4章8話 豊かな水をきれいな水へ
本日は二話投稿です。まだ読んでおられない方は、前の話をご確認ください。
「対症療法しかないんだ」
ファルマは脱水症状に対する水分補給のために、点滴を始めた。
それから、経口補水液も飲ませる。この経口補水液については、重症では飲ませないほうがよいという報告もあるが、完全に便が出きっていないという判断から、ウイルスを体から出てゆかせるために飲ませた。
「本当に対症療法しかないの? 何とかできない?」
エレンがもどかしそうに尋ねる。何か、ひとつでも生存の確率を上げられる方法はないのか。手探りでもいいから……彼女はそううったえる。
「ああ……完全にこの子の体力と運次第だ。このウイルスに対する、薬はないんだ」
ファルマはそう答えるしかなかった。それ以上の治療は難しい。
「俺たちも感染しないように気を付けよう。このウイルスの感染力は強い、エレンもだけど、兄上は特に気を付けて。看病する人間が感染したら、元も子もない」
「感染経路は糞口感染だったな」
つまり、患者の排泄物を処理した手でつまんだ食べ物などが、口の中に入ると感染する。
また、ロタウイルスは非常に感染力が強く、わずか数個のウイルスを口から取り込んだだけでも感染する。次の感染者を出さないように、排泄物に対して細心の注意を払わなければならない。ファルマの聖域は空気感染には強いが、経口感染には比較的効果が弱い。
「アルコールにも強いから、アルコール消毒も効かないんだ」
「ええっ、そうなの!?」
アルコールを万能の消毒液だと思っていたエレンは驚く。
「エレン。四階の実験室から次亜塩素酸ナトリウムの瓶をとってきて。消毒薬を作るから」
「わかったわ、パッレ君が手で触れた場所、全て拭いてまわったほうがいいわね」
「ありがとう、よろしく。兄上はロッテに言ってオムツの替えと、この子の着替えをもってきてくれ」
「ああ、まかせろ」
ファルマは適当な口実をつけて二人を隔離室から追い出したその隙に、薬神杖で「”始原の救援”」をかける。薬神杖固有の神技を、あまり見られたくはなかった。
「頑張れよ……」
これで、多少体力を持ち直すはずだ。
診眼で診ると、光はより青みがかった紫へと変色していた。状態はよくなってきている。
ひとまずの処置が終わり、消毒も終わると、ファルマは二人をねぎらった。
「手伝ってくれてありがとう。今夜は、ここに泊まりだな。俺が泊まるよ。兄上は感染してはいけないから、俺がやる」
看病のために、ファルマが薬局に泊まりこむと申し出た。三人の中で唯一、ファルマだけが感染しないのだから、看病は買って出る。
「屋敷に連れて帰ると感染が拡大するか……しかし、何もできることがないだなんて」
捨て子を拾ってきたパッレは悔しそうだ。
「いいよ、ここは俺に任せてくれ。二人とも家に帰ってよ」
エレンは後ろ髪を、パッレはカツラをひかれる思いで隔離室を立ち去った。
二人が帰ってから、もうひとつできる治療をファルマは考えていた。それは神脈の開闢だ。
そこでファルマはそっと、薬神杖の先端を赤ん坊の心臓に差し込んだ。サロモンにそうしたように。赤子は眠りについていて、不快そうな様子はない。
薬神杖の先端から青白い光が漏れてくる。その時だ、
「やっぱり手伝うわ、ファルマ君」
立ち去った筈のエレンが戻って急に隔離室のドアを開けた。ファルマがぶっすりと、薬神杖の先端を赤子の胸に刺していたときだ。
「わ!」
ファルマは慌てて薬神杖を引っこ抜いた。
「それ、その子に何しようとしてたの?」
どう見ても、危害を加えようとしているようにしか見えない。
「いや、違うんだ。これは……誤解なんだよ」
「病気の子に何てことするの! まさか何かの薬の実験台にでもするつもり!?」
エレンは最悪の事態を想定したのか、杖に手をかけている。
「俺がそんなことすると思うか?」
「思わないけど、何してるのよ!?」
「わかった、白状するよ。神脈を開こうとしてた」
はあ、とエレンは力ない声を出し、脱力した。
「守護神が鑑定できないと、神脈は開かないわよ。適当にやっていいってもんじゃないの」
「ていうか、もう開いたみたいだ」
エレンは絶句した。ファルマがこんな状態で患児の神脈を開いたのは、神力が湧くと免疫力が高まるという確信があったからだ。平民より貴族の方が免疫力が高いのは確かだった。
始原の救援に加え、さらに神力の加護があれば、症状が重篤化しないようにできるかと考えたのだ。
「嘘でしょ?! 神脈が開いたっていうの?」
エレンが神力計をカバンの中から取り出して近づけると、ゲージがふれていた。それも、かなり強い神力を持っている。先ほど計測した時はゼロだったのだが、明らかに変化が起きている……。
「神官が開けなかった神脈を開くだなんて、いつからそんなことができるようになったの? 特に詠唱も聞こえなかったし」
「いや、この子は神脈が見えてたよ。俺のやり方は無詠唱なんだ」
神官には開けなかったのかもしれないけど、まあ開けたから、とファルマは付け加える。
「ということはこの子、ちょっと変わった属性を持ってるんじゃないかしら」
「とにかく、これで持ち直してくれたらいいんだけど。鑑定はサロモンさんにやってもらおうかな」
「順番がめちゃくちゃね。鑑定してから神脈を開くのよ」
「はは……ごめん」
その夜、ファルマはエレンと共に薬局に泊まり込み、交代で女児の看病にあたった。二人で交代で簡単な食事をとり、
「沐浴するから、入ってこないでね」
そういって、エレンは沐浴室に入っていった。
水の神術使いは自分できれいな湯を生成し、シャワーを浴びるのだ。ファルマは慌ててエレンの背中に声をかけた。
「入らないよ」
少しずつ快復してくる女児の傍に付き添い、エレンがシャワーを浴びる水音を聞きながら、ファルマは考えた。
(ロタで亡くなる子、今までにもたくさんいたんだろうな……ロタウイルスのワクチンがあれば、こんなに重症化しなかったかもしれないのに)
ワクチンは、現時点で上下水道のないサン・フルーヴ帝国でとりうる現実的な予防策であった。感染症の多発する地域は、上下水道の設備が不十分で、衛生状態が悪いことが多い。
(ワクチン……それから、水だ)
貴族はきれいな水に不自由しない環境にあって、平民のことを考えると、ファルマは放っておけないと思った。
一つ一つの病気を治すのは大変な労力を要する。薬師の力が及ばないこともある。ロタウイルスのように、治療薬がないという病気も稀ではない。
だったら、病気になったら治すというばかりでなく、予防できるものは予防しなければならないのだ。
ファルマはそう考えた。
「ふう……ファルマ君も沐浴してすっきりしたら?」
「なあ、エレン。俺たちはきれいな湯や水を使える」
ぐずり泣きをはじめた女児を腕に抱えてあやしながら、ファルマはエレンにしみじみと言う。
「どうしたのあらたまって。当然じゃない、私たち水の神術使いなのよ?」
エレンは湯上りでホカホカと湯気をたて、絹のようにしなやかな銀髪をタオルで拭っていた。上気した頬がファルマには艶っぽく見えた。
「でも、平民はそうじゃない」
「水は買えるわ、お金を出せば。そんなに高い金額じゃないし」
エレンの金銭感覚は、まったくもって伯爵令嬢だった。
「俺たちにとってはね。高くて手が出せない人もいる。それに、飲料水は買えても生活用水は買えてない。根本的な部分を、何とかしないと。きれいな水が必要だ、貴族だけでなく、平民たちにも。それは彼らの命を守るためでもあるし、感染症の予防のためでもある」
各家庭に水道を通そうと思えば、その建築には莫大な予算と年月がかかる。
水道を建設したとしても、ただちに帝国全土にきれいな水を供給することは難しい。かといって水の神術使いの神術でも、平民まで含めた生活用水を供給できるだけの水の量は供給できない。
ひるがえってみればサン・フルーヴ帝国、そして帝都は、水の豊かな帝国である。
河の水をひいて、それを各家庭で利用している。公共の水汲み場もある。
水は、足りていた。だが、それらの水は濁って本当にきれいで安全な水ではない。
煮沸しなければ直接は飲めないし、顔や体を洗えば、感染症にかかる。
さらにサン・フルーヴ河には、生活用水が流れ込んでいる。それが、結果的に乳児死亡率や、感染症による死亡率を上げている原因になっていた。
ファルマがサン・フルーヴ帝都に転生してからというもの、彼を中心に聖域が発生しているので、彼の屋敷に面した河の水は清められ、帝都中心部の水は比較的浄化されている。だが、メディシス家の屋敷より河の上流の地区や帝都の中心から少し外れると、やはり状況は同じだった。
帝都全域に疫滅聖域を乱発しても、ずっとは維持できない。それに、ファルマがこの世界から去れば、また元の木阿弥だ。人々は疫病に苦しむことになる。
「水は命のもとだ。きれいな水を皆が飲めるようにしよう」
ファルマは現実的な措置として帝国全土、そして諸外国の公共の全ての水汲み場に、浄水設備を建築すべきだと考えた。大規模な浄水設備を建設することは難しい。そこで、濾過膜を使えば省スペースですむし、細菌やウイルスを排除することもできる。濾過膜は、化学的な手法で生産することができる。濾過の方法を技術者に伝え、水質を維持できるように技術を維持してゆく。
それが、病気を排除する確実かつ着実な方法である。
「この世界のどこにいても、その水を飲むことによって微生物に感染して命を落としたりしないように。それと並行して、ワクチンで病気を予防できるようにしたい。何年か、何十年かかかるだろう、でも、今からやりはじめないと」
他国も視野にいれた、これまでとは比較にならないほど遠大な計画だった。
「あなたの思い付きは、いつだって人間にはどだい無理だと思うけど」
有言実行しちゃうのよね、これが、とエレンは困ったように言った。
また少し、世界がよくなってゆく、そんな気配をエレンは感じた。
翌日から、神脈を開かれた女児はぐいぐいと回復をはじめた。
そして異世界薬局ではしばらくの間、ファルマやエレンが背中に赤子を背負って接客するという、珍妙な光景がみられた。
貴族としての資質を満たした女児は、エレンの実家、ボヌフォワ家に養子として迎えられ、ソフィと名付けられた。今やみすぼらしかった捨て子の面影はまったくない。身なりをととのえ、綺麗にすれば、輝くばかりの令嬢へと変貌した。
エレンの父であるボヌフォワ伯爵は、ソフィを養子に迎えたいそう喜んだ。
エレンは一人っ子だったからだ。
後日サロモンが鑑定した結果、彼女の属性は世にも珍しい、四属性以外の無の正属性、守護神は雷神だった。彼女の神力は電力に変換される。
暫くの間、ソフィはロタウイルスの後遺症がないかを確認するために、エレンと共に薬局に通った。そして薬局でソフィが興奮するたび、世話をやいていたファルマは微弱電流で感電することになった。なぜか、ファルマを好んで電撃を食らわせるのだ。
「あててて! ソフィ、電撃やめ! やめて!」
薬局の休憩中にソフィをあやしていたファルマが悲鳴を上げる。感情が昂ると電撃が繰り出される癖があるらしい。
「ソフィちゃん、落ち着いて! ぎゃー」
ソフィをなだめようとして、ついでに感電するエレンもお約束だった。
「きゃっきゃ!」
無邪気に電撃を放ってくるソフィに、ファルマもたじたじだ。ファルマやエレンが悲鳴をあげるほど、遊んでくれていると思って面白いらしい。
「ロッテ、ちょっと下からセルストさん呼んできて!」
「はいっ! ただいま!」
ファルマがギブアップする。子だくさん母さん薬師のセルストが呼ばれた。
「はいはい、寝かしつけはお安い御用です。ソフィ様、ねんねの時間ですよ~。おうた歌いましょうね~」
そんなときセルストが子守歌を歌うと、ソフィは一瞬で眠りについた。
「ファルマ様、最近あまり悲鳴をあげなくなりましたね。今も地味に電撃を受けておられますよね?」
さらに数日後、ロッテがおそるおそるファルマに尋ねる。相変わらず、彼とソフィは一心同体と化していた。ソフィはファルマの膝の上に居座っている。
「あ”ー、イタキモチイイ」
白目をむいてまんざらでもなさそうなファルマは、感電しながら遂にそんな変態発言をするまでになった。
「段々訓練されてきたわね、ファルマ君」
「薬局に来た患者さんの腰痛治療に、低周波電流はいいかも」
「わかったから、その顔何とかしたら?」
とても客には見せられないような店主の呆け切った顔に、困惑するエレンだった。




