5章13話 治療法:なし
サン・フルーヴ帝国医薬大学校の新学期が始まり、講義初日がやってきた。
新任教授でもあり薬局店主でもあるファルマはというと、一日中大学に詰めているわけにもいかない。午前中は薬局の営業を行い、大学の全ての講義は午後から組んでいた。
「じゃ、あとはよろしくね。今日は午後になったらエレンが戻ってくると思うから。着替えて大学に行くね」
午前中の診療を終え、ファルマはアルバイトの薬師に申し送りを終える。
容体が急変する可能性のある重篤な患者の予約は、午前中に入れて診療をすませていた。
「はい店主様。行ってらっしゃいませ。こちらはお任せください」
と、レベッカが律儀に席を立ちながらファルマを見送る。
「講義、頑張ってください! うるさい学生はしばいてやればいいんですっ! なめられないように気を付けてくださいね」
拳を握りしめながら力を込め、物騒な応援をしてくれるセルスト。
「はーい、いってらっしゃい」
欠伸をしながら、手を振るロジェ。留守番をしてくれるバイトの薬師たちは頼りになるのだか、ならないのだか。などと思いながらも、エレンが午後から代打をしてくれるというので、ファルマは一応安心はしている。
「もしエレンにも手の負えない重症の患者さんが来たら、患者さんを大学に送って」
「分かりました! 私たちに分からない患者が来たらすぐ送ります!」
「すぐ送りましょう」
「手遅れにならないうちにすぐね」
(……なんて諦めが早い三人なんだ……)
ファルマは微妙な心境になりながら、支度を始める。
「ファルマ様、大学はどうですか? お友達は100人ぐらいできましたか?」
薬局の二階に上がり、診療室の一室で慌だしく白衣から私服に着替えるファルマの白衣を袖をそろえて畳みながら、ロッテは楽しそうに声をかける。
(友達100人って、小学生じゃないんだから……でもその発想がロッテらしいな)
「学生や職員とは、うまくやっていくつもりだよ。最初はちょっと……、まあ、色々あったけど」
エメリッヒや学生たちのことを思い出しながら、ファルマはカバンに諸々の書類やプリントを詰め込んでいた。
「授業中、居眠りはしていませんか? 眠たくなったらほっぺたをつねってみるといいですよ。痛くて涙が出ますけどねっ」
「俺が? 授業中に居眠りなんてしないよ」
「ほら、ファルマ様寝不足ですし。ついうとうとしてしまうかなって」
「俺が寝てる学生を起こすほうなんだけどな」
「どんな場所なんでしょうねー、ファルマ様の大学って」
とはいえ、彼女がファルマの職場に興味がありそうだといっても、ロッテを職場に連れて行くわけにもいかない。
(あ、でも食堂なら一般に開放されてるし。一緒に食べに行くかー)
「昼休みの間に大学の食堂に行ってみる? パンが美味しいし、デザートも充実しているよ。学外の人も食べていいから」
「わあっ! えっ、でもそんないいんですか? もしいいのでしたら連れて行ってください! 歩いて帰ります!」
「行こっか」
炭水化物とフルーツには目がないというロッテを自馬に乗せ、ファルマは帝都の大路を抜け、帝国医薬大へと向かう。
学生二人の通学に見えるかもしれないが、これでも通勤だ。
「わあー! 凄く立派な学校です! 広すぎて移動が大変ですねっ!」
初めて学校というものに連れてきてもらったロッテは、ぴょんぴょんと飛び跳ねて興奮していた。
「学部が統合されたり新設されて新しくなったからね」
ファルマは学内を散策しつつ、ロッテに簡単に大学を案内する。
ロッテがとりわけ興味を示したのは、大学附属の薬草園だ。そこでは様々なハーブが栽培され、睡蓮の咲く大きな池を中心に、風光明媚な水辺の景観を作っていた。
「ここで絵を描いたら、きっと素敵な風景画になります! 陛下もお喜びに!」
「キャンバスを持ってきて、描いたらいいよ」
最近のロッテの絵は流行を取り入れて印象派のようになってきていたので、モネの睡蓮のような絵になるのではないか、とファルマは楽しみだ。
「ごきげんよう、メディシス教授」
「今日の講義、楽しみにしております」
学内で出会う学生たちはファルマを見かけると、すぐに挨拶をしたり声をかけてきた。
中には先日の一件があったからか、ファルマに出くわすと緊張して冷や汗が止まらない学生もいた。
そんな学生は、ファルマはそっとしておくことにした。
講義の中で、警戒に値する人物ではないと理解してもらえることを祈りながら。
「皆さんファルマ様のことをご存じのようです。お仕事始まったばかりなのに、慕われておられるのですね」
そんな微妙な現況を知らないロッテは、ファルマが一見学生たちから大人気なので、自分のことのように喜んでいた。
「はは……そうかな」
(どっちかっていうと怯えられている、が正しいよな)
とは言い出せなかったファルマである。
「ファルマ様が、大人の学生の方に先生として接していらっしゃるの、なんだか不思議な感じです」
「俺も不思議だよ。どうしてこうなったんだか。とにかく、お昼食べよう。講義まで時間がないから」
ロッテと二人で、大学の中央に位置する食堂に向かう。
去年まではサン・フルーヴ帝国薬学校に学食はなく、各自弁当を持ってきたり学外の店で済ませていたものだが、今年、ブリュノが私財を投じて学食を建設させ、食堂は大いに賑わっていた。
今年から平民の入学を許したということもあり、苦学生が粗末な食事をすることなく、良質の栄養をつけて勉学に専念してもらいたい、という理由だそうだ。ファルマはブリュノの配慮に感心する。
学食は、ビュッフェ形式で、僅かな代金を払えば食べ放題である。
真新しい食堂のホールを見たロッテの喜びようといったらなかった。
「わぁ、何十種類のお料理があるんでしょう! このロールパンなんて、真っ白でおいしそうです。このオレンジジュースも、しぼりたてなんですか? あっ、宮殿御用達の美味しい高級牛乳も!」
ロッテの皿にはパンが山盛りに積まれ、さらに、おかずも全種類取ってきていた。
「それ全部食べられるの? お腹大丈夫? 手伝おうか?」
「えへ。取り過ぎちゃいました! でもゆっくり味わって全部食べます」
ロッテは一口ずつ味わい、目を閉じ食事の喜びをかみしめている。
「君はいつも幸せそうだな。悩みなんてなさそうな……」
そもそもロッテに悩みなんてあるんだろうか、とファルマは思う。
「私はこうしてファルマ様のお傍にいられて、そしておいしい食事とデザートがあればもっと幸せです。悩みですか? そうですね」
ロッテの目がきょろきょろと泳ぐ。
「……うーん、考えてみましたけど、ありませんでしたぁ!」
「はは、そりゃよかった。また学食こよっか」
ロッテは満面の笑みで大きく頷く。
「はいっ! おなかがぽんぽんになるのでお料理を全部食べてから歩いて薬局に戻りますっ! ファルマ様はお仕事頑張ってくださいねっ! お戻りになったら美味しい紅茶を準備してお待ちしていますっ」
「ロッテには癒されるよ」
ファルマとロッテが食事をしていると、エメリッヒ・バウアーが学食の窓の外を通りがかった。
そしてロッテの顔をまじまじ見て何度も首をかしげ、通り過ぎて行った。
「今の学生と知り合い?」
ファルマがロッテに尋ねる。
「いいえ? どうなさったのでしょう。薬局のお客さんでもなさそうでした」
ロッテも首をかしげながら、それでもパンを食べ続けていた。
「みなさんこんにちは。えー、それでは基礎医学概論Iをはじめます」
ファルマの講義は全学部の一年生が受講するため、大講堂で行われる。
さらにいくつかの講義に関しては、公開講座にして、およそ帝国中の薬師の資格を持つものは受講資格を与えた。
そんな背景もあって、その日の朝は聴講券を求め、ファルマの知らない間に早朝から正門前で一級薬師から三級薬師まで、先着順とはいえ問答無用の熾烈な争いが繰り広げられていた。
聴講券を手に入れた者は、勝ち誇ったような顔をして着座していた。調剤薬局ギルドの面々やギルド長のピエールの顔も見えた。
(ちょっとこれは満員御礼ってレベルじゃないな……)
ファルマは困惑気味だ。
「……座れてますか? 全員が座れるように、席を詰めてください。荷物は机の下に置いて」
ファルマが席を詰めるようジェスチャーを送る。
それでも予定していた座席数では足りず、自前で椅子を持ってきて座る教員もいた。
彼らは売店で買い求めたらしい教科書を机に広げている。
「ここにいる皆さんは、現役の、あるいは未来の医師、薬師、そして技師、もしくは研究者となる方々です。病気の発症原因を追究し、病気を診断・治療し、あるいは病気を社会的に予防する、そのいずれの仕事においても、人という生命現象と向かい合ってゆくことになります」
エメリッヒは一番前に陣取ってノートをとっていた。
獣医のジョセフィーヌも、比較的前のほうで頷きながら聴いている。
ファルマは黒板に簡単な人間の図を描いた。何の面白みもない、のっぺらぼうの模式図としてだ。
「そう、人です。でもこれというものは、いったい何からできているでしょうか」
ファルマは学生と聴衆に向き直り、問いを投げかけた。
「人体は、全て化学物質から構成されています。原子にはじまり分子となり、タンパク質、糖質、脂質、核酸などの高分子が立体構造を作り、それらは細胞という生命の最小単位を構成します。細胞の中では実に体重の60%を占める水を触媒とし、たえず複雑な生化学反応が進行しています」
「私たちが人体で起こる全ての化学反応を理解することはできません。ですが生命現象は、自然科学の法則にしたがいます。疾患を理解し、その治療法を確立するにあたっては、これらの法則を最初に考慮する必要があります」
ファルマの言葉を猛烈なスピードで記録してゆく者がいる。
ブリュノの雇った薬師の速記士だ。彼らに全ての講義を一言逃さず記録させ、板書を全て写真撮影させてゆくのだそうだ。講義録として大学の資料にするのだという。
ブリュノはファルマがいつか消滅してしまうと仮定し、万事抜かりない。
(ブリュノさんのおかげで、これを数年続けて全部の講義録がそろえば、俺がいなくなっても大丈夫だし、他の講師に引き継ぎができる)
それだけでも、教授を引き受けた意味はあったとファルマは思う。
「病気を治すための薬剤の設計を行うためには、その薬、すなわち化学物質が生体化学反応のどこに作用するかを知る必要がありますね?」
何故、医学、薬学を学ぶにあたり、基礎科学がどうしても必要なのかをファルマは最初に述べる。
医学・薬学というのは応用科学の一分野であり、したがって基礎を学ばねば応用はない。
「では最初に、タンパク質の構造についてお話をしましょう」
その日は、生体を構成する生体物質の理解に講義の時間を割いた。学生たちは必死でノートを取る。
ファルマのもとで手っ取り早く、難病に効果的な治療法、よく効く薬を学べるものと考えていた一部の学生たちは、医学・薬学の入り口に到達するまでの遥かな道のりに絶望し、ファルマの薬学を簡単に修められるなどという甘い考えが吹っ飛んだような顔をしていた。
これではついていけなくて単位が取れないかもしれない、と嘆く学生の声も聞こえて来た。
そして、何故ファルマの薬が病気に”効く”のか、おぼろげながら理解しはじめたようだった。
「質問がある場合は、講義のあとで」
講義修了の鐘が鳴ると同時に、学生や薬師たちが競い合うように何人も立ち上がった。
「教授、質問が!」
「メディシス教授! 後半が分かりませんでした」
「教授、教授! ペプチド鎖の結合についてもっと教えてください」
教壇には人だかりができ、ファルマはあっという間に学生たちに取り囲まれてしまった。彼らに一人ずつ対応している間、ファルマはエメリッヒが講堂の隅でじっと待っていることに気付いた。
ファルマは全員の相手を終えてから、エメリッヒを呼ぶ。
「バウアー君も何か?」
「教授、お話があります。少しお時間よろしいでしょうか」
学生がいなくなると、エメリッヒが思いつめた様子でファルマのもとに近づいてきた。
「まずは謝罪をしなければなりません。先日、私が仕掛けてしまった神術試合で出た修理費を、教授が立て替えてくださったと聞きました。本来ならば私も負担すべきところを。どのようにお詫びをしてよいか……」
エメリッヒからは数日前の勝気で不遜な態度は消え、すっかりしゅんとして別人のようになっていた。
「それは私が壊したのだから、君が修理費をかぶらなくていいんだ。それより怪我がなかったかな」
エメリッヒに怪我はないようだった。怪我をさせないようにしていたつもりのファルマだが、それがなによりだ。
「で、話というのは」
「かなり先の単元になりますが、遺伝病についての相談をしてもよろしいでしょうか」
エメリッヒは教科書を持ち出してきた。
「質問ではなくて相談なのか、いいよ」
ファルマとエメリッヒは、薄暗くなってきた講堂の座席に座りなおす。
エメリッヒは教科書を読み込みすぎたのか、既にボロボロになっていた。
「教授の教科書をすみずみまで拝読いたしました。講義を聞かなければ分からないことだらけですが、この教科書は本当に素晴らしい。診断の役に立ちましたし、いくつか試してみた治療法もあります」
「それはよかった。にしても凄い読み込みようだな……まだ発売して半年ほどしか経ってないのに」
教科書を書いたファルマも驚くほどの根性をみせたエメリッヒだった。
「実は、私は遺伝病の家系にある者だと考えています……一族の者は、一族にかけられた逃れえぬ呪いだと言っていますが……」
「呪いではないと思うよ。だって君はあんなに巧みに神術を使えるわけだし。呪われていたら神術を使えないだろう?」
エメリッヒが”呪い”ではないと分かっているならば話が早い、と考えながらファルマはエメリッヒに味方する。
「私は、一体何の遺伝病なのかを知り、私の一族をこの病から解放したいのです」
「なるほど。家族歴を教えてもらってもいい? まず、その病気によって亡くなったと考えられる人を」
ファルマは、ブリュノに聞いて知っていた家族歴と照らし合わせつつ、エメリッヒの開示した新たな情報と統合していった。
「じゃ、次に患者と思われる人に共通する症状を教えてくれ」
「はい」
エメリッヒいわく、一族の者は中年を過ぎた頃、”呪い”にかかると体がほてって仕方がなくなる。次に、脈が早まり、瞳孔が収縮し、みるみるうちに体はいうことをきかなくなり自立歩行もままならず、夜とも昼ともなく一睡もできなくなるのだという。眠りを奪われた彼らは衰弱が激しく、いくら目を閉じても睡眠薬などを使っても、まったく眠ることができない。
そして一年もしないうちに体は消耗し果て、必ず亡くなるのだ……。
話を聞いた限りでは、ファルマには思い当たる病気があった。
ファルマの書いた教科書には、きわめてまれな常染色体優性遺伝の疾患として記載されていた項目であり、遺伝性のプリオン病の一種である。
この病気を発症する家系にある患者は、正常プリオンをコードする遺伝子に異常があり、異常プリオンをつくり出す。異常プリオンが脳内の視床へと蓄積し、それが神経細胞を破壊することによって、脳が神経細胞を通じて睡眠の指令を体に出すことができなくなり、不眠となる。
「教授は、症状から推測して何だと思われますか?」
「君の話を聞いただけだと、致死性家族性不眠症を疑うな」
「やはり、教授もそうお考えですか……」
エメリッヒの血の気がざあっと引いた。
それは死刑宣告でも受けたかのような表情だった。
「いやでも、そうと決まったわけじゃない。それにこの病気だとしたら、常染色体優性遺伝だ。それにしては、発症率が高くないか?」
常染色体優性遺伝というのは、一つの遺伝子のうち、父方と母方のペアとなっているもののいずれかに変異があると必ず発症する遺伝様式で、男女問わず50%の確率で発症することになる。
なのに、家系図を見るとどの世代でも、殆どの者が発症しているのだ。
「もしかして、書かれていないだけでこの家系図に載っていない子孫はもっといる?」
彼らをカウントすれば、50%にもっと近い割合になる筈だ、とファルマは考えた。
エメリッヒはどうして知っているのか、と目を大きくしながら頷いた。
「はい。放逐された者もいると聞いたことがあります。神脈が開かなかったとかで、孤児院などに送られました……」
大貴族であるほど、神脈の開かない子が生まれるというのは不名誉なことなので、判明し次第、平民落ちした子供は放逐し除籍にする場合が多い。
「その子孫と連絡がとれないかな。神脈が開かなかった者でも発病したのかどうか知りたい、たぶん、発病しなかったんじゃないか」
もし、エメリッヒの一族が致死性家族性不眠症だったとすると、除籍になっていない者の発症率から逆算して、神脈が開かなかった者は発病しなかった可能性が高い。
「どの孤児院に預けたとの記録はありますので、孤児院が記録を保管していれば……」
孤児院の記録を辿って、放逐された子孫に会うことは不可能ではないとエメリッヒは言う。
「君は今発症していないわけだし、そもそも変異が遺伝しているかどうかもわからない。確定診断は難しいな。現在、発症している一族の誰かは?」
「今、一族で発症している者はいません。直近では、父でした……三年前に亡くなりました……」
エメリッヒは、彼の父の最後の日までのカルテをファルマに手渡した。
そして、思い返すのも辛くなったらしく、涙で言葉を詰まらせた。
ファルマはエメリッヒのカルテに目を通してゆく。
それは、闘病というにはあまりにも一方的な、一人の父親が荒廃し、絶望のうちに亡くなってゆく残酷で壮絶な記録だった……。
「薬師であった父は、一睡もできなくなり消耗しながらも、それでも最後まで生きようとしていました。私も、自分の持てる限りの知識をもとに、副作用も構わず薬を父に投与しました」
エメリッヒの処方記録を見ると、ほぼ破れかぶれ、あてずっぽうといったものだった。
彼は毎日毎夜、ありとあらゆるポーション、ハーブや重金属の組み合わせを試していた。
治療というよりは人体実験さながらだ。
それでも、ひとときも、たった一日、数時間たりとも彼の父を熟睡させることはできなかった。
「あなたに、もっと早く出会えればよかった」
エメリッヒの家族が死病に喘いでいたとき、まだファルマはこの世界にいなかった。
「教授。教えてください。次は私と、私の妹弟の番なのです」
エメリッヒは一語一語かみしめるように、ファルマに尋ねた。
「この病を治せる薬が」
最後は、何かに祈るように――。
「ありますか?」
ファルマはエメリッヒの視線に真っすぐに射抜かれながら、より強い視線で見返した。
「ない」
その二語を、ファルマは言いきった。
あまりにも無慈悲に、一片の迷いもなく。
「ああ……終わった……」
エメリッヒは教科書を抱えたまま床の上に崩れ落ちる。これから彼を待ち受ける運命に、彼と彼の妹弟たちが絡めとられ、奈落に落とされてしまうことを覚ったのだ。
エメリッヒの手から力なく落ちたカルテが、ひらりひらりと無残に講堂の床にぶちまけられた。
彼はすっかり項垂れながら、それでもファルマに遺言めいた言葉を残す。
「お願いがあります。もし私が発症したら、症状が進行する前に自殺します。ですから教授は私を解剖して、私の体を切り刻んで、この病気のことを調べてください……」
ファルマはエメリッヒの悲痛な訴えを聞きながら、一枚ずつカルテを拾い集めて束ねる。
「治療法だけど、”今は”ないって現状を言っただけだよ」
ファルマは束ねたカルテを揃え、大事そうにエメリッヒに手渡した。
この教科書をこんなにボロボロになるまで読み込んだエメリッヒにも、ひょっとすると創薬の構想は見えはじめているのではないか、そう考えたファルマは彼に逆に質問をしてみた。
「この、現時点では不治の病に対して、どんな薬を創れば効くと思う?」
「分かりません……途方に暮れてしまいます。ただ……この病が異常プリオンの蓄積によって神経細胞が障害されて発症するのならば……まず、発症を遅らせる。発症後はプリオンを分解、あるいは神経細胞を障害するのを阻害するような薬を創ればいいのでしょうか」
エメリッヒの発想や感覚は、現代地球の薬学者のそれに近づいてきていた。
実際、そういうアプローチでも、この疾患に臨床研究は進んでいる。
「うん、いいね。方法はいくつかある。発症を遅らせる薬を探索すること。異常プリオンを破壊するか機能できなくすること。もっというと、発症する前に遺伝子変異を治してしまえばいい」
「遺伝子……生命の設計図を、どうやって……」
七十兆もの体細胞の中にある遺伝子の異常を、すべて改変することなどできっこない。
簡単にはできないから、現代医学の粋をもってしても、現状「治療法なし」、なのだ。
プリオン病の解明と治療薬の開発については、ファルマも生前から取り組んでいた難課題の一つだったが、なかなか一筋縄でいくものではなかった。
とはいえ、遺伝子に変異がある限り、そこを治さねば、あらゆる治療は対症療法に過ぎない。
不安そうなエメリッヒを励ますように、ファルマは告げる。
「治療薬がない。それは、創薬の出発点でもあるんだ」
自殺するより、君自身の手で研究をし、数々の手段を試して克服できるように取り組んでゆこう。
ファルマはそんな、気休めともとれる言葉でエメリッヒを励ました。
そしてファルマは、決して気休めで済ますつもりはなかった。
「では、さっそく君の遺伝子に異常があるか調べてみようか。君の妹と弟たちとは連絡が取れる?」
「はい、とれます。近くに引っ越してきました」
「全員、研究室に連れてきてもらえるかな。細胞からDNAをとってそれを分析したいから。まず、私たちの推測が正しいのか、本当に致死性家族性不眠症の遺伝子変異が起こっているのか確認しよう」
異界の研究室にある最先端機器を使えば、わずか一時間の間しか滞在できないが、現世と異界を往復しながら遺伝子変異の有無を調べることができるかもしれない。異界へ行くことはファルマの現世での実在を危うくするため、できれば近づきたくなかったが、教え子の一大事とあってはそうも言っていられない。
「わかりました、すぐ連れてきます」
エメリッヒは、自らを蝕み、死に至らしめるかもしれない病と、臆することなく向き合うことにしたようだ。
時間は刻一刻となくなってゆく。
いつ発症するか分からない。
発症すれば死ぬ。
でも、諦めるには、まだ早い。
「あの、そういえば、教授が先ほど一緒に食事をしておられた女の子は、ご友人ですか?」
エメリッヒは妹弟と言われて何かを思い出したらしく、ファルマに尋ねる。
「ロッテのこと? メディシス家の使用人で、薬局の職員だけど。どうしたの?」
「いえ……その、他人の空似とは思えないほど、あまりにも私の妹に似ていて……」
「へー。珍しいことがあるもんだな」
ファルマは何の気なしに聞いていた。だが、エメリッヒはどうも引っかかったのだろう。
「ちなみに、彼女の名前を聞いてもいいですか?」
「シャルロット・ソレルだけど」
「ソレル?」
エメリッヒの手が止まった。そして、彼は申し訳なさそうな顔をしてファルマに告げる。
「私の家系と、同じ姓ですね……厳密には違いますが、私の一族の姓のSolé(ソラ)の、サン・フルーヴ帝国読みがソレルです。この帝国では珍しい姓だと思います。私どもの一族と、彼女の間に血縁がなければいいのですが……」
「それは、つまり……」
ファルマは背筋がぞくりと凍り付くような思いをした。
ロッテから聞いた話が頭を過ったのだ。
ロッテの父親は平民だが、ロッテが生まれて間もなく、原因不明の難病で亡くなったということを……。
5月25日、異世界薬局2巻の発売日です。ウェブ版、書籍版ともどもよろしくお願いいたします。
【謝辞】
本項は、内科医の中崎実先生にご指導いただきました。先生ありがとうございました。
【参考資料】
「眠れない一族~食人の痕跡と殺人タンパクの謎~」ダニエル・T・マックス著




