どうやら、彼女の神術は舞踏神術の流れを汲むらしいが、
「父上の踊りとはちょっと違うみたいなのー」
ブランシュがロッテにこそこそと告げる。
軽やかにステップを踏み、踊っているときのクララは妖艶で、奇声こそ発して危ない感じになっているが、神がかり的な美を秘めていた。
「はあっ、ひいっ……!」
ひとしきり踊り猛ったあと、クララはブランシュとロッテの前にスライディングで倒れ込んだ。
精魂尽き果てたらしい。
ロッテが思わずクララの呼吸を確認してしまうが、辛うじて生きていた。
「だ、大丈夫ですか? クララ様」
「ひい、ふう、ただの神力切れですん……。ブランシュさんの未来、はっきりとは見えませんでしたぁ……頑張ったんですがー……! はぁ、はぁ……とってもがんばったんですがー! ……が、ちょっとだけ見えましたん」
「伝わってきます……とっても!」
ロッテは両手の拳を握った。神力切れをするまで神術を使うというのは、はしたない事とされているので、ロッテもあまりその場面に遭遇しない。ファルマが神力切れを起こしたのを見たことがないし、ブランシュはそこまでハードな神術を使わない。
パッレが時々、訓練後に神力切れで倒れるのを介抱するぐらいだ。
「お嬢様! クララお嬢様! お気を確かに!」
クララの侍女が、倒れ伏して微動だにしないクララを表にひっくり返すと、彼女は白目をむいていた。侍女が神力計で測ると、かなりの消耗をみせていた。
「キャーッ!? お嬢様ーっ! 大変、こんなに神力が下がっておられて! お嬢様、神力の使い方を、まだお慣れになっておられませんから……無理なさってしまうんです」
神脈が開いてまもないクララは、神力の出力の加減がよくわからないのだ、と侍女は言う。
「お苦しそうです。ファルマ様にお知らせしましょうか?」
見かねたロッテがクララに尋ねると、クララの手だけがふるふると震えながら挙がった。
何とか呼吸を整えて言うことには、
「っ、ちょっとっ、透視する時期が遠すぎたみたいですん……神力を使いすぎましたん、私はこのまま寝ますん。力を使いすぎたので二日ぐらい寝ますん……ね」
「え、二日寝るんですか?! あ、ありがとうございましたぁ……」
「たぶん、医に関係する仕事です……よ? たぶん」
クララはそれだけ言い残すと、ぶっ倒れてしまったので、ロッテとブランシュはクララの屋敷を退散した。
「医に関係する仕事って、やっぱり、薬師になるのかなあ」
帰宅後、少しだけ元気を取り戻しつつ悩むブランシュを、ロッテは優しいまなざしで見ていた。
「エレオノール様みたいな女性薬師になられるのですね、かっこいいですよね!」
照れくさそうな顔がけなげで、ロッテはくすりとほほ笑んだ。
「じゃあ、今日は練習のために薬師ごっこをするのー! 私が薬師で、ロッテはお客さんね!」
ロッテは薬をはかる吊り天秤を出してきて、ブランシュの前にセットする。
どことなく、ままごとの様相を呈してきたが、ロッテが真面目に患者を装ってブランシュの前に座る。
「頭がいたくて、咳も出るみたいなんです。薬師様、お薬の調合をおねがいします!」
「がんばるのー!」
まずは厨房で借りて来た小麦粉で秤量の練習だ。
ブランシュは最初はおそるおそる天秤に粉を乗せていたが、だんだんと緊張も解けて来てスムーズに量り取れた。
「これだったら、薬局のおてつだいもできそうな気がするのー」
少し油断したのだろうか、ブランシュは得意になっているうちに手が滑って薬さじを落とし、粉が天秤の下に飛び散った。その粉が舞い上がってブランシュの鼻に入り……
「ぶうぇっくしょん!」
盛大なくしゃみで小麦粉が全部飛び散ってしまった。ブランシュは顔が真っ白になって半泣きになった。ロッテも真っ白になって目だけがぱちぱちしている。
「もう一回やりますか、お嬢様」
「やーん、失敗したのー。薬師は向いてないみたいなのー」
諦めも早いブランシュである。
「向いてないことはないと思いますが……もっと練習をなされば。粘り強くやりましょう!」
ロッテがブランシュを慰めていると、自主トレを終えたらしいパッレが、あきれた様子でやってきた。
「何を盛大に散らかしているんだ、お前ら? 天秤も片づけておけよ。何をしてたんだ?」
「ブランシュ様と薬師ごっこをしていました! 今は秤量の練習を」
ロッテが説明する。
「あー? 薬師ー?」
それを聞いたパッレは明らかに馬鹿にした口調だったので、ブランシュは恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「な、なんでもないの!」
「そんなことをしている暇があるなら神術訓練に行くぞ。最近お前訓練サボって行ってないだろ!」
「いやー! 大きい兄上とはいやー! 小さい兄上と行くのー!」
ブランシュはジタバタと抵抗したが、真っ白の顔のままパッレに引きずって行かれた。
「行ってらっしゃいましー」
ロッテは顔をぬぐいながら手を振って見送った。
「薬師になれる自信がない?」
大学から帰ってきたファルマが、疲れ果てたブランシュの悩み相談を受ける。
ブランシュはパッレにしごかれて、へとへとになった後だった。
「あぃ。父上には向いてないって言われたし、薬をはかるのもうまくできないのー。あと、お勉強もきらいだしー計算も間違えるしー……私、兄上たちみたいにすごくないんだもん……」
「えーと、やりたい気持ちはあるんだ?」
「あい。でも……兄上たちみたいにすごくできないとおもって」
ファルマは思うところがあって、ブランシュの頭を撫でてこう言った。
「エレンの仕事、見てみる? 俺や兄上がやっている薬師の仕事とは、少し違うものが見えると思うから」
翌日、往診をするエレンに、ブランシュを同行させてもらうことになった。
「ブランシュちゃんを? え? いいわよ。今日はド・ディオン夫人に呼ばれてるのだけど」
「じゃあ、なおさらエレンに任せるよ」
ファルマは完全にエレンにお任せの構えだ。
「あにうえは行かないの?」
エレオノールと面識がないわけではないし、二人で行ってもかまわないのだが、やはりファルマについてきてほしいブランシュである。
「俺は行けないんだ。ていうか呼ばれてないしね。エレンに、俺や兄上や父上ではできないことを見せてもらっておいで」
「兄上たちにも、父上にもできないこと?」
「ああ、そういう意味ね。ではブランシュちゃん、行ってみましょうか」
ブランシュの問いに、エレンがファルマの意図を察してにこやかに微笑んで答えた。
「あい」
エレンはブランシュを自馬にのせて、郊外のド・ディオン男爵の屋敷に到着した。
「さ、行ってみましょうか。往診についてくるのは、ブランシュちゃんは初めて?」
「あい。誰も連れていってくれなかったのー」
ファルマやパッレなどは、ブリュノに連れられ、幼少時から皇帝を含む上得意客の診察に行って薬師としての知見を積んでいたが、ブランシュはそのようなことは一度もない。
薬師としての修行も始まっていないので、往診への付き添いもないのだ。
ちょっとだけいじけたブランシュを、エレンが慰める。
「じゃあ、今日が薬師としての修行の最初の一日よ。ブランシュちゃんはかわいいから、大事にされていたのよ、お師匠様もきっとね。診察中は後ろに控えていてね」
「あい。きんちょうするのー」
エレンは下馬し、門番に取り次いでもらうと、家令が出て来た。
「ようこそいらっしゃいました、ボヌフォワ師。ええと、このお嬢様は?」
「ブランシュ・ド・メディシスです」
見慣れない美少女の付き添いに、来客に応じた男爵の家令が不審がる。
「ド・メディシス家のご令嬢ですの。診察を見学してもかまいません?」
「ド・メディシス家……宮廷薬師の尊爵家の! なるほど、それは、名薬師としてのご成長が楽しみですな。どうぞ付き添いください、御夫人はこちらです」
異世界薬局を利用しない貴族の間でも宮廷薬師一家の名は広く知られていて、機会があれば名薬師である宮廷薬師ブリュノ・ド・メディシスに診てもらいたいと、誰もが羨むほどだ。ブリュノは決して下級貴族や庶民は診ないのだが……。ド・メディシス家と繋がりができるというのは、ちょっとした下級貴族のステータスになるので、家令はブランシュの来訪を歓迎した。
「もしかして、父上と兄上の名前、皆知ってるの」
ブランシュは改めて、尊爵家の影響力というものを思い知ったらしかった。
「そうよ。国中の人が知っているわ。尊爵家の令嬢に生まれたこと、誇りに思っていいと思うの」
「えらいのは父上や兄上だもん……」
ブランシュの心境は複雑なようだった。
エレンを呼んだ貴婦人は、かなりの高熱を出してベッドに横たわっていた。
「助けてください、ボヌフォワ先生。胸が腫れて……痛くてたまりません」
「今、拝見しますわ」
エレンは婦人のたわわな胸を触診などをして、神力の流れを診た後、固くなった婦人の乳房に触れてしこりが発生しているのを見つける。
「まあ、真っ赤になってカチカチになっていますわね」
「そうなんですの」
ブランシュは部屋の隅にひかえて、エレンのすることを見学していた。
「お胸を見せてください。そうですね、ここにしこりがございますから、これが原因となった、感染性乳腺炎でございましょうね」
エレンは原因となった胸のしこりを見つけた。以前の定期診察では発見されなかったしこり。熱を持つそれは、乳腺炎の特徴だ。
エレンは診察記録をノートにつけて、症状を書く。
あとで、ファルマに処置と処方を確認してもらうためだ。
「お薬がありますの?」
婦人は無意識に胸を隠しながら、苦しそうに尋ねる。
「そうですね、ありますが、まずは詰まりが取れるか試してみましょう」
乳管に、母乳が凝固して詰まり、そこが細菌感染を起こして乳腺に乳が溜り、乳腺炎が起こる。詰まりが取れれば乳管が開通し、乳腺炎は解消するのだ。
エレンはガーゼハンカチを出し、水盆に神術でお湯を張ると、ガーゼに浸した湯で乳頭部を柔らかくし、詰まった母乳の栓を指を使って取り除き、次に乳腺(乳房)をマッサージしてうっ滞している膿を含んだ乳を絞り出す。
「少し我慢をしてくださいまし」
エレンの表情は真剣そのものだ。夫人は痛がるが、エレンはもくもくと処置を続けた。
ブランシュはそんなエレンの様子をしっかりと目にやきつけているかのようだった。
ほどなくして、ぴゅーっと、母乳がガーゼの下で吹きあがった。乳腺が開通したのだ。
それとともに、化膿して変色した母乳がどろどろと出てくる。
「ああっ、出ました!」
夫人がそう言うので、エレンはほっとしたように声をかける。
「よかったですね。これが全部抜ければ、元通りの状態になりますよ」
エレンは手も顔も、吹きあがる乳まみれになるのをいとわず、処置に取り組んでいた。
「お乳の通りをよくする、副作用の少ないハーブのお薬があります。それを出しておきますね」
エレンは乳頭の処置を一段落させると、母乳まみれになった顔をぬぐってハーブを調合する。
ファルマの現代薬では、マッサージを行わない場合乳腺炎には解熱鎮痛剤と抗生剤となるのだが、乳管の詰まりが取れて膿が出てしまえばそれらは必要ない、あとは回復を待つばかりである。エレンは現代薬と伝統薬の長所を使い分け、補助的な療法に切り替える。
「今、赤ちゃんの授乳は乳母が?」
「はい、乳母にやってもらっていますわ」
貴族社会では、育児は乳母に任せるのが一般的である。
「奥様の場合は、奥様ご自身が授乳したほうがよいかもしれませんわ、とてもよく張るお乳ですから。ご自身で授乳すれば乳腺炎も起こりにくくなりますし、赤ちゃんとも触れ合えます。赤ちゃんも喜びますしね」
「まあ……でも、薬師様がそうおっしゃるなら」
エレンがそういうと、侍女が赤ちゃんを連れてきた。エレンは暫く搾乳したあと、乳首に吸いつかせた。
赤ん坊は、ごくりごくりと美味しそうに乳を飲む。それを見たエレンは、夫人と気持ちを通わせるように、穏やかな顔つきをしていた。
「ああ、張りがおさまってきました」
「赤ちゃんも満足そうです。熱もじきにひいてくると思います。奥様は、風属性でしたわよね」
「はい」
「”水の癒し”」
エレンは最後に、夫人の両手を握って自らの神力を流し込み、夫人の神脈を整える神術をかける。澄んだ青い光が夫人の体を包み込み、夫人の神力と融和してゆく。
エレンの診察では、特に重要な疾患でない限りアフターケアとして神脈の調整まで行う。
神力が枯渇していれば、補給したりもする。
「熱や腫れが引かなかったら、また連絡をしてください」
「ありがとうございました、救われました」
異世界薬局勤務でブリュノの弟子ということを差し引いても、エレンが巷で人気薬師とされる理由を、ブランシュは垣間見たのだった。
「初めての診察の付き添い、どう思った?」
帰り際、残照が消えてゆく、ド・メディシス家への帰途をゆっくりと馬に揺られながら、エレンはブランシュに尋ねた。
「薬師の仕事って、薬を出したりするだけじゃないの。患者さんがもとの健康な状態になれるように、あらゆる手段で臨むのよ。きたない仕事もあるし、精魂尽き果てたり、こわいこともあるわ。血まみれになったり、そんなこともしょっちゅうよ」
エレンはブランシュに告げる。
「それでも、患者さんが嬉しそうにしてくれるとね。やっててよかったと思うの、薬師」
「かっこいいと思った。確かに、これは父上や兄上にはできないんだね」
「そうね、婦人科のほうは、男性医師や薬師にも診察できるのかもしれないけど、まだ患者さんのほうに抵抗があるわ。特に貴婦人はね」
貴婦人たちは、どれだけ腕がよくても、ファルマら男性薬師を決して呼ばないのだ。
夫が男性薬師の診察を許さないという場合もある。
また、彼女らは気位が高いので、下級薬師も呼ばない。そういう人の求めに応じるのも、高貴な身分にある女性薬師の大事な仕事なのよ、とエレンは少しだけ胸を張って言った。
「エレオノール先生、私の家庭教師になってくれない?」
「あら、ファルマ君じゃなくて私に頼む?」
「あい!」
「それなら、呼び方はエレオノールじゃなくて、エレンでいいわよ」
エレンはウィンクした。
「あにうえー」
ブランシュが、屋敷に戻ってきてファルマに往診の報告にやってきた。
「どうだった?」
ファルマは食堂の机で、学生のレポートの採点をしていた。
薬学史をまとめさせたレポートはかなり厳しい採点で、再提出も何名かいる。
一人だけ数十枚も書いてきたエメリッヒのレポートは読みごたえがあった。
「薬師になりたくなったー」
言葉は単純だが、その言葉はやる気のないものではなく、力がこもっていた。
「そう。勉強させてもらったみたいだね。女薬師にしかできないことがあるんだよ。そういう仕事は、やりがいがあると思うんだ」
「兄上も、おっぱいもみもみはできないもんね。ひっぱたかれるもんね」
随分と直接的な表現が出て来たので、ファルマは慌ててブランシュの口をおさえる。おっぱいもみもみと聞いた、経緯を知らない使用人が何人か振り返った。
「まあ、俺も産婦人科領域についてはエレンほど詳しくないしね」
ファルマは平静を取り繕いながら、学生のレポートの採点に戻る。
「がんばってみる! エレン先生についてがんばる」
ブランシュは大きく一つ頷いた。エレンについて基礎的なことを学んだら、厳しい倍率の入学試験を経て、ファルマが教鞭をとるサン・フルーヴ帝国医薬大学校へと入学する道もあるかもしれない。
「じゃ、一緒に頑張ろっか。一緒に、同じ薬学の道を歩んでいこう。ほかにやりたいことができれば、そっちをやればいい。途中まででも同じ道をゆけば、助けてあげられることがたくさんあるからね」
ブランシュの進路が生まれによって決まっているとは思いたくない、ただ、望んで薬師になってほしいとファルマは思った。
「あい! あにうえ、よろしくね」
どうやらブランシュは、嫌々ではないようだ。
ファルマとブランシュは固く握手をかわした。
それは兄と妹との固い絆を確かめ合い、そのうえに、薬師としての先輩後輩としての挨拶でもあった。
聞き耳をたてていたロッテはほっとしたように、食堂を去って行った。
翌日から、ブランシュは少しだけ熱心に勉強をはじめた。
しかし、机に向かってしばらくすると、居眠りをしたり課題に飽きる癖はすぐにはなおらなかった。




