4章7話 ロタウイルス感染症と捨て子
女帝の投げ放った帝杖が、快晴の空を滑る。
「”火炎の蹂躙”(Les violations de la flamme)」
発動詠唱を唱えた瞬間、場は火の海と化した。
大火炎の旋風が帝都のはずれの原野を嘗め尽くし、みるみるうちに広大な範囲を焼き潰してゆく。その場に立ち会った者の中には酸素の大量消費に、息苦しさを覚える者もいた。風上から焼いているので術者は煙に巻かれたりはしないが、あの炎に人間が絡めとられれば、骨も影も残らない。
「しかし凄まじい。またたく間にこれだけの面積の大地が焦土と化しましたな……」
帝国の神術顧問となり女帝に随っていたサロモンは、そこに芽吹いていた生命が悉く奪い尽くされ炭化した光景を目の当たりにする。
その大火炎は、側近の水の神術使いの氷防壁がなければ、身に纏う衣服をも焦がしつくしてしまうほどだった。
女帝が大火炎を放ったあと、草木一本も残らないだろう。
僅かにだが、神力だまりの発生も観測された。女帝は紛うことなく、現在も世界最強の神術使いであった。薬神憑きのファルマを除き、人類のなかでは――。
「ふう、焼き尽くしてやったわ」
熱風に晒され額にうっすらと汗を浮かべる女帝は、満足そうに水を飲み干し、まとめ髪をほどき、上着を羽織る。その容赦のない神技の美しさに、サロモンをはじめ側近は息をのんだ。
在位中、まったく衰えのない強さ。誰が帝国を、いや女帝個人を敵に回せるだろう。開戦と同時に、一国が炎の海に沈む。
そしてその恐るべき神技は、サロモンの細やかな指導によって更に洗練され、威力を増していた。
さて、ここは血なまぐさい戦場……ではなく、
「皇帝陛下、野焼きをありがとうございました!」
「これで、よい牧草が生えるでしょう。牛も若芽が生えれば喜びます!」
牧場主が偉大な神技を間近で見て、感激していた。
「うむ、牛どもが煙たがらぬよう、遠ざけておれ」
直轄地の牧場を、年に一度野焼きするのは女帝にとって恒例行事だった。
超広域火炎神術を使える女帝の神術訓練の場は、砂漠、海上、牧場などに限られる。
あまりに強力な女帝の神技はたいていの場合、平和利用されていた。
「陛下の実力のうち、今の神技はいかほどでございましょうか」
サロモンが尋ねる。彼女は神力計を兼ねた帝杖のゲージを見て、
「7割だそうだ。よい運動になった」
とにこやかに笑った。無邪気な少女のようだ。
「そういえば、ファルマはどれほどのことができるのだろう。あやつは薬学にかまけて、さっぱり訓練をせんと聞く。体が鈍らぬだろうか」
「ファルマ様の場合は、1%でも出力すれば帝国が滅びますからな」
神術使いの日頃の鍛錬は必要だが、難しいところだ、とサロモンは溜息をつく。
「なぜファルマの力がわかる」
「聖典にある歴代の守護神の力と比較すれば分かります」
サロモンはかしこまる。
「ならばファルマの力を、神聖国も持て余すのではないかのう」
そのファルマは、のこのこと薬神杖を大神殿に返却しに行く、などと言うので、女帝は先手を打って大神殿に通告を入れたところだった。その内容は、
『秘宝の杖を必要としているようだが、ファルマは帝国の要人であり余の主治薬師であるから神聖国へ行かせるつもりはない。返却が必要ならば、使いの者に届けさせる。もしファルマが予告なく帝国から消え、ファルマの周囲に危害が及んだなら、即日神聖国へ宣戦布告する。ファルマを拘束しうる者は神聖国以外に存在しないため、証拠がなくても神聖国の仕業と見做す。ファルマに用があるなら、余の立ち合いのもとでファルマに会え』(意訳)というものだ。
こうまで強気に出られてしまっては、神聖国は承諾するほかになかったのだろう。
女帝がファルマを主治薬師に据えている期間は返却をしなくてよいという返事が返ってきた。
女帝がそれをファルマに伝えると、彼は驚いていた。女帝の権力は、神殿を黙らせるのだ。また、後にひけなくなったのか、サロモンは無事だとも言ってきた。これに関しては、のちのちどう帳尻を合わせるのか女帝は疑問だ。
これで、大神殿はファルマに接触することはできなくなった。女帝は、側近に聖泉の手がかりを探させている。
ところで、帝都の神官が、薬局に薬を買いにくるようになったとファルマは言っていたが……。
…━━…━━…━━…
1147年4月になった。
この頃、パッレの白血病の化学療法のうち、再発を予防する地固め療法の経過は良好だった。パッレは、体調のよい日はブリュノの患者の診察に出かけるようになった。そして、少しずつブリュノやファルマの患者の主治薬師を引き継ぎはじめた。ブリュノは大学の運営に没頭したかったし、ファルマも薬局や他のことに手が取られていたので、パッレが最適な後継者となった。
パッレの腕はよく、知識も豊富で、話術にも長け、ブリュノと比較しても全く評判を落とさなかった。また、ブリュノが診ても治らなかった患者を、ファルマの新薬を使う事で治療してみせ実績を積み始めた。
パッレはファルマの薬局にもよく顔を出す。主に、新しい薬を仕入れにだ。
「こういう病気だと思うんだが、この薬が欲しい」
といった具合に。そこで、ファルマは症状や各種の検査結果を確認し、その通りだと思えば薬を出す。その病状の説明に、写真は非常に役立った。診断に疑問があれば、ファルマが直接患者を診に行って、パッレに伝える。パッレもファルマからは二年遅れてだが、一級薬師として患者に向かい合う修行の日々を送り始めた。パッレは充実していた。
そのパッレがある日の午後、薬局にやってきた。珍しく、薬局の裏口から。
いつもは正面玄関から入ってくるのだが、何か事情があるとみえる。そして小声で話しかける。
「ファルマ、いるか?」
「どうしたのその子。パッレ君の隠し子?」
パッレの腕に抱えられた、生後数か月と思しき女の乳児を発見してエレンが言った。しかし、赤ん坊は元気に泣くわけでもなく、ぐったりとして衰弱していた。更に、顔や髪の毛は汚物で汚れていた。
「アホか、捨て子だ。脱水症状を起こしてるんだ」
かいまきを取ると、嘔吐物が口のまわりについていた。肌にも張りがなく、目のまわりが落ちくぼんでいる。パッレは赤子の手の甲の皮膚を軽くつまむと、皮膚がもとのように戻らず山形になったままだ。これは脱水症状をみるひとつの方法だ。
息はか細く、心もとない。ファルマはその場に押しかけていた患者たちの処方箋を全員分書いて、バイトの薬師たちに手渡す。紫色がかった産毛の巻き毛は、ぺったりと頭部に張り付いている。
「これ、薬を調合して渡しておいて、診られなければ待っていてもらって」
「分かりました、店主様」
セルストがまとめて処方箋を受け取り、大きく頷いた。
「お詫びに飴をどうぞ。はいどうぞ、はいどうぞ」
「あら、ありがとう」
ロッテが気を利かせて飴を配ったので、患者たちからは不満は出なかった。
「とりあえず、兄上はそのまま二階に上がって」
赤子は感染している、そう判断したファルマは、二階の診療室の一室にある隔離室に案内する。そこに、ファルマ、パッレ、エレンがなだれ込んで患児を診る。
「パッレ君が捨て子を拾ってくるなんて、意外だわ」
「放っておけなくてな。貴族の子だが、平民になりそうだ」
パッレは毛布に包まれたままベッドに横たえ、不憫そうに彼女を見下ろす。
「そう……神脈が開かなかったのね。不幸な子だわ」
エレンは同情する。貴族の子供であっても、神脈が開かない場合は神力が使えず、貴族となれない。そんな子供が生まれたのは家の恥だと考え、赤ん坊のうちに人知れず捨ててしまう大貴族も少なくない。
とはいっても、赤ん坊は殺されてしまうわけではなく、神殿の前に置かれ、神殿が保護し孤児院に引き取られるが、帝都の神殿は人目が多いので、適当な家の軒先に置かれている場合もある。
神脈が開いた貴族の子は、神力計で神力をはかることができる。だが、開いていない子供には、神力計のゲージは動かない。
エレンは念のため神力計を持ってきて測定したが、うんともすんともだ。
「だめね……もし助かったら、使用人としてうちで雇ってもいいわ。これも何かの縁だし。今の神殿に引き渡したくないわ」
エレンは、伯爵家で引き取ることを検討しはじめた。
「うーん……ていうかこの子、神力ありそうだけど」
二人の見解に反して、ファルマは呟く。
ファルマには見えるのだ、彼女の体の奥にほのかなきらめきがあるのを。手つかずの源泉が。
「まあいっか、今は治療が先だ」
ファルマはきれいな水を用意し、体を清めて服を着替えさせる。そして、最近開発したばかりの赤ちゃん用のおむつもはかせた。
「あら、ぴったりね」
下痢はひとまずおさまっているが、それは脱水症状が酷いからだ。もう、体から出てゆく水分も殆ど残っていないと思われる。こうなると、重症の感染症である可能性が高い。それに、涙も汗も出なくなっていた。
「嘔吐があり、白っぽい下痢をしている、微熱もあるのでロタウイルスの感染じゃないかと思う」
パッレは所見を述べた。ウイルス感染によって、便に胆汁の色(茶色)がつかなくなることがある。彼はそこに着目していた。
「治せそうか?」
ところでパッレは今、化学療法中で白血球が減少しており、比較的感染しやすい状態になっている。自らの体の状態を正確に分かっていて、ウイルスに感染したと疑われる赤子を感染リスクも恐れず保護して連れてきた。感染すれば、命にかかわる。患者の行動としては褒められたことではないが、ファルマはパッレの善意を無駄にしたくないと思った。
「白色便か」
ファルマは最初は診眼を使わず、視診してゆく。
全員、防護用のビニールケープをまとい、手袋とマスクを着用する。赤子を運んできたパッレは、感染予防のため着ていたものを全て捨てて、ファルマがバイト用の白衣を貸し出して着替えた。
「白い便ということは、胆汁がでていないわけでしょ。胆道閉鎖症じゃないかしら」
エレンはもう一つの可能性を述べる。白色便にも色々理由がある、必ずしもウイルス感染が理由というわけでもない。ファルマは、かいまきに残っていた女児の便のにおいをかぐ。
「エレン、においをかいでみて」
しかめつらになりながらも、エレンが手であおいで便のにおいを確認する。パッレは感染のリスクを考慮し、ファルマはひかえるように言った。
「酸っぱい感じがするわ」
「生臭いときは細菌性の下痢、酸っぱいにおいがするときはウイルス性の下痢だったな。だったらロタだ」
パッレの知識はかなりのものだ。ファルマは頷きながら言った。
「その通り、ロタの可能性が高い」
ファルマはここで診眼を使う。ウイルスはサイズが小さいので、細菌のように顕微鏡では見えない。確定診断のためにだ。確かにロタウイルス感染と出ている。全身に感染しているようだが、消化管に沿って、光は強くなっている。ファルマの診眼を通して見える光は、限りなく赤に近い、赤紫だ。
治療可能だが、かなり危険な状態。
決して予断を許さない。
ロタウイルス感染症は、小児仮性コレラとも言われていた。
現代日本でも、このウイルスには殆どの乳幼児が感染しているが、適切な処置を受けられるために重症化はほとんどなく、死亡率は著しく低い。
(でも、日本のつもりで甘く見ると痛い目を見るからな)
ファルマはそう思って気を引き締める。
先進国であれば、この病気で死ぬことは稀。だが、地球全体では、五歳までの重症下痢症の4割がロタウイルスに起因する下痢症であり、死亡者数は50万人にのぼる。
乳児死亡率の見逃せない原因の一つだ。このウイルスによる感染症は嘔吐下痢の中でもっとも重症化しやすく、そして現に女児は重症である。急性脳炎や多臓器不全も起こりうる。
そして、ロタウイルスに特効薬はない。




