6章2話 連絡人の採用と、船酔いについて
「疑義照会だな。クロード先生のこの処方は患者さんに合ってない」
11月中旬のある日の異世界薬局。
その日、クロードや彼の弟子から送られてきた処方箋を読み、薬局にやってきた患者の話を聞きとったうえで、ファルマは唸っていた。
処方を薬師が勝手に変えると信頼関係を損なうので、勝手に変更はできない。
でも疾患に合わない処方が出されていては、監査役の薬師としてその通りに出すこともできないのだ。
「侍医長様に問い合わせが必要?」
エレンが尋ねる。
「うん、確認というか変更したほうがいい」
日本では処方が合わないと考えた場合、調剤薬局は処方した医師に疑義照会を行う。
この世界では医師にも薬師にも診療、処方、調剤権があり、診療と処方のどちらもができるのでファルマは診療も行っているものの、患者が安全に薬を受け取るためには、医師と薬師の仕事はいずれ分業にすべきだと考えていた。
ファルマがクロードへの伝書をしたためていると、ロッテが気をきかせて立ち上がる。
本日、三度目になる。
「疑義照会ですね、では鳩を見てきますね!」
ロッテは仕事の合間にエレベーターに乗って薬局の屋上へと向かった。
しかし、暫くするとキャー、という悲鳴とともに螺旋階段のあたりからドーンと大きな音がした。
階段から足を踏み外したらしい。
「ロッテ!?」
ファルマが驚いて叫ぶ。エレンもびくっとする。
「ロッテちゃん!?」
ファルマとエレンが螺旋階段へと駆けつけると、階段のたもとでロッテが腰をさすっている。
「すごい音がしたけど大丈夫? 腰を打ったの?」
「いたたた! 慌てすぎましたぁ……」
ロッテは息がとまりそうになって、涙目になっていた。ファルマはうずくまるロッテの腰に手を触れる。
「痛いのって、ここ?」
「もちょっと下です……」
ファルマが少し神力を込めてロッテの腰を何度かさすると、痛みが和らいで治ったらしい。
彼女はファルマが最近そんな能力を身につけているとは知らず、痛みは気のせいだったのかと不思議がっていた。
「あれ? えっ? 痛いの、飛んでいきました! ファルマ様がさすってくださったから……?」
ロッテは素直に喜ぶ。
「どうかな。治ったならよかったよ」
二人はばっちりと目があって、あっ、となってお互いに視線をそらす。
ほんわかしていたところで、ロッテが早口で報告した。
「ファルマ様!もう、侍医長様に飛ばす鳩がありません。あ、それからパッレ様からも鳩が来ました」
ロッテは薬局の屋上にある鳩小屋の様子を伝え、パッレから送られた伝書を渡す。
「鳩、増やす? 鳩小屋を大きくしないといけないわねえ」
エレンが困ったような表情で眼鏡をいじる。
「いや、もう鳩は増やしたくないな。これ以上増やしたら、あまり衛生上よくないと思うんだよ」
そう言うファルマは帝国大の鳩を薬局の鳩舎に連れてきていて、帰巣本能を利用して医薬大に飛ばしている。
羽根やふん、塵が舞う衛生上の問題から、薬局の屋上に鳩小屋を作りたくないという気持ちはあったが、この世界の通信手段がほぼそれしかないので、ファルマの聖域とこまめの清掃で清浄は賄われている。
とはいえ、衛生を重んじるブリュノからは「鳩小屋は店舗の屋上にではなく、別の場所に作ったほうがよい」と注意されているが。なんてことを思いながら、ファルマは小さくため息をつく。
「今日の鳩は打ち止めか……」
(疑義照会なんて、日本だったら電話一本ですむんだけどなあ)
電話一本で済まないのが、異世界の通信の不便さというもの。
ファルマが異界から持ち出してきたスマホを一台、医薬大に置いてPCからメールを打ちたいぐらいだが、そういうわけにもいかない。患者も目の前で待ってもらっている。
すると、セドリックが代案を提案した。
「お急ぎでしたら、発想を変えて、鳩で疑義照会を飛ばすより、人の使いを頼んだほうがよいのではないでしょうか。ほかの病院にも鳩を飛ばすとなると、鳩小屋の維持が間に合いません」
「それでは私が、疑義照会に行ってまいりましょうか」
フットワークの軽いロッテがさっと手を挙げてくれ、それをファルマも有り難いと思うが、やはり女の子の足では遅い。
「そういうことなら、ひとっ走り行ってきまショ。ロッテさんより速いデスから」
見かねたアルバイト薬師のロジェが、引き受けてくれた。
「ひぃ、ただいまデス~」
あまり体力のあるとはいえないロジェは、ヘロヘロになって帰ってきた。
よほど急いだのか、もう汗だくである。ファルマはそれを見て、専門職員が必要だと考えた。ロジェには酷だ。かといってファルマが薬神杖でひとっ飛び行ってくると、その間の店番に困る。
「やっぱり募集しようか、専門の連絡人を。ロッテ。張り紙作ってくれる?」
「おまかせください!」
ロッテがイラストつきのメッセンジャー募集の張り紙を書いて薬局の前に掲示し、ついでに帝都の数か所の掲示板にも貼ってもらってきた。
『急募:異世界薬局の連絡人。地図が読めて、読み書きができ、秘密を守ることができ、脚力に自信のある若い方。帝都内を一日何往復かするお仕事です。給料、勤務時間は店主と応相談』
「来てくれるかな?」
とファルマが言うと、ロッテも両手を胸の前で組みながら、ドキドキしますね! と話していた。
その日のうちに、貼り紙を見たというメッセンジャー志願者がぞろぞろと十数人もやってきた。
若く大柄な男が大半である。
「まさか異世界薬局から一般職の求人が出るとは!」
などと嬉しそうに口々に話している。異世界薬局のスタッフ求人は給料がいいと噂されているので、就職先として人気なのだそうだ。
それもあってか、ファルマが一人ずつ面接をしてみると、誰もかれもアピールに必死だった。
「それでは歌います、聴いてください」
「私は手品を」
などと、求めてもいない芸をする者まであらわれた。
採用してほしい気持ちが出すぎて前のめりになっている志願者に、「また、合否結果は後日連絡しますね」と伝えた。
「しっかし、あの人たち暑苦しかったわねえ。誰にするの? ファルマ君。あの、手品の上手かった人はやめたほうがいいと思うわ」
「実際、誰を採っていいのかわかんないな」
履歴書と面接時の印象メモを見ながら、ファルマとエレンが誰にしようかと薬局のカウンターで悩んでいると、
「まだ、連絡人の募集していますか?」
と、元気のよさそうな小柄の少年がやってきた。ファルマはカウンターごしに、すぐに面接にうつる。
「履歴書、見せてもらえる?」
「字が汚くて恥ずかしいですが……」
(確かに、字が汚いな。これじゃ、メモもとれないな……)
頑張って書いてきたらしい手書きの履歴書は、殆ど文字が判読できないほど字が汚かった。
エレンが、この子はダメダメ、と首を振る。
「わかった。応募ありがとう、合否はまた連絡するから」
ファルマがそう言ってひとまず少年を帰すと、そこにかぶさるようにして、
「今日も来たぞい」
と言いながらひょこひょこと見慣れた老人が薬局にやってきた。
「いらっしゃいませ、提督」
彼を見つけたロッテが提督と言ってしまったので、ジャンは苦笑いする。ロッテの言葉でジャンの来店に気づいたのか、薬局を訪れていた患者や客がざわついた。
「今日は何をもらおうかのう」
ジャン提督は悩んだ末、新製品のマルチビタミンのグミを選んでロッテに取ってもらっていた。
彼は待合席に腰かけて薬局のウォーターサーバーから水を飲み、買った商品を早速食べながら、おもむろに切り出す。
「いよいよ、新大陸への調査航海は来年の二月に大船団で出港することに決まったんじゃ。店主さんや。そこに間に合うように、諸々の製品の大量発注をかけるから頼むでのう。医療品や栄養食品、それから現地で記録する用の写真機も需要が見込まれそうじゃ」
発注は有難いが、大船団とはまた穏やかではないな、とファルマは警戒する。
新大陸への長期滞在を想定しているのだろうか、と。
「ギャバン大陸への出港ですよね」
ギャバンというのは、ジャン提督の姓だ。
「だーっ、やめんか。その名称は、わしゃどうかと思うんじゃ。からかうのはやめてくれぃ」
発見者であるジャン提督の名前がついた大陸だが、ジャン提督は自分でギャバン大陸と呼ぶのをいつも気恥ずかしがっていた。
「ですが、ギャバン大陸という名前になったんですよね?」
ファルマはジャンをからかっているつもりはない。新大陸と言い続けるのも不便だからだ。
「陛下の一声でそうなったんじゃ。色々あったんじゃぞ、わしゃそんな名前にならんように頑張ったんじゃが」
陛下の勢いにおされて固辞できなかった、とジャン提督は嘆かわしそうにする。
「それでしたら仕方がありませんね。えーっと、では出港は厳冬の頃、ですね。気候の穏やかな春か秋のほうがいいのでは」
そんな大事な航海なら気候を選んだ方が、とファルマがすすめる。
ジャン提督は前回と同じく、西回り航路を使って新大陸に行くらしいが、なにも真冬に行かなくても、とファルマはアドバイスしたい。するとジャンは声のトーンを落とす。
「わしだって凍える海に船出をしたくないわい。わしゃぁ寒がりなんじゃ。じゃが、海賊や命知らずの冒険者が大陸の資源を狙っとるらしいからのう、暖かくなるまでは待てんのじゃ」
「でも、難所の海域があって一般の船は新大陸へ近づけないのでしたわよね? ならば、冒険者は恐るるに足らずではないでしょうか」
エレンがジャンに尋ねる。
平民のみが乗船した船では、悪霊にとり殺されて航海の途中で沈没してしまうという話をジャンから聞いていたからだ。ジャンはもっともらしく頷いた。
「うむ。”船の墓場”は神術使いが同船せんと抜けられんのう。じゃから、より安全な航海のために水属性、風属性神術使いのほかに、今回は旅神を守護神に持つ、無属性の神術使いも同船させよとの陛下の御下命があってのう」
「旅神! ああ、あの」
ファルマは思い出して手を打った。
ファルマが神脈を開いてサロモンが守護神を鑑定し叙爵された、無属性神術使いの一人、クララだ。
まだ少女だった、と覚えている。彼女はメディークの出資者クロエのもとに身を寄せていた。
「わしゃあ平民の出じゃから神術なんちゅうもんには詳しくないんじゃが、旅神様のご加護で、果たして安全な航海ができるもんかのう?」
それを聞かれると、ファルマとしても「どうでしょうね」と言うしかなかった。
「困ったことが三つあってのう。若い女なのと、クララ本人が航海を嫌がっとるのと、いかんせん船に弱いんじゃ……船が揺れると、吐き気がするんじゃと」
長期航海に出る船に若い女をのせてはいけない、という風習は地球ほどではないが、この世界にもある。
それよりなにより、海の荒くれ男たちにセクハラされてしまわないかと、ジャンは心配のようだ。
ファルマも全面的にそう思う。
「それは、最初から連れて行ったらだめな人ですわね……旅神云々以前の問題ですわ。何かあったら、クロエ嬢が黙っておられませんわ」
エレンが苦笑し、少女に同情を寄せているらしい。
「旅が嫌いだっていうか、屋敷で引きこもって惰眠を貪りたいって言ってたからなあ」
ファルマはクララの様子を思い出した。幸いクロエは、クララの、意訳すると「何もせず暮らしたい」という希望を聞き、その環境を提供して甘やかしてくれそうな大貴族であった。
「引きこもって寝たいとは、怠惰な娘じゃのう」
「いえ、怠惰なのではなく、酷い低血圧なのです。おそらく、乗り物酔いをしやすいというのも低血圧が影響しているかと」
「そりゃますます船旅に連れて行きたくないのう」
しかしそれと引き換えに、クロエの領地視察への旅に付き合わされたりもしていたと聞くが、今回は女帝の命令だとあれば、引きこもっているわけにもいかない。
「とにかく、気がすすまんのじゃと、今回は特に……縁起でもないことを言いおるのう」
(彼女の場合、ただ気がのらないって話もあるからなあ……)
とにかくやる気のない彼女に、ジャンも気力を吸い取られたという。
「それは、なにかの天啓を感じているのでは?」
エレンが、旅神を守護神に持つ彼女には”第六感”のようなものがあるのではないかと、一言添えた。
ジャン提督は、深刻そうな顔をする。
「そりゃ困るのう。わしら船乗りは、縁起を特に気にするからのう。神殿の占術の結果によっては、航海の延期もあるぐらいじゃ。旅神の加護を持つ神術使いが、今回の航海は気が進まん、などと言ってはのう……わしゃあまり連れて行きたくないが、彼女の同行を心強く思っておった若い船乗り衆の士気も下がるで」
ジャン提督は眉を曇らせる。
「難しいですね」
ファルマも、航海の厳しさに思いを馳せる。この世界では一回の航海で、死者が出ないことは稀だ。
航海の犠牲者をできるだけ減らす努力をするのは、提督の務めというもの。その一環で、また航海ではブリュノの弟子の薬師を借りることになりそうだ、とジャンは言った。
「今回の航海の主な目的は何です?」
「一番は、大陸の調査とギャバン大陸の海岸線地図の作成じゃな。今回は帝国海軍も航海に加わるから、別の目的もあるのかもしれんが」
(提督が着いたのは東海岸だから、大陸の西海岸に到達するまでの勢いはないだろうな)
ファルマは、西海岸に住む先住民のことを気にしていた。
「馬も持っていくんですか?」
「新大陸には入植者を定住させるそうじゃから、家畜は連れて行く予定じゃのう」
(先住民が見つかっていない以上、植民地を作る流れは避けられないか……)
現在の国際法では、人がいない土地を最初に発見した国家が植民地を作っていいということになっている。
新大陸を無人のまっさらの土地だと思い込んでいるジャンには、悪気も何もない。
「まあ、忙しい店主さんを困らせても仕方がない。話はもとに戻るが、せめて吐き気を何とかする薬、ないかのう。旅神持ちのあの子を航海に行きたい気にさせてくれる材料がほしい」
ジャン提督はだめもとで相談、といった様子でファルマにもちかけてきた。
ファルマは少し考えて、馬車酔い用の薬を薬局の薬棚に取りに行って戻ってきた。
「これは馬車酔い用の薬じゃが。航海で飲み続けてもええんかのう?」
「同じです。吐き気止めで、ジフェンヒドラミンサリチル酸塩との抗ヒスタミン薬、そしてジプロフィリンは平衡感覚の混乱をおさえます。ですが薬が合わないと効かないこともありますから、本人にここに来てもらってください。副作用としては……発疹や動悸、排尿しにくくなったりする場合もありますが……主には、眠くなりますね」
「まあ、航海の邪魔をせず寝てくれているならいいかのう」
ジャン提督はそう言って帰って行った。
「おはようございますぅ……ジャン提督にお話を聞いてまいりましたぁ」
というわけで、クララ本人が翌朝に薬局にやってきた。
顔だちは非の打ちどころのない美少女なのだが、相変わらずの力の抜けきった猫背と目の下のクマで、げっそりとだらしなく見える。
「店主様! お久しぶりでございますわ」
クロエも一緒だ。こちらはチャキチャキの令嬢で、クララとは対極をなしている。
「今日はクララちゃんが陛下の勅命で航海に同行することになり、船酔いに効く薬があると聞いてやってまいりましたの……って、クララちゃん? クララちゃん!!」
薬局にたどり着くなり、クララはカウンターの上に突っ伏すような恰好になっている。
「相変わらず、低血圧が辛そうだなあ。夕方来ていただけたらよかったですね」
ファルマが声をかける。
彼女は一見うつ病なのかと他の医師や薬師が誤診するほど無気力で注意力散漫なのだが、それは酷い低血圧によるもので、特に午前中は症状が酷い。
「航海の同行を命じられているそうですが、気が乗りませんか」
ファルマは水を差し出し、ざっくりと尋ねてみる。この状態で、船旅となると心配だ。
「はぃ……薬師様に神脈を開いていただいて以来、私はクロエ様のもとで良い暮らしを送らせて貰っていますぅ……。陛下の御恩にもこたえたいですん。でも、今回はどうしても行きたくないんですん」
やる気のなさそうな彼女も、神脈をひらいてくれたファルマと、住まいを与えてくれたクロエは恩人だと言って慕っていた。
「吐き気のためですか? 吐き気止めを出せますよ」
「吐き気もあるんですけど……」
旅神の加護を持つ彼女は、人知れず悩みを抱えていた。
「私、見えるんですぅ。サン・フルーヴ・ロワイヤル号に乗る船乗りの方……多分、戻ってきません。ほかの船に乗る方は大丈夫ですけれど、ほかの船に乗る方も、何人かは亡くなります」
彼女は、旅から帰ってくることができない者は、骸骨のように見えるのだという。
そして実際に、そう見えた使用人や知り合いが戻ってこなかったり殺害されたりして、何度か的中したようだ。
「ええっ……船乗り全員そう見えるの?」
どうやら、ただの船酔いの憂慮とは違う様相を呈してきた。
「まあっ」
クロエも驚いた顔をして扇子で口をおさえる。クララはげっそりした様子で頷く。
「はぅ、サン・フルーヴ・ロワイヤル号に乗る方の方々とお会いしましたけど、全員なんですぅ……」
(予知能力の一種か?)
サン・フルーヴ・ロワイヤル号は、ジャン提督が指揮する大型帆船だ。
「薬師様。私、どう伝えてお断りすればいいですかぁ?」
クララはじんわりと涙目で、ファルマの前に顔を近づけて来た。
あまりにもストレートに可愛くて、ファルマは思わず動揺してしまう。
「サン・フルーヴ・ロワイヤル号で出港しないほうがいいってことかな。船を替えればいい?」
ファルマが固唾をのみながら尋ねる。
「船を替えればどうなるのか……そうですね。サン・フルーヴ・ロワイヤル号では出港しない方がいいと思いますぅ」
「早急にジャン提督に進言してみるよ。それは重要な情報だ、別の船を用意してもらって、それでもまだ君に死の兆候が見えるなら、その船の乗組員は航海に出ない方がいいってことだな。もちろん君も航海に行かない方がいい」
(それは貴重な能力だな。事前に安全が分かるとなると、助かるぞ)
ファルマは思いもかけない能力の持ち主と出会い、興奮していた。
「あ、そうだ。ちなみに俺、来月ちょっと神聖国まで旅に出ることにしているんだけど、帰ってこられそう?」
「……」
クララは目を見開きながら、ファルマを見つめた。
「遠慮せずに言ってよ」
ファルマはドキリとして、緊張しながら尋ねる。
予知能力を頭から信じているわけではないが、やはり神術のあるこの世界では彼女の言葉は重い。
「その旅は戻ってこられます。ですが……とても……そう、よくない兆候が見えますん」
言いにくそうに、クララは一言ずつ話す。
(どんな兆候だろう)
「ファルマ君も行かない方がいいんじゃない? 神聖国」
それを聞いたエレンが、ファルマを心配そうに見つめる。すると、クララは助け船を出した。
「私、薬師様について参りましょうかぁ。何か起こる前に忠告できるかもしれません」
「え、そう? じゃあ同行頼むよ。ありがとう、頼もしい」
「はぃ、薬師様は私の恩人ですので……」
クララはもじもじしながらそう言った。語尾に力がなく、見た目にはなんとも頼りない印象だが、ファルマにとっては心強い。
「いいかな、クロエさん。クララさんを借りても」
「それはもう、どうぞ連れて行っていただいてかまいませんわ、クララちゃんがよければ」
ファルマは頼もしい道連れの協力を得ることになった。
「あのぅ、もしかしてェ、連絡人を募集しておられますかぁ?」
クロエとクララが薬局を出て行って、一分もしないうちに戻ってきてクララは尋ねた。貼り紙を見てのコメントらしい。
「うん、そうだけど。昨日、面接をしたところだ」
ファルマがそう言うと、クララはちょっと目を瞑ってから告げた。
「一番最後にきた方がいいですん。ほかの方は、脚を負傷したり暴漢に襲われたり、犬にかまれたりしますん」
「うわ、さんざんだな」
「一番最後に来たって……あの、字が汚い男の子のこと? だめよあの子、ほんとうに字が汚いわ。連絡に行き違いが出るわよ」
エレンの心配ももっともだが……
「うーん、でも採用してみよっか。ものはためしに」
クララの意見は受け入れられた。
そして結局、最後に来た元気のよい、14歳の俊足の少年、トムが採用されることになった。
彼は近所の商店の使い走り専門の徒弟だったので、用があるときだけ呼び出されることになった。彼は真っ黒に日焼けをしていたが、その理由は、早朝のランニングと商店間の日々の使い走りだという。薬局の連絡人の制服を支給され、彼は「なんだか偉くなったみたいです」と嬉しそうに袖を通した。
「お使いに行ってまいりました、店主様! 次の御用はまだですか?」
「君、ほんと足速いね。息もあがってないし。じゃあ、患者さんに薬を届けるのもやってくれる?」
「お安い御用ですっ!」
固定給+出来高制なので、トムはとにかく貪欲に仕事を欲しがった。
(こりゃ、クララの言う通りにしてよかった人材だな。字は汚いけど、全然問題にならないや。暗記力がものすごいから口頭でお使いができてカバーできるし)
日々最速タイムを切るトムの俊足ぶりにファルマが驚くと、薬局でファルマのつくった生成水のおかげで速く走れるようになりました、と彼はさわやかに笑った。ファルマのおごりで、仕事帰りに帝都浴場でひとっぷろ浴びているのもよいのかもしれない、と彼は話す。
ファルマは、汗を多くかくトムのためにスポーツドリンクを作って持たせると、全然疲れなくなったといって喜んで走っていった。
トムはクロードからも、ちゃっかりお菓子のお駄賃を貰っていた。
さらにロッテが時々、トムからお菓子のおすそわけを貰って小さな好循環となっていた。
【謝辞】
・本項は、創薬計算化学の専門家で医師・医学博士のhigemoto先生に酔い止めの薬についてご指導いただきました、ありがとうございました。




