5章17話 遺伝子治療とエリザベートからの呼び出し
本日は2話あります。後半をお忘れなくお願いいたします。
次男に対する治療の前に、CRISPR/Cas9のゲノム編集による遺伝子治療システムがきちんと動物個体で働くかを確認したいファルマは、段階を踏んで検討を重ねていた。
異界の研究室から持ち帰った培養細胞のゲノムを編集することには成功した。
植物まるごとの実験も行い、黄色のバラのゲノムを書き換えて青いバラを作成した。
青いバラの花束を持て余したファルマは、エレンとロッテ、そしてゾエの三人にプレゼントした。
「え、なにこれ! こんなバラ、見たことないわ」
「しかも、ついでに生物発光する酵素を組み込んでいるから、暗いところで見ると光るよ」
「!? どういうことなの!? バラが光る?」
三人とも、それぞれ想像を絶するプレゼントを受け取り、喜んだ。
「ファルマ様! このバラでお屋敷のお庭をいっぱいにしません?」
ロッテが興奮してそんな話をもちかけるが、ファルマは首を横に振った。
「君たちに切り花をプレゼントしているのは、栽培しないでほしいからなんだ」
ファルマは、どれほど安全だとはいっても、遺伝子組換えをした植物を、まだ野生に出すつもりはない。
「こんなにきれいなのに。滅びゆく花をいつくしむのが、ファルマ君の美学なのかしらねえ……」
「美学じゃなくて、野生種を保護するための安全措置だよ」
エレンが残念そうにつぶやいたので、ファルマは情緒のない返答を返した。
「細胞ではできた。植物でもできた。じゃ、いよいよ動物実験いってみるか」
彼は次のステップとして、動物実験に進もうとしていた。
「動物実験ってどうやるの? 人間にやる前に必要なこととはいえ、人間の都合でちょっと動物がかわいそうね……」
見かけによらず動物好きのエレンは、気乗りしないようだ。
本来、動物実験は専用の飼育施設で、均一の飼育環境で飼育したものを実験に使わなければならない。だが、この世界にはそんな施設もなければ、実験に適した、遺伝的に均一の動物もいない。となると、ファルマとしては正常な動物個体の遺伝子を遺伝子工学で破壊し病気にするのではなく、遺伝性疾患のある動物を治療という方針で臨みたかった。
「まあね。今回はもともと遺伝性疾患を抱えている動物を治すことにするよ。俺には動物の調達ができないから、ジョセフィーヌさんに協力してもらおう」
「ああ、あの獣医の子! 確かに、訊いてみるならあの子が適任ね」
ファルマとエレンは一級獣医にして教え子であるジョセフィーヌ・バリエを思い出した。
「そういえば今日、ちょうど講義で会うな」
ジョセフィーヌはファルマの講義に必ず出てきたので、講義の終わりにジョセフィーヌをつかまえた。ジョセフィーヌはファルマが話しかけると、分かりやすく嬉しそうにしていた。構内では常に学生に取り囲まれる人気教授のファルマと話すのは難易度が高く、ファルマから声をかけると学生は喜ぶのだ。
ファルマがジョセフィーヌの担当の患畜の中に、とある特徴を持つ動物がいるかどうかを彼女に尋ねると、
「ええ。その動物でしたらいますよ、教授。ご覧になりますか?」
ジョセフィーヌは心当たりがある、と答えた。
「宮廷の動物かよ……陛下のだったりすると、やりづらいなあ」
ファルマは予想外の展開になって、尻込みする。ジョセフィーヌとの待ち合わせ場所は、宮廷の大厩舎だった。
エレン、エメリッヒは宮廷には入れないので同行できず、宮廷に入れるロッテが、ちょうど工房に用があるというのでついてきた。大厩舎は美しく清潔に管理され、馬房は高級ホテルの個室のようだ。馬までセレブなんだな、とファルマは思う。
「お馬さんたち、いいところに住んでますね。人間用の宿屋だといわれても分からないです」
ロッテは、面食らってファルマに耳打ちした。ファルマとロッテが大厩舎を歩いていると、熱心に馬の診察をするジョセフィーヌの姿を見つけた。声をかけ、そのまま彼女の仕事を見学することにする。
「ジョセフィーヌさんは宮廷にも出入りしてたんですね」
「はい、私は宮廷獣医ではないので専属ではありませんが、大厩舎の御馬の診察も私の仕事です」
帝室の紋章の入った獣医専用診療衣のガウンを羽織り、羽根帽子をかぶったジョセフィーヌは、馬をいとおしそうに撫でながらファルマに応じる。宮廷では三百頭あまりの馬が飼育されているので、宮廷獣医だけでは常に管理の人手が足りないのだという。
「教授、こちらです」
ジョセフィーヌは、ひときわ立派な馬房に案内する。黄金の毛並みをした馬が、顔をのぞかせていた。
「立派なお馬ですねー。メディシス家のお屋敷の御馬も立派ですけど、この子は毛づやが金色で凄いです。こう、育ちがいい感じがします!」
ロッテはうっとりとため息を漏らす。毛づやがよく見えるのは、丁寧にブラッシングされているからだ。
「そうですね。皇帝陛下の御馬ですよ」
ロッテとファルマは慌てて手をひっこめた。まかり間違って傷つけたりしては大変だ。ジョセフィーヌは女帝の馬の血統を二人に説明してくれる。
「エリザベート皇帝陛下の御馬は古フルーラ原産で、失われた古いポリノー血統の馬種と交配させることにより誕生しました。整った小さな頭、長い耳と細身の体をしていまして、長い毛も美しく気品があり、非常に機敏ですがそれでいて馬体は頑健。しかし、一つだけ難点がありまして、気位が高いのです。たった一人の主人にしか懐かないと言われています。獣医もなかなか診察をさせてくれません」
ファルマは馬には詳しくなかったが、さすが皇帝の馬だけあって、素人目に見ても秀麗だった。女帝の馬は、知らない顔を見たからか不機嫌そうにいなないていた。
「気難しいので、後ろ足で蹴られて骨折をしないようにいつもひやひやしていますわ」
ジョセフィーヌは、こっぴどく蹴られたのを思い出したらしく、語気をすぼめた。大変な仕事だな、とファルマは彼女の苦労をしのぶ。
「結構、獣医さんでも動物にやられて怪我とかするんですか?」
ジョゼフィーヌは「それは、もう!」と大きく頷く。
「危険な動物に対するときは防御の神術を使っているのですが、それでも、やられるときはやられます。咬傷が一番多いですね」
ファルマが、手袋を脱いだジョセフィーヌの手を見せてもらうと、傷だらけだった。
「わあ……ジョセフィーヌ先生、尊敬します」
ロッテが、痛ましそうな顔をする。
「よく効く傷用の軟膏、出しましょうか。すぐ治りますよ」
ファルマが念のために治療をしようかと聞くと、このくらいは自分で治せます、とジョセフィーヌは恥ずかしそうに笑った。
「話がずれてしまいましたが、教授にお見せしたいのが、こちらです」
ジョセフィーヌは皇帝の馬と同じ馬房にいた、純白の仔馬をファルマに見せる。
「わあ、真っ白です!」
ロッテがは純白の毛並みを見てそのあまりの美しさに溜息をもらす。その馬こそが、ファルマが探していた動物だった。
(なるほど、確かにアルビノだ)
”先天性白皮症”
ファルマが診眼で診ると、間違いなく先天性白皮症(通称アルビノ)だった。そして、大きな赤い目は弱視のようである。
「この馬の視力はどうです? どこにもぶつからずに速く走れますか?」
「この子は視力は殆どないようなのです。こういう仔の視力は、獣医では治せません」
ジョセフィーヌも、弱視には気づいていたようだった。
「ついでに言うと、皮膚がんにもなりやすいです。この馬、大学で治療をしたいんだけどここから連れ出すのはまずいですよね」
「宮廷の御馬は、外に出してはいけませんね」
「わかりました、では通います」
ファルマは翌日から、CRISPR/Cas9システムを準備してきて、体重をはかり、適用量を決めて宮廷の厩舎で仔馬の全身遺伝子治療にあたった。副作用を警戒しながら、ゲノム編集治療を体の各パーツごとに、今日は前脚、今日は後脚、などと様子を見ながら部分的に行っていった。この処置は、ファルマの手が生体を透過することを利用して細胞に遺伝子導入をしているので、痛みなどは全く与えない。
そして全ての処置から一週間が経過した。
ファルマは診眼を使って状態をモニターしていたが、患畜は元気だ。毎日通っていたのでなつかれた。
宮殿に入れないエレンやエメリッヒにも、ファルマは毎日状態を伝えた。エメリッヒは特に、事細かにメモを取ってファルマに様子を聞いていた。
ジョセフィーヌも仕事熱心で、大学の講義を受ける傍ら毎日馬房にやってきて、処置を施した仔馬の診察を怠らない。暫くして、ジョセフィーヌは赤みがかっていた馬の目の色が藍色になっていることと、栗毛色の体毛が生え始めていることに気付いた。
「教授、どうして眼と体毛の色が変わってしまったのですか? そして、弱視も改善されています」
ジョセフィーヌが馬を走らせてみると、以前よりよく走り、障害があってもぶつからない。
ファルマはそのからくりを説明する。
「この仔馬はメラニンという色素を合成するためのチロシナーゼという遺伝子が生まれつき機能していなかったんですが、その機能を戻す操作をしてやりました。それで、眼を含む全身の色素が作られ始めています。冬毛になる頃には、白ではなく本来の毛色に生え変わると思います」
ここまできても、副作用は深刻なものは出ていない。
この治療でもっとも懸念される副作用は発がんだが、ファルマとジョセフィーヌがフォローアップを行うことによりカバーできる。
「メディシス教授、いったいこの子にどんな薬を使ったんです? こんなことができる薬って……」
「三年生になったら専門科目の授業でやりましょう。それに、この治療も試験段階ですし」
「承知しました。まだ確立していない治療法ということですね」
ジョセフィーヌは納得して、熱心にメモを取っていた。ジョセフィーヌの課外実習授業となったようだった。
「ファルマ師。こちらにいらっしゃいましたか、陛下がお呼びです」
その日、女帝の側近が息を切らせながらファルマを呼びに来た。ファルマが来たと聞いて、女帝は探していたらしい。
ファルマが呼び出された場所は、広い庭のはずれにある神術訓練用の宮廷闘技場だった。
隔壁生成用神術陣が敷かれた立派なスタジアムである。ファルマも施設の存在は知っていたが、秘密の場所で、近づくのを許されたのは初めてだ。ここは普段、女帝が日々の鍛錬に使っている闘技場だという。神術陣も、帝国医薬大のそれとは比較にならないほど頑強だ。
(陛下は神術訓練中なのかな?)
そんなことを思いながら待っていると、闘技場の中から軽装の女帝が杖を握り姿を現した。華美な衣装を身にまとっていることが多いので、ぴったりとして露出の高いミニスカ的な衣装は、ファルマには新鮮に見えた。
ファルマは闘技場の入り口前で、落ち着いて立礼をする。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」
「うむ、久しぶりだな、ファルマよ。達者にしておったか、そなたが最近、こそこそ宮殿に出入りしとるという話を聞いて、顔を出すのを待ち構えておったのだ」
饒舌に話す女帝は、機嫌がよさそうだった。
息がはずんで額に汗が浮いていることから、どうやら、闘技場で軽く神術訓練を済ませてきたようである。体を動かせば気分が高揚するあたり、わかりやすい性格だな、とファルマは内心思った。
「陛下。御礼が遅れましたが、弊学部に研究資金の援助をありがとうございました」
「うむ、礼状は届いておるしそれはよい。それより、話しておきたいことがある」
「何でございましょう」
「場所を移そう」
聞かれると都合が悪い話なのかな、と予測しつつ、ファルマは女帝に追従する。
「は、承知いたしました」
女帝の数歩後ろに控え、ファルマは闘技場の中へ入ってゆく彼女の後を追う。女帝は思い出したように話題を振った。
「ときにファルマよ、別件だが嫁選びは捗っておるか」
「今は何かと多忙でございますので、しばし猶予をいただきたく」
ファルマの歩みがぎくしゃくとしはじめた。今、一番振られたくない話題だ。
「そなたはいつ多忙でなくなるのだ? ん? 死ぬまでそうやって働いておるのだろう」
もっともな指摘に、ファルマは愛想笑いを浮かべた。
「以前にも申し上げました通り、私は普通の人間ではありません。女性を伴侶にしますと、悪影響を及ぼさないともしれません。暫く保留にしていただければと」
そんな言い訳を繰り出している間に、女帝は広い石造りの闘技場の舞台に上がり、中央に進んで杖を抜いていた。杖を抜いたことにより反応した神術陣が、舞台に幾何学的な紋様を浮かび上がらせる。
土属性術師の施した、石舞台を強化する神術の一種だろう。
「たまにはよかろう、相手になれ」
気が付けば、先ほどまで彼女に付き随っていた側近の姿はない。
いつの間にか、人払いがされている。
「陛下のお相手、と申しますと」
(まさか……お相手って、神術戦闘かよ。陛下と?)
「杖を抜け」
そうきたか、とファルマは困り果てた。
帝国最強の神術使いが相手だ、どうなるものか、想像を超えていた。




