5章10話 ジュリアナとの再会と、新学期
9月下旬。サン・フルーヴ大市で仕入れた香辛料をふんだんに使い、ファルマは薬局職員や得意客、関係者を招いて行う恒例の野外シークレットカレーパーティーを開催していた。
今年も河原で開催されたオープンパーティだが、招待人数も増えシークレットとはいかない規模になってしまった。
これほど規模が大きくなれば女帝に隠れてという訳にもいくまい、ファルマは気を遣い女帝を誘ってみたが、辛いものが苦手との理由で辞退されたので内心ほっとしたものだ。女帝が参加すると参加者たちが萎縮してしまい、日頃の感謝を伝える会にならない。さらに、食事の後に企画している舞踏会も気軽なものではなく「皇帝の大舞踏会(Le Grand Bal)」というものになって格式が上がり、おそらく作法を知らず踊れない者が続出することになる。
しかし、ほっとしたのもつかの間、女帝が来ない代わりに当日になってルイ皇子が送られてきた。庶民がお目にかかることのできない皇子がパーティーにやってきたので、皇子を接待して点数稼ぎをしようとする常連客もちらほらいた。とはいえ、皇子の周囲は護衛に近づかせてもらえなかったが……。
「ようこそおいでくださいました。私どもの料理は、殿下のお口には合いましたでしょうか」
無心でカレーを頬張る皇子に、ファルマは挨拶をする。気さくにファルマが皇子と言葉を交わす様子を見た常連客たちは驚いていたが、大帝国の皇子であろうがファルマの受け持ちの患者なのだということを思い知ったらしく、「そんな薬師様に自分たちも診ていただいているなんて!」と誇らしそうにしていた。単純なものである。
「うん、気に入った。メディシス家の料理人を連れて帰るぞ」
(お、大好物じゃないか。子供はカレー好きなもんだよな)
よかった、と思いながらもファルマは当たり障りのない回答を送っておいた。
「それは困りました。料理人がいなくなったら今日の我が家の夕食をどうしましょう」
「ははは、冗談だぞ」
ファルマの弱った顔を見て、皇子は自尊心を満たしたようだ。
前菜、メインのカレー、数々のオードブル、スイーツを振る舞ったあと、楽団の演奏と舞踏会が始まる。去年と同様、エレンを誘うべきかと思ったファルマだが、当のエレンはパッレと派手に喧嘩をしていた最中だった。腹ごなしなのか、河原で神術戦闘になっている。
「今日という今日は、色々とはっきりさせておかないといけないようね!」
「それはこっちのセリフだ。口を動かすより杖を振れ! ずぶ濡れにしてやる!」
(もう。ほどほどにしてよ、二人とも……皇子もご臨席なんだからさ)
ファルマは氷で彼らと招待客との間に防壁を張った。
二人の水属性神術使いの戦闘で皇子や客がずぶ濡れになってはいけない。
(何ですぐ示し合わしたように果し合いになるんだろうな、あの二人は……仲がいいやら悪いやら)
ファルマが軽く首を振りながら踵を返すと、ロッテと視線が合った。
こちらは、デザートのショコラを食べすぎて頰がリスのように膨らんでいる。
「もひかひてヒョコラひります?」
何を言っているか分からないほど、酷い状態だった。
「ショコラはいらないけど、今年はロッテを誘ってもいいのかな」
バロックダンスの心得がなくて踊れないであろうロッテに恥をかかせてはいけない、去年はそう思って誘えなかったファルマだが、今年はどうだろう、と誘ってみるとロッテは大喜びで、
「はりがとうございます! ひひんへふか? ほっぺも嬉ひいれす」
(とっても嬉しいって言ったんだよな?)
「お相手いただけますか? お嬢さん」
ファルマが作法通りにダンスに誘ってみると、ロッテは真っ赤になった顔を両手で仰ぐ。
「へひ!」
(ぜひって言ったんだよな?)
彼女は口の中のものを片付けると、嬉しそうにファルマのエスコートを受けた。
「えへ、薬局のお昼休みなどにエレオノール様に教えていただいた甲斐がありましたあ!」
今年はエレンの特訓を受けて、バロックダンスを習得していたというロッテである。
ダンススペースでは円陣になって踊るフォークダンスのようなガヴォットが終わり、オーケストラはペアダンスのメヌエットを流しはじめる。メヌエットは複数のペアで踊るダンスで、厳密なフォーメーションがあり、一人でも下手だったりステップを間違えると台無しになってしまう宮廷舞踊だ。とはいえ、誰もが踊れるように、よく知られた有名なものばかりを集めた構成になっていた。
「上手だな、ロッテ」
軽やかなステップを踏み、くるくると踊るロッテの手を握りしめながら、ファルマは微笑む。公式の場で踊るのが初めてとは思えないほどの熟練ぶりだ。日ごろの練習の成果がうかがえる。
「まさかファルマ様にお相手をしていただけるなんて、夢のようです」
「まさか? じゃあ誰と踊るつもりだった?」
「……っ、そんな」
ロッテは動揺しすぎて躓いてしまったので、ファルマは彼女が転んでしまう前にそっと腰に手を回して受け止めた。
「あっ、ありがとうございます!」
曲が終わった頃には、エレンとパッレの果し合いは終わっていた。二人ともくたばっていたので、担架と馬車でそれぞれの屋敷へと運んでもらった。
「あいたたた。もう、パッレ君たら全然手加減ないんだから!」
翌日、いっそ清々しいほどパッレと果たしあったエレンは全身ガチガチになりながら出勤してきた。
「兄上に手加減なんてものはないよ」
ファルマは実感のこもった言葉を返す。
患者には手加減するだろうが、女子供にも容赦ないのがパッレである。
「ああ、体が石のよう! こんなときにジュリアナちゃんの神術按摩があればほぐれるのに……あの子今度はいつ遊びに来るのかしら」
「ジュリアナか……ここに戻ってこれるのかな」
ファルマは神聖国のジュリアナ宛に何度か手紙を送ったが、梨のつぶてだ。そろそろ帝都の神官に催促をした方がいいと思っていた頃合いだった。
「そんなに深刻な感じで言わなくても。あの子はあの子で忙しんでしょ」
エレンが、大げさねと言いながら眼鏡をかけなおす。
「ファルマ様、ジュリアナさんに会いたいのですね。懐かしいですものね、私もお会いしたいです~」
ロッテがジュリアナの代わりにエレンの肩を揉みながら懐かしがる。薬局職員は事情を知らず、ただジュリアナは国元に帰っただけと思っているからだ。
(心配になってきたな、まさか神聖国で酷い目に遭ったりしていないよな)
ファルマに肩入れをしたばかりに、神殿で憂き目に遭ったりはしていないだろうか、神聖国までの道中は無事に帰れただろうか……。
諸々のことが気になったファルマは、こうしていても埒が明かないと考え、ぶらりと帝都の神殿を訪れた。監視対象がのこのこやってきたので神殿は大騒ぎになり、平静を取り繕いながら神官長のコームが対応する。ファルマは神殿の中には入らず、神官長を外に呼び出して用件を告げた。
「こんにちは。神聖国にいると思われるジュリアナさんに連絡が取りたいんですが、何度手紙を送っても返事が来ないんです。神官長さんから問い合わせていただけませんか?」
「これはこれは、薬神様。彼女に何の御用で」
ジュリアナの名が出てきて、コームはあからさまに挙動不審になった。
慌てる様子を見てますます不審に思ったファルマは、毅然として尋ねる。
「彼女に預けたものを、大神殿にきちんと届けてもらえたかなと思いまして」
宝剣に込めた神力をジュリアナがきちんと大神官に渡したかどうか確認したい、とファルマは言い渡す。
「もう一つは彼女に神術按摩をやってもらいたいなと思いまして」
「神術按摩でしたら、帝都神殿にも得意な者がおりますので、呼んでまいりましょうか」
「ジュリアナさんを指名したいんです」
ジュリアナさんのが具合がよくてですね。と、ファルマは強調する。
ファルマは断固として譲らなかったが、あまりにも彼がジュリアナに固執するので、
「さては特殊なマッサージをご希望ですかな」
アレが具合がいい、ということは、なるほど……と、神官たちがひそひそ話していた。失礼極まりない話である。
「違います!」
(そっち系の嬢の指名みたいになっちゃったじゃないか……)
妙な詮索をされて微妙な空気になったものの、ジュリアナの安否をぼかされたまま引き下がるわけにもいかなかったので、ファルマはすたすたと歩いて行って神殿の外壁にぴたりと手を当てた。
「? どうなさいましたかな」
「この外壁、大神殿と同じ素材でできていますよね?」
「そうですが」
コームは立派な外壁に手をかけたファルマを眺める。ファルマはコームを見据えながら、右手に集中した。
(”炭酸カルシウムを消去”)
ファルマが消去の能力を使うと、外壁の素材の中から主成分である炭酸カルシウムが消滅し、神殿の囲いが一瞬で蒸発した。
「ひっ、……ひいいっ! なっ、何をなさったのです!?」
ファルマのさりげない脅迫に、コームは震えあがった。
コームはファルマの物質創造と消去の能力を知らないので、守護神ならではの秘術を使って壁を破壊したものと思い込んだ。
大神殿は神力を吸収するように神術のかけられた単一素材でできている、というのはサロモンの言葉だ。単一の素材であるなら何だ、消せるじゃないか、とファルマは考えて実行してみただけである。
「噂によると、大神殿は地下が何十層もあるんですっけ?」
ファルマはすっとぼけながら尋ねる。
「なら、大神殿の全ての床が抜けたらどうなりますかね?」
神聖国にいる神官全員、ファルマが術を使った瞬間何十メートルも落下して最下層に叩きつけられ、戦わずして即死だ。コームは鼻水を垂らして頷いた。
「俺、その気になれば1時間もあれば神聖国に行けますけど」
「し、神聖国にかけあってみます……」
数日後、神官二人に脇を固められて、異世界薬局の前に一人の女性が連れられてきた。
ベールを被っていて顔はよく見えないが、それが誰かはファルマにはすぐにわかった。どうやら、神聖国がファルマの脅迫に屈し、ジュリアナを差し出してきたらしい。
(ちょろすぎるな、神聖国)
などと思いながら、ファルマは再会を喜ぶ。
「ジュリアナ、元気にしてた? 中に入って」
「きゃーっ、ジュリアナちゃんじゃない!」
エレンは大歓迎だ。按摩をやってもらいたいのだろう。しかし、ファルマから見たジュリアナは、やつれたように見えた。お付きの神官は店舗の隅に居座り、ジュリアナが逃亡しないかを監視している。
「あの、話が済んだら彼女は安全に神殿に送っていきますけど」
ファルマが暗に神官たちを厄介払いをしようとすると、神官たちは首を左右に振った。
「お待ちしていますのでお気になさらずごゆっくりお話しくださいませ」
「あ、そうですか」
カウンセリングルームに通したジュリアナが沈んでいる様子だったので、ファルマが先に声をかけた。
「なんかの歯車を動かす神力は足りた?」
それを聞いた途端、ジュリアナにじわりと涙が込み上げてくるのを見て、ファルマは二階の感染隔離者用の診察室に場所を移すことにした。神官たちは話を盗み聞きできなくなって舌打ちをしたが、知ったことではない。
「ここなら安全だ。窓もないし防音がしてあるから声も階下には聞こえない、何か話せることがあったら聞かせてほしい」
ファルマはジュースのボトルを開封し、ジュリアナに飲み物をすすめながら彼女に質問する。
「ファルマ様の神力のおかげで、鎹の歯車を175年分巻き戻すことには成功しました」
「それは何よりだ」
ファルマはジュリアナが目的を果たすことができたと聞き、ほっとした。
「ですが……私は世間知らずで、バカでした」
ジュリアナはぽつりぽつりと打ち明けた。大神官はファルマと話し合いをするつもりはないようで、大神殿の地下に封印しようとしていることを。そのためにより威力の高い神封じの術の開発を急がせていること。ファルマに危険が差し迫っていると。ジュリアナは悔しそうに話した。
「そうか。よく話してくれた……でも、大丈夫だよ。相手がどんな手できても、そうそう封印されるつもりないし。俺もそんなに馬鹿じゃないつもりだ」
「そして私はまた例の宝剣を持たされています……」
「ははあ、さっそく君が刺客なのか。それを正直に言ってくれる刺客もどうかと思うけどな」
まいったな、と言いながらファルマは苦笑する。すると俯いていた彼女のベールの下に、顔を殴られたような痕があることに気付いた。顔だけではなく、体にも痣が見えていた。ファルマはすぐに、ジュリアナに手当てを施す。
「想像以上に酷い目に遭っているんじゃないか? 俺は協力するって言ったのに、何でそうなるんだろうな」
「守護神様と人間は話が通じない、信用できないと、大神殿ははなから思い込んでいるようなのです」
(確かに、神殿ぶっ壊すって脅したけどさ。それとこれとは別だろう)
ファルマは頭が痛いところだ。
「ところでどういう経緯で君は、話が通じないと思われている俺から神力を取ってくる係になったんだっけ?」
枢機神官、つまり異端審問官であったサロモンより上位の神官だと言うわりには、ジュリアナは神力などもサロモンと比べても見劣りがするので、ファルマは疑問に思う。
そんな彼女に秘宝ともいえる宝剣を預け、火中の栗を拾わせるのもいかがなものか。それほど神殿は人材不足なのかと問いたいファルマである。
「私は鎹の歯車の啓示を受けた者として選ばれましたから……。それ以来、選ばれしものとして特別な教育を受けてきました」
「啓示はどんなものだった?」
「何度か、世界が歪んで見えない歯車が現れるのを見たことがあります。それも、何度も。他には、体中が痙攣して憑依状態になったり。そういう体質なので、見出されたのだと思います」
(へー……)
ファルマは意外な言葉に、少し考え込んだ。そしてまさかとは思いながらも尋ねてみる。
「啓示のあと……強烈に頭が痛くなったりしてない? 長ければ数時間ほど」
ジュリアナは目を丸くする。
「しました! 必ずといってそうでした! 神官たちは、それこそがまさに守護神様からの天啓だと……!」
症状を見て来たかのようにぴたりと言い当てたファルマに驚き、ジュリアナは興奮気味に頷く。
「それだったら、閃輝暗点じゃないかな。あと、てんかんもあったんだろう」
ファルマは診療机に突っ伏しそうになりそうなほど脱力しながら彼女に告げた。
そういう症状を見た第三者が、神がかりや悪魔憑きのような話を吹聴するのだろうな、とファルマは嘆かわしい。ジュリアナの状態を診眼で診る限り、今はおさまっているようだ。
「閃輝暗点というのは片頭痛の前兆現象のことだよ。脳の血管が収縮し、それから拡張して視覚野に影響を及ぼしたときに、チカチカする歯車や渦巻き、空間が歪んだように見える。神秘現象ではなくて誰にでも起こりうる生理現象だけど、ジュリアナさんは片頭痛がひどい人なんだろうな」
ファルマの話を理解できないジュリアナの首が、どんどん傾いていった。
「つまり、誰でも見える、ということですか?」
「もし、それだとすればね。その歯車、子供の頃は何回も見たけど、今は段々減ってきてるだろ? そしててんかんは憑依とか関係なくて脳が興奮した状態なんだけど、それも今はないんだろ?」
閃輝暗点は成長するにつれ、なくなる場合がある。てんかんもだ。
今現在悩んでいるのなら、予防のために薬を処方してもいい。
「そうだったのですか! まさか守護神様に、お前は選ばれしものではないと教えていただくことになろうとは……」
ジュリアナは複雑な顔をした。
選ばれし者としての修行や苦労は水の泡ではある。だが、清々しそうでもあった。
「胸のつかえがとれました」
「それはよかった。君のような子は他にもいるのか?」
基本的に枢機神官になるには神術の腕が優れていることが条件なのだそうだが、ジュリアナのような境遇で枢機神官になってしまった人間は、他に数人いるという。かといってジュリアナを再び神殿に戻せば、どんな仕打ちが待っているか分からない。彼女は枢機部の秘密を知り過ぎてしまったのだ。
「神聖国を抜けて、帝国民になる意志はある?」
「それができたら、どんなにいいか……ですが、国籍を捨てることは容易ではありません、ましてや、神聖国を抜けたら殺されます」
「そっか。じゃ、任せて」
ファルマはそう言って一階へ降り、一直線に神官たちの方へと歩み寄った。神官たちは話が終わったのかと立ち上がる。
「ジュリアナさんを保護しますので、神聖国へお引き取りください。本人も帝国に残ることを希望しています」
神官たちは面食らった。そして、強硬姿勢を向けられ言葉に詰まる。
「な、何をおっしゃっている。そんなわけにはまいりません、彼女は神官であり神聖国の臣民だ」
ファルマはしかし怯まなかった。
「彼女の体に、無数の痣や傷がありました。彼女は“迫害を受けて母国に居住できなくなった者”に該当します、ならば彼女は難民です。セドリックさん、国際法・難民保護条約ではそうですよね」
「国際条約では、迫害を受けていると認定された場合、その人の生命や自由が脅かされる国へ返してはいけないとありますな」
何の事情も知らないセドリックが、法に照らし合わせて即答する。セドリックの頭の中には帝国法や国際法が完璧に入っていて、まさに生き字引といえる存在だった。話を聞いていたエレンはジュリアナの窮状を即座に察し、こう言って加勢した。
「神聖国も国際条約を締結しているのではなかったですか?」
神官たちはどうすることもできず食い下がったが、ファルマが頑としてジュリアナを出さなかったので、手ぶらで帰るしかなかった。
ジュリアナは神聖国の国籍を放棄し、難民として認められた。神聖国が不当だと抗議してきたが、ファルマは先手を打ってジュリアナの体にできた傷跡を写真におさめ、帝国と神聖国に中立な第三国の医師を呼んで診断させ、報告書を作成させていたので引き渡しには応じなかった。
ファルマが女帝にかけあったおかげで、一週間後には帝国籍が与えられ、宮殿で手厚く保護されることになった。そして宮殿でサロモンの姿を見ると、ジュリアナは幽霊にでも会ったような顔をしたという。
「しかし大神殿はけしからんな。帝都から追い出してもよいのではないか」
女帝はジュリアナの境遇や、ファルマがジュリアナに襲撃された旨を聞いて憤慨していた。
「神術を掌握しておるため、そうもいかないのが実情でございます」
サロモンが女帝に応える。
帝国を含め神聖国以外の国々が神殿に強く出れない理由は、神脈を開閉する術を神聖国が独占していて、神官たちがいなくなればその年の新生児から一人も神術使いになれなくなるからだ。
帝都だけ追放しても、帝国は広大だ。帝国各地の神殿が一斉に引き上げてしまっては、帝国は一気に無力化する。実際、過去の歴史を見ても神聖国に刃向かって神術を捨てた国はすぐに弱体化し他国に蹂躙され、再び神聖国に服従することになった。
しかし今や帝国は、それまで呪紋で縛られ神殿を裏切ることのできなかった神殿の枢機部の秘密を知る枢機神官がファルマの解呪で寝がえり、神術の全体系を知る元異端審問官であるサロモンを手に入れている。二つの手札を得て、動くなら今だ、と女帝は心を決めたらしい。
「サロモン、ジュリアナ。そなたらに密命を下す」
女帝から二人の元神官に下った密命。それは守護神を敬い、虚礼を廃止し神殿本来の教義に則った実践的な正教を創始し、優秀な神術使いを神官として育てろというものだった。
「守護神は我が国にあり、もはや神聖国の好きにはさせぬ」
神聖国に知られてしまえば、国際的に帝国討伐を呼びかけるための口実にされかねない危うさを孕んだ行為だった。
ファルマはそんな動きがあるとはつゆ知らず、遂にサン・フルーヴ帝国医薬大学校の新学期を迎えていた。ファルマはセレモニー用の大学指定の教授用の角帽を被り、学部章と金の細工のついたローブをつける。エレンがきゃーきゃー言って写真を撮った。
「絶対面白半分だろ」
「そんなことないわ、似合ってるわよ~、ファルマ教授。そのサイズの小さいアカデミックガウンは特注ね、きっと」
「そりゃ特注だろうな。ってか俺の入学式じゃないし何枚写真撮ってるんだよ!」
他にそうそう子供教授がいてたまるか、とファルマは思う。
「入学式って何? 卒業式は盛大にやるけど」
「そっか。入学式はやらないんだったな」
エレンが笑う。日本人の感覚的には入学式は盛大にやるものだが、欧米には殆ど入学式はないというのをファルマは思い出す。入学の時期がバラバラだからだ。
指定された時間にエレンと大講堂に赴くと、既に学生が集まりはじめていた。ファルマは教員側なので他の教授陣らと共に壇上に上がり、決められた席に着席する。
定刻通りに大学の鐘が鳴り、国歌演奏のあと、ブリュノが登壇し、総長告辞を行う。副学長が入学者全員の名前を読みあげると、学生たちは起立する。
第一回生は、
医学部 30名
薬学部 20名
総合医薬学部 30名
臨床検査学部 20名だ。
「以上、100名がサン・フルーヴ帝国医薬大学校一回生である。諸君らの入学を許可する。代表者、首席、エメリッヒ・バウアー」
緊張気味にブリュノから入学許可証を受け取った首席の青年は、ファルマの見覚えのある学生だった。
(あの子が医薬学部の首席だったのか。ドイツ人っぽい名前だな)
ファルマからしてみれば、あの”子”である。
合格発表の日、「子供に教わるなんて聞いてない」と逆上しファルマの講義を受講することを拒否していた青年だ。
(優秀な学生があんなことでぶちギレて退学なんてことにならなくてよかった)
その後、制服はないが、伝統的に学部章の刻まれた帯杖ベルトを付ける決まりになっており、贈呈セレモニーが行われた。受験という難関を潜り抜けてそれを手にした学生たちは感動して、感慨深そうにベルトを握りしめていた。
今年はファルマの強い希望で、神術の使えない平民学生の特別選抜枠ももうけてもらったので、杖帯ベルトではない大学指定のベルトを貰っただけの平民もいるが、同じ学部の学生だ、神力の有無や人種で、差別はしない。
「今学期より大学の新編成により、全学部の体制が刷新された。各学部長からそれぞれ挨拶を」
各学部長挨拶の場面になった。勿論、ファルマも挨拶をしなければならない。
ファルマは高揚してくるのを感じていた。




