4章3話 シヌクレイン症候群と、帝都神殿の異変
「お前宮廷薬師になってたのか! 何で言わなかった!」
「言いそびれたんだ、悪気はなかったんだよ」
宮殿からの帰り支度をしながら、メディシス兄弟は控室でちょっとした言い合いになっていた。もう二年も宮廷薬師をしていたのに、パッレをわずか10歳で出し抜いた形になり、申し訳ないと思うファルマである。
「弟に先越されるとか萎えるだろうが!」
パッレは少々荒れた。そんな彼にファルマは平謝りだ。
「悪かったよ」
(というか何で謝ってるんだ、俺)
多少、腑に落ちない部分もあったが。パッレはもうこれ以上遅れをとってたまるか、と言いながら鼻息を荒くしていた。
「まあいい、五年で追いついてやる!」
「五年もかかるかな。教科書を書いたという実績もあるし、とりあえず宮廷薬師の試問を受けてみたら?」
宮廷薬師になるには、厳しい条件がいくつもついているが、大前提として試験を受けなければならない。ファルマは侍医たちによって、ちょっとしたテストという名目で無理やり受けさせられたものだが、さして難しいとは思えなかった。
「受かるわけないだろ! 父上でさえ十五年かかったんだぞ! 全問正解できずに失敗したら三年間受けられなくなるんだから、そうそう簡単に受けられるか!」
パッレにとってブリュノは簡単には乗り越えられる筈のない大きな目標なのだろうな、とファルマは思う。
「そうかなあ……兄上なら簡単に受かると思うけど、あれそんなに難しくなかったし」
「あーそうかい。嫌味なやつだなお前は!」
「悪かったって」
ファルマが教え込んだ今のパッレの知識があれば、あとは治療実績があれば一年で宮廷薬師になれるのではないかとファルマは思う。メディシス一族が栄誉ある宮廷薬師の資格を独占することには風当たりも強いかもしれないが、とにかくパッレは高いポテンシャルを持っていた。パッレはあまり理解していないようだったが。
「だいたいお前はだな……」
兄弟が言い合いながら大廊下を歩いていると、すれ違った女官が躓いた。
「きゃっ」
「大丈夫ですか?」
ファルマが思わず声をかける。彼女は宮廷人として出仕している上流貴族のお世話役の、三十代ぐらいの女官だった。ファルマのなじみのない顔だ。彼女はファルマにぺこりと会釈をする。
「あら、これはお恥ずかしい。昨日宮廷に来たばかりでして、緊張しておりました」
「お足元お気をつけて」
ぺこぺことしながら去ってゆく彼女の後姿を、パッレがしげしげと眺めていた。
「帰ろう、兄上」
「変だ。躓くような場所じゃない」
「ぼうっとしていたか、ドレスの裾をひっかけたんだろう。躓くこともあるさ」
「お待ちください」
パッレは女官を呼び止めた。パッレが彼女を背後から見ていると、もう一度ふらついたからだ。パッレは前に回り込んで彼女と対面し、今度はもっと注意深く彼女を眺めた。
「な、何でございましょう」
パッレにまじまじと見られるので、彼女は出仕して早々何か無礼や粗相をしたのかと身構えている。パッレは戸惑う彼女の体に遠慮せず、くまなく視線を配った。これほどじろじろ見るのは、相手が女官といえど失礼にあたる。彼女はパッレに視診されている間、段々と指先が震えてきた。
パッレは美青年だが背が高く、威圧感があるといえばある。
「どうしたんだ兄上……すみませんマダム……」
パッレはファルマをそっちのけで、彼女に問いかける。
「失礼、マダム。このような震えは最近ひどくなってきましたか? 躓いたりすることも」
パッレは問診に入っていた。彼は一級薬師なので皇帝や王族、皇族は診れないが、廷臣や宮廷人を診ることはできる。
彼女を診ることを禁止されてはいない。
「はい……そういえば」
「何か見つけたのか」
ファルマはパッレの見立てに興味がわいた。そして、ファルマも彼女の症状をみてパッレが彼女に目を止めた理由を解した。
「おそらくはシヌクレイン病、でも脳梗塞や水頭症の可能性も否定できない」
パッレの述べた病名は、ファルマの見立てと一致した。
「”パーキンソン病”」
更にファルマは、ほかの病気の可能性を排除し診眼で確定する。
パーキンソン病はシヌクレイン病と同義だ。ファルマは教科書で疾患を紹介する際に、時折地球上の病名とは違う病名をつけている。特に、人名のついた病名はそのままこの世界に持ち込むわけにはいかないので、病態や病因を顕す単語に代えている。
たとえばパーキンソン病は、誤った構造を持つαシヌクレインというタンパク質の脳内への蓄積を一因として起きるシヌクレイン病と総称されており、ファルマはそちらの名前をつけていた。
パーキンソン病は、何もしていない安静時にも震えがきてしまったり、転びやすい。動作が緩慢になる。ほかにも症状があるのだが、その特徴的な症状を、パッレは見逃さなかった。
「何か、重大な病気なんですの。やだわ……どうしましょう」
突如始まった問診に、ますます震える女官。緊張が、震えの症状を酷くするのだ。
「そうですね。シヌクレイン病という進行性の病気です。すぐに治療薬を飲み始めましょう」
パッレの説明のあとに、ファルマが割り込むようにして続ける。
「すぐに命に関わる病気ではありませんが、もう少し詳しいお話を聞かせてください。検査と薬の処方をしますので、明日外出許可をもらって異世界薬局に来てください、私は異世界薬局の店主、ファルマと申します。それから侍医長様にこの書類を手渡してください。これから年齢、ご出身、家族構成などお伺いしますが、お時間ありますか?」
ファルマは薬師控室に彼女を連れ込み、問診をするとその場で診断書を書いて、クロードのサインを貰うよう指示した。宮廷薬師と侍医が認めれば宮廷人は治療に入ることができ、治療のための外出も許される。
この場では詳しい検査ができないので、女官を薬局に呼ぶことにした。
「心配いりません、適切な治療をしていきましょう」
不安そうな女官に、パッレは明るく声をかけた。
「兄上のおかげで、患者が見つかったよ」
ファルマはパッレに感謝した。戻って彼女のぶんの新しいカルテを書かなければいけない。ファルマは三か月に一度宮廷人を全員診ているが、いつも診眼を使って歩いている訳でもなく、廷臣全員に会える訳でもないので、新患者はこうやって取りこぼす場合もある。
「薬は、シヌクレインが蓄積することによって不足するドーパミンを補うような薬、もしくはシヌクレインが蓄積しないような薬を出せばいいんだよな」
教科書を執筆したパッレは、この疾患の治療薬を忘れていないようだ。
「若年性での発症だから、まずL-ドーパとドーパミンアゴニスト(作動薬)を主体とした薬にしたほうがいいかも」
「L-ドーパ? ドーパミンそのものでは駄目なのか」
「ドーパミンは飲んでも脳まで入っていけない。脳に入る血管には血液脳関門という特定の物質の侵入を防ぐ関門があって排除されるからだ。L-ドーパ(L-3,4-ジヒドロキシフェニルアラニン)は、血液脳関門を通れるように加工したドーパミンと同じ働きをする薬なんだ。あとのことは検査結果を見てから考えよう。そして家族性かもしれないから、家族も調べたほうがいい」
「なるほど……この病気に対してその薬を、というのが薬神の天啓なんだな」
パッレは考え込んだ。
「うん、まあ……」
(そう言われると後ろめたいけど)
しかしパッレは、疑問に思ったようだ。
「何故、蓄積しているシヌクレインを分解してしまえる薬ではないんだ。そこが病因なんだろう? 根本を叩かないでその下流を叩いたって対症療法でしかないじゃないか。俺はそれを最善だとは思わない」
「いいところに気付いたな」
(というか、かなり科学的なものの見方ができるようになってきている)
これは頼もしいぞ、とファルマは感動した。
ほかの方法としては、iPS細胞などの人工幹細胞を脳に注入してドーパミンを産生させてやることもできる。この世界の設備では現実的ではないが……その方法も、根本的な治療ではないのだ。
「兄上の言う通りだ。あの教科書は決して完全ではない。知っての通り、治せない病気だってある」
そう、ファルマが知っているのは地球の21世紀までの薬学でしかない。この先の知見は、この世界の人々が一丸となって積み上げてゆくべきものだ。
「俺は守護神である薬神を心から信仰しているし、薬神は完全な薬学をご存知だと思っている。だからこそ、それを教えてくださらないのはなぜなのかと思ってな。人間に課された次なる試練なのか……」
パッレは守護神の真意の理解に苦しんでいるようだった。
「守護神の思し召しはいつも深淵だ」
パッレはしみじみとそう言った。
「じゃ、俺、薬局に寄ってさっきの患者の薬の準備するから」
ファルマが屋敷に戻る馬車を途中下車して薬局に寄ると、メロディ尊爵がファルマを待っていた。五日に一度ほど薬局にイボを焼きにきていた彼女は、朗らかにファルマを迎える。
「おかえりなさいませ、店主様」
「申し訳ありません、お待たせしましたね」
「いいえ、お待ちしていた間ロッテさんと打ち合わせをしていたので、楽しかったわ」
ロッテはなんだかんだでメロディと打ち解けていた。
「打ち合わせ?」
ファルマは怪訝な顔をする。
「えへへ、メロディ様とたくさんお話ししました!」
ロッテも上機嫌だった。メロディは芸術に造詣が深く、ガラスアートに興味を持っていたため、ガラスアートの話をしているうちロッテと二人意気投合し、仲良くデザイン画を描いたりガラス細工の共同制作の予定をたてていたのだという。
見ればそこかしこに、ガラスブローチやガラスの花瓶などのデザイン画が散らかっていた。いわく、二人で展示即売会を開きたいそうである。
(俺がいない間に、そんな話に……)
「作品展、楽しみだよ」
常連客と職員の仲がいいのはいいことだ、とファルマは歓迎した。
「では、今日も焼きますね」
早速、液体窒素でイボを焼く治療を行う。
「もう、あと一息ですね。あと一回でうまくいけば治ると思います」
「ありがとうございます。早いうちに治療をしていただいて助かりました」
「これ以上増えたら大変ですからね」
「麻酔をかけていただいたので、痛みもなくてよかったです」
液体窒素というと辛い治療だが、一般的には使わない表面麻酔をかけることによって、苦痛はなかったようだ。液体窒素で焼くさじ加減はファルマが決めている。イボのできていた箇所が多いので根気よく取り組まなければならないが、着実に効果は出ていた。また、彼女はハト麦茶を飲むようになったので、それによる治療効果も期待している。
「今日はこれで患者さんは終わりかしら」
エレンが一日の仕事を終え、大きく伸びをした。肩をほぐすしぐさをしていると、ロッテが気を利かせて肩もみをする。
「お疲れさまですっ。今日もたくさん患者さんが来られましたね!」
「あー気持ちいいわ、ありがとうロッテちゃん。ロッテちゃんは肩こらないの?」
「私はこらない体質なんです」
ファルマが留守の間、エレンは薬局を上手くまわせるようになっていた。三人のアルバイトの薬師たちもエレンの指示のもとよく働いている。
「そういえばサロモンさん、今日薬局にきた?」
ファルマがふと思い出してそう言うと、事務をしていたセドリックがペンを持つ手を止める。
「いいえ。お見えになっていません」
「どうしたんでしょう、風邪でもひかれましたかね」
ロッテもそういえば、と気を回す。もう、一週間は顔を見ていない。
雨の日も風の日も通ってきていたサロモンが来ないのは、よほどの事情があるのではないかとファルマは考えた。パッレの治療に専念するためにファルマが薬局にいなかった時期があったので足が遠のいてしまったのだろうか、そうも考えたが……ファルマの復帰後は、毎日顔を出していた。
「うーん、風邪じゃないと思うな」
サロモンは薬局の常連なので、風邪をひきにくくなっているはずなのだ。それに、風邪だとしても長すぎる。いつも薬局にやってきてファルマのすることをじっと見守っているのは少し鬱陶しく思っていたのだが、来なくなると寂しいものだ。
「神官長様はお忙しいのでは」
セドリックはあまり気にしていなかった。
「帰りに神殿に様子を見に寄ってみようかな」
「気になるなら、そうしてみたら? 私も暫く神殿に行っていなかったから、一緒に行くわ。ロッテちゃんも行く?」
「私はメロディ様と、ガラス作品の打ち合わせの続きを……」
ロッテはメロディの屋敷の夕食会に呼ばれたようで、どんなごちそうが出るのだろうと思いを馳せていた。
「そう。じゃ、二人で行きましょ、ファルマ君」
夕方、薬局を閉めたあと、ファルマはエレンと一緒に神殿を訪れる。ファルマとエレンが神殿に到着すると、神殿に立ち入る前に、中から出てきた神官らの顔ぶれが一新されていることに気付いた。
ファルマは胸騒ぎがして足を止める。
エレンはあまり神殿に立ち寄らないので、気づかないようだ。
「神官さんたち、大規模に異動したのかな」
「ちょっと待って、ファルマ君」
ファルマの言葉を不審に思ったエレンが、ファルマの袖を引いてまわれ右をさせた。
「今、なんて言った?」
「神官さんたち、全員顔ぶれが変わってる。神官長も変わってるみたいだ」
特徴的な帽子をかぶっているのが神官長だ。
見知らぬ神官が、神官長の帽子をかぶっていた。
「サロモンさんはこの前着任したばかりなのだから、まだ交代の時期ではないわ。神官長が変わったら、陛下に挨拶に行っている筈……それに、ファルマ君に黙って帝都を去るとは思えないわ」
エレンの言葉に、ファルマは表情を険しくした。
「何かあったみたいだ」
【謝辞】
薬剤師のセイメイ先生より、血液脳関門の記載についてご指導をいただきました。




