5章14話 異界の研究室の異変
エメリッヒの話を聞いた後、ロッテの父親が致死性家族性不眠症の家系にあったのではないかと疑いド・メディシス家の屋敷に戻ったファルマは、庭で洗濯物を取り込んでいたロッテの母であり侍女であるカトリーヌを呼んだ。
「カトリーヌさーん。忙しいところごめん、手があいたらちょっと話があるんだけど」
「はい、ファルマお坊ちゃま。構いませんよ。何なりと。今日はよい天気でございますね」
カトリーヌは仕事が早く終わったらしく、上機嫌だった。
「いきなりで悪いんだけど、亡くなった旦那さんのこと、聞かせてもらってもいい?」
「坊ちゃま……どうしてそんな。それは、どうしてもでございますか?」
あまり思い出したくない記憶なのか、カトリーヌの顔がこわばった。
「うん、気になることがあるんだ。思い出させてごめん」
「坊っちゃまがそう仰るのであれば、わかりました……」
ファルマの部屋にカトリーヌを案内し、ドアに鍵をかけた。うっかりロッテが入ってきて、話を耳にしてはショックが大きいだろう。メモを取りながらカトリーヌの話を聴く。
「旦那さんが患った病気ってどんなのだった?」
「そうですね。お話ししたこと、ございませんでしたね……」
カトリーヌは大きく深呼吸し、時々言い淀みながら、古い記憶をたどるように話をはじめた。
「私と主人は、サン・フルーヴ辺境で暮らしており、主人は仕立て屋を営んでいました。ええ、シャルロットを授かり、幸せに暮らしていました。1138年まで、主人は健在でしたよ。しかし1138年の冬ごろからだったでしょうか。主人が少しずつ人が変わったようになってしまったのは……彼は日に日に正気を失って、うまく歩けなくなり、大量に汗をかき……人が変わったようになってしまいました。何か、主人に異変が起こったということは分かりました」
カトリーヌは俯き、深い悲しみに沈んでいるようだった。
「仕事もできなければ体を横たえても眠れず、日々疲れ果て、何を思ったか一点を見つめることが多くなりました……シャルロットはまだ幼かったので、主人のことをあまり覚えていないと思います。お医者様にも有名な薬師の先生にも診せましたが、分からないと首を振るばかり。主人は最後は意識を失い、1139年6月に息をひきとりました。42歳でした」
弱ってゆく夫の傍に寄り添っているのは辛かった、胸が裂けそうだったと涙をこぼす。
(42歳か……それに症状を聞くと、どうやら当たりっぽいな)
ファルマは、苦しげに語るカトリーヌにかける言葉が見つからない。
「ありがとう、話してくれて」
「主人が亡くなったあと、葬儀をしてもらうために神官様を呼んだのですが、悪霊にとり殺されたのだと言われました。私がいけなかったのです、もっと早くに神官様に悪霊払いをしてもらっていれば……」
「俺はそうは思わないな。旦那さんは病気だったと思う、診ていないから断言はできないけれど」
ファルマはカトリーヌの罪悪感を払拭しようと慰めるが、カトリーヌは自責の念にかられているようだった。
「このことを、シャルロットには話したことがありません。聴けば辛いと思いますので……どうか」
「うん、彼女には言わないよ」
その後、治療や投薬で高額の借金ができたので、カトリーヌは仕立て屋の店舗と家を売り、まだ幼いロッテを連れ、身一つで貴族の屋敷に奉公に出るしかなかったという。神殿に死因を呪死と断定されてしまったがために、身上調査をしたどの奉公先からも気味悪がられ不採用となった。
そんな中、当たって砕けろと門を叩いたのが大貴族のメディシス家だった。
ブリュノは事情を知っても嫌がらずに雇ってくれたのだという。
それどころか、「もし呪われているのならば、面白い。解呪の研究ができて好都合だ」と言ったそうだ。また、カトリーヌに裁縫の技術があったことも幸いした。
(強気すぎるな、ブリュノさん……)
ブリュノに拾われ、ロッテの母がロッテと共にメディシス家の屋敷に出仕にやってきたのは、ロッテが四歳になったばかりの時だった。
「と、いう経緯なのでございます」
「そうだったのか……それは気の毒だったね。旦那さんのご両親のことは、聞いたことがある? やはり早くに亡くなったとか」
ファルマはさらなる家族歴を聞き取る。カトリーヌは古い記憶を引っ張り出す。
「はい、父方が早逝したとは聞いております」
「その人は、もしかして孤児院の出だった?」
「……さあ、そこまでは……何故、そう思われるのですか?」
カトリーヌは首をかしげる。ファルマはカトリーヌの境遇とロッテの生い立ちを聞いて、沈痛な表情をみせる。それを見たカトリーヌはファルマを気遣ってか、無理に笑顔を作るのだった。
「坊ちゃま! そんなお顔をなさならないでくださいまし。旦那様が拾ってくださらなければ、私とシャルロットは母子ともに路頭に迷っていたことでしょう。旦那様には感謝しております、よい暮らしをさせていただいておりますし。でも……」
カトリーヌは、ファルマがロッテの生い立ちを探ってきたのを不審に思っているようだ。
「もしや、シャルロットに何かあったのでしょうか」
「ううん、ないよ。ちょっと気になっただけ。何かあれば言うよ」
ファルマはしっかりと頷いてカトリーヌと約束を交わした。
次にファルマはロッテとカトリーヌが共用で使っている使用人部屋を訪れる。
「ロッテ、今大丈夫? 部屋に入っていい?」
「ふんふふんふふーん、ってあっ、何でしょうファルマ様! どうぞ」
ロッテは屋根裏部屋の窓を開け放ち、窓辺に果物を置いて静物画のスケッチ練習をしていたところだったが、陽気に鼻歌を歌っていたのを恥ずかしく思ったらしい。
「それ描いた後ででいいから、血を採らせてもらってもいいかな。ロッテの血液が健康かどうか、調べようと思ってるんだ」
「血、採るとき痛いです?」
「痛くないようにするよ。すぐ終わるから」
「そうですか? ではぜひ調べてください! 私のことまで気にかけてくださって、ありがとうございます。ちょうど絵の練習が終わりました。こうですか?」
天真爛漫な笑顔でずいずいと腕を差し出してくるロッテに、ファルマは多少の罪悪感を覚えながらも、ちゃっかり用意してきていた採血セットの支度をする。そして、予告通り氷を創造して腕に当て、針を刺すときに痛みが少なくなるようにした。
ロッテは緊張してぎゅっと眼をつぶり、肩をこわばらせていた。しばしの間があって、
「終わったよ。お疲れさま」
ファルマは採血管を転倒させてロッテの血液を振り、凝固防止剤と反応させながらロッテに呼びかける。
「えっ、痛くありませんでした。でもこんなにたくさん血が取れてる。うわあ、私の血です……ぞわぞわします」
ロッテは血を見るのは苦手なようだ。
「協力してくれてありがとうね。腕がピリピリしたり、ふわっとしたりしない?」
「なんともないです。ファルマ様」
ロッテがファルマの前に回り込んで腰をかがめ、俯き加減になっていたファルマの顔を下から上目遣いに見上げる。
「な、なに?」
「なんだか、ファルマ様のご様子が変です。いつもとご様子が違います」
ロッテに、現代薬学では不治とされる致死性家族性不眠症が、ひょっとすると遺伝しているかもしれない。ファルマが抱え込んでいたそんな懸念と不安は、どうやらロッテに伝わってしまったようだ。
彼女は鈍感なように見えて、ファルマのことをよく見ていた。言葉には出さなかったが……。
「そんなことないよ」
「そうですか。では、お仕事頑張ってくださいまし」
ロッテは、緩んでいたファルマの襟のリボンをしゅるりと解き、きゅっと結びなおした。
「ありがとう、ロッテ」
ファルマはエメリッヒが弟妹を集めたというので、早速全員に研究室に集まってもらった。エメリッヒを入れて、六人。ぞろぞろと集まった一族に、秘書のゾエは茶と茶菓子を振る舞う。エレンも研究室に出勤してきた。
「教授、家族を連れてまいりました」
「ありがとう、助かるよ。バウアー家の皆さん、お集まりいただいてありがとうございます。にしても妹さん、本当にロッテと似てるな……」
妹のうちの二人は、確かにエメリッヒのいうよう、ロッテとかなり似た顔だちをしていた。あどけない顔をした、人懐っこそうな妹たち。声までどことなく似ていて、ロッテの親族だと言われても納得してしまう。
「ね、似てますよね!? 教授もそう言ってくださると思いましたよ!」
エメリッヒはファルマの同意を得られて嬉しそうだ。
「確かに、似てるわねえ。見た目でわかるとは思わなかったけど、これは血縁あるんじゃないの?」
エレンも頷いた。しかし、ファルマにとってはあまり嬉しい情報ではなかった。
(他人の空似かもしれないけど。これだけ似てると、ひょっとするとひょっとするな……)
「で、病気があるかどうか、どうやって調べるんだっけ。またPCRで?」
エレンが首をひねる。
「うん、それでいける」
ロッテとエメリッヒの一族の間に血縁関係があるかどうかを調べるには、以前ファルマが親子鑑定をやったように、PCR法を行えばいい。
そのうえで、彼らの一族のうち、致死性家族性不眠症を発症する可能性のある遺伝子変異があるかどうかを調べるために、PCR法を少し応用させる。現代日本では、DNAシーケンサーという塩基配列を高速に読み取る装置によって簡単に、膨大なDNAの情報、変異の情報を読み取ることができるが、ごく一部の変異を検出するだけなら、電気泳動を使ったアナログな手法でも検出できないことはない。
この研究室でも十分に再現できる方法であり、エレンとエメリッヒには後日そちらを教えることにする。
「えっと、ご家族にはどこから話せばいい?」
「だいたいの事情は説明してきました」
「なら話が早い。血液からDNAを採るから採血してもいいかな?」
ファルマはエメリッヒと妹弟たち全員の協力を得て、ロッテと同じように採血の準備をする。解析に十分な量のDNAを取ろうと考えると、口腔粘膜細胞などではなく血液から取る方法が望ましい。
「駆血帯を締めたら、血管を選ぶ。しっかり見極めてね。触ってみてふれる血管がいい。表面に色がついて見える血管は、あまりいいものではないものが多い」
「うーん、ねえねえ、ファルマ君これなんてどう?」
血管を吟味していたエレンが弟の腕によい血管を見つけ、ファルマに確認をとる。
「お! いいの見つけたねエレン」
「ねえ、血を採ってみていい? 前からやってみたいと思ってたのよねー」
エレンは採血をやってみたいようだ。人の腕だと思って……、とファルマは苦笑する。
「それでしたら私もやってみたいです」
エメリッヒも前のめりになってきた。
「二人ともいきなりはまずいよ。初めてだろ!? 妹さん弟さんの腕が真っ青になるからやめよう。今度、模擬腕で採血の練習してからね」
「なに、多少のことでしたら我慢させれば」
エメリッヒが過激な発言をはじめたので、ロッテに瓜二つの妹たちはファルマの後ろに隠れ、口を揃えた。
「私たち、メディシス教授に採血してもらいたいです。ね、ねえ?」
「え、ええ。姉さま。腕が血だらけになったら大変だもの」
「私がやりますよ、ご心配なく」
「それなら安心だわ」
ファルマは採血をやってみせながら、ついでに見学をする二人に教える。
「注射針の切り口は上に向けて、皮膚を刺して血管までいく。血管をぷちっと破る感覚があって、次に黒っぽい静脈血が返ってくるから、薬指と小指でシリンジをひく。手がぶれないようにね。引き終わったら駆血帯を解く。そして針をすっと抜く。そうそう、駆血帯を先に解かないと血が噴き出すよ」
「言われてみると結構難しそうね」
エレンはひとまず自力での採血を諦め、エメリッヒは次々と採血をしてゆくファルマを見よう見まねで、イメージトレーニングに励んでいた。
(さすが一級薬師で首席だけあって、熱心な学生だな)
ファルマはエメリッヒに一目おく。
「今日は採血はいきなりはさせられないけど、血液からのDNAを抽出やってみる?」
ファルマはエレンとエメリッヒに声をかける。
まず、小さな試験管内で細胞を破裂させたのち、細胞を溶かす酵素を加えて加熱する。酵素反応が終わるのを待って、細胞が溶解したら、フェノールとクロロフォルムを加えてよく攪拌する。それを手動遠心分離機で遠心分離し、上澄み部分を取って、そこへさらにアルコールを加える。
すると、攪拌した途端試験管内のアルコールの中にふわふわとした白透明の糸のようなものが漂い始めた。
「メディシス教授、これは……もしかして」
「そう、DNAだ。君のだよ」
白い糸の塊のようなもの。そう表現するしかない物質が、アルコール中にふわふわと漂っている。
「何ていうか、脆い綿みたいなのね。すぐちぎれてしまいそう」
エレンが、あまり有難くなさそうに眺めるが、
「こ、これが……人体の設計図……実在しただなんて……」
エメリッヒのチューブを持つ手が震えている。
エメリッヒにとっては禁断の聖域のように見えるのだろう。
「もう。大げさねぇ! DNAなんだから私たちの体細胞にいくらでも実在しているわよ」
エレンがエメリッヒの背中をぽんと叩くと、エメリッヒは驚いて手を滑らせ、チューブがポロリと落ちて転がっていった。
「あーッ! ボヌフォワ先生何するんですかーっ!」
「チューブ落とさないでよ二人とも、ひっくり返したらまた何時間か前からやり直しだよ」
大切なサンプルを捨てられてはかなわないと、ファルマが冷や汗をかく。
「じゃ、これを明日解析してみよう。今日はこれで解散。そろそろ講義の時間だ、続きは明日ね」
「わかったわ」
ファルマはエメリッヒと共に講義へと向かった。
(さて……と)
ファルマはその日の講義を終え、エレンとエメリッヒと共に抽出した家族全員分のDNA、そしてファルマがあらかじめ抽出していたロッテのサンプルを氷で冷却したままバッグに詰めた。そして、サロモンがファルマに定期的に供してくれる、神力を吸収する呪符をありったけ準備した。
前回、異界から帰った際に、かなり肉体の透明化が進んでしまった。
もう一度異界を往復すると、消滅のリスクは上がる。
(どうなるか分からないから行きたくないけど、行くしかないか。あの場所へ……)
あれ以来、聖泉から行ける異界の研究室には近づかないことにしていたが、高度な解析をしようと思えば研究室の設備が必要だ。そうも言っていられない。
異界の研究室に行く目的はというと、
・解析装置を使い、患者の正確な遺伝情報を得る
・研究に必要な試薬、書籍、道具を取ってくる
主にはこの二点だ。教え子とロッテの為、少しでも早くより詳細な遺伝子診断を行い、現代薬学をもってしても不治である病の治療法を確立しなければならない。
「よし、行くか」
ファルマは薬神杖を握り締め、腹をくくる。
「どこへ行くの? ファルマ君。あれ……そのサンプル?」
エレンが背後から声をかけ、教授室の隣の研究室から顔を出す。ファルマはエレンが帰ったとばかり思っていたが、彼女はファルマのことを気にして大学に残っていたようだ。
「エレン。まだ残っていたのか、わざわざ?」
「ううん、講義の準備もしていたわ。どこに行こうとしていたの? 明日解析しようって言ったDNAのサンプルを持って……もしかして、戻ってこれなくなる場所じゃない? こないだ言っていた、聖泉から行ける異界とか」
ロッテ絡みのことだと知ったエレンには、すっかりお見通しだったわけだ。
「うん、まあね。どうしても必要なものがあるんだ、それを取ってきたい」
ロッテのため、そしてエメリッヒとその家族のためだ。と、ファルマは説明する。
「安全に帰ってこれるって確信がないんでしょう? 危険すぎるわ」
エレンは涙ぐんでいた。
「そりゃね。でも俺は、尽くせたはずの最善を尽くさなくて後悔したくないんだ。ロッテや身近な人がもし不治の遺伝病を患っていたらと思うと、一刻も早く何とかしたい」
エメリッヒは40代から死病が発症するものと思っているようだが、必ずしもそうではない。幼少期に発症して亡くなるケースもある。何歳までは安全、という保証はないのだ。
「それに、俺は普通の人間とは違うし、いつまでもこの世界にいられるとは思えない、明日消えるかもしれない。ならどこで何をしたって同じ。だから行くよ、今日」
「ファルマ君、どうしてそんなに急ぐの。せめてあと一年や二年、待ったっていいでしょう?」
「それじゃ遅いんだ、またね、エレン」
エレンの返事を待たず、ファルマは窓を開けて飛び出した。
引き留められたからといって、決心は変わらない。
教科書を書き終えた時点で、この世界に最低限の知識と概念は残した。
今、消えてしまったとしても、心残りは……ないわけではないが、以前よりは少ない。
(ごめん、エレン。俺は行くよ)
ファルマは心の中でエレンに詫び、薬神杖に神力を通じる。
彼は風となり、帝都の上空を駆け抜けた。
ファルマが、霧の立ち込める切り立った台地の中央に位置する件の聖泉にたどり着いた頃には、既に真っ暗になっていた。
以前と比較して、聖泉に変化はない。あの時と同じように清らかな水を湛えている。ファルマは躊躇なく夜の泉に飛び込んだ。
そしてそれほど深くは潜らず、水面の裏側から神術で水面に氷を張る。
すると、異界への入り口が見えた。
異界の研究室への入り口の扉だ。
ファルマは職員証を取り出し、電子認証装置にそれをかざす。
(あれ?)
一度、二度かざしたが、読み取りの反応が鈍くなっていた。
「……ピッ」
三度目でようやく電子錠が外れ、研究室の扉が中開きになる。
少し、以前と比較して扉の開く動きがスムーズではないような気がした。
(……錆びている?)
微妙な変化すぎて、以前もそうだったのか思い出せない。
(過敏になってるみたいだな、俺。気のせいだよな)
以前と同じように体を滑らせ、研究室の内部に潜入する。
中に入ると、研究室の空調のにおい、冷凍庫や装置の稼働音が懐かしい。全ての装置は正常に動いていた。
据え付けの時計を確認する。午前三時五十分。ここまでは、前回と変わらない。
入った瞬間に、時計は進んでゆく。
ここは、薬谷准教授がなくなる前のおよそ一時間を繰り返しているかのように見えた。
(つまり、残り滞在可能時間は約一時間か)
そして、ファルマはできるだけ視界に入れたくなかったものを確認する。
薬谷完治、生前の自分自身は、ソファの上で寝袋にくるまり、すやすやと眠っていた。
(俺も、前のままか。俺が死ぬ前に自力で部屋を出たいな)
過労死を目前にした、自分の姿。できれば自分の断末魔を二度も聴きたくはないものだ。
前回はおそらく薬谷の心臓が止まった瞬間に、ファルマもこの研究室から強制パージされた。でも、もし彼が死ぬ前なら、普通に出口から出られるのだろうか。
今回はそうしたい、と思うファルマだった。彼が苦しみ始めたら、彼を見捨てて迷わず研究室を出なければならない。他人の治療はできるのに、薬谷の肉体には干渉できず自分の治療はできない。
……もどかしいが、仕方がない。皮肉なものだった。
ファルマは真っ先に大型解析装置の隣の制御PCに近づく。
(ゲノム解析データが……できている! やっぱりだ!)
ファルマが前回研究室に入った際に仕掛けて帰った自分のゲノム情報のデータだ。
普通に解析をすれば一週間はかかる解析だが、時空を超え、データの解析は終わっていた。同じ死の前の一時間を繰り返しているようでありながら、解析装置の時間は進んでいた。
(時間軸がやばいことになってるな)
わずか一時間滞在しただけで、肉体の透明化が進む。
一時間しかいられないからいいようなものの、長時間滞在すればどうなるか、ファルマは考えたくもない。繰り返し来れば、肉体もただでは済まないだろう。しかしその代償に……
(今、はっきりするわけだ。異世界人の遺伝情報がどうなっているのか、俺が人間なのか、どうか)
ファルマはデータを紐解いてゆく。
そして、種名が判定された。そのゲノム情報は、人間のそれだと。
ファルマは感動すら覚えた。
(……異世界人は、やはり地球のホモ・サピエンスの近縁種だったのか)
ファルマ・ド・メディシスの肉体の遺伝情報は、99.9%以上の確率で地球人の遺伝情報と同じだった。この差というのは、せいぜい性差や人種ぐらいの違いでしかない。ファルマは興奮気味にデータを精査してゆく。
ファルマの遺伝情報は、おそらくファルマ少年のままだ。影がないなどの、人間離れした特性を持っているファルマの体だが、その遺伝情報は人間とさほど変わっていなかったのだ。
(凄い、凄いぞこのデータは! ……神脈の発現を司る遺伝子があるはずだ。どれだ?)
地球人としてはありえない、未知の遺伝子もいくつか検出されていた。
それは、ファルマが検索にかけても見も知らない遺伝子によって発現が制御されていた。
その数は、5つ。おそらくその中に、神脈を司る遺伝子の候補がある。
ファルマは愛用していたノートPCに、いくつかのデータをコピーした。これを異世界へ持って帰れば、電源さえ確保すれば更に解析ができるはず。また、彼が必要だと思う医学的・薬学情報も論文もコピーをかけた。
さらにファルマは、医学書、薬学書をビニール袋に入れ、大型の手提げに詰め込み、PCもスマホも、ビニール袋に入れて、リュックのようにして背負った。
(これで、どのタイミングでパージされてもひとまず安心)
そして、この研究室を訪問した当初の目的を果たす。
エメリッヒの一族とロッテのDNAをゲノム解析装置にセットする。簡易解析であっても、データが出るまでには時間がかかる。一度異界を出て、もう一度データを取りに来なければならないだろう。
研究室を見ていて、ファルマはある違和感を覚えた。
(あれ? 培養室の扉が開いて、電気がついている……)
研究室に隣接する細胞培養室の扉が開き、隙間が空いていた。そして、室内に電気もついている。
前回来た時には、押しても引いてもびくとも開かなかった部屋だった。
(異界が広くなっている?)
異界の研究室には、見過ごせない変化が起こっていた。




