5章3話 牛乳売りの少年と、少年薬師
1147年7月のある日の昼すぎ。
薬局から大学へ出かけようとしていたファルマは、薬局の前を手押しの荷車を押しながら横切った少年にばったりと体が当たってしまった。
少年は派手に転んですりむき、荷車が傾いて荷の一部がひっくり返った。
「いてえっ! どこ見て歩いてんだこのクソガキ! ……げっ!」
少年は相手をよく見ずに怒鳴ってしまってから、相手が異世界薬局の店主だったと知る。
「言葉を慎め、無礼者!」
薬局の門番の騎士が凄むが、ファルマが制する。
「いえ、俺のせいです。確かに俺の不注意だった、悪かった。怪我はない?」
「それより、荷物!」
少年がそう言うのでファルマは少年の押していた荷車を覗き込むと、衝突の衝撃で、整然と並べられていた売り物の牛乳瓶から牛乳がこぼれてしまっている。
「ああ、これは弁償しないとな」
ファルマと少年は、微妙に顔見知りだ。少年は早朝から帝都の街頭で牛乳を売り、薬局が昼休憩になる頃、いつもくたびれた顔をして前を通り過ぎる。それを、ファルマは時々見ていたものだ。
「そうだぞ、弁償ものだ!」
少年は起き上がり、荷を確認して吠える。
彼はファルマと同じ歳の少年で、貧民といえる状況の平民だった。
(そういえば、急に痩せたな、この子。食事、十分に食べられていないのかな)
起き上がった少年を真正面から見て、ファルマは内心首をかしげる。
「からかったつもりはなかった。ぶつかったお詫びに、全部買うよ」
ファルマは財布を出し、商品を弁償しようとした。
「どうせ捨てるんだろ!?」
「いいや。飲む」
「……宮廷薬師のお貴族様が牛乳なんて飲むのかよ」
門番に聞こえないように煽ってくる少年に、ファルマはすまして言った。
「飲むよ。君も飲んだ方がいいんじゃないか?」
シリアルを入れて食べようと、ファルマは思いつく。
「酸っぱいんだぞ、これ」
「正直だな。いいよ、ならヨーグルトにするから」
ファルマは買うと言った言葉に二言なく、積み荷にあった全ての牛乳を買った。ファルマの財布まるごとと引き換えに。
財布の中には、少年の年収の数年分ほどの金額が入っていた。
「お釣りはいらないから」
「ああ!? 喧嘩売ってんのか! こんなの受け取れるかヘボ薬師!」
少年は既に喧嘩ごしだ。何か適当な理由はないものかと考えたファルマは、少年が擦りむいたときにズボンが破れたのを見つけた。
「なら、服が破れたから、新しい服を買うといい。それから衛生に気を付けると売り上げが上がると思うよ。余計なお世話かもしれないけど」
「余計なお世話だっての!」
「何の騒ぎ? ファルマ君、なに喧嘩してるの?」
大きな声を聞きつけたエレンが仲裁に入ろうかと外に出てきた。
「牛乳を買っただけだよ」
子供の喧嘩じゃあるまいし、と言いかけて、ファルマは子供だったことに気付く。少年は結局ファルマの財布の中から代金ぶんだけ抜いて、それを薬局に投げつけて帰って行った。
それから数日、ファルマは薬局の外を牛乳売りの少年が通りかかるのを注視し、その都度呼び止めて牛乳を買った。しかし、その日は姿を見せない。
「今日はあいつが通るのが遅いな」
「あの牛乳売りの男の子ですよね。私、通りを見ていますね」
ロッテも協力してくれる。
ようやくの時間になって通りがかった少年を、ロッテが薬局店内から見つけてファルマを呼ぶ。
「ファルマ様! 来られました! 待ってー、牛乳買います~!」
少年から牛乳を買おうとファルマが近づくと、少年には目に見えて元気がなかった。
「……またお前か」
少年は数日前よりますますげっそりとしていた。ファルマはますますもって、少年の急激な変化が気になった。
「遅かったじゃないか。なんなら数日仕事を休んだ方がいい、調子が悪そうだ」
牛乳を買い代金を支払いながら、ファルマは少年を気遣う。
「ああ……喉がかわいて、気分が悪いんだ。売り物には手を付けられないし」
「そうか。水をあげるよ、その空瓶をかして」
ファルマは今、牛乳の入っていた瓶を神術の生成水で洗浄し、中に冷たい水を生成し充填して少年に手渡した。ぐびぐびと喉を鳴らして飲む。
「まだ飲むのか?」
二本、三本とがぶ飲みをする少年を、ファルマは注意深く観察した。
「今日一日中喉がかわいて仕方がないんだ」
「それは変だぞ? 今日は別に暑くもない」
(脱水にしては……呼吸がおかしいな)
異常に深い呼吸が、規則的に続いている。ファルマは嫌な予感がした。
(吸気のほうが、呼気より長い……これってクスマウル呼吸じゃないのか)
これは普通ではない。不審に思ったファルマは診眼を使う。
すると、少年の体液全体が青く発光していた。
(何だ!?)
その状態を見るなり、ファルマは深刻な病態に息を飲む。
脱水症状はある、だがそれだけでは説明がつかない。
少年の吐息から感じる、独特の果物のようなにおい。それに併せて、異常な呼吸。
「“糖尿病性ケトアシドーシス”」
反応があった。
糖尿病性ケトアシドーシス(diabetic ketoacidosis :DKA)というのは、血糖を下げる(≒組織内に血糖を取り込むことのできる)唯一のホルモンであるインスリンが欠乏することにより引き起こされるアシドーシス(血液が酸性になる合併症)だ。
インスリンの欠乏が起こると、血糖を血中から各組織、臓器へとりこむことができず血中の血糖値が上昇し、各臓器はエネルギー不足から飢餓状態に陥り、筋肉などを分解してエネルギーを得ようとする。その結果、タンパク質や脂質の代謝産物のケトン体が血液中で増加し(ケトーシス)、動脈血のpHが酸性に傾くのだ。
(ケトアシドーシスまで進んでいるってことは!)
「“1型糖尿病”」
的中だった。
2型糖尿病は徐々に進行するので、ケトアシドーシスにまでなる可能性は高くない。だが、インスリンが分泌されなくなることによって急激に進行する1型糖尿病では、起こりうる。
ちなみに、1型糖尿病は生活習慣などで起こる2型糖尿病とは異なり、自己免疫の破たんによっておこるものである。したがって富裕層、貧困層問わず発症する。1型糖尿病の発症に関しては、本人には責任はないのだ。
日本では、糖尿病=生活習慣によるものとよく誤解され、患者は時折、周囲からの誤解によって苦しめられたものだったな、とファルマは思い出す。
(ケトン体を消去……するわけにもいかないしな)
ケトン体は全て、単純化合物。ファルマに消去できるものだ。ファルマはケトアシドーシスを改善するため、消去能力によって彼の体内のケトン体全てを消去しようかとも考えた。しかし、インスリンが絶対的に欠乏している彼の肉体が栄養源としているのは、糖ではなくケトン体であろう。そのケトン体を急激に消去した場合、彼は昏睡状態に陥るのではなかろうか。
そんな懸念を払拭できなかったので、応急処置としてケトン体の一部――すなわち彼が代謝に利用していないアセトンを消去能力で消去した。容態は多少、落ち着くはずだ。
「1型糖尿病ですって?」
エレンがファルマに耳打ちをする。患者には聞こえないようにだ。
「ファルマ君は患者を診れば直感でわかるのかもしれないけど。それ、私たちはどうやって見つければいいの?」
「ケトアシドーシスは検査をすればエレンたちにもわかる。針でちょっと指先を刺して血をとってpHをはかる。pH試験紙でもわかるようだとまずい」
血糖値をはかる方法もあるのだが、まだこの世界では実用化できていない。
「何ごちゃごちゃ言って……」
「入院だ、即入院! 重症だぞ」
ファルマは少年の説得をはじめた。
「は? 家にかえって寝れば治……」
少年はぽかんとして言い返そうとしたところを、ファルマは一喝する。
「……らない、死ぬぞ! ケトアシドーシスが起こってる。つまり、血液が酸性になっているんだ」
少年がぽかんとしていたので、ファルマは危機感をあおる。
「牛乳がヨーグルトになるみたいに?」
「そんなもんだ」
「嫌だ、どうせ高い薬をふっかけられるんだろう!」
少年は全力で拒否しようとしていた。
「請求する治療費は牛乳3本分! それ以上は絶対に取らない、はい契約書!」
ファルマは警戒する少年に契約書をさらさらと書いて少年に見せた。
「くそっ、字がよめねえ」
それを聞いたセドリックが出てきて、契約書を読み上げる。
「確かに、患者に請求する診療報酬は牛乳三本、それ以上の費用は薬局が全額負担し、患者には請求しないと書いてありますな。薬局の印鑑とともに、正式な契約書です。あなたがサインをすれば、有効です」
「しっ、信じられねえ。サインなんてできるか! 治せる自信だってないんだろ? ヘボ薬師、俺は知ってんだぞ!」
「あなたがファルマ君の何を知ってるっていうのよ」
エレンは怒るどころか呆れて眉を顰める。
「どう思われてもいいけど、この病気は治らない。治らないが、症状を和らげることはできる。ちなみにあと数日ほっとくと本当に死ぬぞ。治療してほしいのかしてほしくないのか! 死にたくないんだろ?」
「おっ、おう……」
「じゃあ入院だ! 今そうやって立ってるのもギリギリなんだぞ!」
ファルマは同意を得たが早いか、ばたばたと二階の処置室へと連れてゆく。
「ファルマ君がキレたわ」
エレンの眼鏡がずれた。
「ファルマ様が声を荒げるのは初めて見ました。本当に、緊急なのでしょうな」
セドリックが書類を揃えながら呟く。
二階の処置室にて、少年は身長と体重を計測した後、ベッドに寝かせられて暴れていた。
その間にファルマは診眼の結果をもとに血漿浸透圧を求め脱水推定量を見積もり、体液補正のために必要な諸々の計算を済ませる。
「離せー! 針さすなんて聞いてねーぞ! 何する気だー! 薬師は信じらんねえ!」
「ロジェさん、この子暴れると危ないからおさえといて」
ファルマは男手を呼んできた。
「輸液デスネ。オマカセクダサーイ」
ネデール国出身、アルバイトの青年薬師ロジェは、筋肉で解決するタイプの薬師でもあった。
「ファルマ君、輸液は何を?」
エレンが輸液製剤を準備する。
ファルマは既に、点滴を何種類か作ってパッケージングしていた。
「0.9%生理食塩水。2時間ほど、時間をはかって。そのあとは0.45%に。その後は容体を診ながらカリウムを適宜補っていく」
「俺が死んだら、悪霊になってお前ら呪ってやる!」
少年が左手を振り回して暴れているので、ファルマは利き手なのだと推察する。
「利き手は左だな。じゃ、右手に刺すぞ」
ゴムの駆血帯を少年の腕に巻き、少年の右手に静脈留置針を刺入する。留置した針に、点滴との延長チューブを接続した。
「流速は早くなくていいの? 早くアシドーシスを解消したほうがいいわよね」
というのは、エレンの質問だ。
「 脱水を起こしている可能性が高いから速めがいいけど、速すぎると脳浮腫を起こす可能性があるから速すぎないようにね。気を付けてしっかり管理しないと」
急なアシドーシスの補正や血糖の低下が脳浮腫の原因になるはずだから、補正のための重炭酸ナトリウムは使わないようにねと、ファルマは思い出しながら付け加えた。特に子供は脳浮腫を起こしやすいため、脱水の補正が終わってから、インスリンの投与にうつる。
「脳がむくむのデスね、それは大変デース」
ファルマ、エレン、ロジェの三人が輸液について話し合う。
針を刺された頃になると、三人の薬師にベッドサイドをがっちり固められた少年は観念しはじめた。
「針を抜くなよ。今日は入院だ、いや、二週間ほど入院してもらう。親御さんや連絡すべき人がいるなら、薬局から使いを出して連絡するから教えてくれ」
「親方だけだ」
「わかった」
親方の住所を聞き、ファルマは少年の病状と暫く入院する旨を伝える使いを送った。
「ファルマ君。1型糖尿病の治療薬は……インスリンだったわよね。ケトアシドーシスが改善されはじめたら、投与すべきなんじゃないの?」
エレンがファルマの教科書を片手に質問をする。
「ああ。そうだ……その通りだよ」
ファルマは頷くが、その言葉は歯切れが悪い。
「もしかして、インスリン、ないの?」
エレンの顔が青ざめた。
(……ついに、このときがきたか)
ファルマは固く拳を握りしめる。
「ないといえばないし、あると言えばある」
「どっちなの」
「数回分はある、でも足りないんだ。だからといって、すぐには造れないものなんだ……」
そう、インスリンは単純にファルマの物質創造能力では創れない薬なのだ。
歴史的に、インスリン製剤はブタやウシから精製されて実用に供されてきた。しかし、歴史的には初期の抽出、精製技術は未熟で、患者に投与するとひどいアレルギーを引き起こし、また収量も安定しなかった。ファルマの研究室の研究設備は、近世初頭のそれとさほど変わらないため、抽出、精製技術を過信できない。
これからウシやブタを探して悠長にすり潰していたのでは到底間に合わない。また、一回こっきりではなく、継続的に抽出してゆかなければならないとなると、ファルマの選択肢からは外れた。異界の研究室から持ち帰った試薬を用いて遺伝子工学的に大腸菌などにインスリンを大量合成させることもできないではないが、配列がわかっていたとしても数日はかかる。配列がわからない場合は、この方法は使えない。
インスリンは今、必要なのだ。
「インスリンは、単純な化合物ではないから」
「タンパク質だったわよね」
エレンは、ファルマの教科書を広げて、アミノ酸の項をアルバイトの薬師たちに見せる。おさらいをかねて、だ。薬局の患者の処方を終えた二人のバイトの薬師たちも、処置室に上がってきていた。
「そう。これが、人の体で使われているアミノ酸だ」
ファルマはそれらの一覧を見ながら、渋い顔をしている。
「タンパク質はこれらのアミノ酸ひとつひとつを、決まった順番で数珠つなぎにしたもの、ペプチドから成っている。簡単に言えば、決まった順番にアミノ酸をつなげて折りたためばタンパク質なのだけど……」
ファルマが薬師たちに説明し、エレンが言葉をつづける。エレンはかなり教科書を読み込み、自習をしていた。
「問題はその順番なのね。インスリンの順番は分かっているの?」
インスリンのアミノ酸配列は数十もある。
さすがのファルマも、その配列がどうだったかまで記憶してはいない。
(迂闊だったな、サンガーのやったDNP化による構造解析を再現してでも配列を解析しておけばよかった)
そんな後悔をしても遅い、
「覚えてはいない」
ファルマはまいったというように額に手を当てた。
(研究室にもう一度行けたら、インスリンの配列ぐらい調べられるけど……)
今から聖泉の裏の異界の研究室に行くのでは、かなり時間の無駄になる。
「何とかして順番が分かる方法はないのかしら。インスリンは顕微鏡では見えないのでしょうし」
エレンの言葉を聞いたファルマは、はっとあることに気付いた。
「でも……分かる、かもしれない。ちょっと待っててくれ」
ヒントをありがとう、エレン! とファルマは叫んで飛び出していった。
ファルマは四階の実験室へと駆け上がる。
エレンのおかげでひらめいたのだ。ファルマは異界の研究室を訪れたとき、数々の試薬と共にインスリン製剤のバイアルも一本だけ持ち出して帰っていた。
だからといって、それは一本ぽっきり。
数回投与してしまえば、なくなってしまう。
インスリンを数日以内に合成できなければ、少年は死ぬのだ。
四階の研究室の試薬保管庫の中から、インスリンバイアルを取り出した。
ファルマは白衣をまくりあげ包帯の巻かれた腕をあらわにし、サロモンから与えられていた神封じの破戒符を取り除く。能力を全開にしなければ、おそらくそれは見えない。
「見えてくれ!」
久しく使っていなかった特殊能力を使う。
右手を環状にし、対象を観ることによって発動する「拡大視」を使い、インスリンのアミノ酸配列を直接その目で観に行く。かなり無茶をしているような気もするが、原子間力顕微鏡や、X線構造解析だと思えば、できなくなさそうだ。これ以上拡大できなくなった最大倍率に到達したところで、さらに光学顕微鏡を間にかませて拡大視を試みる。
「見え……た!」
ファルマはアミノ酸をひとつずつ読み取り、配列をノートに書きとり始めた。といえば簡単に聞こえるが、読み取るといっても、明らかに構造が特徴的であるものを除き、アミノ酸配列は非常に似通っていて肉眼では殆ど区別がつかないものもある。そこで彼は、ジニトロフェニル化を使って先頭にあるアミノ酸だけを標識し物質消去を組み合わせて、パズルを解くように消えたものを順に繋ぎ合わせ推測し、配列を決定していった。
そして最後に、できたアミノ酸配列を物質消去で消していって、合成が正しくできたことを確認した。
そして一時間後、ファルマは研究室から降りてきた。
「できた……これがインスリンだ」
「こんなに大量に! どうやって合成したの?」
「原理的には、ペプチド固相合成法……つまり、アミノ酸一個を固定して、そこから順番にアミノ酸を一個一個くっつけていったんだよ」
「でも、違うやりかたで作ったのね」
サロモンが封じてくれたと言っていた腕の薬神紋が白衣の下からまるまる透けて見えることから、エレンはファルマが薬神の能力を使ったのだと察する。元に戻すのを忘れていたらしい。
「緊急だからね。集中力使い果たして死ぬかと思った」
「細かい作業だったってことは伝わるわ。目が血走ってるわよ、ファルマ君」
エレンがファルマをねぎらう。
「おつかれさまです」
すみのほうで緊迫のやりとりをうかがっていたロッテが、そっと蒸しタオルをファルマに手渡した。薬師たち全員にもだ。
それを有難く目の上に載せながら、ファルマは、一つの思いを胸にいだく。
(やっぱりアレを使わないといけないな)
今回、ペプチド結合で繋いだのが数十のアミノ酸だったからよかったようなものの、配列が数百にもなれば、ファルマの集中力がもたない。また、ミスもありうる。今、ファルマが汗水たらしてやった方法を、いとも簡単にやってみせるものがある……のだ。
(化学合成じゃなくて、バイオ医薬品の開発も進めないと)
バイオテクノロジーを使えば、化学合成では不可能だった数々の創薬が可能となるのだ。薬学者であったファルマは、ありとあらゆるノウハウを知っていた。
「ファルマ様。インスリンを投与なさらないのですか?」
レベッカの言葉で、ファルマはわれにかえる。
「ああ、やるよ」
その日、1型糖尿病の少年に対し、異世界薬局初のペプチド薬であるインスリンの投与が行われた。
「これでひとまず安心だ……」
少年にいたわりの声をかけながら、薬師たちは交代で彼の容体を観察する。泊まりの番は、ファルマとエレンが引き受けることになった。常勤薬師の定めだ。
夜半になるころには少年の親方も見舞いに来て、牛乳売りの仕事は暫く自分が代わりにやる、と言って少年を励まし帰っていった。
「いい人じゃないか、親方」
宵の口、しばし少年とふたりきりになったファルマが、少年に話を向ける。
「すぐ怒鳴るけどな」
「ひとつ聞きたかったんだけど……君は薬師に相当な恨みがあるんだな。何でだ?」
聞けば、効かない薬を三級薬師に売りつけられた挙句、母親を亡くしたのだという。
(よくある話だ……)
この少年に限らず、この世界ではどこもかしこもそんな話が転がっていた。
ファルマが帝都市民に現代医薬品を供給し始める前は、平民の医薬事情はそれはもう酷いありさまだったのだ。
「薬師は信じられないか」
少年はばつが悪そうにして、そっぽをむいた。
「俺のことを信用しないなら、それでもいい。でも薬を打って、楽になったとしたら。それが答えだ」
「……」
少年は唇を噛んで、悔しそうに黙りこくる。
「今後はこの薬を自分で管理して自分で投与してもらう。毎日な。そう、君自身が主治薬師になるんだ」
ファルマはインスリンの投与方法を少年に教えた。インスリンの溶かし方、注射器と針の扱い方、投与のタイミング、その他彼に必要な知識を、必要なだけ。
ディスポーザブルの注射器と注射針を渡す。
自分で血糖値をはかることができないので、炭水化物量の計算をして、インスリンの投与量を決める。その方法、食物リストを渡して教え込んだ。
「どう? 難しくないだろう。この注射とは、一生の付き合いになると思ってくれ。量を減らすことはできるかもしれない、でも、注射をやめることは、基本的にはできない」
「一生……」
減らず口を叩いていた少年はその途方もない時間に思いをはせ、絶句する。
「でも、他の方法が見つかれば、一番に君に教える。必ず見つけるつもりだ。だからそれまでは、約束だ」
「お前……いいやつなのな」
少年は、ファルマに聞こえるか聞こえないかの音量の声で、ぽつりと呟いた。
「これで一安心なの?」
エレンが尋ねる。
「いや、かなり心配だよ。簡易血糖測定機も作らないとな。超速効型や持効型のインスリンアナログも今後に備えて用意しておいたほうがいいな」
課題は山積みだった。
二週間後、元気に薬局を退院した少年から、ファルマは三本分の牛乳を報酬として受け取った。
「確かに治療費は受け取った、本当の治療はここからだけどな」
自らが自らの責任で、自らの健康と命を守る。少年にはその自覚が芽生えていた。
「世話になったな……宮廷薬師。インスリンだったか、薬は忘れずに打つ」
「はは、宮廷薬師か。当初のヘボ薬師呼びから進歩したもんだ」
「うるせえ!」
「できれば毎日診察に来るんだぞ。薬はその時に渡すからな」
「わかったよ」
その翌日も、薬局には牛乳が三本届いた。
毎日、三本ずつ。ファルマの診察のついでに。ファルマは彼の持ってくる牛乳と引き換えに、低血糖予防にすぐ飲めるようスティックタイプでブドウ糖を渡している。また、インスリンもその日使うものを調製して渡している。
「診察に来いとはいったけど、牛乳も毎日持ってくるとは」
それならばと薬局職員たちが仕事前に飲み、ときにロッテが美味しく調理に使った。
ファルマは少年に、帝都民が安全に牛乳を飲めるようにと低温殺菌、生乳からの管理の方法を教えた。少年は親方にかけあって販売用の制服をつくり、身だしなみに気を付け清潔感を出した。ファルマの指南の受け売りだ。
ファルマが美味しくなったその牛乳を女帝にすすめ、女帝はいたく気に入った。
少年の売る牛乳は「宮廷御用達の高級牛乳」として、今では人々の人気を博している。少年はますます忙しく、きれいに改造した手押し車を押して、元気に帝都を駆けまわっていた。
【謝辞】
本項は、「やる気なし英雄譚」の作者で内科医の津田彷徨先生、
医師の風水狂先生、糖尿病内分泌科医のnekojita先生、薬剤師の児島悠史先生、看護師の禅先生にご指導いただきました。
ご協力ありがとうございました。
 




