5章8話 船乗りとビタミン、そして合格発表
本日は2話あります。前話がありますのでご注意ください。
「ファルマ様。マーセイル港から伝書鳩が届いています」
工場労働者たちと談笑していたファルマたちを、代行領主のアダムが呼びにきた。
「誰からだろう?」
海上と聞いて、ファルマは一瞬嫌な予感がする。まさか、検疫に引っかかった船がいる、などという報告ではあるまいか。毎年8月から9月に開催される恒例のサン・フルーヴ大市に向けて世界各地から商船が集まってくるというので、ファルマは今年も一級薬師を雇い、検査方法を教えて港での検疫を行わせていた。
「東イドン会社 サン・フルーヴ・ロワイヤル号のジャン提督が急用とのことです。至急、マーセイル港三番ドックへお越しくださいと」
「ジャン提督が……何だろう」
「ファルマ様、急用ですか?」
「えーあにうえー行っちゃうのー?」
ロッテとブランシュがファルマに尋ねる。
「今からマーセイル港に行ってくるよ。それとも、二人とも来る?」
「はい、ご一緒します」
ロッテが快諾する。ファルマたちが直ちにマーセイル港に馬で駆けつけると、フリゲートに守られ、ひときわ大きな帆船の戦艦がマーセイル港に入港したところだった。
「お、お前も来たのかファルマ」
パッレもブリュノと共に、たまたま港に視察に来ていた。
パッレは戦艦を見に来たらしい。ブリュノは東イドン会社の重役に案内を受けていた。
「おーい」
船が近づくとともに、甲板からひとりの男の声が聞こえてくる。ファルマも手を振った。東イドン会社第1等戦列艦の緋色の旗が、晴れた空に眩しい。ジャン提督の艦だ。
船乗りの飴を大量に買い付けたジャン提督が、部下を引き連れ艦から降りてきた。ジャン提督はまず、マーセイル領主のブリュノの姿が見えたので、ブリュノに先に挨拶をする。ブリュノもこれに応じた。
「長期の航海ご苦労であった、提督」
「船に尊爵のお弟子の薬師をお借りして、助かりました」
遠洋航海に、ブリュノの弟子を連れて行ったらしい。
「私の弟子も修業になってよかっただろう。御社からのマーセイル領への献金と、海賊の取り締まりなどの協力にはいつも助けられている」
ブリュノはジャンを労う。
「なあに、港を使わせてもらってるんだから当然のことです」
東イドン会社は、代行領主アダムと上手く折り合いをつけてマーセイル港を利用しているらしい。
「船員ともども、しっかりと休養し長旅の疲れを癒されるよう」
「ありがとうございます」
ジャン提督はブリュノに敬礼を送った。ブリュノに挨拶を終えて、ジャン提督はひょこひょことファルマのもとに近寄ってきた。
「呼び立てて悪かったな、店主さんよ。マーセイル領に来たと聞いたんでな」
「ジャンさん。最近、薬局にお見えにならないと思ったら」
ファルマも懐かしがる。かれこれ二か月は、ジャン提督の顔を見なかった気がする。
「てーとくさん、かっこいい」
一緒についてきたブランシュが目をキラキラさせてジャンを見ている。
「ジャンさんだよ。ブランシュも会ったことあるじゃないか」
「えーしらない人!」
ブランシュは、薬局の常連のジャン老人だと気づかないようだ。紺の上着の袖口と襟元に金のレースをあしらい、金の肩章、白いインナーの提督の正装で近づいてきたジャンを、ブランシュは見違えた様子だった。
(ビコルヌの帽子と制服に弱いからな、女子は)
ファルマは、ブランシュの属性に一定の理解を示す。
「やーっと長旅から戻ってきて、さっき検疫を終えたところじゃ。ふう、やっぱり陸はええのう。人間は陸に住む生き物じゃわい」
「暫くお会いしていませんでしたが、お体はお変わりないです?」
長期航海は老人には大変だろう、とファルマは心配になる。
「あまり調子もよくないが、そうも言っておられんでのう。今年は胡椒の生産地で大規模な病害が発生して不作じゃったし、既存の植民地をめぐる争いも勃発しておるから、陛下のご下命で新たな土地を目指して航路を開拓しておったんじゃ」
「新航路の開拓ですか」
ファルマはジャンのバイタリティに驚かされながら話を聞く。
ブリュノは黙ってそのやり取りを見守り、パッレは泣く子も黙るジャン提督と聞いて一歩引いていた。ロッテに至っては、遠目からではあのジャン老人だとは気付かず、恐れ多いと物陰に隠れてしまっている。
「お前さんのおかげで新大陸を発見したぞい。帝都で話してもらっては困る、ここだけの話じゃがのう」
海の男ジャンは、あごひげをいじりながら誇らしげに言ってみせた。
「だっ、大発見じゃないですか! 偉業ですよ!」
ファルマは興奮する。島ではなくて大陸とくれば、地球でいうところのアメリカ大陸発見級の大偉業である。しかしジャンははにかんだように「まあのう」とだけ答えた。そして、
「いやあ、それもこれもお前さんのおかげじゃあ! 悪霊の住まう呪われた海域、”船の墓場”を抜けねばならんかったり、島が全く見えなくなる海域もあったりで航海自体にも苦労が多いが、航海の一番の敵は食糧事情じゃった。今回はそれが劇的に改善され誰も死ななかったんで、思い切って遠くに足を伸ばすことができたんじゃあ!」
船から降りてきた航海士たちも、ジャン提督の後ろで首を縦に振っている。
(悪霊の住まう船の墓場って何だ、凄いな。この世界のことだから、比喩でなくて本当に悪霊がいるんだろうしな)
ファルマは別の部分で衝撃を受けていた。
「びたみんしぃとやらを豊富に含む船乗りの飴は、腐りもせんし場所もとらん画期的な発明品じゃ。それに、指示通りに神術の生成水の入った水樽にあんたのくれたカルキっちゅう薬を入れたら、水が腐らんようになった。他にもあんたの言う通りに肉や魚をビンに詰めて航海に出たら、腐らんかったのう」
ファルマはジャンの相談を受けて、遠洋航海での食糧や水の保存に関する注意事項をいくつか伝えていた。さらに、風属性神術使いを雇用することで、帆船に安定した風を孕ませて加速し、水属性神術使いに新鮮な水を給させるといい、とも意見していた。
それを丸呑みで実践したジャンは、これまでになく上質の食事と、高速での航海が可能となったと喜ぶ。
船員が栄養不良や病気にかかり次々に倒れれば、航海を中止し戻ってこざるをえなくなる。これまでは、食糧と水などが腐敗する事情で何か月もの遠洋航海ができなかった。
「これはわしの航海のお守りじゃ」
ジャン提督は大絶賛しながら、ポケットから取り出した愛用の飴を頬張り始めた。
「店主さんのおかげだ。今回の航海は陸とあまり変わりなく、快適だった」
「提督が絶賛する通り、あんたは凄い薬師だな」
船員たちも口々に感謝の言葉を述べた。彼らは、異世界薬局がベロンの手先によって襲撃されたときに、片づけを手伝ってくれた船員たちで、ファルマも見覚えがあった。
そんな小さなアドバイスで激変するほど、帆船での遠洋航海は命がけなのだと、ファルマは改めて実感した。
「それはよかったです。少しでも航海が安全になったのであれば」
「で、おかげで死人は出んかったんじゃが、長期航海で壊血病以外の奇病にかかり、死にそうになっとる船員が数人おるんじゃ。もしかしたら悪霊のせいなのかもしれんが、そいつらをみてやってもらえんかのう?」
「わかりました。それで呼ばれたのですね」
荷おろし作業の始まる中、担架で運ばれてきた患者たちは三名。
彼らは下痢が止まらず、体中の皮膚という皮膚が荒れ、意識も朦朧とし、もっとも酷い者は幻覚まで見ているという。ファルマは三人が同じ症状と聞いて、パッレと共に視診をはじめた。
「確かに。皮膚がボロボロになって荒れていますね。水疱もひどい、皮膚には赤黒く色素も沈着してますし」
ファルマは患者の服の袖をめくる。
興味深いことに、服で隠れている部分に炎症は生じていない。
「日の当たる部分だけかな、炎症が起きているのは」
ファルマはカルテに書き込む。
「なら光線過敏症か? いやでも、それだけでは他の症状が説明がつかない」
ファルマと同じように症状を診たパッレが言った。
「兄上、よく見てくれ」
ファルマが発疹の生じた部位を示す。
「左右対称に発赤が出てるんだな……じゃあ、この症状はもしかして、あれの不足か」
舌も確認すると、赤茶けて炎症を起こしていた。
「そう、あれだ」
ファルマは頷いた。
「ペラグラ、つまりナイアシン欠乏症でしょう」
ファルマは患者に診断を伝える。診眼で確認しても間違いない。
「そりゃなんじゃあ? 治るんかのう」
後ろで話を聞いていたジャン老人は聞きなれない病名だったからか、船員の身を案じるような言葉をかけた。
「船員さんたちはアルコールをよく飲みますか?」
ファルマは患者らの背景を尋ねる。
「大酒のみばかりだのう」
意識のおぼつかない船員に代わって、ジャン提督が答えた。
「それでしたら」
アルコールを過剰に摂取する人では、特に起こりやすい病気なのだということをファルマは説明した。
「うぐっ、酒がそんなに悪いんかっ! ラム酒をたしなむぐらいじゃー!」
ジャン老人は胸に手を当てて苦しげに呻く。
大酒を飲んだ心当たりがあるらしい。
「ジャン提督に申し上げたのではないですよ」
「そ、そうか」
「何事も飲み過ぎ、食べ過ぎ、食べなさすぎはいけません。この方々はナイアシン欠乏症と考えられます。長旅での慢性的な栄養不足に加えて、日光に当たることによって発症します」
ブリュノはファルマの説明を聞いてメモをつけていた。
「びたみんしい、じゃないやつなんか」
ジャンはしょんぼりとした顔で首をひねる。
「同じビタミンの仲間です」
ナイアシンは、発見当初ビタミンB3と呼ばれていたこともあった。ちなみに、ビタミンは以前、発見順にA、B、Cと命名されていたが、化合物の構造が明らかになった今では、ビタミンB3という名称は正式には使われていない。
現在、発見されているビタミンは全13種類。
ビタミンA(レチノール)、ビタミンD(カルシフェロール)、ビタミンE(トコフェロール)、ビタミンK(フィロキノン)、ビタミンB1(チアミン)、ビタミンB2(リボフラビン)、ビタミンB6(ピリドキシン)、ビタミンB12(シアノコバラミン)、パントテン酸、ビオチン、葉酸、そしてビタミンC|(アスコルビン酸)とナイアシンである、とファルマは説明する。
「なるほど……また新しいびたみんが足りんかったんか。そして13種類もあるんか! びたみんを摂るのは大変じゃのう。……それに船上では、日光は避けられんからのう。治療法はあるんかいの?」
「不足しているナイアシンを摂取すれば治ります。他の症状も徐々におさまってくるでしょう。三人分、同じ症状のようですので、錠剤を処方しておきますね」
ファルマの診眼では、手遅れというほどではなかった。そこで彼はニコチン酸アミドを大量に処方し、ビタミンB群の服用を経口摂取で行い、また同時にアルコール性の肝障害が起こっていると懸念されたので、酒を控えるようにと注意を促した。
「おお、それは助かった! 栄養は大切なんじゃのう」
ジャン提督の背筋が伸びた。
しゃっきりと腰を伸ばしたその拍子にぎっくり腰をやって部下に担がれていた。しゃっきり、ぎっくりのコンボに、ファルマは湿布の処方も追加する。
「ぐおお、痛いのう。ここまで帰ってきてやってもうたぁ」
「船乗りや旅人のために、栄養学的に人体に必須の各種のビタミンの入った飴か錠剤を造りましょうかね。あと、ジャン提督はカルシウムも必要でしょうね」
ビタミンとミネラルを合わせたサプリメントの開発を、東イドン会社と約束したファルマだった。
「助かるのう! サン・フルーヴ大市が終わったら、新大陸に調査隊を派遣せねばならんし、その時までに頼むの!」
「わかりました、間に合うようにしましょう」
商船が安全に航路を通行できるように、サン・フルーヴ大市が終わるまでは帝国からの依頼を受けて帝国湾岸の警備につくという。東イドン会社は、帝国海軍のような役割も担っているのだそうだ。
それを聞いたファルマは、重要なことを思い出した。
「あ、そういえば新大陸には、人は住んでいましたか?」
「いや、まだ見つかってないがのう。見たこともない植物はあったが、いきなり探検するのは危険じゃから、大陸には数時間ほど上陸しただけで何も手をつけず、焦らずに一度戻ってきたんじゃ」
ジャン提督の判断は正しかった、とファルマは絶賛したい。
「もし先住民を見つけたら、どうしますか?」
「先住民がおったら、侵略は国際条約で禁止されておるから、貿易じゃのう」
住民がいない場合は帝国の旗を立て、開拓要員を駐留させ入植地にする、ということだった。ファルマはとりあえず新天地を侵略、という流れにならないことにほっとした後、厳重に注意した。
「新大陸の先住民、動物、植物との接触には細心の注意を払ってください。未知の病気を持っている可能性がありますから。未知というのは、あなた方の免疫にない病気という意味です。最悪では、死病となります」
かつて地球では、アメリカ大陸発見とともに、天然痘、麻疹や流行性耳下腺炎などがヨーロッパからアメリカ大陸にもたらされることになった。アメリカ先住民たちには特に、天然痘の免疫がまったくなかったため疫病が流行し、多くの人々が病で命を落とした。
ファルマは念のために、船員全員の検疫を診眼を使って行ったものの、新大陸からもたらされた病原菌などに感染した者などはいなかった。
(にしても、新大陸か……夢が広がるな)
トウモロコシやかぼちゃ、トマトが発見されたらいいな……などとファルマはひそかに期待を寄せた。
ファルマは帝都に戻り、薬局の営業の合間を縫って、10月から同じ講座で働くことになるエレンと、帝国医薬大学校で諸々の手続きや準備、運営会議、委員会などをコツコツ済ませてゆく。
彼が研究科長を務めることになる総合薬学科の新しい研究棟は完成し、研究室の立ち上げにかかわる数々の設備や器具などの調達などを行った。秘書と研究助手も、多数の応募者の中から一名ずつ採用した。
彼の執筆した教科書も大学の売店に並び、新学期から必修の教科書となりつつある。
サン・フルーヴ帝国薬学校は、サン・フルーヴ帝国医薬大学校として生まれ変わり、学部は旧サルレノ医学校が母体となる医学部、従来の神術と薬草をベースとした薬学を教える薬学部、ファルマが学部長を務め新薬を取り扱う総合医薬学部、臨床検査学部へと再編されたのだった。
その日も帰宅の準備をし、エレンと大学構内を歩いていたところだ。
「……あれから一年か。あっという間だよな」
時が経つのは早い、とファルマはしみじみ思う。ファルマが黒死病を駆逐してから一年、サン・フルーヴ帝国医薬大学校から教授への就任を依頼されてからも、はや一年だ。
「そうね。かなり前から準備してきたのに、土壇場になってバタバタしちゃうわね」
エレンは大量の書類の山をバッグに詰め込みながら歩いている。
「仕方ないよ、研究棟が完成したのが先月だったし。大学もいよいよ来月からか、学生に会えるのは楽しみだな」
講義や学生との討論、研究会、指導など、学生と関わるのはファルマが生前、薬谷だった頃から嫌いではなかった。
優秀な学生との出会いは、自身の研究の刺激にもなる。自分の研究室を出た教え子が各地に巣立ってゆき、一線で活躍するのは感慨深く、教官冥利につきるというものだ。しかしエレンは緊張もあり、不安そうだった。
「ファルマ君は相変わらずね、私はちゃんと講義ができるか分からないし、学生は口もたつでしょうから、しり込みしちゃうわ」
珍しくエレンが自信喪失している。
「大丈夫だって。学生にとって食われるわけでもないし」
二人がそんな会話を交わしながらぶらぶら歩いていると、大学の正面玄関のほうに人だかりができていた。
彼らは、大学の玄関に掲示された掲示物を囲んでいるようだった。
「どうしたんだろう?」
ファルマが近づいて彼らが何を見ているのかを確認しようとすると、エレンが彼の腕をとった。
「思い出したわ。今日は午後から新入生の合格発表の日よ。ファルマ君が指導する学生たちがいるわね」
今年は、サン・フルーヴ帝国医薬大学校、略して医薬大は学費無料の特別枠をもうけ、四学部の新入生を帝国内外から広く募っていた。その入試の結果が発表されているのだという。
「へー。って、何百人見に来てるんだ、これ?」
合格発表は実名で行われ、掲示板に名前があるかどうかを受験者たちは確認し、泣いたり笑ったりしている。
「今年の倍率、20倍ぐらいだったんだっけ」
ファルマはうろ覚えだ。
「25.8倍ね。こんなの、大学始まって以来だわ。ノバルート医薬大を途中退学して新規入学してこようとする学生も少なくないとか」
「へー、大人気だな、この大学」
「この大学じゃなくて、ファルマ君の講座が人気なのよ?」
学生たちはどんな顔ぶれなのだろう、と気になったファルマは、少し離れた場所から彼らを見守ることにした。何度探しても名前がなく、失神してしまった学生。嬉しくて小躍りしはじめた学生、親と一緒に見に来た学生など、悲喜こもごもだ。
「っざけんな! 馬鹿にしてるのか!」
受験者の群れの中から、ふいに怒声が聞こえて来た。
「大学まで来て、子供なんかに薬学を教わるなんざ、俺はまっぴらごめんだ!」
異国なまりの青年だった。海外からの学生で、教授が子供だと知らなかった者がいるらしい。
そういえば、玄関わきの掲示板には、伝統的に全ての教授の肖像画が掲げられている。
そこでたった今、ファルマの名前と顔を確認した学生のようだ。
どうやら、合格者たちの話を聞いていると、ファルマを名前だけでしか知らない学生は少なからずいるようだった。ファルマは薬学生や医学者、薬学者の間では世界規模で名が知られていったが、彼が子供だと知っているのは、異世界薬局を訪れる帝都民ぐらいのものだ。
「歯ごたえがありそうな学生たちね、嬉しくて涙が出ちゃうわ、私」
どうなることやら、とエレンは嘆く。
「ファルマ君の講義って、必修なのよね」
文句があって講義を受けなければ、進級の単位を落とすことになるわ、とエレンは言う。
「こりゃ、しょっぱなから波乱含みな気配がするな」
ファルマは苦笑し、小さくため息をついた。
【謝辞】
本項は薬剤師のnene先生にご指導いただきました、どうもありがとうございました。




